声なき声を探して 〜『赤目』の女性たちが生きた時代
2024年1月11日(木)〜18日(木)
座・高円寺1にて、明後日の方向 行き先を探すための公演#3
『赤目』『長い墓標の列』二作品上演に参加させて頂きました。
演出は黒澤世莉さん。
私は斎藤憐作『赤目』に出演しました。
改めて、キャスト&スタッフの皆様、観に来てくださったお客様、クラファンに参加してくださったり、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!
さて、公演が終わってからはすっかり日常の生活に戻り、『赤目』に取り組んでいたあの期間は遥か昔のことのよう。
けれど、働いたり人と会ったり、映画や演劇を観に行ったりと日々の生活を過ごす中、頭の片隅にはいつも「必ず書きたい『赤目』のこと」がありました。
私は言葉を見つけるのに時間がかかってしまうので、アウトプットする頃にはもう誰も興味がないことかもしれないけれど、気づきにはちゃんと形を与えておいた方がいいかな、と思うので書きます。
主に観劇済みの方を想定して書いていますので、戯曲の内容や、今回の公演の演出にもバンバン触れます。
ネタバレを見ても『赤目』は楽しめる作品だと思いますが、「ネタバレしてほしくない!」という方は、KANGEKI XRにて『赤目』の配信をしておりますので、ぜひそちらをご覧ください!(配信期間:3月31日まで)
而立書房さんより戯曲も出ています。
ではどうぞ。
1."早苗の抑圧"について
私は今回、早苗と平太という役をメインで演じた。
このNoteでは主に早苗について書いていこうと思う。
早苗は人形劇の劇団員になるため、秋田から上京してきた18歳の女性。
「今回の公演では、彼女の抑圧を描きたい」と、演出を務めた世莉さんは言った。
「黒田三郎が主人公の物語として読みがちだけど、早苗の視点でこの話を読むとどんな物語になるのか?彼女の声なき声(=抑圧)があるとすれば、それはどんな声か?」という問いが投げかけられ、私と座組の”早苗の抑圧探し”が始まった。
さて、座組のメンバーではまず「早苗ってそもそも抑圧されてるのか?」という議論から始まった。
「よ、抑圧が何か探そうとしてる矢先に!」という感じだが、その疑問はとてもよくわかる。というのも、戯曲上の早苗はわりと自分の意志に従って生きているように見えるからだ。
以下は、早苗の初登場のシーン。
初めて観た人形劇に「これだ!!」となり、その場で仲間にしてくれと直談判。おそらく最初は断られたんだろうけど、粘って粘って最終的には小野について東京まで来てしまう。戯曲には書かれてないけど、間違いなく家族にも反対されただろう。でも最終的にはお金まで持たされて送り出される。
いや、めっちゃ自由に生きてるじゃん。
これ以降も早苗は、思いつきで磔茂左衛門伝の改変バージョンを人形劇でやったり、自分が主役を務める公演を蹴ってまで三郎の紙芝居を支えたり等、自分のしたいようにしていると受け取れるシーンが散見される。
自分の行きたい道を行き、言いたいことを言い、やりたいことをやる。私の方が羨ましくなってしまうくらいに。
座組では「抑圧なんてされてないんじゃないの?」という声も上がった。
そうなのかもしれない…と思いつつも、完全には同意できなかった。
なぜなら令和である今現在、女性は抑圧されている。それを感じずに生きるのは正直不可能だ。ならなおさら、戦後の昭和に生きる女性が「抑圧されていない」なんてありえないじゃないか。
活発で、ちゃきちゃきしていて、奔放に見える女性にだって抑圧はあるはずだ。
でも、それを言葉で説明することはなかなかできなかった。
ある日、戯曲を読むことに疲れて、登場人物の名前が一覧で書かれているページをぼーっと眺めていた。
そうしていると、ふとあることに気が付いた。
「『赤目』に出てくる女性って、”誰かの奥さん”しかいなくないか?」
作者が女性を想定して書いているであろう人物は以下の通り。
・早苗
・妙
・加代
・吉やんの奥さん
・事務員
妙は松造の奥さん。加代は茂助の奥さん。吉やんの奥さんは文字通り、吉やんの奥さん。(※吉やんの奥さんに関しては名前すらない。まじ憤慨。)
他にも人物一覧には記載されていないが、紙芝居や人形劇のシーンに登場するおぎんは茂左衛門の奥さんであり、弥助にも亡くなった奥さん(=平太の母)がいる。
そして早苗。
彼女は一幕までは独身だが、三幕では黒田三郎の奥さんになっている。
事務員は既婚かどうかの描写がないので外れるにしても、百姓等を含め登場する女性がほぼ全員誰かの奥さんなのだ。
つまんな。
いかにも昭和の男性劇作家が書きそうなバリエーションのない人物設定だ、と思ったところではたと気づく。
待てよ。これは戯曲の中だけの問題だろうか?
