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幼稚園から高校まで、ずっと自由教育を受けてきた人間のこと。②[小学校低学年編]

私は幼稚園から高校まで、ずっと「オルタナティブ教育」という一般的な公立の教育とは異なるものを受けて育ちました。
ちょっとづつ流派的なものが異なりますが、全て『自由教育』と呼ばれるものです。
そんな私が、どんな人間なのか、
どんなことを考えて育ったのか、
それらの教育に対してどのように感じているのか、

「自由教育」あるいは「オルタナティブ教育」に関心がある方、または論文や何かの研究対象としてそれらの教育に興味のある方、それからお子さんにどのような教育を受けさせようかと悩んでらっしゃる親御さんに、試作品の「一例」のような存在になり、ご自身でその教育の生んだ人間をみていただければな、と思います。

前回に引き続き、今回は[小学校低学年編]です。というのも、私は小学4年生から違う学校に転校したので、それぞれ分けて書くことにしました。

前回は[幼稚園編]と題しまして、「受けてきた側」としての当時の感じ方をできるだけ鮮明に思い出して文字に起こし、加えて、今の自分が当時の教育を振り返ってどのように思うか、という視点でも一意見を添えさせていただきました。それを読んでないと意味がわからない!という風にはしていませんが、もしよかったらそちらも読んでみてください。

ただ一つだけ!
私はただ「受けてきた側」としての体験談をお伝えします。「受けてきた側」として、この特色の本質はここにあるんじゃないかなあ、などの「憶測」をしています。客観的ではなく、だいぶ主観的です。
「受けてきた側」の「超主観的な感想」だと思って受け取っていただければ幸いです。

小学校入学の経緯

6歳の時、私が入学した学校は「自由学校」と呼ばれる類の学校でした。当時、私は母親の意向でカトリック系の女学校と、自由学校の2校を受験しました。元々、女学校のみを入学希望していたのですが、母親が偶然聞くことになった自由学校の職員向け説明会で思いがけず感動したそうで、急遽そちらも受験候補となりました。母親に「この学校行きたい?」と問われた際に、私が「うん」と答えたことで、受験し、入学する流れとなりました。

自由学校と言っても、いわゆる”普通の学校”に身を置いた経験のない私には、どの辺が変わっているのか明確に伝えるのは難しいかもしれません。
そこで、当時母親が人にそれを説明する際によく用いていた「芸術に力を入れている学校なんです」という言い回しも使って学校の特徴を説明することにします。

鮮明に覚えている小学1年生になった日のこと

私は、学校の最寄り駅から電車で15分ほどの駅に住んでいたため、初日から1人で電車で学校に向かいました。教えてもらった降りる駅の名前を、忘れないように繰り返し唱えながら、心臓が飛び出しそうなほどドキドキしていたのを今でも覚えています。
それから、私の小学校では通学用のカバンに指定はなく、ランドセルを使っている子よりも圧倒的にオリジナルのリュックサックを使っている子が多かったので、「リュックを背負ってる子供の降りる駅」というのも目印だと教わっていました。
それを知っていた私は、乗車してすぐにお目当てのリュックを背負った子供を念のため3人ほどマークして置き、彼らの行動を一ミリたりとも逃すまいという意気込みで見物していました。
降りるべき駅の名前がアナウンスされた時、私はマークしていた子供たちが降りる支度をしているのを確認して、ものすごく安堵したのも覚えています。

下車後、最寄り駅から学校までは割と複雑な道のりなのですが、何しろリュックの子供達だらけなもので、初めての私でも難なく学校にたどり着くことができました。学校についてからはあまり覚えていませんが、大人たちに名前を尋ねられて、その大人に連れてこられたのが私のクラスでした。

珍しいかどうかはわかりませんが、私の小学校は1学年2クラス編成で、1クラス30人ほど。4年生までは1つづつ孤立して建てられた平家の建物がクラスでした。1年1組から2年2組までは横並びに建てられていて、大きなウッドデッキで行き来できるものの、靴の履き替えが必要でした。3年1組から4年2組までの建物は、1、2年の建物ゾーンのもう一つ奥のブロックにありました。前傾地形だったので、ちょうど3、4年のクラス群の方が少し高台にあるようなイメージです。ですから、1、2年のクラスの裏側の出口と窓からは、3、4年のクラス群が下から上まで綺麗に見えました。

