白いカマキリ

「あら、カマキリ」
病室に入ると同時に母はそう言った。遅れて病室に入った僕はベッドで眠っている父親の胸元を見て、母の言っている言葉の意味を理解した。
もぞもぞと動く小さな虫がいるのだ。それは確かにカマキリだった。しかしやけに色が白い。カマキリにもアルビノっているのだろうか、などと思いながら父親に近づいた。

肝臓がんを患った父親はもう長くは持たないようだ。医師からもそう伝えられているが、それがなくとも明らかに父はどんどんと衰弱している。ここ最近は毎日のように見舞いに来ているが一日ごとに父から生気が失われているのだ。
少し前までは痛みがひどく、「痛い、痛い!」とのたうち回っていることも多かったが、今週に入ってからは今日のようにベッドでおとなしく寝息を立てている時間が増えた。もう痛みも感じなくなってきたのだろうか。

死期が近いということは悲しいが、それでもこうして安らかに眠っている父を見ると、苦しんで生きるよりはいいのかもしれない、とも思う。

「窓が開いてるわ。ここから入って来たのかねぇ」
ベッドの向かって左側、東の壁には窓があり、朝は日差しが差し込み、自然と目が覚めるらしい。その窓が三十センチほど開いていたのだ。おそらく看護師が空気の入れ替えのために開けてくれたのだろう。しかしこの病室は三階にあるのに、こんなところまで上がって来るなんてたくましいカマキリである。

「ちょっとあんた、窓から逃がしてあげて」母は僕に向かってそう言った。「虫は苦手なんだけどな」と思いながらも僕はカマキリに手を伸ばした。いつまでも父の体の上で遊ばせるのは忍びなかったし、何より肝臓を患っている父のちょうど肝臓の辺りで鎌のような手を動かしているカマキリが、父の命を刈り取る死神のようなイメージと重なってとても嫌な気持ちになったからだ。
そしてカマキリの首を掴もうとした時、ある日の光景が急に蘇った。
「僕はこのカマキリを見たことがあるかもしれない」


あれは小学三年生の夏休みだった。僕は昼間から家でごろごろして過ごしていた。友達がみな、やれディズニーだ、沖縄だ、とそれぞれ家族旅行に出かけていたので、遊ぶ友達もいなく、羨ましさを感じながらふてくされていたのだ。
あの時、なぜ家に父親がいたのかはよく覚えていない。もしかしたら土曜日か日曜日で仕事が休みだったのかもしれない。母がどこに出かけていたのかも思い出せないが、とにかく家には僕と父しかいなかった。僕は基本的には夏休みも土日も友達と外で遊ぶ毎日だったので、明るい時間に父と二人で過ごすことは稀であった。
ダイニングで新聞を読んでいる父を横目に、隣のリビングで寝転がりながら漫画を読んでいた僕はいつの間にかうとうととしていたようで、父に背中を叩かれて目が覚めた。
「ぼん、暇ならお遣い頼まれてくれるか?」起き抜けにそう言われたのを覚えている。そう言えば幼い頃、父は僕のことをぼんと呼んでいた。

「いいよ。何買ってきたらいいの?」
「赤井さんのところの自販機でいいからビールを一本買ってきてくれ」
そう言いながら財布から千円札を一枚取り出したのだ。
赤井さんというのは家から自転車で五分くらいのところにある酒屋で、父もよくそこでお酒を購入していた。酒豪の父はいつも赤井酒店でケースで瓶ビールを頼んでいたのだが、その時はどうやら家にもうビールのストックがなかったのだろう。
今では信じられないことかもしれないが、当時は未成年であってもお酒や煙草の購入は容易に出来たのだ。今までも何度もビールのお遣いは任されたことがあった。
「はいよ。ビール一本ね」
「うん。お釣りはぼんが貰っていいぞ。手間賃ね」
「ほんと?じゃあさっそくいってきます」
想像していなかった臨時収入が嬉しかったので、眠気も吹っ飛んだ。

