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大切にすべきことを無碍にしてしまったことへの後悔

「惑わず」の年齢を過ぎているおじさんが何を言っているんだって感じだけれど、人との繋がり方がよくわからない。自らの意思で自分以外の誰かと繋がっていくものなのか。意識せずとも自分がいる環境が自分以外の誰かと繋がっていくきっかけを作っていてそこから自分以外の誰かと繋がっていくものなのか。「こんなことを考えているから、人と繋がれていない」と言われてしまえばぐうの音もでないけれど。「人が行動すること」には、環境が影響しているものなんじゃないか。誰しもがそんなもので、そもそも人間ってそんなもんじゃないかと思えてならない私は…他責的・他罰的が過ぎるだろうか。人として。

一応、働いているわけだから「社会との接点」はあるのだろうし、「社会との接点」がないなんて思われることもないだろう。けれど、自分自身としては「社会との接点」って本当にあるのかな?って思わなくもないというか、本当にあるのかどうか常に疑問で常に不安でしかない。客観的に見ればちゃんと「社会との接点」はあって、誰かに助けられ続けているだろう。それは自分でもわかっていないわけではない。それでも…「一人黙々と淡々と粛々と」仕事を続け、「貴方しかわからないことなんだから」と私からの発言(相談・連絡等)の度に、それ以上のことを言わせないように強い口調でそんなことを言われ続けてきたことで…「あれっ?一人じゃね?」と常に現状に対して疑問に感じ不安な状態のままでいたので、「あっ、孤立して孤独なんだ」と思う次第。こんな負の感情が根付いてしまった。「継続しない方がいいことを継続してしまって自分の負の力になってしまった」いい例……

(何も言わせない感じで「貴方しか…」と言ってくる人は、悪気はなく私のことを信用し信頼してくれていることもわかっている。その人なりのそんな感情の表現方法なんだろうから。それならば、「自分に都合の悪いこと=自分が経験していないこと」を問われた時に、「無視をするか?」「なんとなく私にやらせようとする空気感を醸し出すか?」「私が問い返したことに対していつまでも根に持つか?」と思う。本当に信用し信頼しているのなら、そんな反応はしないだろう。まあ、これも「コミュニケーション不足」が招いた結果なんだろうし、「自分に都合の悪いこと=自分が経験していないこと」を私にやらせてしまえっていう感覚の現れなんじゃないかって思う。使用人の立場ではそれも仕方がないことだけれど、物事には限度があるかと思う今日この頃。仕事の流れに関しては「私だけ別ルートを一人で歩き続けている状態」で、そこから感じている疎外感が「社会との接点」を感じられない1つの要因なんだろう)

自分の言葉が足りなかった末路。自業自得、反省しすぎるほど反省しているのかもしれませんではなくて、反省しすぎているから毎日がシンドイのだろう。他責的・他罰的な考え方になってしまうかもしれないけれど、こうした向き合うべきではない人達・環境に対して「言うべきことを言ってこなかったこと」が自分自身を追い込み、使い勝手よく使われるようになってしまった感は否めないと思う。これは「構造的不遇」が招いた結果だろう。

人の巡り合わせは悪くはなかったと思う。それでも「構造的なもの」が阻害要因となってしまい、向き合うべきではない人達・環境が生まれ、自分が生き抜く為にそれらに「黙々と淡々と粛々と」向き合わざるを得ず「外の世界」に目を向けることができなかった。こんな私にも大切にすべき人、大切に思ってくれる人、向き合うべき環境があったはずで、そうした人達・環境を無碍にしてしまった。向き合うべきではない人達・環境に向き合うことで精一杯で。

だから、繋がりを持てなくなってしまった・繋がりがあると感じられない…心境でいて、実際にそんな状態になってしまったのだと思う。「自業自得、自己責任。自己批判、自己反省」の感情が大きいけれど、「いるべき場所を間違えた、向き合い方を間違えた」と他責的・他罰的な感情も少なからずあるわけで。

「惑わず」を過ぎても「惑い」続ける。

それでもただ1つはっきりしているのは、大切にすべき人・大切に思ってくれる人・向き合うべき環境を無碍にしてしまったということ。それだけです。

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