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職業人生を支えた、「ランゲージアーツ」と「自分ならではの考えをつくる力」と「瞑想力」

私は20代前半、編集者および取材ライターとしてキャリアをスタートさせました。11年目に会社から独立してフリーランスになり、立場は変わりましたが同じ仕事を続けてきました。この仕事でもう20年以上も収入を確保できていることになります。これは本当にありがたいことだと思っています。

振り返ると、私は幼少期から本を読んだり文章を書いたりといった作業が好きなほうでした。小学生時代、学級日誌に自作の小説を勝手に連載し(今から思えばもちろん稚拙な内容ですが)、担任の教諭に褒められてクラスの皆の前で朗読したこともありました。そうした過去の経緯から考えますと、物書きの仕事は向いていたのかもしれません。

それでも、10代において学校の成績が非常に高かったのかというと、決してそうではありませんでした。それはおそらく、私が幼少期から抱えてきた統合失調症的な症状が影響していると思います。詳細は次のnote記事に譲ります:誤解を恐れずに言うと、若い頃、“凶悪犯“にひどく共感したことがあった

この点から考えますと、私が知的活動そのものであるこの職業を続けられていることは、体質的に言っても奇跡的と言えそうです。仕事を通じて私を支えてくださっている方々には、感謝の言葉もありません。

この記事を書いている時点、私は年代的には「人生の折り返し時期」と言われるさなかにあります。そんな折に、自分のキャリア歴、そして自分が職業人としてこれまで培ってきたものは何なのかと、いろいろ考えるようになりました。

過去、私は次の3つの点で恵まれていたように思いました。そして私の経験は、今の教育・受験システムの問題点、そしてビジネスパーソンのスキルアップやシニア人材層のリスキリングの話題にも相通じるところがあると考えまして、ここに記します。

■1:キャリアのスタート直後から「ランゲージアーツ」を集中的に学んだ

私のキャリアのスタートは、あるメディア企業の社員でした。入社してみると周囲は、いわゆるトップブランド大学の出身者ばかり。そのため私には気後れするところも多々あったのですが、結果としては問題なく仕事を続けることができました。

もし、いわゆる大学受験時の模試偏差値レベルをそのまま知的能力の差異とみなすのであれば、私は他の同期入社の人より不利であったことは間違いないでしょう。

ただそれでも遜色なく仕事をこなせてきた理由は、何だったのか。今さら振り返りながら分析してみたのですが、「ランゲージアーツ(言語技術)」のスキルを入社後に徹底的に鍛えられたことが大きいのだろうと思っています。

ランゲージアーツは欧州や米国などいわゆる西洋文化圏において、小中学校などで繰り返しトレーニングされる教育内容です。その内容をひとことで説明するなら「言葉の運用技術」と言えばいいでしょうか。

詳しくは日本でランゲージアーツの普及活動を展開している三森ゆりか氏の書籍などに譲りますが、ランゲージアーツは大きく、「対話の技術」と「説明の技術」で構成されています。もう少し具体的に説明しますと、例えば次のような内容を学びトレーニングするようです。

「提示されたドキュメントの内容を把握して、自分なりに要約すること」
「相手の発言を聞いて、その中身を自分の言葉で表現し直すこと」
「相手の発言で理解できない点を明らかにし、それについて質問をすることで、相手の発言の要旨を明確化すること」
「自分が得た情報について、相手にきちんと伝わるように、情報の構造を明確にしながら説明すること」
「自分の心の中にはあるがまだ曖昧な考えを、単純だが要点を抑えた文章として構成すること。さらにはそれを伝えたい相手の理解度を考慮しながら再構成すること」

ひるがえって取材をして記事を書く仕事は、取材対象に取材をし(対話)、それを記事として表現(説明)する作業の繰り返しであり、まさにランゲージアーツそのものです。

私がこのランゲージアーツの存在を初めて知ったのは30代半ばの頃でした。三森氏の書籍を読んで「自分の仕事はランゲージアーツそのものだった」と膝を打ったものでした。

話を戻しますと、新卒20代で職場についた私の周囲にいた先輩方は、皆とても厳しく指導しました。当時の私にとってはつらい職場でしたが、これは今となってはありがたい話で、私は20代から30歳代前半にかけて、ランゲージアーツをプロから一対一で徹底的にたたき込まれたことになります。

さらに言えば、このランゲージアーツは、おしなべて日本の学校では教えていません。少なくとも、私がティーンエイジャーだった1980年代の公立小中高校では教えていませんでした。1990年代に在籍していた大学でも、明示的にこれはランゲージアーツであると表明している授業や実習は一切ありませんでした。2020年代に入った今にネット検索で調べてみても、ごく一部の私立学校や一部の大学で教えている限りのようです。

