戯曲論考②「東京について」

「東京がなければ、この国はなにもできないのだ。この国は脳死状態にある」

 戯曲論考、第2回は「東京」についてです。
 日本という大きな主題から少し視点を下げ、ある一個の都市、この国の中央へとその論考の場を移します。

 「新しいものは東京じゃないところから始まる」。
 そうだとしても、何かが「新しい」ということを判断する基準が「東京」に置かれつづけている以上、そこに何らかの足跡を残す必要がある。いくら地方創生を謳ったところで、誰もが「東京」と関係を結ばなければひとかどものになれることはない。「東京」に飽きて地方に移動してくる(あるいは帰郷してくる)者たちは、消極的反動に駆られたご隠居にすぎず、「東京」で得た余剰資に依存して悠々自適な生活を送る。そうして脱中心を騙るわけだが、一極集中の構造が時間を越えて拡大しているというのが実際のところなのではないだろうか。

 2011年の東日本大震災と、1923年の関東大震災を並置する向きがある。ただ社会構造を揺るがすほどの影響が東日本大震災にあったのだろうか。もちろん、特定の誰か、それも無数の人びとの人生は否応なくねじ曲げられた。それでも2011年以降も東京への一極集中の状況、これは、ほとんど変化しなかったように思える。

 「戦後」を「災後」と言い換える輩どもは、閉塞的な現在において新時代の到来を感傷的に洞察し、その雰囲気を醸し出す演出に加勢しているにすぎないのではないか。東京オリンピックに厭き足らず、大阪万博などと宣い、ノスタルジーに耽る、この、落ち目の先進国。確かに「この国はスクラップ・アンド・ビルドでのしあがってきた」のかもしれない。しかし、こう過去と同じことを繰り返そうとすべきなのだろうか。
 スクラップ・アンド・ビルドというと、まず壊されて、その次に構築が始まると思われるかもしれない。しかし、現代は時間を何よりも敵視し、支配しようとするので、破壊しつつ同時に構築する。その証拠に都市へ出ると、工事現場を見ずに目的地へ向かうことは不可能である。そして破壊と構築を同時に進めることで、過去と現在と未来は重なりそれらの境界線は埋められてしまった。純粋過去は確かに存在したかもしれないが、それは否定することも肯定することも本来ならば許されない。過去を推論することでようやく歴史が現れる。しかし、それが推論である以上、常にその妥当性・論証性が検討の対象となる。だから「激動の昭和」の裏側に何が隠されているのか、平成は激動ではなかったのか、と問い続けられるわけだし、問わなければならない。消えた時間の境界線を新たに生み出す作業が必要である。
                     2018年11月15日 神田真直


◇公演情報
 Nakayubi.-9「象徴の詩人;My Dad was God.」
【作・演出】神田真直
【キャスト】山根悠、柊木樹、神田真直
【日時】2018年11月23日(金)15:00/20:00
          24日(土)14:00/19:00
          25日(日)13:00
【チケット】前売:1,500円/当日:2,000円
【ご予約】チケットご予約はこちらから
【会場】人間座スタジオ(京都市左京区下鴨東高木町11)
※その他、詳細な公演情報は劇団ホームページをご覧ください。
 劇団なかゆびHP:https://nakayubi.wordpress.com/

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