JUST 30

 2021年5月17日に、自分は30歳になった。
 30歳になったが、あまり実感がわかない。
 世の中の30歳の人は、どのように過ごしているかわからない。
 自分は、大学は卒業したものの、まともな道を歩もうとしたら、それがイバラの道だったり、余計な負の感情を抱え込んだり、何もかも崩れたこともあった。人の言うことに耳を貸さない、それを指摘されたから、言うこと聞いてみたら、弱みに付け込まれ、丸め込まれて、嫌な思いをしてしまった。
 今は、自分を見つめ直して、虚勢を張らないようにして、なるべく等身大で仕事中心に、前に進もうとしている。

 最近、何故か若くして命を落とした人について考えることがある。
 自分が好きな小説家や映画監督、そして、その道を極めた人について考えることがある。どんなことを考えるのか。その人々の様々な死に方について、いろいろ思いを巡らすこともある、でも、一番は、「もしもこの先や未来、生きていたら」みたいな、タラレバ的なことである。

 例えば、村山聖九段。将棋界で、どのような活躍をしていたのか。6,7年前に、将棋について興味を持ち、大崎善生氏のノンフィクションである『聖の青春』を読んでいた。谷川浩司九段が最年少で名人を獲得した時に、「今しかない」と命を燃やし、プロになった村山聖の生き様を描いた作品が頭の中に浮んだ。ネフローゼ症候群を患い、膀胱がんを抱えながら、一局一局の盤面に集中し、命を燃やし続けた。後に名人になる丸山忠久七段(当時)との日をまたぎ深夜まで続いた死闘は語り草となっている。村山八段(当時)は1997年度のNHK杯で羽生善治四冠と決勝で対局していた。優勢で駒を進めていたが、秒読みに追われ、ミスを起こし、羽生四冠が優勝してしまった。最後のTV対局みたいなものだったので、優勝していたら、どうなっていたのだろう、と思ってしまう。実際に、羽生さんとの対局は、ほぼイーブンだったらしい(不戦勝を含み、6勝8敗)。

 そして1998年度の夏に亡くなった。29歳で村山九段は亡くなられたので、自分は、何も成し遂げていないのに、「もう村山九段の年齢を超えてしまったのか」と思ってしまう。30歳になったとき、「年齢だけ村山九段を超えてしまった」と考えた。何か大きいことを成し遂げたいけれど、どうも最近仕事をしていて、それどころじゃないような気がする。何か並行して、やりたいけれど、今は疲労が蓄積し、余裕がないから、前回のような失敗をしてしまうんではないか、という危惧をしている。とりあえず、お金を貯めたい。

 自分の好きな映画監督の一人、ドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダーもそうだ。16年間で、44本の映画を残した。限られた画面の中やスクリーン、ファスビンダーのそれには、様々な形の愛が描かれていたり、戦争が描かれていたり、暴力が描かれていたり、暗に教訓を唆したりしている。『ケレル』の編集に取り掛かり、その間のコカインのオーバードーズによって、亡くなったらしい。カッコイイ死に様だと思うけれど、今生きていたら、ヴィム・ヴェンダースと同じ75,6歳くらいだろう。映画も相当製作していたんじゃないか、と思う。書籍によると、ファスビンダーは、「ハリウッド映画をドイツで撮る!」と言っているような人だから、言っていることは矛盾しているかもしれないけれど、それ程の気概を持っていて、相当力強い人なのだろうと思った。ヴィム・ヴェンダースやヴェルナー・ヘルツォークは、割とドイツの外で撮っているイメージだけれど、今もファスビンダーは生きていたら、多分ドイツで撮っているし、映画も製作している。

 自分が、40歳近く生きたら、「玉川で入水した太宰治の年齢になったのか」と薄々気付くのだろうか。あるいは、「市ヶ谷駐屯地で割腹した三島由紀夫を超えるのか」とか、「46歳で腎臓がんにより亡くなった中上健次を超えるのか」とか、「謎の死に様を遂げたピエル・パオロ・パゾリーニを超えるだろうか」とか、そういうことを考えるのだろうか。脂の乗り切ったときに、死を遂げるのは、どんな気持ちなのだろう、と思ってしまう。実際に、中上健次は、未完成の小説があり、多い。完結していたらどんな感じになっていたのだろう、と思う。そして、中上が生きていたら、今の日本をどう考えるのだろう、怒りを露わにするんじゃないか、と考えてしまう。氏の燃えて亡くなった原稿とか、もしも読めたら、とか考えてしまう。多分、もう少し生きていたら、翻訳されて、ノーベル文学賞とか受賞している国際的な地位の作家になっていたんじゃないか、と思う。

 やはり生きているうちに、何かしら、その生きた証を打ち付けたくなってしまう。それをやろうとしたら、結局、自己満足で終わってしまった。未だに何がしたいのか分からない、迷子になっているところがある。

 30歳、道半ばだ。まだ何も成し遂げてない。自信を付けたり、少しずつ人を好きになってみたい。やはり慈悲を持って、相手の立場になって、優しく接してみたい。今度好きになったり、友達になりたい、と思えるような人とは、映画を紹介し合ったり、本について色々情報交換したり、何かを一緒に作ってみたい。芸術的なことでも、生活的なことでも。あと、年相応の趣味を持ちたい。
 でも、夢見がちなのかな、と思う。
 「たりないふたり」も充足して、足りるようになり解散予定になってしまった。「本当の子ども」という名前の漫才師も大人になって、金銭感覚がおかしくなり、解散、再会したものの不穏な空気が漂っていたのを記事で見た。借金は人を狂わすし、失った信頼も取り戻せない。自分も、様々な負の要素が重なりイカれてしまった。「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、どうやら本当らしい。でも、逃げてばかりだとダメだな、と思う。ここぞ、という時に勝負したい。

 オレはまだ、足りていない。だから少しずつ満たしたい。
 とりあえず、一日一日を大切に生きていきます。
 明日も、仕事だ。でも楽しくいこう。

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カラシニコフ
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