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竹書房退職エントリ

2000年、バブルがはじけ切って就職氷河期が始まった頃。

ぼくは大学生をやっていた。

就職協定というものがあって、学生は就職活動するのは4年生、関西では4回生と呼んだけど、になってからね、と言われていたのが突然、ぼくが3回生になった途端、はい今から就職活動です!と叫ばれて、何かその真似ごとみたいなのはしたけれど、そもそも求人は少ないし、その少ない求人の中でたいしてやる気のない学生を採用するような会社はもちろんないし、結果ぼくはスムーズにニートになることに。

しかし、大学卒業直後のニートとは大学時代のゴロゴロした生活から大学を抜いたものでしかなくて、ぼくの大学生活とは本と漫画と麻雀とバンドとバイトと単位でできていたから、バンドもバイトも辞めたぼくは、仕事もないんだからバイトは続けろよとはすごく思うのだけれど上手いことできているのかどうか卒業を控えて家族経営だったバイト先が家族ごと夜逃げして潰れられたぼくは、結果、麻雀する友達もバンドする友達もいなくなり、ただ本を読み続ける毎日を送ることとなっていた。

至福の時間ではあったけれど、収入はもちろんたいした蓄えもなかったからそんな生活はすぐに行き詰まる。なんかしなきゃな、と思ったぼくはずっと住んでいた関西から東京に出ていくことを決めた。東京に何かあてがあったわけではないけれど、まあ。

東京へ出かけてアパートを借りてきた。
西早稲田の年季の入った土壁の一軒家を8人ぐらいで分けて住んでいるスタイル。
家賃は3万数千円だった。

引越しのサカイになけなしの荷物を頼んだら、営業のお兄ちゃんがトラックの隅っこについでに乗せていってくれるコースを提案してくれた。1ヶ月〜2ヶ月後のいつ着くかわかんないけど3万円でいい、と。
いいじゃんそれ。

敷金礼金引っ越し代交通費込みで20万円もかからなかったと思う。
そうやってぼくは東京に出てきた。

新しい土地での生活はまず仕事からだろう。
マクドでバイトでもいいんだけども、せっかくだし少しは仕事を選んでみたい。そういえばぼくは本が好きだ。

当時の出版社はなぜだかわからないけれど朝日新聞の日曜版に求人を出すことと決まっていた。
だからぼくは東京で初めての週末、いそいそと新聞を買ってきた。その週は全部バイトの求人だったけれど中小5、6社の出版社が求人を出していた。ぼくはその求人すべてに履歴書を送った。

面接やペーパーテストがあったりして、結局合格したのは2社だった。
竹書房とコアマガジン。
竹書房の求人はその頃大ブレイクしていた嫁姑系レディコミの編集部だったので、面接の最後の何か一言で「参考程度ではありますが…今まで年上のお姉さんとしか付き合ったことがないので、年上の女性作家さんとは上手く付き合えそうな気がします」と言ったのが刺さったらしい。
そう言えばぼくは中高大一貫の学校に中学受験で入ったから、最後の試験は小学校6年生の時だった。つまり鶴亀算とか各地の名産品を覚えるだけで大学に入ったようなもので、何かに受かるときっていうのは実はそんなものなのかもしれない。

コアマガジンには丁寧にお断りの連絡を入れた。あとで聞いたらこの時いっしょに竹書房へ入った同期の女子もコアマガジンに受かっていたらしい。二人に断られたコアマガジンさんには結局誰が入ったんだろう。そしてもしぼくがこの時コアマガジンを選んでいたらどうなっていたんだろう。ブブカとかやってたのかなぼく。

そしてぼくは竹書房にアルバイトで入社した。日給は7,000円だった。25日働いても18万円、ただ残業代はあったし、何より家賃は3万円ちょい、時間のある独身の先輩が山ほどいたので飯も酒も全部ご馳走になっていたし、東京に知り合いが一人もいなかったから仕事終わったってやることもない。とにかく竹書房に入り浸る毎日がはじまる。

そういえばなんでそんなに先輩みんなが可愛がってくれたかというと、当時ぼくの入社したフロアには先輩バイトが3人いたのだけれど、その一人は体力なのかモチベーションなのか問題があってあまり会社にくるのが得意ではなく、もう一人も世捨て人みたいな人で校了のときにその人が来ないから携帯に電話したら、ちょっと疲れちゃって…と呟くその先輩の後ろで「ザザーン、ザザーン」と波と風の音が聞こえてきたから何かを察した編集長がそっと電話を切ったみたいなエピソードを持つ人で、最後の一人はぼくの入社直後、突然倉庫のおじさん社員を殴って辞めてしまったのでどんな先輩だったか知る間もなかったけどなんとなくわかる、みたいな感じでわりと普通めに働いているのがぼくだけだったのだ。

