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記憶の中の喫茶店

2020年10月をもって、近所の喫茶店が閉店した。上京した2020年以来、ほぼ毎日原稿を書くために通っていた場所だった。

その喫茶店が好きだった理由はまず、紙巻きたばこが席で吸い放題だったこと。2つ目にマスターだった80代のお母さんが大好きだったこと。コーヒーの香りが特別良かったからとか、値段が安かったからとか、そんな理由ではなかった。

最初の理由は今のご時世では珍しい。チェーン店の、豚小屋のように押し込められた場所でたばこを吸うのは、奴隷になったみたいで気分がよくない。副流煙なんかを気にする人が通わないような喫茶店だったから、我が物顔でたばこをすえた。

お母さんは気持ちの良い人だった。一般に、女性の方が年齢を重ねて、素直になる人が多いような気がする。女性が肉体的な生き物だとすれば、生命の本質である「老い」に対してもうまく付き合って生きていけるのかもしれない。反面、男性は拗らせてしまって、なかなかそんな風にはなれない。いじわる爺さんになるか、身を持ち崩すか、どっちかなのかもしれない(笑)

お母さんは、いつもタダで何かをくれる人だった。茶菓子とか、梨とか。季節によって、色んな果物とかお菓子をくれた。「今日のコーヒー代はもういいよ」と何度申し出てくれたことか。「いや、払いますよ」と言ったら怒るような人だった。原稿を書くために、何時間もそこにいたのにもかかわらずである。

お母さんとは、よく世間話をした。風邪騒動の茶番とか、相続の話とか、練馬の街がいかに変遷したかとか。他愛もない話である。私の話にも「そうなのねえ」と相槌を打って、こちらの顔をよく見て話しを聞くひとだった。

私が仕事が上手くいかなくて、落ち込んでいた時、そっとみかんをくれる人だった。

お母さんは時々、カウンター越しの窓を見て、つぶやいていた。「もう限界よね、私も歳だよ」

コロナ騒動が最も影響したのは、個人商店である。持続化給付金などの制度もあるにはあったが、結局のところ返済が前提。デリバリーやお弁当の提供などの経営の多角化も、所詮は体力がある店しかできない。私たちは政府や自治体の悪政が、どれだけ市政の人々の暮らしを破壊したか、忘れてはいけないと思う。

私は何も、お母さんは店をたたむべきではなかった、衆愚政治の被害者だ、と言いたいわけではない。もちろんそういった側面は無視できない。むしろ、私は「これでいいのですか?」投げかけたいのである。

確かに、喫煙できて、広々とした席が用意されている喫茶店は下火でしょう。資本主義社会に生きている私たちは、お客のニーズをつかめなければ、所詮は商売できない。代わりに、意識の高い、スリランカだかジャマイカだかなんだか知らない「スペシャリティー」コーヒーをSNSで見て、それをありがたがって飲んでいればいい。実際にそういうお店も流行っている。味もわからないのに1000円も出すのは愚かだと思うけど。

ただ、人間が生きていく上で、地域社会との縁、溜まり場、コミュニティという側面は決して無視できない。大手チェーンのコーヒーショップが「溜まり場」になることは、金輪際ないと思う。そこに行けば誰かがいる、何かを話せる、何かが起こる、そういった場所にはならない。2時間の時間制限もある。

お母さんにとっては、あのタイミングで店を閉じて、良かったんだと思う。お孫さんも大きくなっていたし、あとは老後をゆっくりと楽しんで欲しいという気持ちしかない。

戦前と戦後を逞しく駆け抜けたお母さんは、現代の日本の商売人が忘れている、「何か」をもっている人だった。それは、何でもかんでもコスパで価値を判断し、流行っているか流行っていないかだけで買うもの・提供するものを決める現代の日本人には決して持つことのできない、豊かさだったと思う。

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営業最終日、私はこれまでの感謝を綴った手紙を手に、喫茶店に向かった。お母さんは少し照れながら、「こんなのいいのに。でもありがとうね」と目を見て話してくれた。

あんまり長居しても、寂しくなるから、世間話だけして、店を後にした。
帰り道「東京に来て、良かったな」と心底思った。

※この投稿は、22年10月の下書きを推敲し、編集したものです。多分雑誌の下版が忙しくて最後まで書けなかったんだと思います


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