うだるような暑さの中、自転車にまたがって赤井酒店へ意気揚々と駆け出した。千円でビールを買ってもお釣りは六百円以上になる。小学生、ましてや三年生にとって五百円玉はなんでも買える魔法のコインのようなものだ。
ペダルをこぐ足取りも軽く、あっという間に赤井酒店へたどり着いた。店内で買ってもいいけれども、面倒くさかったので自販機で買えるなら自販機でいいか、と自転車にまたがりながら店舗前に設置されている自販機に千円札を投入し、父がいつも飲んでいるビールの下にあるボタンを押した。
「ガコン」
小気味のいい音を響かせてビールが落ちてきた。僕は商品を取り出す前にお釣りのレバーをひねった。僕にとってはビールよりもお釣りの小銭の方が大切だった。
五百円玉を含む小銭を数枚、釣銭口から取り出し、コソコソと隠すようにポケットにしまい込んだ。何も悪いことはしていないのだが、五百円玉を持っている、ということはあまり知られてはいけないような気がしたのだ。それくらい小学生時代の五百円は貴重だったということだ。
そして商品の取り出し口に右手をつっこんだ。手にヒンヤリと冷たいビールの缶が当たる。とても気持ちよかった。ビールを取り出し、少しだけ自分の首元に当ててみた。
「クー、気持ちいい!」
ビールを飲む親父のような台詞を吐いた。ビールはおいしいと思わないけれど、この冷たさは確かに魅力的だな、と思った。
さぁ、用事も済んだことだし、帰ろう、と右手で取ったビールを左手に持ち替え、片手でハンドルを握り、自転車を漕ごうとしたその時だった。
自販機の左手に置かれたビールケースの上にカマキリがいることに気付いた。子供らしく昆虫が大好きだった僕は特にカマキリが好きだった。しかもそのカマキリは色がやけに白く、今まで見たことのない色をしていた。
「これはレアな種類のカマキリかも」と心の中で声を上げた。色が違うからか、そのカマキリがやけにかっこよく見えてきた。
とりあえず手に取ってみよう、と僕は自転車にまたがりながら右手をハンドルから離してそのカマキリへと伸ばした。左手は缶ビールを持っているので、両手ともハンドルから離していることになるが、足はしっかり地面についているから大丈夫だろう、とタカをくくり横着したのだ。
自転車ごと自分の体をカマキリに向けて傾けていった。もう少しでカマキリに触れるというその時、自転車のタイヤがずるっと滑った。当然のことながらバランスを崩した僕はなんとか転ばないように右手を自販機にくっつけ、体を支えようとしたが、うまくは行かなかった。
自転車ががたんと倒れた。僕も自販機の脇に頭から倒れそうになった。両手を伸ばし、なんとか倒れる前に地面に手をついて転倒だけはまぬがれたのだが、さっきまで左手で握っていたビールは放り出して手をついたものだから、当然ビールは地面に落ちて、それからブシューという嫌な音がした。
恐る恐る落ちたビールの方を見ると、衝撃で缶が割れ、ビールが泡と共に流れ出ていた。
「やってしまった」と思い慌てて拾い上げてみても、ビールは止まらない。
あっという間に重さは四分の一ほどになった。すっかり軽くなった缶と、その缶を握る自分の右手が泡に塗れていた。それを見て僕は悲しくなった。「ビールを買う」こんな簡単なお遣いさえ、こなせなかった自分が恥ずかしくなったのだ。
溢れそうな涙を堪えて、事の発端をなったカマキリを捕まえようとした。嫌みの一つでもぶつけようとしたわけでもないのだが、なんとなく恨めしくなったのだ。完全な八つ当たりであったが。
ところが当のカマキリは僕がこけたり、落ち込んだりしている間にどこかへ行ったようで、見つけられなかった。ついさっきまでビールケースの上で身動き一つしていなかったのに。
辺りを見回してみてもどのにも見つけられなかった。ビール一つを犠牲にした分、せめて捕まえて友達に自慢したかったのに。
「踏んだり蹴ったりとはこのことだな」
覚えたてのことわざが思い浮かんだ。
とにかくビールを買い直さなければならなかった。さっきポケットに大事にしまった五百円玉を取り出してコイン投入口に入れた。本当なら僕のものになっていた五百円玉。悲しいけれども背に腹は代えられなかった。
「ガコン」どこか間抜けな音を響かせて缶ビールが落ちてきた。さっきは心地よい響きに感じたのに、こちらの心情次第で同じ音でも受ける印象はまったく正反対だった。
二本目の缶ビールは自転車のカゴに入れた。一本目も左手で持って自転車を漕ごうなどと思わず、素直にカゴに入れておけばもしかしたら僕が転倒しても割れなかったかもしれない。
なぜ横着してしまったのだろう。気分はどんどん沈んで行った。
四分の一ほど残った一本目のビールは捨てるのももったいない、と思い持って帰ることにした。
左手に一本目を、カゴに二本目を入れて自転車を漕ぎだす。こけないようにゆっくりと。
さっき通った道を引き返す。つい五分前に見た景色。浮かれ気分だったさっきとは違って、ペダルをこぐ足取りは重たかった。何もかもが五分前とは違って感じた。
うだるような暑さも、心底嫌だった。遠くから蝉の鳴き声が聞こえた。さっきまで気にならなかったけど、耳につく嫌な音だ。ろくにお遣いもできない僕をあざ笑っているように聞こえた。
当然、往路と同じく五分程で家に着いたのだが、なぜか行きよりも時間がかかったような気がした。父は「おかえり」とリビングから僕に声を掛けた。
「ただいま」と言いながら父にビールを二本渡した。
「あれ?なんで二本?こっちの軽いのは?」
と聞かれたので一本買ったあとに落としてしまったこと、その時に缶が割れて中身がこぼれてしまったことを説明した。カマキリを捕まえようとして落としたことは伝えなかった。なんとなく恥ずかしくなったからだ。

