#60 読書について 自分の頭で考える - ショウペンハウエル

本を読むこと、学ぶことなら、いつでも思いのままに取りかかれるが
これに対して考えることは、そうはいかない

考えることとはどう言うことなのか?
自分が持ちうる知識を可能な限り多くの方向から捉え、総合的に判断すること。
そして、考える動機は内発的動機で行われるのに対して、読書は自分の思索に行き詰まりアイデアが出てこない時のみ行うべきだと言う。

考えるひとは、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、
それは自説を強化し補強するためにすぎない

多読については下記のように批判する

多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。

完全に賛同はできないが、確かに自分の思索なしの読書は意味が薄いのかもしれない。読書についての書籍を読んでみたがアウトプットの大切さを書いた本は多い。
私もそういった書籍に刺激をうけ、このノートを書いているわけだが。特に自己啓発系の書物はアウトプットが明確に書いてある事が多く、そのまま実践に移すことが可能だ。そう言ったアウトプットによって知識や習慣、技能として身につくことも多くこういった類の読書は先に読書があっても自分の身になる事は多い。

ショーペンハウエルのように思索の補完といった読み方はなかなか出来ないが、読書により知識と知識が繋がり、知識が補強されるといった体験もあるし、平野啓一郎が言うようにスローリーディングなど、思索しながら本を読み進めていくことにより、文章や作家へのリスペクトが深まり、その文章の中に込められた意味やメッセージをじっくりと読むことで、当事者へのリスペクトが深まると言った経験も多い。

人生を読書についやし、本から知識をくみとった人は、たくさんの旅行案内書をながめて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。

そう言った意味でこの1文についても、案内書なしで、あれこれ見て回るのもいいが、私は案内書を見ながら、あれこれ見て回り、気になった部分は立ち止まり、思考してみたり、活字にしてみたりするのが性に合っている。

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