つまり、現状、日本の子ども・若者がランゲージアーツを学べる機会は、まず存在していないと言っていいでしょう。さらに言えば、いわゆる世間の良い学校・良い大学であっても、そこでランゲージアーツを体系的に訓練しているとは限らない、ということになります。転じて、現状、学業を終えて仕事に就いた現場でランゲージアーツの力を強く求められた場合、どんなに学業成績が良かった人であっても、結局、実地でランゲージアーツをゼロから学ばざるを得ないことになります。

これはよく考えてみると、非常に悲惨な状況です。どんなに子どもの頃に勉強を頑張ったとしても、結局、職場でゼロからランゲージアーツのスキルを組み立てなければならないからです。しばしば産業界からは「大学教育が役に立たない」という批判が挙がりますが、そのような批判をしたくなる理由も分からなくもありません。

一方、先にも触れましたように、私はラッキーなことに入社直後からランゲージアーツをたたき込まれました。比較対象がないのであくまで感覚的な話ですが、私は(たまたま)、日本では極めて珍しい、高度なランゲージアーツの教えを受けられた、ということになるのでしょう。

若干、余談になりますが、私が学んでいた大学の学科では、今で言うデータサイエンス教育を重点的に実施していました。プログラミングもすれば数学も学び、また自分で分析課題を設定してデータで検証しながらレポートするという実習もありました。今から思えば、これにはランゲージアーツ的な要素がありました。この経験は、就職後の私の仕事に少なからず有利に働いたように思っています。この学科を立ち上げた教授陣は、先見の明があったのであろうと思います。

先にも少し触れましたが、日本では大学での教育に対してその意義を見いださず、10代後半時点における大学入学希望者の模試偏差値で大学や出身者の価値を一様にランク付けする傾向が多々あります。しかも、その評価を産業界および社会では後々、何年も、何十年も引きずります。要するに実質、「高校生くらいまでの勉強の度合いを後生大事にずっと重視している」格好になるわけです。多様な社会経験を通じて人間はずっと成長し続けるにもかかわらずです。このあたりの問題意識をもって新たな人材開発論を提示しているのが「成人発達理論」ですが、今回はこのワードを出すにとどめましょう。

冷静に考えていくと、これは本質的かどうか相当な疑問です。相変わらず日本の産業界および社会に蔓延しているこの風潮は、たくさんの問題を抱えているように思います。特に教育学の研究では「小中学生の勉強の成績には家庭や居住地域の影響が大きい」という見解が出ているそうです。これはつまり、「10代の子どもには、成績を上げるも何も、生まれが影響するので自分の意思ではどうしようもない」ということです。

これを踏まえると、私はあと数年後には、(おじさん・おばさんたちが大好きな)誰それがどこの高校・大学を出たのか、という学歴の話をすること自体が、性差に基づいた根拠のない批判や障がいのある・なしをあげつらうことに類するハラスメントとして認識される時代になりそうな予感がしています。10代までの進路選択は、ダイバーシティ&エクイティ&インクルージョンの観点から見た場合に「自分だけの責任」とは言いがたい状況が多々あるためです。

しかし、こうした問題をいちいち丁寧に指摘するよりも、むしろ「受験産業が、『子どもの教育』という親が特に関心をもつ領域に仕掛けた巧妙なマーケティング」を称えるべきでしょうか。

さて、このパートの最後に、ランゲージアーツの話題において最も重要と思われる事項を述べます。人間の知的活動が言語の運用によって支えられている以上、ランゲージアーツは知的活動の礎そのものである、ということです。この点においても、言語の運用技術であるランゲージアーツの能力は、私の職業人としての基盤になっているように思っています。

翻って私が問題視しているのは、先に触れたように、日本ではこのランゲージアーツがほとんど教えられていないという実態です。先に紹介した三森氏は商社で働いていた当時の経験を振り返りながら、「海外企業との交渉においてしばしば日本企業側が不利な状況に追い込まれる理由は、議事録の翻訳をしているとよく分かる」との趣旨を述べ、それは初等教育から大学教育に至るプロセスにおいて、ランゲージアーツのトレーニングを受けているかどうかだという意見を提示しています。

私は、知識の暗記とその再表現を問う日本の学校教育と受験システムのすべてが悪だとは思いません。知的活動を行うためには、ある程度の情報を暗記しておくことは必要不可欠で、暗記するにはそこそこ地道なトレーニングが求められるためです。その点においては、学校教育機関は重要な役割を果たしていると考えます。

