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文化・芸術団体がいま抱える3つの問題

 現在新型コロナ関連のニュースは、世の中の危機的な状況を反映するものばかりだ。この冬は素人目に見ても人類の旗色が悪い。どこまでこの状況が続くのか、どこまで状況が悪化するのか誰も解らないのも不安要素である。
こうした状況は文化、芸術機関においてもより深刻だ。今ですら何とか人的、金銭的なリソースを割き、崩したりして春の緊急事態宣言下、それ以降の感染症対策を乗り切ってきたところである。これ以降イギリスで現在行われているようなロックダウンが行われると、もう経営が立ち行かなくなる機関、施設が出てくることも容易に想像がつく。
本記事では特に私が親しんでいるオーケストラ、文楽等ホールで集客を行う芸術公演、博物館美術館等の文化施設を前提として、現在直面する問題点、改善点の議論を行っていきたい。



①業界としての問題点

 現在1都3県で発令されている緊急事態宣言はもちろん、地方自治体から発令される諸々の宣言では「不要不急の外出」を自粛するように求められている。感染拡大が止まらない現状においては、政府が発令する宣言での「自粛」は罰則付与などで今後強化される可能性があるし、関西など対象範囲も拡がる見込みが強いだろう。こうした中で公演責任者、施設運営者は、公演を行うか、施設を開館するかの対応に迫られなければならないのである。現在この対応は公演、施設ごとにまちまちである。例えば埼玉県立美術館は宣言期間中の閉館をすでに決定しているが、東京国立博物館などの国立施設は夜間開館を中止するなど、限定的な対応である。現状では後者のほうが多数派である印象を受ける。 公演についても、1都3県の施設でのものを見合わせるケースなどが見られる。ただ公演を挙行するごとに補助金が降りるというシステムもあり、プロの公演が中止される動きはごく少数である。こうした状況を前にして、是非はともかく、業界としての足並みが揃わないというのが真っ先に受ける印象であろう。そしてこれは根深い問題ながら、非常に憂慮すべき事態であろう。 公演の企画者、アーティスト、施設の運営者、職員がそこで収益を得ている以上、彼らにとって「業務」は当然不要不急の行為ではない。しかし公演や施設へ足を運ぶという市民の行動はしばしば「不要不急の外出」にカテゴライズされるものである。こうした本質的に文化・芸術業界が抱えるアンビバレントな要素こそが、今回統一されなかった対応の原点にあることは言うまでもない。 しかし理由はどうであれ、足並みが揃わないことによ個々の団体、施設によって収益面での不公平が生じてしまうことは否めない。しかも現状では感染対策により配慮した決断を採った側がまるまる損をする格好である。こうした対応を当事者に丸投げするような現状は、とうてい看過できない。行政側には「不要不急」の範囲がどのように文化・芸術業界に適用されるべきか、具体的なガイドラインを求めたい。当然その内容次第では然るべき団体、個人に補償があてがわれるべきだろう。また、運営者側にも問題はある。何より組織ごとの対応が分かれてしまうことは、業界ごとに統一されたガバナンスが存在しないことを意味する。これは今後予想される、更に迅速な対応が求められる局面においてはマイナス以外の何物でもない。判断が遅れてしまったことで最悪の事態を招いてしまってからでは遅いのである。私は当然春の緊急事態宣言の「全てが休止に追い込まれた」に等しい状況を経て、統一したガイドラインのもと現状に対処するものかと思っていたが、業界そのものを少々買いかぶり過ぎいたようだ。 こうした判断の遅さは、すでに目に見える形で現れている。これを書いている1月11日にも、とある博物館施設(名前は伏せる)で講演会イベントが行われるという。当然館内での感染対策は行われるのであろうが、こうした大人数が一堂に会するイベントが、オンラインなどの代替策で対応できなかったという判断は甚だ疑問である。おそらく対面での講演会形式という形に拘泥したまま、開催、中止の議論がされていたと想像がつく。業界に関わらず、今の社会に共通である可塑的な対応ができない、判断が遅いという体質を代弁しているといえるだろう。こうした状況は、予めガイドラインを定めておけば防げ得た事案である。

②アマチュア文化の危機

職業としての文化業界の対応がバラつくなか、アマチュアで公演、企画を行う団体、個人はある意味、最も危機的な状態にあるといえる。
アマチュア団体は大きく2つに大別される。大学、企業などの公認のもと運営されている組織と、そうでない有志のもと運営されている組織である。前者については去年は受難の一年であったし、今年もそうなる公算が高い。大学などのガイドラインに基づいた結果練習ができない、その結果公演、企画が中止に追い込まれるといったケースがほとんどである。仮にそうした基準を破ったとしたら、1年を越す活動停止処分を受けたという事例もあったとおり何らかの処分は免れられないだろう。しかも大学の部活などでは、人員の入れ替わりが激しい分、1回の公演、企画が中止になっただけでもノウハウの蓄積、引き継ぎという面で致命的な影響を与えることになる。退部を検討する人もそれなりに出てくるだろう。まさに危機的だ。
 一方、有志のもと運営されている団体は別の観点において危機的である。まず挙げられるのが感染対策である。身近なオーケストラという業界に絞っても、「感染対策に配慮して練習を行っています」という名目のもと練習終了後に飲酒を伴う会食、いわゆる飲み会を行っている団体が見受けられる。こうした状況が一部の団体、個人であれ続くようであれば、早晩集団感染が発生するということになってもおかしくないだろう。
しかし、感染症対策を(本気で)徹底しようとすると、どうしても練習場などが限られてくる。しかも新たな物品を購入しなければならない。資金面で脆弱な団体にとっては大きな痛手となるはずだ。
 更に参加する有志から資金を調達して運営しているという性格上、状況を見てさらなる出費を伴う後退(中止、延期を伴う措置)をとることが難しいことも無視できない。こうした事例も数点見られたが、いずれも大学の公認団体であり、その指示に従った結果であったことが予想される。仮に有志団体でこうした措置をとるところがあるならば、団員、観客を守るために冷静、かつ勇気ある決断を採ったといえるだろう。
健全で持続可能な文化・芸術というものはプロフェッショナルのみに限定されず、アマチュアという広い裾野を持つものである。いま文化・芸術業界のアマチュアが抱えている問題は、業界そのものの根を枯らしてしまう事になってしまうかもしれない。