さて、ピカピカの1年生入りを果たした私は、あらかじめ決められていた机に座り、自分の机の中にあったお道具箱に手をつけました。文房具がメインでしたが、中には何に使うのか見当もつかないようなパネルが入っていたりして、自分はとうとう「小学生」という偉いものになったんだ!と実感しました。しかし、不思議なこともあって、お道具箱にあったノリは半液体のジェル状で、球体の容器に目一杯詰められており、蓋についているハケで塗る、というタイプでした。余りに使いにくい仕様であったことに疑問を感じてその日1日を過ごした記憶も鮮明に残っています。未だにその意味は理解できていないのですが、以前校長先生が「便利なものには毒がある」という言葉を仰っていたので、もしかしたら何らかの”毒”がスティックノリにも隠されているのかもしれない、と思っています。ふふふ

授業いろいろ

クラスで行う授業は基本的には英国数の3教科でした。そのうち、担任の先生が教えてくださるのは国語と算数だけです。それぞれの授業を簡単に説明していこうと思います。基本的には教科書はあまり使いません。

国語:「芸術に力を入れている」と述べましたが、国語も顕著に「芸術」が現れる教科でした。何度もいいますが、私には「普通」の小学生の国語の授業があまりわからないのですが、私の小学校では1年生の頃からよく「詩」というものが授業の教材として使われました。初めの頃は「詩」にたくさん触れることで、それがどんなものであるかを肌で理解しました。不思議なことに、多くの詩に触れることで習ったわけではなくても、こういったリズム感や形をとるものもあるのだなあと感じ、自分で作詞できるようになるほどに理解は深まっていきました。

扱っていた詩はいくつもありますが、覚えているもので言うと、北原白秋さん、まどみちおさん、長谷川太朗さんなどですが、特に私がお気に入りだったのは、金子みすゞさんです。私の好きな授業の1つに、黒板に貼られた詩の一部がテロップで隠してあって、そこにどんな言葉が入るのか「詩の雰囲気を読み取って想像する」というものがありました。多くの詩を習ったおかげなのかも知れませんが、「想像できている自分」に出会える経験がとても楽しく、当てられることもゲームのようでとても楽しいと感じていました。

それから、「想像する系」には絵本を用いた授業もあって、そちらも強く印象に残っているので多分私の好きな授業だったのだと思います。それは、学校で指定された絵本を使って、登場人物の言動を「想像した感情や背景」と照らし合わせて辻褄を合わせていく、という様な授業でした。この授業には「正解」は存在せず、ただクラスメイトの物の「感じ方」や「受け取り方」に触れ、『世界はとっても広くて、自分や親とは違う考えを持ってる人もいるんだ』という世界の偉大さに触れられる経験が新鮮で美しく感じていたのだと、今の私は思っています。

あとは、漢字の成り立ちを教わってその造形美を幼いながらに感じたり、書き初めをして字を綺麗に描きたいとたくさん願ったり、文章にたくさん触れて「文章」というものを肌で学び、作文では新しく手に入れた言い回しを使ってみて先生の反応をワクワクして待ったりしていました。前回の幼稚園編でも軽く触れましたが、小学校に上がるまで「文字」を対面する機会を極限までに避けられてきた私にとって、「文字が読める、書ける」という体験はとっても美しいものでした。

算数:幼稚園の頃、私や私の友達は皆、”大人の世界”とは引き離されて育ったために、より「大人なこと」を知っていることに価値を見出していました。1+1=2と言った簡単な式でさえ、記号を知っていることに対する当時の私の優越感は計り知れないものでした。アフリカの子供達がテレビで「勉強がしたい」と切実に語る姿を見かけますが、1年生の頃の私はそれとよく似ていました。知識に対する「飢え」を経験したからこそ、この世の全てに好奇心が向き、知識欲の塊の様な状態だったのです。そのおかげで、勉強をつまらないと一度も感じることなく成長できたのだと思います。

さて、算数に出会った私は、この学問の考え方に惚れ込みました。それまでの私にとって「自然界」で行われるあれやこれが人為的な記号で形になる、という衝撃が大きかったのです。幼稚園では水彩画をよくしていたので、赤と青を混ぜたら紫になるということは知っていたのですが、それを「赤+青=紫」という式にできたのが驚きだったのです。でも、私は算数が苦手でした。水彩画をしていたからこそ、若き日のエジソンの様に「赤の絵具と青の絵具を足しても、紫という絵具になるじゃない」つまり、「1+1=1じゃない」としょっぱなからずっこけました。ちなみに、私は絵具の成分表と睨めっこして、確かに増えてる!と確認して乗り越えました。

