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ゲイの生き辛さを知ればボヘミアンラプソディがもっと心に沁みるようになる話②

□さらっとインデックス

男なのに男が好きという絶望
・はみ出しものの処世術: Easy Come Easy Go
・風と交友関係

LGBT英会話のそうしです! 今日もボヘミアンラプソディの歌詞の続きを見ていきましょう! 一回目をまだ読んでない方はまずこちらをどうぞ!

男なのに男が好きという絶望

I'm just a poor boy
俺はただの可哀想な子どもなのさ

歌詞の冒頭でフレディは自身のことを可哀想な少年だと呼んでいる。これは自分が男性同性愛者であるという事実に向けられた言葉だ。現代はゲイという存在が広く知れ渡り、メディアや輝かしい世界で活躍している方も珍しくはない。しかし、この曲を発表された1970年代は違う。現代のように男性同性愛者であることを公表しながら活躍し、世間から喝采をあびるようなスターなどは存在せず、僕たちのような性的少数者は「異常性癖」や「精神病の一種」などのような否定的な言葉と共に語られることがほとんどだったのだ。だから、自分が男なのに男が好きであるという事実を知ってしまった時に、フレディの絶望は想像に難くない。同性愛や異性愛などの性的指向は生まれつきのもので、自分が同性愛者として生まれるか異性愛者として生まれるかは運であり、自分ではどうすることもできないものだ。不幸にも男性同性愛者として生まれてしまったことは、ただただ「可哀想な」ことだとフレディは思ったのだろう。


はみ出し者の処世術: Easy Come Easy Go


I need no sympathy
俺の境遇に同情なんていらないさ
because I'm easy come, easy go
だってEasy Come Easy Goな存在が俺だから
a little high, little low
楽しいこともあれば、悲しくなることもあるから


Easy Come Easy Goとは、「ふらっとやってきて、ふらっと去ってしまう」ことを意味する。フレディは自身のことをEasy Come Easy Goな人間であると歌っていて、それはフレディの交友関係のあり方について語っているのだと僕は考える。ゲイの世界にはサバサバしている人が多い(と思う)。ある特定の人間関係やコミュニティに固執せずに、「来るもの拒まず、去る者追わず」という風に他者と適度な距離感を維持しつつ、色々なコミュニティを渡り歩くのだ。それは他者(特にカミングアウトしていない異性愛者の方々)と親しくなりすぎるとゲイであることがバレ、拒絶されてしまうかもしれないという恐怖と実際にそうなった経験から体得したものだろう。そういう人間関係は、全く楽しくないというわけではなく、喜怒哀楽を共にすることのできる距離感ではあるのだが、ただある一定ラインから先は誰も踏み入れさせない関係だ。Easy Come Easy Goとは、本性を悟られまいと他者に怯え、他者と深い付き合いができない社会のはみ出し者が身につけた処世術なのだ。

フレディもその一人だったのかもしれない。男が好きであることは誰かが解決できる問題ではないし、それは公にできないことだった。「俺はEasy Come Easy Goな人間だから、同情なんていらないさ」とは、他者が自分の私的な領域へ踏み入れることを戒める気持ちと同情では解決できないという絶望や諦めが混ざっているのだ。

風と交友関係

Any way the wind blows
風がどこに向かって吹こうが
doesn't really matter to me.
俺には関係のないことなんだ


この「風」は交友関係を意味している。交友関係は己の願望とは関係無く時間と共に変わっていく。多くの「はじめまして」と「さようなら」を繰り返しながら、新しくできたり、そして終わったりする。付かず離れずの交友関係ならなおさらのことだ。まさに風任せであり、風(=交友関係)がどう変化していくのかは自身にはどうすることもできないのだと、フレディは寂しげに歌っているのだ。

そして次回、フレディは「男」を殺害してしまう。その「男」とは一体。次回はこちらから!

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