しかし、ランゲージアーツが不在で、かつ暗記を再現させる筆記テストに過度に力点をおき、子どもたちや若者にプレッシャーを与えながら一発勝負の受験テストで選抜するシステムは、子どもに「自分の言葉を使って自分の考えを表現しながら対話すること」をひたすら放棄させているのかもしれません。

近年、厳しい経済環境を背景に、大学はもちろん高校・中学でもデジタル技術の教育や起業家教育をしようという動きが盛り上がり、実践が始まりつつあります。こうした教育の機会はもちろん素晴らしいものですが、それ以前にランゲージアーツを学ぶ機会を広くあまねく提供するべきではないかと思うのです。

そしてこの点で言えば、結果としてランゲージアーツを学べた私も、そしてどんなに良い学校を出た人々も――つまり、日本で子ども時代・ティーンエイジの間を過ごしてきた人は全員、同じ穴の狢ではないでしょうか。

脳機能科学者の苫米地英人博士は著書で、日本の学校教育で児童や生徒に問うている内容は原則、決してただの暗記型にはなっておらず、文脈や経緯を教えることになっていると指摘しています。この点はある意味とても興味深いのですが、続いて苫米地氏が指摘している問題のほうが、もっと見逃せません。教育現場ではこれが受験システムを前提にプレッシャーを与えながら暗記型で知識を詰め込ませる運用になっており、結果として子どもたちから知的創造活動に必要な抽象的思考力を奪う形になっている、との主旨を苫米地氏は述べています。

このような学校教育・受験選抜システムや入社選抜システムを保持しており、それを勝ち抜いた人が「優秀だ」と定義し続けている日本は、危うい状況にあるとしても過言ではないでしょう。成績が上の「高級奴隷」から、成績が下の「低級奴隷」に至るまでの「幅広いラインナップの奴隷」を生産し――しかも「高級奴隷」になれるかどうかは生まれが左右するわけです――、互いに無駄に競わせる、というシステムに成り下がっている、と言うべきかもしれません。

いやもし、誰かが「こうした状況」の創出をわざわざ狙っているとしたら、現状の日本の教育システムは、実に巧みに設計されていると言っていいでしょう。

【追記:経営コンサルタントとして著名な大前研一氏が、ビジネスメディア『プレジデント』に非常に興味深いコラムを書いています。1970年代以降日本に広まった学力偏差値システムは政治家の中曽根康弘氏が「若者が政府に抵抗しないように」導入したのだといいます。要するに“上に従順な犬”を育成するための仕組みであるというわけです。少し引用しましょう。

首相になった中曽根氏のアドバイザーを務めていたときに、私が「また学生運動が盛んになりませんか」と尋ねたら、中曽根氏は「心配いりません。学力偏差値を全国的に導入して、政府に逆らう学生が出ないようにしていますから」と即座に言った。

プレデント2022年3月18日号、大前研一「問題だらけの偏差値教育を大学の個性化で打破せよ」https://president.jp/articles/-/54963?page=1

ぜひ御覧ください:https://president.jp/articles/-/54963?page=1

■2:ランゲージアーツを通じて「自分ならではの考え」が形成できるようになった

私がラッキーだった2つ目のポイントは、前項の最後に述べた内容に関わります。ランゲージアーツは言葉を使って明確に外部の情報を把握したり、情報を提示したりといった行動できるようにする技術にほかなりません。私はこのようなランゲージアーツを追求してきた結果、「自分ならではの考え」を形成し先鋭化できるようになりました。

自分ならではの意見、自分ならではの見方というのは、言葉を駆使することによって初めて自覚できるようになります。つまり、ランゲージアーツを通じて言語を扱う能力を高めるということは、自分の中にあるまとまりのない思いや感情を明確に描写し、自分が「これだ」と思える行動規範、自分が「これだ」と思える選択規範を自覚できる能力を得ることを意味します。

もちろん、編集やライティングの仕事において常に自分という個人の考えを表現するというわけではありません。ですがそれでも、書くことを専門的に扱う仕事を通じて、自分ならではの意見、自分ならではの見方を形成する力が養えたという自覚があるのです。

逆に、ランゲージアーツの力を身につけることができず、自分の中の「もやもや」を言葉として描写できない間は、考えがモヤモヤしたままで終わります。自分はどう行動したいのか、自分はどう選択したいのかを明確にできません。このような状態では、声が大きい人・立場が上の人にひたすら流されるしかなくなってしまいます。

私は40代も終盤を迎えてようやくその価値を理解できるようになってきたのですが、自分の心の中で言語を使ってまとめ上げた明確な思考は、自分ならではの生き方を定義するための重要な「プログラミング言語」であるとも言えます。私が職業人としてこれまでなんとか持続できた理由は、たまたま職業的に学べたランゲージアーツを通して、結果として、「自分ならではの考え」を明確にできてきたからではないかと思うのです。