なのでぼくはそのフロアのバイトの仕事を一手に引き受けていたので、誰かにお昼ご飯でカレーを奢ってもらって帰ってきた直後、しれっと他の先輩の誘いに乗ってオムライスを食べに連れてってもらうような生活を送っていた。

先輩たちも野武士みたいな人たちばっかりで振り返ればキリがないが、いちばん好きなエピソードはそれも入社直後、ご飯おごってやるよ、と会社を連れ出してくれた先輩が「あ、俺現金持ってないや、ちょっとお金下ろしてくるな」
と言っておもむろにアコムへ入っていったエピソードだ。
いま思い出してもそれはお金を下ろせていないと思うし、ぼくが奢ってもらったのはその先輩になのかアコムになのかわからない。

おおむね楽しいバイトだったけれど、危ない瞬間もあった。
あれは先輩がエロ本を作っているお手伝いをしていた時のこと。
先輩がすごく深刻そうな顔で寄ってきてぼくに大事な仕事があるんだ、と言った。
何があったか聞くと、先日温泉にヌードモデルを連れてロケに行ったとき、夜、カメラマンが一人の女の子といたしてしまったのがバレたらしく、芸能事務所、と名乗っているけれど実のところ他の意味の事務所さんがすごくお怒りであると。
だからカメラマンとふたりで今から事務所へ謝りに行く。
ぼくはその間近くで待機していて、もし2時間経ってもふたりが事務所から出てこなかったり、連絡がなかったりすれば警察に駆け込んでくれ、と。
まるでドラマみたいだ。
ふたりを事務所まで車で送っていくぼくはさすがに緊張していた。
すると、途中で先輩はドンキに寄ってくれと言った。
何の用があるのか聞くと、とにかく大事な準備があるのだ、と。
ドンキに寄って買い物を済ませたふたりを再び乗せて、車は事務所へと到着した。
するとふたりはおもむろに服を脱ぎ出した。
そして上半身をドンキで準備したタンクトップ1枚にしてすごいドヤ顔でぼくに言った。
「こうやって筋肉を見せつけてやれば相手がビビって交渉が有利になる。こういう時のために編集は体を鍛えとくんだ。覚えとけ」
コメントに困ったぼくを残してふたりは事務所へと消え、しばらくしてから帰ってきて「ありがとうな。もう大丈夫だ」とぼくに告げた。
実に危ない瞬間だったけれど、その時も今も、なんとなくではあるが解決したのは筋肉のおかげではなかったのではないかな、と思っている。

そんな現場でぼくの20代は過ぎていった。当時、竹書房のバイトは青天井で残業代がついていたため、働き過ぎると正社員にされて給料が下がるというシステムで運営されていたため、途中でそっと社員になったりもした。

けれどやることはあまり変わらない。
2000年代の後半、レディコミの大ブームが来ていて、ぼくの属する編集部は毎月10冊弱のマクラ本と呼ばれる、コロコロコミックのようなサイズ厚さの嫁姑レディースコミック紙を量産していた。
当時はまだ「写植」と呼ばれるアナログ処理がマンガ界の主流だった。
まず紙の原稿用紙に描かれたマンガを作家さんのところまで行ってもらってくる。遠いところに住んでいる作家さんだと宅配便で送ってもらったりするのだけれど、締め切りが迫ると余裕がなくなるのでどんな所にでも直接取りに行かなければならなくなる。

ぼくの最高記録は担当していた作家さんが札幌に住んでいて、どうしても明日の朝イチで印刷所に入稿しなければならないとなった夜、最終の飛行機で千歳空港に飛んで、レンタカーを借り、札幌近郊の作家さんの家まで1時間半ほど運転して行って、原稿を手伝い、朝まで徹夜で仕上げて、そのまままた運転して始発の飛行機で東京に戻ってきたときだ。
北海道の滞在時間は8時間くらいだったと思う。
こういった修羅場のときは当然ぼくも何日かあまり寝ておらず、帰り道、車を運転しながら眠気覚ましに買った缶コーヒーを一口飲んでフォルダーに戻し、そのままタバコに火をつけて灰を一口しか飲んでいない缶コーヒーに落としたとき、自分がかなりおかしいことにハッと気付いて、窓全開で大声で歌いながらなんとか千歳空港にたどり着いたのを覚えている。いま思い出すと事務所へ行く先輩を車で待っていたときよりだいぶ危ない。

