私が「家事」を積極的に行う理由
週末は家族と過ごしていました。運動会で応援したり、お誕生日会をしたり、ランチを食べに行ったり、スーパー銭湯でゆっくりしたり。それなりに濃い2日間でした。もちろん朝活?的ないつものルーチンも欠かさず。ランニングと英会話、そしてnoteも休まずアップデートしています。
そしてもうひとつ自分に課していたこと。それは「家事」です。皿洗い、洗濯、風呂掃除。本当はトイレ掃除もしたかったのですが、最低限の家事をこなしました。おかげでぐったり。それでも気持ちは晴れ晴れ?というか心地よい疲労感を味わいながらの帰路、新幹線の中でnoteを更新しています。
東京で単身生活。妻には子育てや町内の雑事などで苦労をかけています。生活費を送っているからそれで事足りるとはもちろん思っていません。だからこそ、帰省したときはできる限り家事を手伝っています。
と、ここまでで止めておけば「いい夫」という印象を皆さんに与えられますが、それではおもしろくありません。「見返り」を期待している。そんな下心があると言ったらどうでしょう。正直に告白すると私は、この「見返り」を強く意識して家事を手伝っています。
心理学で有名な「返報性の原理」 営業を生業としている私はこの原理を多用しています。人は先に与えられると、お返しをしたくなる心理。無料招待や試供品の提供は、皆さんもどこかで受けたことのある恩恵かもしれません。そして、受けた恩恵に気が緩み、関連商品やサービスを有料で購入した経験がある人も、多くはないにしても少なくもないと思われます。
いうまでもなく、無料サンプルを試した結果の納得、得心をもって正規品を購入したのであって、決してだまされたわけではありません。ですが心理的な作用として「返報性の原理」が皆さんの行動に少なからず影響を与えた可能性はあると思います。そして妻に対する私の「家事手伝い」も、そんな心理を期待してのこと、と言ったら引かれちゃうかもしれません。
でも、よくよく考えてみると、妻からこれ以上どんな物質的見返りを期待するのか、思いあたりません。腕時計?財布?車?などへの興味は皆無。一般的に「贅沢」といわれることに執着がないのです。では、期待する「見返り」とはいったいなんなのでしょうか?
家事をすることが「自己犠牲」ではないことは論を俟たないこと。個人的な利得がなんなのかもよくわかりません。私にとっての見返りは「他者志向性」にあり、自分の取り分を心配するのではなく、みんなの幸せのために高い成果を出すこと。家事を手伝うことによって家族のみならず、自分が認識する「意義」に向かって仕事をする自分自身を助けている、という考え方です。
仕事とはいったいなんのためにするのか。
その意義を考え、自分が住みたいという世界をつくる。利他的に振る舞えば振る舞うほど、人間関係からさらに多くの恩恵が受けられます。人を助け始めると、評価がどんどん高まり、自分の可能性の世界が広がります。「何かを手に入れたい」という目的だけでネットワークをつくろうとすればうまくいかないでしょう。意識するアプローチは広範囲。利益を求めていなくても、利益がもたらされる可能性が高くなります。家族も同じ。「恩」がどのように返ってくるかなんて現時点でわかるわけがありません。家事をこなすことは他者志向性の一つ、ということになります。
弱い紐帯(ちゅうたい)の強さ
社会ネットワーク理論にはこんな言葉があります。1973年に米国の社会学者、グラノヴェターさんが論文で示した仮説。価値ある情報の伝達やイノベーションの伝播は、家族や親友などの強いネットワークよりも、ちょっとした知り合いや知人のような弱いネットワークが重要であるという理論です。
ネットワークは自分のためだけにつくるものではなく、すべての人のために価値を生み出す道具。家族は「強い紐帯」ですが、強い弱いの区別なく、常に「与えるチャンス」を伺っている私。与えることは「感染」します。ギバーを心がけていれば、自分の周りに「与えること」を当たり前にでき、コミュニティ全体の利益を大きくできるはず。小さな犠牲でネットワーク全体が得をするようになれば、他のメンバーも同じことをしようという気になるというものです。
ひねくれた性格の私らしい?家事手伝いをする理由。要は、「恩を売る(与える)」ことは、自分の身の回りの世界を豊かにできると信じているということです。家族も、そしてもちろんビジネスパートナーや知人、友人も含めて、常に何かしら、個人のできる範囲で貢献しようという思いは、回り回っていつか、自分に返ってくると信じています。
久保大輔
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