「この構造がそのまま、早苗の生きる世界だったとしたら?」
女性が必ず誰かの奥さんになる世界。
それが当たり前だと誰もが思っている世界。
それらは実在していなかっただろうか?それもつい最近まで。
早苗は昭和14年生まれであることが戯曲上の情報で分かる。
昭和14年は第二次世界大戦が始まった年。その後昭和16年には太平洋戦争が始まり、昭和20年に日本は敗戦し終戦を迎える。その時点で早苗は6歳。
厚生労働省が発表している「婚姻の推移」のページを見ると、終戦直後の昭和22、23年の「第1次婚姻ブーム」には結婚件数が95万組(!)に達している。26年は67万組に落ち着くが、その後は30~40年代にかけて上昇の一途を辿っている。
早苗のまわりに生きていた女性たちはどんな人だったろう。
母や祖母、親戚はいくつで結婚し、家ではどんな振る舞いをしていたのか。
昭和初期なんて、20歳を過ぎても未婚なら”行き遅れ”と言われるような時代だ。故郷とも家族とも、それまで名乗っていた自分の苗字とも別れ、”家”から”家”へと移動する。常に立って忙しなく働き、何をするにも男性が先、自分のことは後回し。
ご近所さんからはなんて呼ばれていた?「〇〇さんの奥さん」と呼ばれていたのではないだろうか?
抑圧とは、力づくで押さえつけられる姿のことだけを言うのではない。
誰もが当然のこととして、暗黙の了解として受け入れている構造そのものが、誰かの選択の自由を無意識のうちに奪っていること、そしてその構造がなんの批判や反省もなしに受け継がれていくこと。我慢している自覚すらなく、窓のない部屋の中にいながら「私は自由に生きている」と感じていること。
それこそが抑圧を内面化している姿であると私は思う。
早苗の生きる世界を想像してみる。
まわりの「奥さん」「お母さん」たちが、居間と台所を行ったり来たりしている。お役人さんや軍人さん、先生と呼ばれる人たちはみんな男の人。「○○さんの旦那さん、戦死されたそうだ。△△さんのお嫁さんに"直し"たらどうだ」「22にもなってまだもらい手が見つからなくて…」そんな会話が聞こえてくる。
家にテレビはない。秋田から外には、まだ出たことがない。
そんな世界を見つめて生きる女の子が思い描く将来の自分とは、どんな姿だろうか。
登場時の年齢は18歳。高校を出た後は、どんな進路が予定されていたのだろう。
ある日彼女は、東京から来たという人形劇団の公演を観る。
初めて観る人形劇、その中には女性の劇団員もいる。
今まで思い描いていた将来に、新しい姿があらわれた。
「誰かの奥さん」しか知らない彼女は、居ても立っても居られなくなった。
2.「女の子の紙芝居なんておかしい」
少し話は変わるが、『赤目』の主人公である三郎は、明確に「女性ってこうでしょ」という価値観を持つ人物である。
とか言ってしまうやつである。
「は?女であること関係ないが??」と詰めたい気持ちでいっぱいだが、私にとって印象的だったのは、ここではない別のシーンである。
「女の子の紙芝居なんておかしい」という三郎の意見は、今の感覚からすると間違いなく差別的。だが、彼はなぜそんな考えに至ったのだろう。
三郎が頭の固い、偏見の持ち主だから?彼個人が”ひどい人”なのだろうか?
