今あるもの(常識)と新しい価値(非常識)を統合する
オンラインサロンが、
地域や会社に代わる、
次世代の「家族的な場所」
として機能するために、
場に集まる人々に対して
クラブはどう振る舞うべきか。
課金という対価を
どのように捉えるべきか
について昨日、考察しました。
まとめた内容を振り返り、
総じてあらためて思うのが、
現在のサッカー界の常識からは
かけ離れているという印象。
そしてロジカルというより、
エモーショナルな側面も多くて、
しっくりと腹落ちしないのは
書いている私でさえ思うところでもあります。
それでも、
サッカーとは関連のない書籍を手に取り、
サッカーとは関連のないビジネスで
大成功をおさめている人の話を聞き、
こうやってnoteで毎日
アウトプットをしているとどうしても、
今風のクールな論理的思考から
少しズレた「考え方」が、
ひょっとしたらひとつの方向性として
通用するのではないか、
もしくは、
今までにない新しい価値として受け入れられ、
変化と改革を起こせるのでは?
というちょっと思い上がりにも似た期待が
脳裏にへばりついて離れません。
■常識と非常識を統合するアイデア
サッカークラブはこうあるべきだ、
というテーゼ(命題)が
今のサッカー界の常識だとすれば、
私が書いているようなことは
アンチテーゼ(反命題)となる。
例えば、
漏洩による独自資産の毀損、
という問題を回避する情報統制は、
仕組みとしてあった方がいい
という現在の「常識」に対して、
「共創」という「非常識な」概念が
アンチテーゼ。
では、両者を統合するような
命題(ジンテーゼ)は考えられないだろうか?
戦後の集団就職によって減少した
「村落共同体」が、
ソーシャルメディアに形態を変えて
発展的復活を遂げる、
という提案は以前
noteでも書きました。
同じように例えば、
「寺子屋」で勉強する人は、
年齢制限がなく、多様な学びを享受できましたが、
明治維新以降、
富国強兵の大号令の下、
年齢ごとに、画一化された教育を施し、
近代化に貢献する人材を効率的に大量生産する仕組み
として「学校」が開発されました。
現在では、インターネットを活用した
「寺子屋×学校」のような、
誰もが一定の教育を受けつつ、
より高度な学びも希望に応じて、
年齢に関係なく
いつでもどこでも自由に受けられる環境
が整いつつあります。
■他所の情報が無意味化する世界
このように見ていくと、
スポーツクラブの経営におけるジンテーゼ
が提案されても、それはそれで発展的で、
あってもいいのでは?
と考えられなくもない。
そして本noteでも散々書いてきた、
「ビジョン」を持つことと、
「オンラインサロン」
という環境がジンテーゼの核になると思っています。
ビジョンとは、
「クラブが実現したい世界」であり、
「ファンに提供したい価値」でもあります。
クラブAは北に進むけど、
クラブBは南に、
クラブCは東に向かうけど、
クラブDは西に。
それぞれが独自に思考し、
言語化されたビジョンは、
原理的に考えて、
他クラブと重なる余地は限りなく少なくなります。
そんな前提を踏まえたうえで、
オンラインサロンという
「ほどよく閉ざされた空間」で
ファンとクラブがいろんな情報をシェアする。
仮に他クラブの関係者が
スパイとしてサロンメンバーになったとして、
情報が搾取されても
問題にならないと考えるのは、
「そもそも進む道が違うから」
とうことになります。
勝敗によって生活が左右される
選手や現場スタッフを考慮すれば、
試合に関する情報については、
すべてを開示するわけにはいきませんが、
経営情報や数値について
必要以上に隠す理由が見当たりません。
サロンメンバーが
サロン内の情報をブログなどで外部に垂れ流すとうい
常軌を逸したルール違反
は論外ですが、
サロン内で情報を共有する弊害は、
以上の通りそれほど
神経質に考える必要はないのかもしれません。
■常識に無批判は「悪」を引き起こす
もちろんいろいろな問題
はあるかもしれません。
VUCA化が加速し、
何が起きるか分からない世の中で、
仮に完璧な論理で構築された
仕組みであっても、
どこでほころびが発生するか
誰も予想できないからです。
しかしながら、
現行の仕組みや常識を所与のものとして、
そこでいかにうまくやって成果を上げるか、
という思考ではなく、
常識は当たり前ではない、
という批判的な思考のもと、
いかに仕組みを変えていけるか、
という姿勢は、
今までにない価値を創造する
という意味において、
積極的に受け入れてもいいのでは、
と思わなくもありません。
クラブの一方的な価値の押しつけは
「悪」ではないのか?
という歪んだ見方をしてしまう私。
「エルサレムのアインヒマン」よろしく、
主体的に、
そうしようとして犯す悪ではなく、
システムを信じたがゆえに、
意図せず受動的になされる悪、
それによる、凡人による
大量虐殺という悲劇があったり、
ジェンダーバイアスから解放されていると信じ、
無自覚に、まったく悪気なく
性差別を行ってしまうことによって
なかなか解消されない女性の社会進出問題もそう。
たとえがあまり適切ではないかもしれませんが、
誤解を恐れずに言うと、
現在の常識やルールやシステムや仕組みを、
無批判に盲目的に信じて、
それに従って真面目に仕事をすることが、
ときに大きな、
価値創造の機会損失という悪を招きかねない。
そんな怖さを感じてしまうことが
少なくありません。
だからこそ「共創」の提案を
繰り返している、と言えます。
■まとめ
何が正しくて、
何が正しくないのかは誰も分かりませんが、
今の常識の範疇で、
成果を上げるための「正解」の
たたき売りに参加するのではなく、
コモディティ化する「正解」に
そもそも需要があるのか、
について懐疑的に考察して、
どこに問題があるのか、という視点で
問題提起できれば、と思っています。
より多くの人、書籍、情報に触れ
何があるべき姿なのかについて
これからも考え続けていきます。
※本稿は以下文献を参考にしました。
武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50(山口周)
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