そんな努力によって確保された原稿に、写植というセリフが印刷された印画紙を写植屋さんに用意してもらって、その裏に自分でいい粘度に調合した塗って乾くとシールになるノリを塗り、それをさらにカッターでフキダシに収まるように切って、ひとつひとつまっすぐに貼っていくのである。
とにかくこれに時間がかかる。最盛期はこれが月数千ページあったので、10人くらいのバイトが総がかりでこの作業をやっていた。
ぼくの20代後半はこのバイトたちを統べるバイトリーダーとして過ぎていっていたとも言える。

だいたいのマンガ家さんがデジタル作画になり、作業工程もDTP化した今ではそんな苦労もなくなり、あんなにいたバイトさんたちもひとりもいなくなってしまった。みんなで泊まり込んで写植を貼る毎日は実に青春ぽかった。オタクしかいないからキラキラしてはいなかったけど。

竹書房は野武士色があるというか、フリーの集団といった空気の強い会社で、今ではだいぶマシになったと思うが、上司や先輩が何かを教えたり育ててくれたり、仕事をくれたりするような会社ではなかった。
なので、そのときやっていることに飽きてしまったら、自分でなんとかしなければならない。なんとかできない人間はそのまま辞めてしまうような会社だった。

マンガを作るのも写植を貼るのも楽しかったけど、少し飽きてきてもいた。
そこでぼくはその状況を終わらせることを始めることにした。
レディコミも写植も終わらせて、新しいことを始めよう。

まず写植。
当時、情報誌なんかは既に完全DTP入稿でモニタ校了みたいな段階まで来ていたが、マンガはまだまだアナログ工程だった。
マンガ原稿が紙なのは仕方ないが、それをデジタルで処理することはできる。
原稿をスキャンして汚れを取ったりモアレを処理して綺麗にしてから後にインデザインになるがそのときはまだクォークという懐かしいDTPソフトでセリフなどを重ねていく工程を凸版印刷さんと開発した。
印刷所の現場のおじさんたちにネームとはなんである、とかセリフはアンチG、モノローグはナールDという書体で処理しているのだけれどこれをじゅんというフォントに置き換えてもらって…みたいな説明を一生懸命やった。
印刷所の現場のおじさんたちはなぜか一様にみんなコワモテで、よくぼくの前で同じ会社の営業を怒鳴りつけたりしてるような人たちで、そういえばぼくが凸版印刷でいちばん好きなエピソードは、凸版印刷の工場では夜の22時になるとそろそろ帰ろうと言う意味で音楽が鳴るのだけれど、その曲がよりにもよってビートルズの「Let it be」で、夜遅くまでボロボロに働いている人たちに、なるようになるさ、じゃないだろう、とぼくは思うのだけど、そんな罵声とビートルズが行き交う凸版印刷の現場は、生きてる!って感じがしてすごくよかった。

そんなわけで凸版印刷で初めてDTPで処理されたマンガ雑誌はぼくの担当作となった。
いまでも印刷博物館にその本は置いてあると聞く。
最初はアナログの良さを説いていた先輩や他の編集部も便利で安くて速いから、すぐにDTPへと雪崩を打った。
他社での導入も次々進み、業界は一気にDTPへ移行していった。
結果、毎晩泊まり込みで写植を貼る作業はなくなり、バイト仲間たちは解散し、就業環境は良くなったものの、青春の熱狂も失われてしまうことにはなるのだけれど。

そしてぼくはそのころ運命的な出会いをする。
相手は「ガラケー」。
いやもちろんガラケーは学生の頃から持っていたけど、ガラケーという独自の市場で花ひらいたガラケービジネスに出会ったのだ。

2006、2007年あたりはdocomoのiモードを筆頭にした携帯公式サイトでのビジネスが絶好調だった。着うたや着メロ、着せ替えケータイ、1曲どころか数小節で数十円とか1着せ替え100円とか、コンテンツを切り刻んで超安くし、キャリア課金と呼ばれる毎月の携帯料金と一緒に回収するモデルが激アツだったのだ。

ところがそこにまだマンガはなかった。だからぼくやIT会社のまともな人からわけわかんないベンチャーやってる胡散臭い人までが寄ってたかってマンガを切り刻む算段を始めるのだけれど、その前に話しておきたいのがもうひとつの激アツなサービス「前略プロフ」の話。