答えはもっと単純で「女の子の紙芝居屋を見たことがないから」だと私は思う。
昭和の街頭紙芝居屋は、子どもたちに紙芝居のおじさんと呼ばれる通り、主に敗戦によって戦地から帰ってきた失業者の男性がつとめていた。
紙芝居は描くも語るも男性たちのものであり、女性がやるという考えがそもそもなかったのだ。
社会のあり方は、個人の価値観に絶大な影響を及ぼす。
女性の紙芝居屋がいない世界では、女性の紙芝居屋を見ることはもちろんない。その状態が続くと、人々はやがて女性は紙芝居屋になれないと思うようになっていく。なぜなら、存在したことがないから。見たことがないから。
「女性がやる」という発想自体が生まれなくなる。
そして個人の価値観はそういった社会のあり方をより強固にし、規範として形を変えて人々に定着する。まるで大昔から存在していたかのように。
それは創作という世界においても例外ではない。
人間を描くことと、社会を描くことは切り離すことができない。
戯曲だけでなく漫画やアニメ、映画等においても、その中に出てくる女性の職業、振る舞い、まわりの関わり方。その描かれ方は受け取り手の「女性像」に影響し社会に共有され、そこから生まれた新たな作り手が自分の見たことがある女性像をもとに女性を描く。
決して止まることのない循環の中を、私たちは生きている。
今日目にする、様々な分野で活躍する女性たち。
女性の小説家、女性のマラソン選手、女性のファッションデザイナー、女性の政治家。
彼女たち自身ですらその存在を見たことがない時代に、男性と同じことをやり始めた女性。「そんなのおかしい」という声にかき消されなかった彼女たちの行動が、社会のあり方を変え、そこに生きる個人の考えをも変えた。
存在するという事実そのものが、これほどに大きな意味を持つのだ。
早苗にとってはそれが人形劇だった。
自分の中にあった将来設計の規範を壊してくれた、新しい可能性。
誰かに望まれたからでなく、自分が望み、歩むと決めた道。
一幕の終わり、早苗はその道を諦める。
そして三幕で再び登場した彼女は「三郎の奥さん」になっていた。
3.本当に「誰かの奥さん」になりたかったのか?
戯曲上で、早苗が三郎への好意を口にする描写は、実はない。
「三郎を支えたい」「自分がいないと彼はダメになる」と考えていることは彼女のセリフや行動からわかるが、それは三郎に好意があるからなのか、才能あるアーティストを守りたいからなのかは解釈の余地がある。
もちろん両方の気持ちがあることも考えられる。
ただ私が興味を持ったのは、仮に早苗本人の意図が後者だったとして、周囲の人々は早苗をどう捉えるのか?ということである。
早苗と三郎は一幕から共同生活をしている。
初めは吉やんもともに暮らしていたが、彼が去った後は2人きりになる。
男女がひとつ屋根の下に住み、女性が男性の芸術活動を支えるために働きに出たり、家のことをやったりする。そんな2人の姿を見て、近しい者たちはどう思うだろう?
おそらく「一緒になったら収まりが良い」と思ったのではないだろうか。
でもその収まりの良さって、誰にとって?
早苗が男性だったらどう見えるか。
アーティストとして置かれている生活の苦しさに共感を覚え、「彼には才能があるんです!」と自分のキャリアを捨ててまで、生活のやりくりや営業活動を一手に担い同居人を支える。
兄弟愛というか師弟愛というか、良き相棒の物語として語られそうだ。
しかし女性となると、なぜかそうはいかなくなる。同じアーティストだとしても。
異性同士であること、そのものに意図せずとも意味を見出されてしまう。
誤解される恐れがあるので書くが、私は早苗が嫌だけど我慢して結婚したと思っているわけではない。むしろ、望んでそうしたと考えている。
私が言いたいのは、「男性アーティストを女性が支える」という目的を叶えるために、結婚する以外の選択肢を早苗は知っていたのか?ということだ。「誰かの奥さん」である女性ばかり見て来た人が、結婚以外の形で男性を支える女性を思い描くことができただろうか?そんなロールモデルは存在したのか?