先の繰り返しになりますが、ランゲージアーツなき日本の教育は相当にまずいのではないだろうかと思います。

また、これも繰り返しになりますが、もし日本人をうまくコントロールしたい誰かがいて、その人物が日本人に「自分ならではの考え」を持たせないようにランゲージアーツをあえて教えず、苫米地英人博士が言うようにひたすら緊張感を与えながら選抜試験に駆り立てているのだとしたら、なかなか頭がいい連中だと思います。

■3:20代の終わりに瞑想に出会えた

最後の3つめは、職場環境や職業上の条件ではなく、私自身の個人的な習慣となります。それは瞑想です。20代の終わりから取り組み始め、中断時期はありましたがほぼ毎日、何らかの形で瞑想に取り組んできました。瞑想を始めてからもう約20年にもなります。

瞑想については、心理学や医学の観点からも様々なエビデンスが提示されています。それらをざっと見てみると、ストレスの軽減、認知力が向上する、脳の老化が抑制されるなど。かなり魅力的なフレーズが並んでいまして、実際私自身もそうかもしれないと感じるところが多々あります。

20代後半の当時、仕事が私にとってはなかなかハードであったこと、また一部の人間関係で困難を強いられたことなどが影響し、私は心身の調子を大きく崩してしまいました。精神科や心療内科にも通い、鬱病の薬を飲んでいた時期もありました。

ただこうした薬は私にとっては相性が悪く、根本治療を探していろいろな情報に当たっていたところに目に入ったのが、瞑想、ヨガ、導引術(気功法のうち特に心身の健康に役立つ方法論)などの伝統的な技法でした。

これらのいわば心身技法は、私にとって相性が良かったのか、私はすぐに気に入って取り組み続けました。約20年が経過した今から振り返ると、私の発揮能力はこれらの心身技法によって初めて開発されたのではないかと思っています。そのため私は最近、「私の本当の人生の始まりは20代の終わりから」と表現するようにしています。

詳しくは私の過去のnote記事をご覧いただければと思うのですが、瞑想は先に述べたようなエビデンスに基づいた効果のほか、スペックとしては表現しきれない、多数の効果をもたらします。下記は直近掲載しました、瞑想に関する記事です。

■未来の子どもたちに不要なシステムを覆すべき

翻って考えてみると、日本は世界各国と比べるとまだまだ平和で、国民はおしなべて一定の理性を備え、利他的な傾向をもっている、素晴らしい国です。しかし、いわゆる経済成長偏重主義と、すでに機能しなくなった儒教的な価値観や「公平に見えて生まれが影響する不公平な仕組み」に基づいた社会システムが影響し、その可能性が大きく削がれているのではないでしょうか。そして私は過去の人生において、こうした「日本的な在り方」の問題点を真正面から経験してきたように思っています。

これら一つひとつの問題は、考えてもきりがない、つまり多くの人が真正面から捉えず捨て置いている話題かもしれません。ですが、これからの社会、そして未来を生きる子どもたちには不要なものばかりです。

先達である我々は、彼らのためにこれらを一つずつ潰していくべきではないでしょうか。転じて、私という小さな個人がどんな貢献ができるかというのは常に問われるところではありますが、このnoteによる記事の発信など、可能なところから着手していこうと思っています。

■「真実の剣」note記事をご覧いただきました方へ

「真実の剣」のnote記事をご覧いただき、ありがとうございました。併せて、ぜひ、下記のヒーリングや瞑想ワークショップの情報もご覧ください。

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DNAアクティベーションでは、後頭部から背中上部にある、皮膚から上1cm~2cm程度の領域に対して専用のワンドでアクセスします。これにより、受ける人のエネルギーを活性化していきます(出所:MMSジャパン「DNAアクティベーション」ホームページ)

かつては王族や神官など、限られた人にのみDNAアクティベーションの存在が明かされてきました。つまり、ごく一部の人物しか、このDNAアクティベーションの恩恵を受け取ることはできませんでした。

しかし、今は形而上学の学校・モダンミステリースクールが一般公開に踏み切ることにより、正式なトレーニングを受けて認められたヒーラーなら、施術ができるようになりました。これにより、市井で活躍するより多くの人々が、このDNAアクティベーションの恩恵を受けられるようになっています。

これを受けた人は、まさに形而上学が語る最大の教え、「I am God.」の一片――素晴らしき自らの潜在的な可能性が拓かれます。徐々に心の平和、心の豊かさ、さらには自らの人生を切り開いていくことができるようになるでしょう。

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DNAアクティベーションの解説ページはこちら

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