見出し画像

かつての宝はいつからただのモノになる?

かつては宝モノだった

今日もご覧いただきありがとうございます。

題名にあるように、自分のなかでのかつての宝はどの瞬間にただのモノという認識になるのであろうか?

そもそも、この疑問が湧き起こってきたのは、つい先日のことである。

わたしは現在、育休中の身である。
このnoteはそんな育休中の育児や家事の隙間時間を使ってアウトプットの能力を高めたい、自分の日々の学びを皆んなと共有したい、そんな想いから生まれている。

育休中は業務の性質上、家の中にいる時間が増えるわけで、そうすると、おのずと1日24時間の大半を占めるスペースは心地よくしたいと思うのは自然に湧き起こってくる欲求である。

そこまで散らかっていたり、モノに溢れている訳ではないと自負したい自分の家ではあるが、探せば探すほどに出てくるのが、モノまたモノなのである。

昨日も玄関に置きっぱなしの近々処分しようかと思っている登山中に子供を背負うことができる〝ベビーキャリア〟なるものを見下ろしながら、夫婦で、

〝このモノも早く処分しなきゃね。ずっとここにあるのもね〟

〝そうだよね。もう使わないだろうしね。〟

〝なんで買っちゃったんだろう?〟

元々、上の子供が産まれた際に、近場の百名山を登るのに、子供も一緒にとセカンドストリートという中古用品店で購入したものである。

結局、使用回数は1回しかなかったモノである。

元々買った当初からすでに部分的にほつれており、色褪せてもおり、近所の店に持っていっても丁重に買い取りを断られてしまうので、もう役目が終えたのだとして処分しようとしているモノ。

買った当初は、これを使って子供とたくさんの山に登りたい。
こんな大きな夢を抱かせてくれた宝であった。
それがいつからか、宝であったものが、押し入れの奥すみに追いやられ、挙句の果てには、ただのモノ扱いとなる。
いつどの瞬間から、かつての夢に溢れた宝モノはたたのモノへと変貌を遂げてしまうのだろうか?

ときめき

片づけ本の中でも不朽のバイブルである書籍『人生がときめく片づけの魔法』(近藤麻理恵/河出書房新社)のキャッチーなキラーフレーズである〝ときめき〟、このフレーズは本を読んだことがない人でも耳にしたことはあると思う。

著者はときめくか、ときめかないか、これがモノを捨てる時の判断基準にしようと提案している。

今、自分が処分しようとしているベビーキャリアであるが、ときめくか、ときめかないかといえば、このザックにとっては申し訳ないが、まずもってときめきは失っているのである。

ときめかないものは、いつか使うだろうと取っておいても、そのいつかはこないというのは暗黙知みたいなものである。
今までの経験上、捨てた後に後悔したものは数えるほどしかなかった。
故に今回に限っても捨ててもまずは困らないであろうことはわかる。

しかし、自分にとって、〝ときめき〟というのは、どうも刺さらないフレーズなのである。
ときめかなくても、自分にとって手放すための最後の後押しとなるものが今ひとつないのである。

そこで、自分なりに捨てる基準となるものが欲しいと思い熟考してみた。

自分が貢献できるかイメージする

自分を自分が運営するチームのリーダーや監督だとイメージしてみる。
そして、その手放そうとしているモノに対して問うてみる。

ぼくは君に何かまだ貢献してあげられることはあるだろうか?

こう問うてみて、モノが自分に何かをしてくれると期待するのではなく、逆に自分がモノに対して貢献出来るものがないかを考えてみる。

その結果、貢献出来る余地がない、つまりは直近で使用する見込みがなく、果てはそのモノが自分の元にある限り活躍出来そうもないと判断したならば手放す、これだったら最後の最後に手放すという決意がしやすいという実感が自分にとってはあるのである。

〝今まで、自分の期待に答えてくれてありがとう。一度だけだったけど、高いパフォーマンスを発揮してくれた時の事は親子共々忘れないよ。〟

と感謝の気持ちを込めて〝good bye〟することとしたのである。

かつて宝だったものが、ただのモノになる。
その瞬間とは、いつであるとは定義がしづらいが、自分とそのモノにとって〝〟みたいなものがあるのだと思う。
その〝〟が過ぎた時がその境目なのであろう。
その旬をしみじみと味わいたいものである。
そして、その旬の時期を見極めて、旬が過ぎ去れば早々にモノを次のステージへと旅立たせるようにしてあげたいものである。
そうすれば、お互いにwin-winな関係のまま、良好な関係をこじらせることもないのであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?