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便利屋家業も悪くはないが

「自分が取り組んだことがどこかで誰かの為になり、それが結果として自分自身への評価と自分自身の生きる力となればいい」と本当にそう思っていた。「何様にも俺様にもなるつもりはない。私心が全くないとは言わないけれど、勘違いすることなくおごり高ぶることなく、そうありたい」と思っていた。それを意識しながらの人生だったと思う。だから、それを実現していくために「少しでも裏付けとなるものを残す」ようにしてきたのだろう。自分のこれまでの人生を少しでも前向きに振り返ってみると。

それが表の面だとすれば、裏の面があるわけで。

そんな考え方や姿勢は「現実から逃げている」だけじゃない「お前は何様だ」と言われてもおかしくないものかもしれない。そんなことをわざわざ言ってくる人間に関わると面倒くさいことになるので反論はしてこなかった。それが相手の誤解を生み、その誤解が「使い勝手のいい存在」として私の存在を位置づける・意識させるようになり、使い勝手のいい「便利屋」として使われ続けることになったのだろう。

表の面も裏の面も自分自身。どちらも本当のことで、どちらも間違っているかもしれないけれど。

ただ、表の面だと自分で認識している「自分が取り組んだことがどこかで誰かの為になり、それが結果として自分自身への評価と自分自身の生きる力となればいい」は本心。だからこそ、我慢できたこともある。報われたことだって少なからずある。それがまた「何様だ、お前は」となってしまっていたのかもしれないと思わせることに遭遇すると、「なんだったのか、これまでの人生は」と思わなくもない。全てが無駄だったとは言わないし、私の態度が反感と嫌悪を抱かせ迷惑をかけていたに違いないと反省しすぎるほど反省してもいるけれども。

どうすればよかったのだろう。

「何様だ、お前は」と言わんばかりの事象に対して「キリッ」と向き合うべきだったけれど、「キリッ」と向き合っていたら多分長続きしなかったと思う。だから、「相手に合わせ続けること」をせざるを得なかったのだろう。

生き抜く為に。

ますます今の職場に対する向き合い方に対して「何が正解だったのか」がわからなくなる。「便利屋」扱いの日々で実感すべきではない「嫌な緊張感」を浴びせられ続けていて結果的に自分自身の為にプラスになっていれば「まっ、いいか」と思いたいけれど、それはそれであって、今後の課題である「これからの道」の選択に関しては別の問題。

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