社会からの集団リンチで暴行死

頭がイカれそうだ。職場から帰るのに通る道で、人身事故があった。私が通った時は、まだ警察は来ていなくて救急車と野次馬がわらわらと集まってきていた。

私は踏切が開くのをぼんやりと待っていた。母親と小学校高学年くらいの女の子が野次馬の方へ歩いていく。時刻は23時である。流石にこんな時間に散歩ではないだろう。野次馬である。

まるで、ショッピングモールの洋服売り場を見に行くみたいな軽さである。母親は、何を考えているんだ。線路の上で電車が止まっていて、踏切の周りに野次馬がいるんだ。葬式で見るような綺麗な人間が見えるとでも思っているのだろうか。

その好奇心になぜ多感な少女が巻き込まれなければいけないのか。

以前noteで家の前で事故があったと書いたが、私はその時、脳味噌が飛びだして即死した人間の鮮血を見た。死体は見ていない。鮮血だけでも、驚きとショックがあった。あの時私に現場を見てきたら?と唆したのも母である。もし、あの時、頭が割れ、脳味噌が飛び散った人間を目にしてしまっていたら、私は心に大きな傷を負っただろう。

私は布施英利氏の図説・死体論という本を思い出していた。文字はほとんど無い、様々な死体の写真集である。祖父が危篤となった時、死体になった祖父が恐ろしくならないように、死体に慣れたいと思い購入した本である。

結果的に、本の方は恐ろしいトラウマを私に植え付け、結局2回しか見ることはできなかったが、祖父の遺体の方にはなんだか愛着が湧いて一緒に眠ったり、火葬までの最期を穏やかに共に過ごすことができた。

何が言いたいか。私は今日見た親子に図説・死体論の本を投げつけてやりたいと思ったのだ。お前たちが見ようとしているのはそこに載る写真よりもしっちゃかめっちゃかなものを見ようとしているのだと。

開く目処が立たない踏切を前に、私はUターンで反対車線に移ると、ちょうど警察とすれ違った。

私はスピードを上げた。もしここで人を轢き殺したら私は悪人として裁きを受けるんだろうなんて思う。さっきの人身事故は自殺だろうか、事故だろうか。もし自殺なら、自殺に至らしめた人間は悪人として裁きを受けるのだろうか。

未来のある他人の命を絶つのが殺人なら、未来がある人間の未来を集団で絶ち、黙殺するのが自殺者の所属する社会である。

クソ、クソ、クソ、クソ……口に出して呟いても社会は何も変わらない。私はまた、スピードを上げた。

暴走族の美学。その本質はスピードではない。命を懸けていることでもない。命をかけてスピードを出して共に走ることが楽しいと思える仲間がいることである。仲間たちと暴走して、事故死するならそれは遺された人間には辛いことだが、当の本人としてはそれ以上幸せなことはないのである。暴走族の美学は、暴走ではなく族のほうなのである。

いつだって一人の私は一体何だ。まるで自暴自棄の自殺願望みたいに、たった一人で暴走したり、感情的になったり、一体何が楽しいっていうんだ。人は一匹狼はかっこいいなんていうけどさ、そうでもないわ。

一人を貫けられたらいいんだけれど、人間界で生きるには、社会に所属しなければいけません。社会の中で一人を貫くことを孤立といいます。孤立した人間は、集団リンチに合いやすくて、未来を暴行されます。

もちろん未来は不確定なものなので、もう終わりだって思っても続きます。それでも暴行によって、未来はもう無いと思い込んだり、最悪の未来を想像した人間から死んでいきます。

そして、死んだら人は戻らない。
ただ、それだけです。


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