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2-2.動画はどこにもない

『動画で考える』2.とりあえず動画を撮り始めよう

一度も再生されずに保存されている動画データについて考えてみよう。

「動画」はどこにあるのだろう?

スマホやパソコンの中にある?そこにあるのはデータであって、動くイメージのような実体がそこにあるわけではない。押入の中から両親の若い頃のアルバムが出てきて、何枚もの写真が貼り付けられていて、変色したり折れ曲がったり、何枚かは剥がれてどこかにいってしまって、その跡だけが残っている。そんな風に、気が向いたら見返したり、触れたり出来るような実体として、どこかにあるわけではない。

スマホやビデオカメラを持ち歩いて、美しい風景やおいしそうな料理を撮影したり、家族の運動会や合唱コンクール、友達との旅行など、動画を撮影する機会はたくさんある。いくつかの動画は、最初から友達とシェアしたり、SNSで拡散することを目的として撮影されているので、親しい仲間の間で、場合によっては不特定多数の人びとの間で共有され視聴されるだろう。

しかし、撮影されたあと、自分でも見返すことがなく、誰にも共有されることもなく、一度も再生されることもなく忘れ去られていく動画もたくさんあるはずだ。例えば、観光地を訪れて、あちこち行き当たりばったりに歩いて、気が向くままに1時間以上も動画を撮影してしまった場合、早送りしながら再生して部分的には確認するかも知れないが、すべてをじっくり視聴することはないだろう。また友人の結婚式で撮影をたのまれて、式の始まる前・終わった後までもれなく撮影したとしても、たくさんの知り合いが集まって式が始まるのを待っている様子なんて誰も見ようとしない。

そんな風に、一度も再生されずに忘れ去られた動画は、果たして動画と呼べるのだろうか。データとして記録された動画は、スマホやパソコン上のメニューから確かにそこにあることが確認は出来るが、再生されない限り、それが動画であるとは言えないだろう。一度も再生されずに削除されてしまった動画ファイルは、本当に動画だったのだろうか。

誰かに見てもらう事で初めて成立するような動画を考えてみよう。

つまり動画とは、再生されて誰かに見られることを前提として成立しているのだ。例え視聴者がひとりであろうと、大勢であろうと、誰かがそれを視聴したときに、単なるデータでしかないものが動画であると言えるようになる。

動画の実体はどこにあるのか。直感的には理解しにくい。スマホやパソコンの画面、その表面で再生されているのか?そこにあるのは光の粒子の点滅でしかない。それを一連の画像の動きとして認知し、そこから視覚表現やストーリーを受け取るのは私たちの視聴覚や脳の働きだ。動画は完全に装置の側にあるのでなく、私たちの頭の中にあるのでもなく、その中間あたりの、相互の係わりあいの中で生じるものだ。

だから動画は、常に誰かに見られることを求めている。動画を撮影した人物だけでなく、より多くの人びとに見られることを求めて、ネット上で拡散されていく。動画が人と人との間で共有されることで、そこで初めて意味や価値が生じ、多くの人びとが視聴しそれを評価するほど、動画は動画としての存在意義を強める。このことは、動画の再生回数による評価、というネット上の価値基準とつながっている。

動画がこのように成立していることを理解した上で撮影するとき、撮影の方法や編集の観点が少し変わってくるはずだ。動画は一方的に何かを主張して自己完結するような表現手法ではなく、必ず誰かに視聴されて成立するもの、動画だけでは不完全だが、視聴者によって補完され成立するもの、という風に考えることが出来る。

不明瞭なまま、曖昧なままの動画を投げ出して、どう受け止めるかは観る人に委ねよう。

例えば、はじめから明確な考えをシナリオ通りにメッセージとして伝えるのではなく、曖昧な要素やまとまらない考え方、聞き取りづらい発声や尻切れトンボの発言、そのような状態をそのまま動画で収録する。それは通常の動画であれば、わかりにくく、視聴者に余計な負荷を与える、あるいは多くの人びとに等しくメッセージが伝わらない、として、除外されるような要素だ。誰だって、わかりやすくて考えなくても、すっと頭に入ってくるような情報の提供を歓迎するはずだ。でも動画では、不明瞭なまま、曖昧なまま投げ出して、その理解は視聴者に委ねると言うこともあり得るのだ。

あるいは、暗くてよく見えない画面、手持ちで画面が揺れて見にくいショット、あまりにもクローズアップで全体が把握出来ない構図、そんな映像も同様に視聴者にとっては不親切なので、それはストレスとなるだろう。しかしそれも動画のもう一つの特性であり、わかりやすく見やすい動画だけが良い動画だというわけではない。不特定多数の視聴者に同じ内容やメッセージを伝えたいばかりに、少しでも明瞭な画面にしようとし、平板な照明を当て、その上さらに文字やナレーションで説明するような動画は、視聴者の認知力や想像力・思考力を奪って、一方的に情報を押しつけようとするだけだ。

だから動画は、単独で完結して一方的に発信されるものとして構想すべきではない。撮影者と視聴者のあいだを媒介して、そこで思考や想像を生み出すメディアとしてもっと活用すべきだ。一目見てわかりやすくメッセージがすんなりと入ってくるような動画には可能性はない。相手を挑発し想像力を刺激するような動画を構想しよう。

(写真/せんさ)

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