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わかりやすい、は純粋か

某新興政党の演説動画(文字起こしのバイトをしてみたら、この政党の動画の文字起こしだった)。かなりわかりやすい。すでに知られていることではあるが、わかりやすいものは、受け手にとっては危険か、何の意味もないかどちらかに分かれていくものだ。

演説動画では「グローバル勢力」という言葉が頻繁に使われていた。この「グローバル勢力」というのが至福を肥やすために、純粋無垢な私たち日本人を騙して搾取している、というのが彼らのストーリーのようだ。

この政党にも、それを支持する人々にも興味はない。私にとって関心がわくのは、今挙げたような「わかりやすいストーリー」の部分だけだ。

「わかりやすいストーリー」。ドラマで言うとどんなものがあるだろうか。わかりやすいストーリーを説明するのに、最もわかりやすい例がヒーロー物や少年漫画だろう。これらの物語に触れるとき、受け手は善悪の判断をする必要がない。善悪を判断することはもはや哲学であるから、そうやすやすとできるものではない。善と悪があらかじめ決まっていて、善が悪を懲らしめて終わる。いわゆる勧善懲悪ものというやつだ。

勧善懲悪ものは今も昔も、どの世代にも愛されてきた。それは善悪の判断という人間にとってキツい負担が取り払われているからだ。つまり、楽ちんだからである。確かに、娯楽なのだから、楽をさせろと言われたら返す言葉もない。

ところが、気がつくとヒーローの特撮も少年漫画も、成長するにつれて見る者が減ってくる。もちろん、なんか恥ずかしいということもあるかもしれないが、やがて多くの人が「わかりやすいストーリー」への興味そのものを失う。

社会全体が「わかりやすいストーリー」を求めるようになってきたのだとすれば、これは社会の幼児化といえるのかもしれない。ここでの幼児化とは「自分のことを純粋無垢なinnocentな存在だと思い込むこと」である。身体が実際に幼児化することはない。ただ一方通行に老いていくしかない。生きていくなかで、他人を傷つけてしまうこともあるだろう。多かれ少なかれ人は業を背負うハメになる。人間は誰しも被害者であると同時に加害者である。もちろん、言語に絶するような不幸に遭うこともあるし、逆に誰かを不幸のどん底に突き落とすこともあるだろう。いかなる人生の状況もニーチェが言うような「私がそう欲したのだ」として引き受けるには、この世界はあまりにも不条理ではないか。

世の中は複雑怪奇である。一筋縄で理解できるものではない。だから誰しも途中で目の前の自分にかかわるようなこと以外、考えなくなってしまう。そして、それがこの世界のすべてだと思うようになる。投票に行かない人というのは非常に人間的である。投票に行くような人の方がなんだか狂信的に見えるのは、彼らが目の前のことよりも、もっと遠くを見ているからだ。視野の広い/狭いではない。ピントをどこに合わせているかの差でしかない。もしかすると、投票に行く人たちは、目の前が見えていないといえるのかもしれない。

そんなことを言いつつ、これまでずっと私は選挙に行ってきた。理由は現在の社会制度が最善であると思っていないからである。ところが、私が支持したい政党は、選挙であまり勝てていない。こんな情けないヤツらに愛想が尽きつつあるというのが本音である。支持したい政党がいても、そいつらが勝たなければ選挙に行くモチベーションはなくなる。そういうわけで、馬鹿らしくなってきたのでもう選挙行きたくないとすら思えてきた。ところが、選挙に行かないということは、権力者に何をされても反論できないということだとも思っていた。「お前ら、もう好きにやっていいよ」と。 政治を諦めることは、経済を諦めることであり、経済を諦めることは、生活を諦めることであり、生活を諦めることは、自分を諦めることにつながる。ちなみに、自分を諦める人は立派だと言われるのがこの国だ。 たまに明治期の文豪の文章を読むと、このときから驚くほど日本人の精神とはかくあるものという印象に変化がないことを知る。欧米の都合のいい部分だけ取り入れて、要らない部分を無視する。ということだけならまだいいが、厄介なのはそこに「政治」が介入するという点だ。

西洋人の方は、もと/\自分たちの間で発達させた機械であるから、彼等の藝術に都合がいゝように出来ているのは当り前である。そう云う点で、われ/\は実にいろ/\の損をしていると考えられる。
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

「われ/\」全員が損をしているのなら、それは仕方がないとして、このなかの一部が得をし、残りが損をしているとしたら、どうだろう。日本の近代化は一部の意識の高いインテリが成し得た者だから、彼らの主観=政治が差し挟まっているのではないか。そう考えてみると、今が少しずつ朧げではあるが見えてくる気がする。しかし、朧げではもういけない。確かに何かを掴みたい。そういう欲望がある。この「確かに何かを掴みたい」という欲望もときにたいへん危険であるから注意が必要ではある。慎重になりつつも、「われ/\」は努力する必要があるだろう。

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