問題提起と洗脳

映画を見てきました。柔くネタバレするよ。

序盤のシーンから継承のストーリーなんだろうなっていうのはなんとなく予想がついていたが、外から見たら異常とも取れる小さなコミュニティの日常というものの崩壊と、外から来た人間がその日常を継承するというかなりかなり恐ろしいドラマに思えた。

それは、いうなればリリィ・シュシュのすべてで、星野が死の通過儀礼によって人が変わってしまったような。あるいは、ミッドサマーでダニーが儀式を経て依存の恋人を生贄にするような。

そんな異常な当たり前を形成させるのに、従来のファン、即ち視聴者も加担させてしまうような危険さを孕み。私は映画を見終え、映画館という空間込みでとても良質な、しかしなんだかとても危険な映像を見ていた気持ちになった。

根付いた仕組みの危うさと異常さを演説していた外側から来た人間が、最後にはその異常の核を笑顔で継承していたのが恐ろしかった。

異常の核。というと悪のようだが、この物語の中でそれは絶対的な善性であり、それは視聴者を含め総てから愛されている象徴である。一番危険なのは、自己犠牲を苦と思わない主体である。

異常の核が壊れたら、異常も壊れる。
しかし、その異常な状況に依存して生活が成り立っている。
生活というのは物語だ。視聴者が愛する物語。

異常さを外側からの問題提起と言う形で少しずつ変化させながら、次の世代に少しずつ継承していく物語だと、おもっていた。映画の途中まではね。

人間を作り変えるのに必要なのは、破壊と再構築だ。どんな経験で壊れ、再構築の際にどんな哲学が加えるかで人は様々に変わる。

ちゃんと、破壊のシーンが丁寧に描かれていた。役者の演技力もさることながら、かなり恐ろしかった。人の悪意の無い破壊と洗脳。見ているこっちが持っていかれるかと思った。

そして、視聴者も大好きなみんなの日常に戻って物語は幕を閉じた。

完全に、ヒューマンホラーだった。映画館にて、よかったねと笑顔の客も、感動し涙を流す客も含め、ホラーだった。

脚本家の意図が分からない。こんなに緻密に、システムの異常、悪意の無い人間のエゴイズムによる繊細な人間の心の揺れ、的確な問題提起に対する演説、心身二元論の限界を描き、最後には象徴の生死という大きなドラマで視聴者を混乱させ、何事もなかったかのような幸せな日常に戻り、物語は終わる。

これはなんだ、私自身が自文化中心主義に偏ってしまっていることへの警鐘か何かだろうか。やはり、ミッドサマーを見た時と同じ後味の悪さ。

脚本も、演出も、舞台も、役者も、総てとても良質であることは確かだ。

追伸

ちなみに私は後味が悪い映画が大好きだ。所謂鬱映画といわれるものも好き。ついでにリョナも好きなので愛する者が苦しみ泣けば泣くほど愛おしく大切に思える。

今回の映画はその外側の人間を演じた役者見たさに見に行ったものだったので、私としては超満足☆5でした。物語序盤クソ生意気だったのに最後はグズグズで超よかった。役得。

しかし、映画館の客はどんな感想を抱いたのか、それだけがただ知りたい。

Dr.コトー診療所です。

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