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夢でもし逢えたら素敵なこと

14歳のときに亡くなった祖母と夢のなかで逢った。

大瀧詠一作詞・作曲の「夢で逢えたら」に、「夢でもし逢えたら素敵なことね」というフレーズがあるが、その通り。祖母が亡くなって18年。その間死者の時間は止まり、私は歳をとり、一人の大人として祖母に再会した。

私が生まれたとき祖母はもう74歳だったため、私の記憶に主に残っているのはすでに80代になった白髪のお婆さんの姿。「白のおばあちゃん」と呼んでいた。もう一人の祖母が対照的に黒髪が多かったため。

夢のなかのシーンはどこかの女子トイレ。ばったり会った彼女と手を一緒に洗いながら会話する。そこで祖母は私に「甲斐よしひろのコンサートに行きたいんだよね」と言う。

「え、甲斐よしひろ?好きだったっけ?コンサートのチケットとって連れてくよ!いつコンサートあるの?」と、私は即座に返した。

32歳になった私だから、コンサートのチケットを買う財源も、彼女からもらったお年玉に頼る必要はない。自分が稼いだ給料でチケットをプレゼントして、一緒におばあちゃんと出かけられる。出かけたい。

もちろん、夢の内容というのは至るところでつじつまが合わないのが常だ。生前の彼女はモーツアルトが好きで、音楽を聴きに行くとすればクラシックのコンサートが基本だった。

百歩譲って本当に甲斐よしひろのコンサートに行きたがっていたとしても、超マイペースな彼女。行きたいコンサートならば絶対に誰にも言わずに一人で行こうとしたはずだ。孫にチケットをとってもらい、「連れていってもらう」なんてことは絶対しない。逆に一緒に行くなんて面倒くさいと思うたちだった。

マイペースな大正生まれ

祖母は三人の子供がいながら、50代前半で未亡人となった。子供たちが育ってからは彼女のマイペース度はさらに加速したようで、母の結婚式の前日には、一緒に買い物している母に対して「あー、なんか腰が痛くなってきた。わたし明日の結婚式行けないかもしれないわ」と言ってきたという。片親にも関わらず、娘の結婚式出席しないかも発言を、悪気もなく、冗談でもなく、真顔で、でも軽率に。私の母もさすがにキレ、祖母は翌日普通に結婚式出席。

祖母は生まれも育ちも良く、勉強もできたらしい。大正5年(1916年)生まれの女性にもかかわらず、今でいう桜蔭高校、そしてお茶の水女子大学を卒業。数学大好き、理系女子。幼少時に関東大震災を、妊婦として太平洋戦争を経験。信念を持って専業主婦になることを選んだが、未亡人になってからは保険会社や数学の教科書を作る会社に勤めた。

会社勤めをし始めてからは、最初は白髪を染めていたが、そのうち染めるのが面倒だという理由でヅラを被っていたらしい。そもそも毛量が多いのに、その上にカツラをつけているから、かなり頭がもっこりしている祖母の写真を見たことがある。

そんな祖母も、私が生まれる頃にはもう会社勤めを終え、ヅラをとり、完全に白髪だった。

老人の献立

80代の一人の老人になった彼女が1日に何を食べていたのか、私ははっきり覚えている。キッズだった私にはあまりにも衝撃的だったから。

朝食はコーヒーとトースト。

昼食は割としっかりとした食事。一緒にランチにいって、孫が何か残せばそれらも全て完食。80代にしては食欲旺盛だった。

そして夕飯。

夕飯には基本的にお菓子を食べている、と祖母は言った。

お菓子?

しかもベビーラーメンとかお煎餅など、無理して分類すればちょっとご飯っぽいお菓子ではなく、ハッカやゼリービーンズなどの砂糖系お菓子が多く、ボーロ、栗せんべいのような昭和系菓子もレパートリーに入ってくるらしい。

ある日祖母の家に遊びに行った際、奥からお菓子がいっぱい入ったビニール袋を出してきてくれた。彼女の「夕飯」である。夜になるとそこから色々選びながら、お茶と一緒に食べているらしい。彼女の至福の時間だった。

医者から太っちゃいけないとうるさく言われていた祖母が、大好きなお菓子を諦めないために考え出した方法。夕飯にお菓子を食べる。置き換えダイエットの変化球版。

キッズの予想を超える老婆

そんなゴーイングマイウェイの祖母が私は好きだった。両親が働いていたのでよく祖母が電車を乗り継いで私の面倒を見に家まで来てくれた。時々私と祖母は映画を一緒に観に行って、その帰りに私の強い希望でプリクラを撮った。小学校低学年の私と腰が曲がり始めていた祖母は、二人とも背が低すぎて顔が半分しかプリクラに映らなかったりした。

理由は忘れたが、ある日私の機嫌がものすごく悪く(結局風邪で発熱していたことが後から判明)「おばあちゃんなんてもう帰って!出てってよ!」と悪態をついた。すると特に叱るわけでもなく、体調の変化に気づくわけでもなく、平然とした面持ちで「わかりました、帰りまーす」と帰ってしまった。

その後仕事を終えた母が帰ってきて、この一件で私はすごく叱られたのだが、ちびっ子の私としては「そんな簡単に帰るもんか?」と内心思ったものだ。多分早めに家に帰ることになり、大好きな相撲に間に合ってラッキーくらいにしか思っていなかったと思う。家に残してきた孫が体調崩しているなんて思いもせず・・・笑

最終的には「おばあちゃんに風邪うつしたら大変だったから早めに帰ってもらって良かったね!」と結果オーライの話にはなったのだが、ちびっ子の私には、予想を超えてくる祖母のキャラクターを象徴するエピソードとなった。

死者に再会したときにあなたは何を話しますか


そんな個性の強い祖母に、今本当に再会し対面できるのであれば、真っ先に何を伝えようか。18年という月日で色んなことが起こった。色んな経験もしたし、自分自身や世の中についても大分理解が深まってきたけれど、それでもわからないことがたくさんあるという意味では、彼女と死別した14歳の時となんら変わっていないような気もする。

でもおそらく彼女のことだから、真剣に色々話しても「ほー」とか「はー」とか、聞いているのかいないのかわからない程度の相槌を打つのだろう。

それで途中話をさえぎり、「それ残すの?じゃあおばあちゃん食べちゃおうかな」と言いながら、私が残したランチのおかずをむしゃむしゃ食べるんだろう。

夕飯はお菓子だからお昼はしっかり食べとかないと、という強い思いに駆られている。

18年ぶりに好きな人に会うのはさすがに照れる。しかも自分がもう子供でないのに対して、相手の時間が止まっているならなおさらだ。女子トイレでばったり会うくらいがちょうど良かったのかもしれない。


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