前略プロフ…一定以上の年齢の人たちには超ノスタルジックに響くはず。中高生たちがみんな登録して名刺がわりにしたり、プロフを繋げ合ってグループを作ったりする元祖SNSって感じのサービスだった。

こういう大人たちは誰も使ってないけど子どもはみんな使っている系のサービスはいつの世でもアツい。instagramやTik-Tokの黎明期のような。

そこでぼくが出会った当時15歳の激アツな女の子。
前略プロフのカリスマになっていた勢いでアメブロにまで進出し、ランキング上位の常連にまでなっていた元祖テレビにでない芸能人。元祖有名すぎる素人。

「てんちむ」だ。

てんちむ以外にも数万、数十万のフォロワーを持つギャルブロガーがこのとき大勢いて、ぼくは彼女たちを集めて「Nicky」というティーン向けのファッション&カルチャー誌を作った。あまりにも竹書房とかけ離れたチャレンジだったからか、かなりの短命雑誌になってしまった。スタッフ全員の寿命が縮んだんじゃないかっていうくらいたいへんだったので仕方ない。いまの自分だったらもうちょっと上手くやれたな、とかも思うけど、あれはあの時代のガラケーを使っていたギャルたちを切り取ったから面白かったのだから一瞬のきらめきでよかったのだ。誌面に出ている女の子全員にQRコードがついていて、いつでもその子のブログに飛べるという構成は、いまでも何かに応用できるんじゃないかなあ。

その頃からちょいちょい炎上していたてんちむだけど、まさにいまも大きめに炎上していて、ちょっとてんちむらしいな、と思う。てんちむを15歳から見守っているぼくは親心みたいなものが芽生えちゃっているので少し心配ではあるのだけど、こういったことをすべて糧にして成長してきたてんちむなので、またひとつ大きくなって帰ってくるのだろう。しくじり先生、ちょっと出るの早かったかもな…。

いろいろたいへんだったNickyだけど、いちばん思い出に残っているのは「校了の向こう側」だ。
とにかくギャルは量がたくさんいるのが面白いんだと思っていたぼくはすごい人数を雑誌へ載せることに邁進していた。いちばん多いときで300人くらい載せたと思う。そしてその全員にQRコードをつけたりしていた。
結果生まれたのはとんでもない進行の遅さ。ずっと印刷所に迷惑をかけていた。
なかでもいちばん酷かったときは校了と指定された日をずっと超えてもまだやっていた。最終的には印刷所に直接行って、現場の作業員さんがレイアウトを組んでいく横で、ここをこうしてくれと直接口頭で校了していた。
喉元過ぎれば…というやつで関わっている全員があまりにも許されないことすぎておかしくなっている。
そんな絶対に許されないことをやっているぼくの横にそっと印刷所の担当営業がやってきて「出来上がりに何があっても文句言いません」という念書にサインをさせられた。いや、させてもらった。
そしてそのサインをした20時間後ぐらいに現物の雑誌が刷り上がっていた。
触ったらまだホカホカしていた。冷ます時間がなかったのだ…そして運ばれていく雑誌。
これが竹書房でも数人しか見たことがないという「校了の向こう側」の世界だ。
もちろんあとでめっちゃ怒られた。

そんなNickyをやりながらぼくは先ほどのマンガを切り刻むブックサーフィンというファイル形式を使ったガラケーの小さな画面で1コマずつマンガを読んでいくというサービスにも取り組んでいた。マンガを1コマずつ切り出して加工し、50コマずつぐらいに新しく1話として30円とか50円とかで売る、というもの。
ときは2007年、2008年あたり。いままでいろんな風に言われてきているけどやっぱりぼくはこの年あたりが「電子書籍元年」なんだと思う。あの熱狂はまさに元年と呼ぶに相応しいものだったんじゃないかな、って。

ただ、この時が電子書籍元年と呼ばれなかった理由もわかるといえばわかる。
なぜならこの時売れていたもののほとんどがいわゆる「エッチなマンガ」だったから。
VHSやDVDの時なんかでも言われていたのだけれど、新しいプラットフォームが急成長するのはだいたいアダルトで刺激的なもののおかげなんである。
だから電子書籍も例に漏れず、黎明期はアダルトなマンガが飛ぶように売れていた。でもだからこそすごく元年!って感じがするとも言えなくない?