③文化・芸術に関わる人のメンタリティーの問題

はっきり言っておくと、プロアマ、分野職種のいかんを問わず、文化・芸術は今瀬戸際に立たされている。もし(望まないことだが)緊急事態宣言の内容が強化されるとしたら、次に人の集まり、移動を制限するための方策として文化・芸術・イベント方面に活動制限が課されることは容易に想像がつく。そうした自体はいち文化愛好家として避けられるに越したことはない。しかし①で述べたどこの業界にも共通する可塑的な対応ができない体質、判断の遅さが文化・芸術業界にも敷衍できる現実、②で述べた一部の愛好家の軽率な行動が見られる現状を鑑みると、残念ながらそうした決定は妥当性を帯びたものとして我々に認識されるだろう。
 こうした根本にある、いわば日本の文化・芸術業界が抱える病巣ともいえるものが関わる人々のメンタリティーであると私は考えている。それはしばしば唯美主義に裏付けされた「特権意識」や「社会に対する非当事者意識」としても見いだせるだろう。両者を総括すると、「文化・芸術とは不要不急などではなく、社会に絶対不可欠なものである。したがって無条件に自らの行動についても文化・芸術に関わる限り、社会の状況に規範されることなく保証されるべき」とするいう理論である。しかし、その「行動」が必要とされる感染対策と相反する場合は話が別であろう。そして往々にしてそうした「行動」は感染対策と相反するものであり、現状では「軽率な行動」にカテゴライズされうるものでもある。
 そもそも昨今騒がれている「文化芸術不要論」的な潮流もまた、こうしたメンタリティーへのアンチテーゼとして生まれたものである。当然ながらこうした潮流は唾棄すべきものであるが、その要因となった文化・芸術の当事者の意識もまた、同時に反省されるべきではないだろうか。
 そして文化・芸術関係者にしばしば見られる、特殊な業界である、社会のこととは我関せずという姿勢、それが生み出す「軽率な行動」が槍玉に挙げられ、職種そのものの印象を悪くして、文化芸術不要論を一層補強することになってしまう……このことこそ我々が一番恐れるべきことだろう。望まれるのはより一層倫理的な行動だ。
 私は文化・芸術について、語弊を恐れずに言うと絶対不可欠な存在ではないし、非常事態においては不要不急にカテゴライズされてもやむを得ないと考えている。平時であっても社会に無条件に存在意義が認められるほど、残念ながら今の日本は潤っていないし、それゆえ(芸術の自律性を毀損しない程度に)意義を常に発信する努力を怠ってはいけないと考えている。
 したがって、一部で指摘されている「イベントなどが開催されることで市民の気の緩みを間接的に生み出している」「前後の会食などの高リスクの行為を助長している」という批判的な意見も受け入れ、対策を講じるべきであろう。しかしこの事例においてはあくまで問題となるべきなのは市民の行動そのものである。そのことを念頭に入れて文化・芸術業界の活動をむやみに停止するのではなく、両立を模索するのが賢明な判断だ。ここで市民も、「文化・芸術を構成する成員」としてより倫理観ある行動を求められる。


④おわりに

以上のようにつらつらと現状の文化・芸術という大きな枠組みが抱えている3つの問題について書いてきたが、一番根本的かつ深刻なのが最後のメンタリティーの問題である。今まで以上に芸術不要論を加速させないためにも、早い感染収束に結びつけるためにも改められなくてはならないものだ。もしこのままの状態が続けば、経済的苦境や世論の点においてしっぺ返しを食らうことは必定である。特により発信力を持つ人が率先して、特権意識的、社会への非当事者的な意識を改めるときではないだろうか。
 文化・芸術と隣接した業界にあるスポーツでも、そうした議論は去年のうちから行われていた。日本の文化・芸術業界が議論をあえて避けてきたのに比べると実に立派な姿勢である。
 私の尊敬するスポーツマンであるユルゲン・クロップ(リヴァプール監督)が去年3月にリーグ戦の中断を受けて発したコメントの一文が、まさに文化・芸術にも当てはまるものである。この引用をもって締めくくりとしたい。

以前も言ったように、フットボールは常に、優先事項が低い物事の中での、とても重要なものだ。今日現在、フットボールとその試合は全く重要ではないんだ。 
 もちろん、無観客のスタジアムでの試合も避けたい。そして、試合や大会の延期も避けたい。だが、個々の健康状態を守るためならば、そういったことも実施しなければならない。何の疑いの余地もなく。
 もし、サッカーか社会のためかという選択ならば、比較にすらならない。本当に、比較するまでもない。           ユルゲン・クロップ


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