「そうか。じゃあお駄賃になるはずだったお金でもう一本買ってくれたってことか。じゃあこの一本はぼんからのプレゼントだな」
優しく微笑んで父はそう言ってくれた。僕はなぜか泣きそうになった。怒られると思っていたのにお礼を言われたので驚いたのだ。
泣きそうな顔を見られるのが嫌だったので、すぐに二階の自分の部屋に戻った。自室はエアコンがなくて暑かったが、扇風機をマックスにして我慢した。気晴らしに漫画を読もうと思ったが、物語が頭の中に入ってこなかった。これでいいんだろうか、という思いが頭の中を巡っていたのだ。

僕は意を決して自室を出て、一階にいる父の元へと向かった。
父はダイニングの椅子に座りながらリビングのテレビを見ていた。テーブルの上にはビールの空き缶が二つあった。もう飲み干していたようだ。
「お父さん、さっきはビールを落としてしまったって言ったけど、実はカマキリを捕まえようとして夢中になってこけてしまったんだ。せっかくお小遣いをくれようとしていたのにもったいないことしてしまってごめんなさい」
言いながら途中で言葉が詰まった。涙が溢れて止まらなかったのだ。
「そうだったのか。まぁカマキリはかっこいいもんな。そんなこと気にしなくていいよ。ちゃんとお釣りでビール買ってきてくれたからな。ありがとう、ビールおいしかったよ」
そんな風に父は優しく返してくれた。僕は涙が止まらなくなり、何も言い返すことができなくなった。
「ところでさ、ぼん。今ビール飲んだらもうちょっと飲みたくなったからさ、また買って来てくれるか?」
そう言いながら父は僕に五百円玉を渡してきた。
「泣き止んでからでいいからさ、お願い」
僕はもう一度チャンスを貰えたことが嬉しかった。今度はお釣りも要らない、と思った。
「ありがとう、お父さん。次はちゃんと買ってくるね」
涙を拭きながら答えた。父はそんな僕を見てまた優しく微笑んだ。