しかもこの時の主役は「女性」たちだった。マンガ自体は男性向けに作られたものだったりしたけど、それが女性たちに貪欲に消費されていった。
当時はキャリア決済がほとんどだったので、誰が電子書籍を買っているのかがかなりはっきりとわかった。
そして分析によればその時電子書籍を買っていたユーザのメイン帯は

F1層(20代後半から30代前半の女性)
独身
仕事あり
読書時間は主に0時前後

最盛期、ガラケーの電子書籍ユーザは数千万人に達していたから、ざっくりいうと道を歩いていてすれ違ったアラサーOLさんの2人か3人に1人はその日、家に帰ってご飯食べて寝る支度してベッドに入ってからガラケーでエッチなマンガを何話か読んでいる、ということになる。
ぼくはこのとき日本において女性の性の解放が大規模に起こったんじゃないかと思っているのだけれど、まあそれはまた別の話。

とにかくそうした熱狂が幕を開け、こういった熱狂につきもののいま思うと馬鹿みたいなことをめちゃめちゃ真剣に取り組む、みたいなことが大量に発生していた。

たとえばガラケーサイトの作品は携帯サイトの仕様上、必ず「あ」から順番に表示されることに決まっていた。そこに目をつけたある業者が「ああ!最高のカラダ!」みたいなタイトルをつけたマンガを作って大儲けしたとなると、今度は違う業者が「ああ…いけない…それはダメ」というタイトルのマンガを作って大儲けしたり。バカにも程があるけど、みんなめちゃくちゃ真剣に取り組んでいた。本当にこの手のことで何百万円とか何千万円が動いていたのだ。

あの頃、あまりにも儲かりすぎて、みんながこの熱狂は永遠に続くと思い始めてしまっていた。ただ、こういうことに限って長続きしないのもまたこの世の摂理。
この熱狂は実に突如終わりを告げられる。

「iPhone」だ。

スマートフォンがこの世に誕生し、特に2011年、ソフトバンクがとてつもない勢いで日本にiPhoneを普及させ始めると、ガラケーがすごい勢いでスマホに乗り換えられ始めた。特に年齢が若い層の乗り換えは顕著で、その若いユーザに支えられていたガラケーの電子書籍ビジネスは、倍々ゲームで伸びていった黎明期と同じような勢いで倍々カーブで萎んでいった。

いい大人たちが「もうだめだ…」「すべては終わった…」と抜け殻みたいになっていた。
「iPhoneなんか絶対に売れない」「ガラケーの方が優れた機械だから」「俺はいつまでもガラケーを使うし」なんて言っていた大人たちが。
そうかもしれないね。でもそれは願望であって推理じゃない。
いま振り返ると信じられないが本当にそんな空気があったのだ。
やれやれ。

そもそもアダルトな商品による普及が起こった後は、どこかのタイミングであらためて爆発的にマス向けの一般的な作品が大きく売れていくようになるものということは歴史に書いてある。
まさにこのとき竹書房に代表される黎明期にアダルト作品で売り上げを作っていた会社たちは大きく売り上げを落としていっていたが、逆にいわゆる普通の作品を持っている出版社は売り上げを伸ばそうとしていた。普通のマンガが普通に売れる時代がやってきたのだ。そういう意味で言えばまあ確かにこの時も電子書籍元年ぽさがある。

ならばまあ、普通の作品で勝負しようじゃないか。一度、エッチなマンガのことは忘れよう。竹書房にだって普通に面白いマンガはいっぱいあるのだ。

そしてぼくはこのとき「フルチャンネル」という指針を立てた。セブンイレブンさんがオムニチャンネルと呼んでいたあれだ。とにかく紙でもネットでも作品が売っているところではすべて竹書房の作品が買えるようにしよう。
マンガを切り刻む代わりに、今度はちゃんとした電子書籍をとにかくたくさん作るのだ。この電子書籍のファイル形式はイーパブと呼ばれていた。時代はブックサーフィンからイーパブへ!

そしてイーパブをコツコツ作り続けること1年以上。ついに電子化できる過去作はだいたいイーパブにできて2013年後半からサイマル配信と呼ばれる電子書籍と紙書籍の同時発売に漕ぎ着ける。今ではDTPもサイマルもどんな出版社でもやっている普通のことだけど、実はふたつとも現場時代のぼくが日本で最初に成し遂げたことだったのだ。結構たいへんだったので誰か偉い人、出版史のどこかに書いておいてください。

しかしこうなるとまた電子書籍にも目処がついてしまった。ぼくにはまた新たなチャレンジが必要である。さて何をやろうか?

