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KAN 愛は勝つ 

KANさんが亡くなったという悲報にふれ、この曲を聴き直して思い出したこと、考えたことを記したい。

私は90年生まれだが、幼い頃KANの『愛は勝つ』がすごい好きだった。91年にレコ大になったヒット曲。小さい子にも唄えるような、わかりやすいリズムと歌詞。一度聴いたら頭から離れない、ヒット曲になるべくして生まれたような曲。年齢が一桁のとき、カラオケで唄っていた記憶もある。

歌詞をみても、なんだろう、結構単純だ。

心配ないからね 君の想いが
誰かにとどく明日がきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることを決してやめないで

でも今考えると、

「心配」とか、誰かに届けたい「想い」とか、「くじけそう」とか、「信じる」っていう言葉の意味って、当時全くもって理解していなかったと思う。

単語の意味はわかっていても、語られている歌詞の内容については、浅〜くしかわかっていなかった。

もちろん「愛」が何かもよくわからないから、「最後に愛は勝つ」と言われても、アンパンマンが必ず最後にバイキンマンをやっつけるようなもんだろう、くらいにしか思っていなかった。

最後の一節。

求めてうばわれて
与えてうらぎられ 愛は育つもの
Oh 遠ければ 遠いほど
勝ちとるよろこびは
きっと大きいだろう

「愛は育つもの」とかね、超高度だよね。もちろん子供なりの理解もそれなりにあったんだろうけど、今理解できることとは全然違う。それだけでおそらく人間として成長したという証なんだろう。

でも今になって特に感じるのは、わかりやすい単純な言葉ですごく大切なことを語っている文章っていうのは、おそらくそれを受け取る読み手や聴き手の経験値が高まれば高まるほど、その意味の重みが深まり、価値が上がるんじゃないかなと。

単純な言葉っていうのは人生のなかで頻繁に遭遇する。

そういうありふれた言葉と共に、人はいろいろな他者や場面に遭遇し、経験値を高める。すると単純な言葉の一つ一つの裏に自分なりのストーリーを持つようになる。

「想い」を「届」けたい「誰か」の対象や「最後」というステージのイメージや、「心配ない」と言ってくれた人の顔。様々な記憶が曲と共に思い起こされる。

今では、何かを「愛する」ということは、「信じる」ことなんだろうなと思えるから、「信じることを決してやめないで」と彼が唄っているのはおそらく「愛することを決してやめないで」と言っているんだろう。これが私の拡大解釈で、たとえこの二つの動詞が同義語でなかったとしても、深く愛していなければ信じられないし、深く信じていなければ愛せない。共同体みたいなもんだと思う。

その愛の対象は他者かもしれないし、自分自身かもしれないし、仕事や趣味で没頭している何かなのかもしれない。

人生の経験値を積めるペースは大人になればなるほど遅くなっていくが、それでも人それぞれに道があって、その道で経験値を積んでからでないと見えてこない景色がそれぞれにある。

そして色んな経験をしてきた多種多様な人たちが、同じ歌詞に共感し、自分の記憶に重ね合わせ、心を揺さぶられ、感動する。そういうことを何万人との間でできる楽曲は、本当にすごい。さすが91年レコード大賞。ダブルミリオン。

ご冥福をお祈りします。









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