また僕は自転車を漕いで赤木酒店へと向かった。胸のつっかえが取れたような晴れ晴れとした気分だった。今度こそしっかりビールを買って家に帰ろう、そう思いながら漕ぐペダルはすいすいと軽く回った。夏の午後は雲一つない晴天が広がっていた。
汗ばむTシャツをはためかせながら僕は自転車を飛ばした。


なんてことない夏の日の一日のこと。今まで忘れていた出来事だったが、父の胸にいるカマキリを捕まえた時にはっきりと思い出すことができた。
結局あの日はもう一度赤城酒店に行き、ビールを買って小銭のお釣りを父に返そうとしたが、お駄賃だ、と譲らなかったのだ。僕は迷惑かけたしいらないと言ったのに父は受け取ってくれなかった。僕の目の前で缶ビールを飲みほして「生き返る!」とおいしそうに一言発していたのだった。
もしかしたら、と僕は思った。
このカマキリは寿命的にもあの日のカマキリでないことは明らかだが、同じように白い体をしているこのカマキリは死神なんかじゃなくて父の肝臓を守ろうとしてくれているのじゃないか。
あの日、僕の目の前に現れ、ビールがこぼれると同時に姿を消したカマキリ。肝臓を悪くする前にビールを飲ませないようにしたのじゃないだろうか。
そう思うと今、父の上で両手を動かしている姿も肝臓の癌を切り取ろうとしているようにも見えてきた。
僕はカマキリの首を優しく掴み、自分の顔の前に持ってきた。
「お前、もしかして父さんを守ろうとしてくれていたのか」と話しかけた。
「何?何か言った?」
自分に話しかけられたと勘違いした母が僕に言った。
「いや、なんでもないよ。カマキリ、窓から逃がしたら高くて大変だろうから、庭に逃がしてくる」
そう言って僕はカマキリを大事に両手で包み込んで病室を出た。
病院には立派な中庭が備わっていてちょっとした広場のようだった。僕はその中庭の端っこにある植木に近づき、葉っぱの上にカマキリをそっと置いた。カマキリは少し僕の顔を見たあと、すっと顔を背け葉っぱを登りだした。
ふと空を見上げた。雲一つない青空が頭上に広がっていた。
「そう言えばもう夏だな」
僕は独り言をこぼしながら中庭を後にして病室へと戻った。


それから一週間で父は他界した。結局、最後までろくに意識は戻らなかったようだ。最後に父とかわした言葉はなんだっただろう。思い出せないが、おそらく他愛のない話だったんだろう。最後にもう一本だけビールを飲みたかっただろうな、と僕は思った。
お通夜も葬式も辛気臭くなく、むしろ親戚が久しぶりに一堂に介する場として機能していた。その方が父としても嬉しかっただろう。あまりしめやかな雰囲気は好きでなかったから。
母も看病生活の中で覚悟が決まっていたようで「涙流す暇もない」とてんやわんやで親戚たちの相手をしていた。
葬式の日の夕方、近所の仕出し屋で弁当を頼み、自宅でみんなで食べた。さながら宴会のような雰囲気で親戚たちがみな瓶ビールをグラスに注いであおっている中、僕はあの日割ってしまった缶ビールを買って、味わいながら飲んだ。大人になってからは何度も飲んだことのあるビールだったが心なしかいつもよりおいしく感じた。

宴会も終わり、ぞろぞろと親戚たちが帰ったあとは家の中が急に静かになった。溜まっていた食器を洗い、一段落ついた頃、母親にねぎらいの言葉でも掛けてやろうとリビングに向かった。
母はリビングにあるロッキングチェアに座りながら転寝をしていた。このロッキングチェアは僕がまだこの家にいるころにはなかったものだ。
「なんだかんだで母も疲れたんだろうな」
そう思いながら眠る母にブランケットでも掛けてやろう、と近づいたその時、僕の目があるものを捉えた。
母のお腹のあたりで両手を振り上げているそれは、やけに色が白いカマキリだった。

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