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自分の「あり方」を育む教育とは?

過去、2回転職をして3つの会社に所属。今はフリーですが、サッカークラブとのコンサル契約を結んでいるので、一企業に出入りしています。都合4つ目、さらに前職でコンサル契約を締結した横浜FCを含めると5つの企業に関わってきました。そしてひるがえって考えてみると、いつも「前例」に疑問を抱いていることに気づきました。

前例、つまり当該企業で行われている仕事です。長らくの慣習である場合もあれば、前任者の提案で新しくなった仕組みもあります。いずれも私の視点からするとなんら違いはなく、先入観なく観察することができ、それらに対して何らかの疑問や意見を持つ。そして私なりに提案をしてきました。

つねに現状に異議を唱える私のような人は、「結果の論理」ではなく「妥当性の論理」を使います。つまり結果を予想するのではなく、自分のアイデンティティと向き合っているということ。自分がどういう人間であり、どうなりたいのかがある程度明確にあればそれは、疑問を持ち、決断し、結果の責任を負うための基礎になります。「妥当性の論理」に基づくと自由になれると思います。

オリジナル。そういうとちょっとかっこいいですが要はエゴイストで、私はそっちのタイプだと思います。そしてオリジナルな人は比較的リスクテイカー。周囲が自主性を尊重してくれたり、守ってくれたりしてくれるからこそ備わる属性です。

子どもが、何かを壊したり、無くしたり、人様に迷惑をかけたり。そんなとき親は怒るのではなく「何が悪かったのか、その理由を説明」することで価値観が育まれていきます。しっかりと説明することで子どもは自分なりの倫理観をつくり上げていきますが、それが社会の求める倫理観と重ならないとき、子どもは外部のルールではなく、内なる価値観に沿って判断するはずです。

子どもには自由を与え、同時に自分の行動が他者にどういう影響を与えるのかを説明し、正しく道徳的な選択をすることで人格が磨かれていくことを言い聞かせる。心のなかにある創造性を、逸脱した行動ではなく、道徳的な行動や前向きな行動で表現する可能性が高くなると思われます。

集団思考は人々が、「同調した集団に深いかかわりあいを持つ」とき、また彼らの「同調しようという気持ちが、代替え案となる行動を探そうという動機を上回るときに起きます。そういう人々は社会的には、特に日本においては、協調性があり、「いい人」という評価をされると思いますが、上述した「オリジナル」に照らし合わせてみると「自分のあり方」に乏しいとも言えます。もう少し踏み込むと「責任を取りたくない」と言えなくもありません。

私はミスばかりしますし、何か大きなことを成し遂げたこともないので偉そうなことは言えませんが、周囲に同調するよりも、自分の価値観を優先させる傾向が強く、今までそういう生き方をしてきました。そして今を楽しく、前向きに明るく生きることができるのは、私のエゴイスティックな属性の賜物であると思っていますし、そんな性格に育ててくれた周囲の人たちに感謝もしています。

我が娘たちにも、自分自身の倫理観や価値観を大事にするような人間に育ってほしいと思っています。そしてそうなるよう教育できているかどうかふと考えてしまい、まとめてみた次第です。

久保大輔




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