不条理と偶像
不条理というタイトルをつけたはいいものの、不条理の意味をちゃんと理解しているかといったらそうでもなく。ただ、私が生きるために向いている方向と、その他大勢が生きるために向いている方向があまりにも違いすぎることに日々嫌気がさしている。
私は多くの他者にとって、怠惰で軽薄で心ここにあらずに見えるらしいのだが、私自身はそんなつもりはなく、勿論熱量の違いこそあるかもしれないが自分の中で物事の善し悪しの分別はあるつもりだ。
しかし人生を送る意味という点について言えば、全く意味を見いだせないし、それは私だけではなく全ての人間に生きる意味は無いという確信があり、一生懸命生きる人間を愛おしく思うと同時に疎ましく思うことが多々ある。
一生懸命に生きる愛おしい人間は、一生懸命に生きない私のような存在を理解することはない。
そして、私が人間として生まれてきたことによる特権として第一優先で臨みたい哲学や芸術、知的好奇心を満たす行為についての理解が得られないことが多い。
彼らの中の善し悪しで、それは悪なのだろう。
しかし、それを妨害されたりするのは耐え難い。
そもそも、私以外の多くが明日の生活とか来月の給料の使い道とか、老後について考え、社会生活を送っていることへの居心地の悪さ。
私は何か説教され、質問を受ける度に自分の考えを話せなくなる。そもそもその質問の答えなどないのだ。考えの主軸がそこにないから。
私はのらりくらりと質問を躱す。相手は求める答えが得られずに苛立つ。
なんかそんな小説を最近読んだよな。カミュの異邦人だ。
カミュといえば、不条理小説だ。不条理。
やはり、問の答えとして太陽が眩しかったからというのは大衆にとって腑に落ちないのだろうか。それこそ不条理ではないか。
私は不条理についてGoogleで検索をかけた。
Wikipediaがでてきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1683641871165-3ifN6XJ5wN.jpg?width=800)
盲信、盲信だと。それは偶像崇拝のことを言っているのか?
私は偶像に対して過去の記事でも、存在しないけれどそこにあるように見えるものとして、安心しているというような解釈をとっていたが完全にこれだった。
哲学的自殺。まさにその通りである。偶像を崇拝しはじめてから私は自己哲学ができなくなった。苦しいことを考えるより脳死で偶像を崇拝するほうが楽しいからである。
偶像達が声を合わせて死ぬな死ぬなと言ってくるのは自身が自殺から遠ざける装置である自覚があるからなのだろうか。
自殺はともかく、不条理を受け入れるというのは一体どういうことなのだろうか。
よく分からない、よくわからないまま、また私は他人のものさしで生き様を否定されないといけない日々が続くのか。
いつ私は不条理を受け入れ、理解することができるのか。
3月に作った虚靜なる〜の歌詞ではちゃんと不条理を詠えているのだろうか。必要とする人に届いているだろうか。必要とする人はあれを聞いて自殺の方の選択をとっていないだろうか。
正直どうだっていいのだ。そもそも私は何をするのも得意ではない(他者によってそう刷り込まれているのだとしたらそれこそ悲劇だが)し、私自身何もしたいことなど思うようにできていないのだから。
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