この学校では黄色のタイルをプレゼントされて、それを考えるときの補助輪にします。いろんな形があって、大きい一枚の正方形のタイルは、小さい正方形のタイル100個分と同じ大きさになっていて、細長いタイルは、小さい正方形のタイル10個分と同じ大きさでした。

”人の追究者”である私が観る 「人間の世界」へようこそ。 (1)

「10という数字は、5と5でできているんだ。だから、5で括って仕舞えばいいんだ。」と知って、足し算でも引き算でも、8は5と3だと認識していたし、数の概念を可視化できたのは思考の補助を大きく担ってくれていたのではないか、と今でも思います。

英語:私の行っていた学校では、1年生の頃から英語の授業がありました。西洋人の教師と日本人の教師が、2人1組で英語の時間の度にクラスにやってきます。英語で挨拶をしたり、朝ごはんに何を食べたか紹介したり、ホリデーシーズンには両親に向けて英語でクリスマスカードを書いたりしました。それから、英語の子供向けの番組を見たりもしました。長期休み明けには自分がどこに旅行に行ったか、みんなに紹介をしたりしました。

私は英語については得意だと思っていたし、好きだったのであまり参考にならないかも知れませんが、別に大したことをしていなかったけれど、クラスメイトの共通認識として、「英語は休み時間みたいなもの」という感覚があったように感じています。あの授業で英語に苦手意識を持った子はいなかったんじゃないかなあ。

美術:母親が「芸術に力を入れている学校で」と紹介するだけあって、私の言っていた学校の美術の時間は少し特別だったと思います。毎年、全部の学年の素敵な作品がまとめられた画集が発行されるのですが、どの絵も本当に上手で素敵で、私もいずれはこんな絵が描けるようになるのかも知れない!と期待に胸を躍らせて入学しました。特に印象的だったのは、ジーンズの水彩画でした。本当に上手で、私の中で物の見方の範囲が広がったように感じています。なんというか、あの頃から全てのものをディテールまで見るようになったと思います。

さて、入学と同時に私たちはすごく立派なアクリル絵具のセットを渡されました。本当に立派で、実は20になった今の私もまだとってあって、たまに使うほどです。一番最初に何をしたか、ちっとも覚えていませんが、動物園に画用紙と鉛筆と絵の具セットを持っていって、好きな動物を描くという課外授業はよく覚えています。動いちゃうし、目の前にいるけど、見たまんまを書けないのでもうなんだかんだで想像しちゃうし、納得のいく作品になった記憶はありません。

それから、自画像を書いたのもすごく覚えています。その頃の私は、女の子の絵といったら、ポニーテールでお目目がキラキラで、謎にダイヤとハートが入っていて、顔の半分が目で、絶対にアミアミのブーツなのかヒールなのかわからない靴を履いていて、フリフリのプリキュアみたいなお洋服を着ている例のあの絵しか描けないものですから、鏡の前で自分を描くのがどれだけ難しかったことか。

目はぜんっぜんキラキラじゃないし、思ってるサイズの4分の1だし、そもそも目の形は縦長じゃなくて横長だし、黒目と白眼がはっきり分かれているし、ヒールどころか余裕で瞬足だし、フリフリどころかズボンしかはかないし。私は今まで何を描いていたんだろうと思いました。完成した絵も全然可愛くなくて、こんなの自分じゃない!と不機嫌になったのは覚えています。

絵画だけではなくて、粘土を使って作品を作ったり、彫刻もした気がします。もうちっとも覚えてないけど!美術の先生はすごく強く印象に残っているけど、好きだったか嫌いだったかどっちなのかが思い出せません。きっと、大嫌いで大好きだったんでしょう。

体育:体育は私が最も好きな授業でした。何しろ、大得意なので。1年生の頃から側転をマスターさせられます。跳び箱も8段まで飛べて一人前!みたいな雰囲気だったし、側転をマスターしたらバク転の練習でした。「春の小川」という曲に合わせて、床の演技?的なこともしました。体育ももしかしたら特殊だったのかなあ。クラスメイトで体操を習っている子が何人かいて、その子はすごく上手で羨ましいと思っていました。