幸い、このとき次のミッションを決めるのは簡単だった。
電子書籍でたくさん儲かっていたにも関わらず竹書房は経営が傾いていたのだ。
しかも信じられないくらい傾いていた。

この会社にいる以上、もうミッションは一つしかない。
竹書房本体の立て直しだ。
いろいろあったはあったのだけど、手を挙げたぼくが竹書房の事業再生を手掛けることになる。
ぼく自身としても最大のチャレンジのスタートだ。

手始めに流通に手をつける。
40年やっている会社なのでとにかくシステムが古い。
信じられないことにぼくが立て直しを始めた2014年、在庫がまだオンライン管理されていなかった。リアルタイムでいま何冊あるのかわからないのだ。POSから飛んでくる自動発注を目で見て手書きに変換し直すのだ。そんなハック開発すんなよ。
昭和か!?
昭和だ。

せっかくぼくが編集の現場から消したアナログ作業が、ここではまだ現役だ。短冊と呼ばれる紙に発注数を書き込みカッターで切っている。その作業楽しいのはわかるんだけどね…。
昭和だ。

1枚の書面を社内で共有するために社内から社内へファックスを送っている。
1回十円とはいえお金かかってるんだぞ…。
昭和とかいうレベルじゃない。

そんなこんなをいちいち直していく。
最終的には倉庫自体を変えることになり、在庫の500万冊を引っ越すことになった。
受注が止まるGWを使って、埼玉県内を大型トラックがとんでもない列をなして運んでくれたらしい。見たかったなあ。昭和から平成へ向かうトラック軍団。

しかしそんな改善を始めた矢先。
いきなり最大のピンチがやってくる。
栗田出版販売という取次会社の倒産だ。

ある日の朝、会社に行ってみると現場がざわざわしている。
何があったのか聞くと取次が倒産したらしいと。
それは大変じゃないか。
売掛はいくらなの?7000万円です。
…7000万円。それもう返ってこないの?はいおそらく。
何か気配みたいなの気づかなかった?いえ全然。
それで君たちはいま何をやっているの?出荷作業です。
潰れた会社に?本を?送るの?はい書店さんが待っているので。
…いますぐ止めろ!

あとで聞いたら竹書房の7000万円の売掛は全体で10位くらいだったらしい。竹書房の売上規模感は出版社の中で50位くらいのはず。おかしいでしょ。
つまりみんな気配を察知して絞るところは絞っていたのだ。
ちゃんとしようよそういうとこ…。

そして書店さんに本を届けるのは確かに出版社の使命であり取次の義務だ。最大の努力を払うべきだけどいま倒産したばかりの会社にそれを担わせ続けるのはどうなのよ。しかもこのフェーズで最優先されるべきは売掛の回収だろうに。それをなに売掛増やそうとしてるんだ…。

栗田さん扱いの書店さんの主だったとこ全部に連絡して、他の取次から取ってもらうか、それが無理なら直接送るでなんとかしよう。ということで営業担当を主要チェーンに放つ。
そんなことしてたら栗田の役員と弁護士がいきなりやってきた。

このたびはご迷惑をおかけしてまことに申し訳ない…。申し訳ないんですがなんで出荷していただけないんでしょうか…?
いやいやいやいや。それは御社が潰れたんだからそりゃ止めるでしょ…。
でも止めてるの竹書房さんだけなんです。
そうなの????すごいな出版界……。
なんとか本をいただけないでしょうか?
えー…じゃあ毎日現金で払ってもらえます…?は、払わせていただきます……みたいな。

このとき学んだことは出版界にはやっぱりお作法があって、こうしたらいいんじゃないの?というロジックとはまた別の答えが用意されていることが多いということ。

そしてもうひとつ学んだことは、この日、誰も訪ねてくるアポイントがなかったぼくは短パンにサングラスをかけたなかなかにラフというかガラの悪い格好をしており、そんなぼくが灰色の真面目なスーツを着たおじさんを前に叱っているという光景ははたから見ると実になんというかアウトレイジ風というか、ずいぶん良くない風に見えたと思い、何もない日とはいえもうちょっとちゃんとした格好をしようというか、ちゃんとした格好をしているというのはこういう意味もあるんだな、という学びだ。おかげでいまでは暑すぎる日以外は短パンで会社に行かない、というところまでぼくも成長した。

しかし実にこのときはすべてがダイナミックだった。
企業が潰れるときってこんななんだなあ、と。
そしてこのとき強く思いもした、ぜったい会社潰しちゃいけないんだな、って。

この事件、なんとか乗り切ったはいいものの、いい経験させてもらったと今では思っているけれど、12月24日に債権者集会へ行かされたのは一生忘れないぞ。なんのプレゼントなんだよ!!!!15%ぐらい返せますじゃないだろ!!!

