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最後の浮世絵師、月岡芳年の魅力①

幕末から明治にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」とも言われる月岡芳年は現代でも大変人気があります。
彼は卓越した画力だけでなく、私たちでも理解しやすく感じるような現代的表現力も持っていました。
それは日本の芸術の特徴でもある「様式美」というよりは、リアルさや躍動感、迫真性といった、現代人の感性にも刺さりやすいものなのです。
今回はいくつかの作品を眺めながら、そうした芳年の魅力を見ていきたいと思います。


歌川国芳の弟子、月岡芳年

月岡芳年は天保10年(1839)に江戸の武士吉岡家の次男(本名:米次郎)として生まれたらしいのですが、その後親戚の家に養子に入っています。
のちに大叔父であり画家でもあった月岡雪斎より月岡姓を受け継ぎました。
12歳で当代の人気浮世絵師・歌川国芳の門を叩いています。

師匠の国芳も大胆な作風の浮世絵師で、現代でも人気のある浮世絵師です。

歌川国芳『相馬の古内裏』弘化2~3年(1845~1846)

ですが時代は幕末です。価値観や感性が江戸時代から大きく変わろうとしており、芳年もそれまでに無い画題や作風を模索していきます。
明治に入って神経衰弱を患ったりしながらも新時代の浮世絵を牽引した芳年でしたが、再び精神の病を得て明治25年(1892)に54歳で亡くなります。

自らも常に新しい画風に挑戦していた芳年でしたが、弟子たちにも浮世絵だけでなく洋画も学ぶよう勧めるなど、大きな時代の変化を正面から受け止め続けた生涯でした。
正統な浮世絵と呼べるものは彼の時代が最後と思われますが、彼の系譜から新たな美人画家や挿絵画家が生まれてくるのです。

月岡芳年 明治15年(1882)

“月岡”芳年、登場!

作品を発表し始めた芳年ですが、最初は“吉岡”芳年と名乗っていました。
後に“一魁斎”芳年と改め、明治5年頃までこの画号を使っています。
そして慶応元年(1865)の作品に初めて“月岡”芳年の画号も使われます。
これは同年7月に2歳の娘を亡くしたことがきっかけとも言われ、この時期に本姓も月岡に改めます。

この年に発表されたのが『和漢百物語』です。
それまでは師匠“国芳”風の作品を描いていた芳年ですが、この作品あたりから彼の個性が強く表れてくるように思います。

『和漢百物語』登喜大四郎 慶応元年(1865)
妖怪が出るという噂の寺を登喜大四郎が訪ねると、そこには異形の者たちがたむろしていました。
大四郎はその中の“仁王”に掴みかかり、投げ飛ばしてしまいます。
複雑な構図もさることながら、仏像の妖怪の姿に私は80年代のアニメを思い出してしまいます。
『和漢百物語』主馬介卜部季武 慶応元年(1865)
夜道を歩く卜部季武の前に産褥死した女の妖怪「産女(うぶめ)」が現れます。
この妖怪は道行く人に「この子を抱いてくれ」と言って泣くそうです。
芳年が娘を亡くすのはこの絵の後なのですが、思うところがあったのでしょうか?
彼は後年、再度素晴らしい「産女」の絵を描くことになります。

『血みどろ絵』 芳年、疾風怒濤の時代

月岡芳年と言えば『血みどろ絵』と言われるくらい芳年には凄惨な場面を描いた画家のイメージがあります。
かつて三島由紀夫らが芳年のそうした表現を愛し、美術雑誌なども芳年のサディスティックな作品に焦点を当てて紹介しました。
私も芳年を初めて知ったのは美術雑誌の「猟奇的な浮世絵」みたいな特集だったと思います。

でも彼がいわゆる血みどろ絵を描いていたのはほんの短い期間で、元治元年(1864)から明治2年(1869)までの6年間のみとも言われています。
この時期は幕末・維新の激動が最も激しかった時代であり、血みどろな事件は日常的な話題でした。
そうした時代の空気が芳年の作品に影響を与えていたのかもしれません。
また、これらの絵にはまだ江戸時代らしさが残るものの、題材や人物のポーズ、描き方にそれまでの浮世絵にはない大胆さがあります。
この時期の芳年はまだ二十代でした。若い情熱が変動の時代の空気を吸って、激しく斬新な表現を試しているような感じがします。

『英名二十八衆句』直助権兵衛 慶応3年(1867) 『東海道四谷怪談』の一場面。
岩の妹で人妻の袖に横恋慕し、夫と間違えて別人を殺してしまいます。
血が濃淡二色の赤で描かれるという手の凝りよう。激しく争ったことを示す手形がリアルです。
『魁題百撰相』冷泉判官隆豊 明治元年(1868)
戦国時代、周防国の大名大内氏が滅ぶ際、家臣の冷泉隆豊も切腹して果てます。
現実に切腹したのと同じように内臓をはみ出させたり、唇を青くしたり、
瞳に星を入れたりという写実性がむしろ生々しい残酷さを感じさせます。

ですがそうした作風は芳年の作品の全てではなく、むしろ彼の本当の魅力はこの後の時代のもっと緻密で現代的な表現にあり、それは既に『魁題百撰相』にも表れていました。

『魁題百撰相』井上五郎兵衛 制作年不明 彼もまた大内氏の家臣。
敵を待ち構える姿勢を真正面から描き、視線だけを横に向けるという独特な構図。
右手と刀の柄に隠れた顔から目だけが覗く緊張感はまるで映画を見るようです。
『魁題百撰相』滋野左ヱ門佐幸村 明治元年(1868) いわゆる真田幸村です。
負傷した兵をいたわる幸村の表情には一人の人間の“心”が描かれています。
芳年は新たな「肖像画」に到達したのと同時に、過去の歴史に血を通わせる
日本独自の「歴史画」「物語画」を切り開こうとしていました。

ここには従来の浮世絵からは感じ取りにくかった「生きた人間の息遣い」のようなものが表現されています。
また描かれた場面が、構図や人物のポーズによって見る人にとても意味ありげで劇的なイメージを抱かせるように、巧みに計算されています。
そしてそれは現代の画家の新作と言っても十分に通用しそうなほどの魅力を持っているのです。


今回はここまでです。
まずは幕末までの芳年の作品をご紹介しました。
次の記事では明治に入って一層画面をリアルに表現していく芳年を見ていきます。


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