2年生に入ったらアシックスの中々良さそうな縄跳びを1色選んで発注して、その縄跳びを使って二重跳びやはやぶさってやつをひたすらに練習しました。校庭で一斉に飛んで、最後まで引っ掛からなかったら勝ち!みたいなゲームのようなこともしたし、ダブルダッチもしました。

鉄棒も逆上がりはもちろん、足掛け回りやよく名前のわからない怖いやつも授業で取り扱われていて、恐怖心に打ち勝ったやつのみが習得できる技を、勝ち誇った顔をしてやっていた記憶があります。

サッカーやドッジボールやバスケットボールもした記憶があります。男の子がでしゃばるので、私はあまり好きではありませんでした。先生は私をすごく見込んでくれていて、次から次に側転やバク転ができたら、側宙やバク宙というふうに、みんながまだやっていないことも教えてくれました。だから体育は大好きでした。

音楽:音楽の授業はすごく立派な音楽ホールで行われます。ひな壇が作られていて、特に決まった場所はないので、ホールに入ってきた人から好きな場所に立ちます。すごく時間に厳しい人で、「5分前行動」という言葉は彼に習いました。

基本的に合唱で、声の高さでパートを決められることもありますが、1組はソプラノで2組はアルトでした。輪唱も合唱もするけれど、私は合唱が大好きでした。先生はピアノを弾きながら指揮を取って、特に表現力に厳しい人でした。1年生の頃は先生の中のOKとNGの違いが自分でも全然わからず、不思議に思っていましたが、感性が育っていく中で、なんとなくわかるようになりました。嘘。やっぱりあんまりわかんないかも。

とにかく歌を歌うのが楽しくて、音楽の時間はいつまでも終わって欲しくありませんでした。呼吸がぴったりと一致するハーモニーは本当に心地よくて、みんなが成功させたくて、ホールは緊張感に満ち溢れていました。私は、一般的なピアニカやリコーダーは一切触れることなく小学校生活を終えました。

始業式などの小さな会で発表することが多く、泣いている保護者の方を見ると、こちらが驚いていましたが、大きくなって聞いてみると、すごく癒されるパワフルな歌声だったなあと我ながら感じました。

総合:私の行っていた学校には「総合」という時間が週に1度必ずあって、学年共通の時間だった気がしています。なぜ「総合」という名前だったのか、私もよくわかっていませんが、藍染をしたり、大箱相撲をしたり、木工をしてみたり、七輪で一寸釘を熱して叩きまくってナイフを作ったり、学校の義務教育だけでは養えないような経験を得られる時間だったように思っています。

私はあんまり好きな時間ではなかったけれど、自分で作れるものがこんなにたくさんあるんだなと思ったら、自分の可能性を発見するというか、知るというか、自分の知らない自分を発見したような気分になって、羽が生えたように感じた記憶があります。

生活の中のちょっと変わってること

私たちは小学校に上がってすぐ、ヒゴノカミと呼ばれる小さなナイフを一つずつ手渡され、私たちはそれで鉛筆を削っていました。なんでなのかはよくわかっていなかったけれど、この学校ではみんなそれをつかって鉛筆を削っていました。最初は難しくて、不恰好で、全然好きじゃなかったけれど、だんだん上手になって、鉛筆を使うのが楽しかった記憶があります。今でもたまに、「鉛筆を削りたいな」と思うことがあるほど。

学校には時計が至る所にあったけれど、チャイムこそありませんでした。チャイムに動かされずに、”自分で自分の主導権を握ろう”という教育方針が根底にあったと聞いています。私はなんだか、「押さえつけようしなくても、あなたたちなら大丈夫だよね、自分で考えて行動できるよね」と言われているようで嬉しいと感じていました。

お昼ご飯は給食ではなくて、毎日お弁当でした。お昼休みはみんなのお弁当を見るのが楽しみでした。ある子のお弁当はいつもキャラ弁で、青いハムでスティッチの耳が作られていたり、でんぶ?ピンクのつぶつぶでいっぱいのマリーちゃんだったり、子供心くすぐるお弁当だったのをとてもよく覚えています。

私たちは教師のことを、ニックネームで呼んでいました。校長先生のことは”いっちゃん”と呼んでいて、外遊びをしていて、虫だったりお花だったり何かを詰めるために透明なタッパが欲しくなったら、校長室に出向いて「いっちゃん、タッパをちょうだい」とお願いしたら笑顔でくれるのです。1年生の頃の私がみてきた”校長先生”の全てはそれで、それがお仕事なんだと思っていました。
でもいっちゃんは、始業式や終業式で「便利なものには毒があるから、便利なものを見つけたらどんな毒がありそうなのか考えてみてね」みたいな楽しいお話もするので、校長先生のお仕事はなんだか楽しそうだなあと思っていました。

