人形の私から人形の君へ

恋愛って現実でもコンテンツでも嫌いだって言いつつも、数年に一人は他人のことを好きになる。

今までどんな人を好きになってたかなって思ってたけど、総じて人形だった。

顔の綺麗さはまあ、大前提なんだけど。中身も感情を感じないというか、空っぽな人が好きだった。

今や透明な檻と化した、死に取り憑かれた地に足ついてない人は「生きている人間じゃなくて人形として操って、愛でてほしい」というようなことを言ってきたので私の「ただ人形みたいに何もしないで側にいてほしい」願望と交わり、交渉が成立して数年間一緒にいた。

しかし私もいつの間にか人形になってしまった。相手の理想を演じるだけの人形。側にいてほしいから中身を空にする。ただ、相手にとって都合の良い人形になる。

側にいてくれる人形達の本当の感情にはあまり興味がなくて、ただ、感情が見えないということだけが私を安心させた。

人形は喜ばない、楽しまない、怒らない。時よりたまに悲しそうな目をしているように見える。それでも具体的な辛さを外には出さない。

今日はトーキングヘッズの人形たちの哀歌という号を読んだ。

数日前のnoteで私は私と松村氏との境目が分からなくなってきたみたいな話をしたが、そんな松村氏が映画の役で演じた原作の、恋愛漫画に関するコラムがあったからだ。

(前略)透も湊/みなが好きなはずなのに。そこにいるのは、湊によって美化された透という存在しかない、そのようにしか見えない。というか、透と真終に共通しているのは、内面がないということなのだが。

もっとも、恋愛において、相手の内面が不在となっているというのは、めずらしくない。

人形に恋する話は、これまでにたくさん書か れてきた。人形に対する恋では、結局のところ、恋をする当事者が、人形の内面を埋めている。

しかし、人形の側から見たら、世界はもう少し変わっていく。人形が自分自身であるためには、 自分自身を取り戻さなくてはいけない。

トーキングヘッズ79『人形たちの哀歌』


私が恋愛(コンテンツに)関して抱く違和感、及び不快感はこれだったのかもしれない。

あらかじめ人形の契約がなされることはほとんどの場合ありえないし、あとは私も相手も内側に干渉することのない割り切った関係の方が安心する理由がそこに記してあった。

恋愛における相手側の内面の不在。それは「愛している」と伝える側による、相手側の内面の想像(創造)によって生み出され、その瞬間に相手側は人形となる。「愛している」を言う側の都合の良い人形である。

私は人形の人形であることにはさほど違和感も苦痛も感じないが、理想を強要したり、感情を共有しようとしたりする人間の人形になることは苦痛だった。

そもそもそこまでの喜怒哀楽が私に無いからなのかもしれない。

思えば、かつての私の人形達が悲しみにも似た、暗い目をする時、私は共に居られる事を喜々としていなかっただろうか。

人形遊びは、感情すらも全て作り物でなければ片割れの負担だ。

人形と聞こえの良い嘘を交わすことを考えると私は生きていて、一番幸福に感じる。

人形に見せる内面など無いし、人形の内面なんて見たくない。

ただ、利己的な欲を晒せば終わる人形遊びである。

利害すら一致すれば、快楽でも痛みでも分け与える、楽しい人形遊びだ。

それは、世間的な恋愛とは少し離れた、温度の低いところにある別物なのかもしれない。

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