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自分が本当にやりたいこと、それは世の中にとっていいことかどうか?


「まじめに働けば豊かな生活が」

高度経済成長期の日本には、
大きな物語」がありました。

勉強して大学を出て、
就職してまじめに働けば、

テレビが買えて、車が買えて、家を建てて、
引退後は年金でのんびりと過ごす。

誰もが夢見て、
そして実現できるという期待。

「大きな物語」は人生の羅針盤でした。

そして現代社会は、
そんな物語が失われたと言われています。

年功序列や終身雇用
を信じる人は少なくなりました。

年金不安というより、
年金に頼らない生き方を模索するようになりました。

70歳になっても、80歳になっても、
「稼ぐ力」をもって力強く生き抜く術。

それを手に入れるために、
「今」を懸命に生きるようになりました。


■そして同時に、

承認不安」という問題
を抱えるようにもなりました。

社会共通の目標が薄れてしまったことで、
自分の存在意義や考え方が

「本当に正しいのか?」

を図るモノサシが不透明になりました。

自由を与えられた私たちは、
多様性という世界に身を置くことになり、

他者との比較という
厳しい時代を歩んでいます。

「こうすべきだ」「こうしておけば大丈夫」
という常識、

つまり「いい大学、いい会社」
というをコンパス頼りに生きていけばよかった

「恵まれた時代」とは打って変わって、
今は何が「正解」なのかあいまいになりました。

自由を得たことで逆に孤独になり、
相対化に苦しむ人も少なくありません。

「何をすれば周囲に認められるのか」
「どうすれば生きている意味を実感できるのか」

その方向性の解像度が
極めて低くなってしまいました。


■そんなとき

どうしても迎合してしまいがちな
「身近な人たち」

彼らの承認を得ることが
唯一の拠りどころだと勘違いして

場の空気を読んで、
与えられたことを忠実にこなし、

良好な人間関係をつくるために
柔軟に相手の言動に合わせたり。

自己を抑制せざるえず、
「本当の自分」は影を潜めます。

形骸化した社会共通の価値観。

自分の行為に価値があるのか、
それを確かめる参照枠がない
以上、

誰か適当な人間に確認してみるしか
道はなくなった…

そんな誤解がけっこう
蔓延してしまっている気がします。

それはあたかも
第一次世界大戦後の西欧諸国が

やっとのことで獲得した自由を捨て
全体主義に傾斜していったように。

まるで自分で自分を縛るように、
生きづらい世の中になりました。


■自由と承認。

自由に生きれば、
身近な人の承認が得られず、

承認を求めれば不自由に。

そんなとき考えたいのは
「まず自分がどうしたいのか」

納得した「答え」を導き出すことが
重要だと思っています。

そしてそのうえで、

自分のしていることが
ほんとうの気持ちに見合ったものかどうか、

過度に感情や欲望を
抑えつけていないかどうかを見積もる必要があります。

自分の欲望と不安。

その正体を明らかにして、
納得いく判断をしなければなりません。

さらに、

そんな「ありのままの自分」を
受け入れてくれる他者の存在も必要不可欠。

承認不安による葛藤の全体像を俯瞰して、
先入観や主観を排除して

冷静に評価してくれる他者に
評価を仰いでみてください。

あとは、

自分なりの「あり方」は
道徳的観点において問題ないかどうか?

タイガーマスク運動が
かつて世間を賑わせましたが、

誰もがその価値を認めるような行為は、
世間の評価(賞賛)を集めました。

直接誰かに承認されなくとも、

「自分は価値あることをしている」

と思えることが大事。


自分の目指すべき将来像。
やりたいこと、あるべき自分。

それは社会に貢献するものか?
世の中の役に立つことかどうか?

これからも自問自答を繰り返しながら
自分探しを続けていこうと思います。


今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。

それではまた明日。
おつかれっした!




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