この学校には、「みいつけた」というワークがあって、黄緑色のノートに、日々の生活で見つけたことや考えたことを書いて、担任の先生に提出すると言うものでした。
それは「書かなければならないもの」ではなくて、「書いてみたら楽しいもの」だったので、私はそれが大好きでした。担任の先生は感想を書いて返してくれるし、「発表がしたい!」と自分で言ったり、「面白いから発表してみない?」と助言をもらったりする時は、授業の前に少しだけ時間をとって、みんなに「自分の見つけた面白いこと」を発表しました。
私は、みんなの発表を聞いて質問することも、みんなが興味を持って聞いてくれるのも、とっても大好きでした。

この学校では制服もランドセルもなくて、教科書も使わないので、私は毎日緑色のリュックサックで通学していました。バックパックの中には、お弁当と、水筒と、筆箱と、宿題と、定期券と、いつでも本が入っていました。
本当はファイルを毎日持って帰らなくてはならなかったのですが、私は面倒臭くって、大きな休みの前以外はずっと机の中に忍ばせてありました。

ところで、私は小学生の頃、まさしく”本の虫”でした。
小中一貫校だったのですが、図書館は小中別にあって、小学生は用事がない時は小学校の図書館しか使わせてもらえなかったのですが、2年生の頃、小学校の図書館にあるほぼ全ての本を読んでしまったので、私は特別に中学校の図書館を使わせてもらえるようになりました。

それくらい本が好きになったのには、大きく2つ理由があると思っています。
1つは、小学校に上がるまで、私は字の解読を禁じられていたためです。<幼稚園編>で少し触れましたが、幼少期の私にとって、「字を読み書きすること」は大人の特権だと感じていました。覚えたその暗号をいくらでも理解できる、という経験はとても、とても美しいものでした。
それから、もう一つは1年生の頃は、時間割の中に「図書」という時間があったからだと思います。「図書の時間」は、クラスみんなで図書館に集まって、担任教師が1つ選んだ小説を毎週少しづつ、少しづつ読み聞かせをしてくれる時間です。何冊も読んでもらっていましたが、私が特に覚えている作品は「エルマーと16匹のりゅう」や、「ドリトル先生アフリカ行き」です。
静かに聞いている間でも、私の頭の中はカラフルで、ワクワクがいっぱいで、まるで翼をもらったかのように自由でした。

そんな経験から、私は文字を紡ぐ世界に魅せられて、魅せられて、魅せられ続けて今も言葉を紡いでいます。

休み時間と放課後と長期休み

休み時間は、私は大抵外でドロケイをしていました。あとは一輪車!
一斉に全ての建物から子どもたちが弦よく飛び出して、池でおたまじゃくしを捕まえたり、絵を描いたり、ドロケイが始まったり、鉄棒をグルングルン回る子がいたり、ダブルダッチが始まったり、氷鬼が広がっていったり、一斉にガヤガヤしていて素敵な光景だったと思います。
私は図書館で本を借りたり返したりもしていました。

放課後は、遊び尽くしてから帰ることもあれば、真っ先に帰って友達と遊ぶこともありました。宿題はありましたが、大した量ではなかったので、宿題をするのが苦だと感じたことはありませんでした。私は毎日家までの電車の中で解き終えていました。

長期休みは宿題として、担任の先生お手製のプリント集と、日記、それから自由研究と読書、という具合でした。「普通」なのか私には判別できませんが、タスクが与えられることが嬉しく、配られたその時から解き始める子どもでした。分厚いプリント集も、歩きながら、電車の中で、また歩きながら、帰宅までに終わらせてしまう事がほとんどでした。

一番嫌いだったのは自由研究。なぜなら最も時間がかかるから!
でも、習い事用のトートバッグを作って刺繍をしたり、「使えるもの」ばかりを作るような現実的な子どもだったので、時間がかかること以外は嫌ではありませんでした。夏休みが明けると、全校生徒の自由研究が綺麗なホールに並べられて、みんなの自由研究を、休み時間に見に行くと言う風習がありました。
何度見ても、6年生の自由研究はなんかすごかったし、同い年で頑張っている子がいると、悔しい気持ちになったりもするし、「よーし、次は頑張ろう」って気持ちになったりもしました。

