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命はせせらぐ

先日、川へ行った。ひと気のあまりない所だ。そこで釣りをした。九ちゃんという練餌で、小さな魚を釣った。カワムツなのかなあれは。

海辺の町で育った割に、私は海より川が好きだ。幼い頃、両親と三人で鮎釣りに行って、私は渓流タモを使ってばしゃばしゃとウグイの子なんかを掬った。私にとって、父に連れられて行く釣り具店も好きだった。何か欲しくて魚の形のルアーを買って貰って、キーホルダーに付け替えたこともあった。

大人になっても、川の水に足を浸からせていると、なんだかとても落ち着く。ごくごく小さい魚が寄ってくる。彼らは、私の釣り竿の針には自分たちが殆ど掛かることが無いのを、まるで知っているみたいだ。

お盆だしそろそろあの世から帰省しているかも知れない父は、仕事に追われていたけれど、趣味も多い人だった。石原裕次郎とかジャズのCDを、当時はまだ高価だったカーステレオにたくさん積んでいた。敢えてわかり易い高級車は好まず、何度か「なんでそんなの乗ってるの?」と笑われたこともあったという、ホンダのレジェンドが終の車だった。かと思えば数万円でおんぼろジープを買ってきたり、竹下夢二の絵を愛でてみたり、川で釣りをして喜んだ。

父も本当は、あんなに働きたくなかったろうなと思う。起業して、かろうしてまだ会社は兄の手によって生き延びているけれど、父の頃には赤字も赤字、莫大な借金があったそうな。経営が下手くそだったかも知れない父は、自分の好きな生き方をしたくって、だから起業したのだと思う。そして本当は、レジェンドで北海道一周したり(キャンピングカーも欲しがっていた記憶がある)、日光竹久夢二美術館に行ったり、好きなだけ川で釣りをして、そういう悠々自適な生活を送りたかったんじゃあないか。

だって、私がそうなんだもん。

お金さえあれば、働くことを望まない。働くことが好きな人もいるけれど、私は本質的にはそんなに働きたくない人間だ。音楽や書き物で生計を立てたいと望むけれど、それだって結局、好きなことがお金を運んできてくれるなら儲けもんだからだ(確かに、アーティストとして有名になりたいという承認欲求も持ってるけどね)。

自給自足したり、極端に物欲を減らせばお金のかからない生活もできるかも知れない。でも私は、お金でないと交換できない商品がやっぱり欲しい。

ずっと、こうして川遊びしていたいと思った。ぎすぎすした人間関係も、面倒な仕事も、何もない場所でぼんやりしていたい。飽きるまで遊んで、飽きたらスーパーで冷えたビールを買ってきて、焼き肉用のお肉セットなんかも買っちゃって、帰宅して庭で炭火でじゅうじゅうと肉を焼きたい。そして冷たいビールをごくごくと呑んで、へろへろになったらぐっすり眠りたい。起きたらきっと喉が渇いているから、ちゃんと沸かして作って冷やしておいたルイボスティーを飲んで、朝陽をしっかり浴びて、何なら少しお散歩したい。

そういう、穏やかでささやかな「好き」をいっぱい詰めた毎日を過ごしたい。

諦めたくないと思った。父が、もしも遺してきた娘に願うことがあるとすればそれはきっと、「好き」に包まれて生きて欲しいという、自分が志半ばのまま現世に置いてきてしまった夢を娘に委ねた形の、そういったものなのではないかと思うのだ。

こんなに生きても、まだ上手に生きられない。自分は貧しくて人に好かれなくてどうしようもない人間なんだという呪縛を自分自身にかけたまま、私はずっともがいている。もう、そんなの解いてしまって笑っていればいいだけなのにね。

けれど諦めないで私は、ふわふわと楽しく、「好き」だらけの毎日を送れるように、呪いが解けるように、今日も明日も生きる。

きっと、父は喜んでいると思うのだ。娘が川のせせらぎの中、魚を釣って笑っていることを。終わっていない、繋がっている。命というのは、魂というのはそうやって、けして消えてしまわないのだと思う。



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