そして、周囲の人々は別の選択肢を知っていたか?
当人の意思に関わらず結婚する時代、仮にその選択肢を選ぼうとした時、彼らはどんな反応をするだろうか?
「誰かの奥さん」しかいない世界で育ち、自分の夢を叶えるため飛び出したその先で、夢を諦め「誰かの奥さん」になった。公私ともに支え続け、旦那さんとなった三郎はいまや売れっ子漫画家。次々に仕事が舞い込み、生活にも余裕ができた。万事丸く収まった。自分は幸せだ。
なのに、かつて同じ劇団の仲間だった小野が訪ねて来たことをきっかけに、ふと疑問が浮かぶ。
「私が本当にやりたいことって何だったっけ?」
「あの時はああするしかなかった」と言う早苗への、「お前が選んだんだよ」という三郎の指摘は、間違っていないと私も思う。
三郎も周囲の人々も、何かを無理強いしたわけではない。「人形劇を辞めろ」とか「三郎と結婚しろ」なんて言った人は1人もいない。
しかし、すべて早苗の自己責任であると考えるのはフェアじゃないのではないか。
いくつかの分岐点で、早苗は三郎と一緒にいることを選び続け、結果として自分の夢を諦めることになった。
そうならないためには、紙芝居を描き続ける三郎を見捨てる必要があった。
でも早苗はそうしなかったし、できなかった。彼女のパーソナリティがそうさせた部分もあるが、昔の仲間だった長さん、吉やん、小野、河西先生がすでに三郎のもとを去っていたことが一番の要因だと思う。
「自分まで離れたら、”描く”ことしかできないこの人は絶対に立ちいかなくなる。下手したら死ぬ」
共同生活を通して三郎の置かれた現実を間近で見てきたからこそ、決定打になるような選択はできなかったのだと思う。
それは早苗個人として、確かに望んだことだ。
でも同時に、アーティストの早苗として望んでいたことは、手放すことになってしまった。そのくすぶっていた思いに気が付いた時、それが第三幕のあのタイミングだった。
それに対し「なんで今さら」とか「自分の軸がブレブレだ」という反応を示すなら、それは早苗よりももっと前に去っていったキャラクターたちにも同じように投げかけられるべきではないのか?
ここまで辿り着いた時、声になっていない声が、確かに聞こえた。
「私に決めさせてほしい。本当の意味で。」
冒頭に書いた”早苗の抑圧探し”。
早苗の抑圧とはいったいなんだったのか?
人生の選択において、基になるロールモデルがそもそも少なく、強固な価値観と規範が存在する中、選んだことはすべて自己責任となり、失敗や後悔、やり直したいと願う気持ちすら批判される。
自分が持つ選択肢を、自分以外のものに決められている。
そのことに誰も気づかない。
これが、私が聞いた早苗の声なき声、すなわち抑圧である。
作品を通して伝えることができたかどうかはわからない。
でもこの声なき声を心の中で響かせることは、早苗として生きる原動力となって、私を支え続けてくれた。
ラストシーン。
三郎は完結したはずの『赤目』の”その先”を描き始める。
現実と漫画の世界が交錯し、松造(=三郎+吉やん)は仇の信直(=小野)、さらには仲間であった平太(=早苗)をも斬り殺す。
狂う松造。描き続ける三郎。
現実世界で目覚めた早苗は、平太が持っていた短刀を手に三郎の背後に迫る。
逡巡した早苗は、ゆっくりと短刀を床に置く。
そして三郎とは反対の方向を向き、歩き出したところで幕は閉じる。
それが何を意味するのかは、観てくださったお一人お一人に委ねたい。
ただ、早苗が何かを選択したことは確か。
その選択がどんなものであればいいのか思いを馳せる時、今まで聞こえていなかった誰かの声が、聞こえてくるかもしれない。
4.結びに~個人でありつつ、誰かと生きていくということ
最後に、私自身のことについて少しだけ綴ろう。
2024年現在、早苗が生きていた時代に比べて、充分とは言えなくても選択肢は確実に増えている。独身で楽しく生きている女性のロールモデルもたくさん知っているし、「早く結婚しろ」なんて言う人も私のまわりにはいない。
「誰かの奥さん」しかいない世界でないことは、素直によかったと思う。
この文章を書いている最中「結婚制度を否定したい奴だと思われるかもしれない…」と不安になったりした。
そういうことが言いたいわけでは決してない!