余談として、この栗田事件が落ち着いたあと、営業のベテラン先輩にもうこんなことないでしょうね?と聞いたら、もう大丈夫だと。でも調べたら栗田より小さな太洋社という取次があった。この会社は大丈夫なの?と聞くとここは絶対大丈夫だと。なんで?と聞いたらここはオーナー一族が財産持ってるから大丈夫なんだと。…先輩…それオーナーが投げたら飛ぶパターンすよ…。準備だけはしましょう…と言ってショックに構えてたら本当に1年後に倒産した。やっぱりそんなもんなのだ。そして太洋社が倒産したあともうないだろうね?と聞いたら、もうない!と自信ありげに言ってくるのでまた調べたらさらに小さな会社が…。なんのコントやねん!天丼やねん!となったけど、体力のない会社ほど逆にこういうことにはシビアになんなきゃダメなんじゃないかと。
その会社には申し訳ないが取引を続けることが難しい…と言いに行ったら、うちが潰れるってことですか!風評被害だ!失礼極まりない!とめっちゃキレられたけど、その会社も1年後に倒産した。
逆に竹書房のことを切ってきた中小の業者さんなんかもあったし、そこは本当にそういうことだ。お互い生き残るほうが大事なんである。

まあ、とにかくそんなこんなのピンチはあったものの、立て直しは続いてゆく。
コンテンツ自体はいいものを作っていると思っていたので、流通と製造数の管理と人的リソースの配分を整えてあげれば、だいたいはうまくいく。
確かに長年続けていたことをやめたり変えるのは難しいことらしく、口を酸っぱくしてスタッフに変わってもらい、おかげさまで今では竹書房がリモートワークをしている!つい6年前はファックスと帳面で仕事していた竹書房が。
やればできるんだよなあ。

立て直していく過程のつまらない話を少しだけすると、おそらく現在出版社の経営は生産調整とタイミング管理を徹底するだけで良くなると思うし、そのふたつですべて説明がつく。
逆に言えばそのふたつがいかにできていないかってことだろう。

生産数の調整については、とにかくたくさん作ってたくさん送り込むのが正解という出版がよかった時代にできたシステムからいかに脱却するかであり、それはつまり仮指定からの解放だ。
マンガにしろ書籍にしろ出版界には書店さんが注文もしていない新刊を勝手に送り込んだり、逆に書店さんが注文してきた数を勝手に減らすというシステムが存在している。これを、ただ書店さんが欲しいといった数だけ送るようにする、これが生産調整の土台であり、出版社が何冊売れるかを読んで生産を調整することではない。
要するに書店のバイヤーに発注数を委ねる、ということで、この方式はいまをときめくワークマンさんも同じ考え方をしているぽくて、一種のハックなのだと思うけど、出版は委託システムに基づいた信用ビジネスなので、より向いてると思う。
そこから逆算して新刊部数を決める、というよりは決めてもらう。そしてあとは発売日以降、追加でくる発注について対応していくための在庫を持っておく。足りなくなったら重版する。その繰り返しでなんとかなる。この辺り変に複雑にすることはないと思う。

タイミング管理とは出版社における発売日偏重の考え方を改めること。
いまとにかく発売日にすべての情報出しや販促を集中させて売り上げの山を作るのに集中してしまうことになっている。発売日直後の売り上げ初速が大事すぎたり、書店さんが既刊の販売に手が付けられなくなってしまったからだったりするのだけれど、それはすべてリアル書店さんのスペースの制約から起きていることで、スペースの制約のないWebでは売り上げのほとんどが既刊から生まれている。だから実はいま重要なのが発売されてから何ヶ月、何年経った後でも作品の性質を把握し、売れるタイミングがあれば販促をかける、という意識が超重要になったのである。また、何かで話題になったりバズったりしたのを追いかけるような販促だけではなく、たとえば竹書房のほぼすべての作品が1年のうち72時間だけ安くなる全点施策と呼ばれるキャンペーン、竹書房の日を開発したり、こちらからヤマを作っていくようなこともできるようになった。
できることが増えたのだから、これもまたやったほうがいい。

この生産数調整とタイミング管理を徹底したことで竹書房はだいぶ立て直ったのだけど…つまらない話終わり。

まあそんなこんなでいろいろやったりはしたものの、そんなことより書店さん、作家さん、ITさん、出入りの業者さん、社員の皆さん、そしてもちろん読者の皆さんのおかげで竹書房はやばいピンチを脱せたのだと思っている。出版社はそういった皆さんに支えられているし、支えられているからこそ、ちゃんとしていなければならないのだ。