人間関係

私には一番の仲良しが学校にいて、その子が大好きでした。本で読む「いじめ」は私が体感していたその世界には存在せず、みんながみんな仲の良い子と一緒にいました。と言うか、今思うとあまり自他がはっきりしていなかったので、私たちは「ひとつ」のような感覚こそありました。男の子も女の子も仲が良く、みんなで遊んでいたし、みんなで学んでいました。

虫に詳しすぎる子、伝統芸能家系の子、新体操をやっている子、サッカーが上手でどうやらすごいところでプレーしている子、絵があまりに上手な子、ピアノのジュニア大会で賞をとってしまうような子、本当に優しくてバレンタインをクラス分作ってきてくれる子、etc…
とにかくいろんな子がいて、けれど誰と比べるわけでもなく、むしろ「私たち」を構成する要素がもっと強くなったような感覚でした。

けれど、たまに傘がなくなったり、筆箱がなくなったり、それがびちょびちょになって外で見つかったり、不可解なこともありました。
当時の私は自分がおっちょこちょいだったのだと思っていましたが、どうやら母が言うには、故意にそうした子がいたのだそうです。

この3年間が、今の私をどう形成したのか

これまでの章でも、ちょくちょく書いてきていましたが、20歳になった私が思う、この3年間で培い、今日の「私」に通ずるものは、主に3つあります。

1、知ること、学ぶこと、吸収すること、血肉になることは楽しい!
これは、私の人生において最も出来の良い思い込みだったと思います。
「授業が嫌」だとか、「早く終わってほしい」などと思う時間は、この時期一度もありませんでした。全てが新しく、全てを知らないので、全部がキラキラで、面白かった。
それこそが今日まで続く、私にとっての「勉強」の確固たるイメージとなり、最大の武器となりました。このイメージが早い段階で形成されたからこそ、この先もずっと学びの連続である人生に対して、希望を持ち続けられているのだと思っています。

2、自分を知るって楽しい!
これは何も体育だけの話をしているのではありません。
音楽でも美術でも、英語でも国語でも算数でも。
今思えば、当時の私にとって学校とは、「自分についてを学ぶ場所」だったかのように思えます。幼稚園までに貯めた「やってみたい」「できるようになりたい」と言う強烈なターボをいざ解き放つのが小学校でした。

私の脳みそを使ってみるってどういうこと?
私の手を動かして絵を描くってどういうこと?
私の足を凄く速く動かして走るってどういうこと?
私の声も含めてみんなで歌を作るってどういうこと?

そんな根源的な問いに対する最初の答えがこの3年間だったのではと思っています。知るほどに、学ぶほどに、吸収するほどに、私は私を知りました。それは今日までも続く、私のライフテーマであり、生きる活力、人生の目標となっています。

3、世界はこんなにも広くて楽しい!
自他の分離がちっともない幼稚園の頃、私の世界はものすごく小さく、それでいて普通でした。在るものは全て私だったし、そこに対して何を思うわけでもなく、ただ毎日を生きると言うことを学んでいたのだと思います。
そこから段々と「るか」を意識するようになって、同時に「るか以外」が見えるようになりました。本で出会う世界も、旅行に行って知る生の世界も、クラスで出会う全く未知の生命体も、ただただ圧倒的でした。

何を習っても、それがどこからきたのか、そこにどんな世界が繰り広げられているのか、いわゆる「うしろ」を知るようになったのだと思います。幼稚園の頃、全てが私の中にあり、全てを統治していたはずなのに、私は何も知らなかったことを
思い知らされ、そしてそれがどれ程までに美しいのか、興味深いのか、面白いことなのかを理解しました。

追伸

嬉しいことに、結構好評で、読んでくださる方、コメントをくださる方、サポートまでしてくださる方がいらっしゃいます。いつもありがとうございます。
同時に、更新が遅れまして申し訳ありません。

この企画は、当時に思いを馳せてパソコンんを叩くので、執筆する時間以上に「
私の中」を掘り出す時間がとてもたくさん必要になり、思うように進んでいません。これからも更新していく気持ちでいますので、ぜひ、気長に待っていてください!ご理解感謝いたします。

瑠夏

頂いたサポートは、概念と考え方の引き出しを増やすために本や美術館などに使わせていただきます。 the support you gave would be a fund to gain new concepts.