自分の両親の関係性を見ていると素敵だなと思うし、パートナーがおられる数々の知り合いを見ていても、人生を伴走してくれる存在がいるのはとても心強いだろうな、と微笑ましくなる。
私がこれを書いたのは、早苗と同じように自分にも内面化した規範、抑圧があると気づいたからだ。
今のところ結婚する予定はないし、どちらかといえば一人で日々を送っている自分の姿の方が容易に想像がつくし、そうなったらそうなったで全く問題ないと思っている。
けれど。
幼い頃から、男性に助けられる女性の姿を描いた創作物、男性ばかりの意思決定の場、美しく愛想よく可愛らしい女性の振る舞い等、そういった光景をたくさん目にしてきた。それらは間違いなく私個人の価値観や女性像に影響を及ぼしているし、それをもとにした私の行動が、何かの権威を補強することになっているだろう。
結婚が女の幸せだと思ってはいないつもりだ。でも無意識のうちに、誰かに選ばれたいと強く願っている自分がいるかもしれない。男性に好かれるための振る舞いをしているかもしれない。同い年のあの人は結婚しているのに自分はしていないのは、自分のどこかに欠陥があるからだと感じているかもしれない。
「俳優なら、結婚は人生で経験しておいた方がいいこと」だと目の前で言われたことだって何度もある。
私自身も気づかぬところで、選ばれし特別な人だけが享受できるご褒美としての結婚を目指してしまっているのではないか?
ああやっぱり、令和になってもなお「誰かの奥さん」になるプレッシャーからは逃れられないのかな。
誰かとのペアを目指すのではなく、旅の途中で偶然歩く方向が一緒になった人たちと助け合う、というのはどうだろう?
どんなに集団の中で生きていても、自分の人生の選択は最終的に自分がするもの。結婚していたってそうだ。もちろん相手の人生を背負ってもいるが、すべてを相手に決めてもらうわけではないだろう。
日々の選択、小さな挑戦、変わりゆく環境や人間関係の中で、傷ついたり疲れたり、どうしようもなく孤独になる時は誰にだってある。
そんな時、性別や年齢に関係なく、もっと気軽に支え合えたらいいのに、と思う。たまにでいいから一緒に歩いたり、お茶したり、話したり、ただ黙って隣にいたり、見つめたり抱きしめたりゲラゲラ笑ったりしながら、それぞれの道を行く個人として、生きるお互いを応援し合えたらいいのにな。(もちろん相手の同意を得たうえで)
そんなこと言うと、三ちゃんみたいに「女の子なのにおかしい」なんて言われてしまうだろうか。
だとしても。
お互いの存在を慈しむこと、尊重し合うことが、誰かに選ばれたから享受できるものでないといいな、と心から思う。
『赤目』のラスト、早苗はどこかへ歩き出した。
彼女はどこへ行ったんだろう。
もうすぐ春が来る。
私はこれからどこへ行こうかな。
もし長い旅の中で疲れ、誰かの助けが必要になったら、あなたはあなたのものとして、わたしはわたしのものとして、自分の本当に望んだ道を歩いていけるように、生きることを応援し合っていきましょうね。
おわり
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