虚構新聞さんとこで1位になってるぞ!と沸き立っていたのがアニメ化を経て本当に販売数で1位を取るまでになったメイドインアビス。
女子高生×ラーメンでAmazon1位取れなきゃ嘘だろ!と当時あらゆる手を尽くして竹書房初めての発売日Amazon1位を取らせたラーメン大好き小泉さん。
最終回の大バズがまさに大人は気付いてないけど若者はみんな知っている、というアレを巻き起こしたポプテピピック。
「シェイプオブウォーター」のアカデミー作品賞受賞に始まり「ボヘミアンラプソディ」から「犬鳴村」までスマッシュを飛ばし続けた映画関連商品。
世界一のゲームの本が売れなきゃおかしいだろ!と内容はもちろん作家さえ不明な7冊シリーズの権利を競り落としたマインクラフト公式小説シリーズ。
「俺、日本でいちばん麻雀の戦術書を作ってる男になりたいんです!」と熱く語ってきた近代麻雀の金本くん。そりゃ出す数ならいけるだろ、とは思ったけど本当は出すだけでも充分たいへんだし立派だよな。
その横でそっと日本でいちばん高校野球の本を出している編集長になった近代麻雀の先輩もいた。
レーベル10年目にしておわるさん、はらださん、蔓沢つた子さん、高崎ぼすこさん、4人の10万部オーバーを出したQpa。北は仙台から南は沖縄を経てバンコク、韓国行ったり台湾行ったり連れまわしに付き合ってくれてありがとうございました。本当は今年ナポリやパリもあったのですが…。
ボーンデジタル短話先出しのビジネスモデルとして「素人ヤンキー♂危機一髪」という最高傑作を生んだ麗人uno!。
ドラッグレス・セックスでRenta!さんの売上年間1位を獲得して底力を見せてくれた麗人レーベル。
アカギの最終回に立ち合って300人の漫画家さんにコラボイラストを頼んだり、ぼのぼのの30周年に立ちあってイベントを組めたり。

まだまだあるけれど、この6年間、思い出深い作品でいっぱいだった。
実に面白かったし、最高でした。
本当に立て直ったしね。

最高だったんだけど、まあいろいろあって、ぼくは次の冒険に出ることにしました。

ぼくは竹書房くんのことが大好きで、心の底から愛していて、いっしょに暮らしていて幸せだったけれど、竹書房くんは恋愛してたらすごく楽しくて、刺激的で、いつもハラハラさせてくれて飽きなくて、彼氏としては最高だったけれど、ふと自分が年齢を重ねたことに気づき、将来のことに想いを馳せちゃったら
「わたしたち、このまま一緒にいたらふたりともダメになっちゃうよ…」
と、この男と結婚はできないんだな、と気づいた29歳女子の気持ちに近いんじゃないかと想像している。このたとえ、知り合いに話したときは28歳にしていたのだけど、その女子にその気持ちは絶対29歳、と言われたのでたぶんそうです。

だいたいこういう女子はこの別れを経てすぐ、地味で刺激はないけど真面目に働いて自分にも優しいちゃんとした人と結婚をして、さらに将来、庭で洗濯物を干しながら、向こうのほうでは子どもたちが自分を呼ぶ声が聞こえて、幸せだなあ、と感じた瞬間にふと竹書房くんのことを思い出して、その一瞬だけ懐かしくてちょっとジンときて、でも思考はすぐに家族のもとへ戻る、という風になるので、そんな関係になりたいと思います。たとえです。

というわけで、これは20年前にふらりと東京へ出てきて、ふらりと潜り込んだバイト先を、ついに辞めることになったひとりのぼくの物語。こんなに長いバイトになるとは思ってもみませんでしたよ。

入社した20年前と同じ状態へ。振り出しに戻る。
振り出しに戻れば、本とマンガが、そして物語が好きな自分は20年前と変わっていません。
もうしばらくはこの世界に関わっていきたいとは思っているので……
うーん今度は本屋さんでバイトかなあ。

まあとにかくいったん、ただの読者に戻ります!
この長いエントリにも、竹書房にも、いままでの自分の話にもお付き合いいただき本当にありがとうございました!
SNS等はこのまま無職のようなフリーターのような感じになりつつ引き継ぎますので、よかったら引き続きのお付き合いを願います。


じゃあねバイバイ竹書房。
大好きだったぜ!


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