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「空気」と「世間」 #共通の時間意識

「いつもお世話になっております」

職場の電話で、このセリフを言ったり、聞いたりしたことがある人は多いのではないでしょうか。初めて電話をかけるところにも、このセリフを使うことも多いでしょう。この魔法のセリフを使うことで、「私たちは共通の時間を過ごしています」ということを確認しているのです。

5つの「世間」ルールのうち、次は「共通の時間意識」です。

「共通な時間意識」とは、つまり個人ではなく、集団として生きていく、ということです。
 個人が自分の時間を使うのではなく、社員や子供やメンバーとして、その「世間」全体の時間を生きていく。

残業という共通の時間

「上司が残っているし、帰ることができないから、自分も残って仕事をしなければ」と、終業時間を超えてまで、働いた経験がある方は多いと思います。

私自身も、自分の仕事は済んだものの、先輩Aの仕事が終わらず(手伝うことはできない仕事)、上司から「Aさんの仕事がまだ終わってないんだよね」と帰宅することを引き止められた経験があります。やるべき仕事もないのに。

これも会社という「世間」、もしくは部署という「世間」では同じ時間を過ごさねばならないという「共通の時間意識」が働いてるのです。

「先週はごちそうさまでした」

先輩や上司に食事をごちそうになって、次にその人に会う機会にこの言葉を口にする人は多いと思います。この場合「先週はごちそうさまでした」というこの言葉で、「共通の時間」を過ごしましたよね、ということを確認しているのです。

英語に翻訳できない「これからもよろしくお願いします」

鴻上尚史さんの『「空気」を読んでも従わない』(岩波ジュニア新書)には、日本語にはあっても、英語に翻訳することが難しいことが書かれています。

「これからもよろしくおねがいします」というのは、英語に翻訳することができません。
 日本人としては、「これから先、同じ時間を過ごしますから、うまくやっていきましょう」という意味だと分かりますが、前提となる「これから先、同じ時間を過ごす」ということが、英語では伝わらないのです。

「排他性」による「共生感」

私達は、「同じ時間を生きる」ことが大切だと考えるので、同じ時間を生きれば生きるほど、仲間だと思う傾向があります。

逆に言えば、同じ時間を生きていなければ、同じ世間のメンバーとして認めてもらえないのです。内田樹さんの「子どもは判ってくれない」(文春文庫)には、以下の様な文章があります。

「同世代のあいだだけしか通じない話題」で盛り上がるというのはなかなか愉しいことである。
 高校のクラス会などでは、もう三十年以上も前の話なのに、いまだに「あのとき、おまえ、スッパに呼び出されて、停学くらっただろう」というような話題が蒸し返される。〜中略〜 自分たちが「同一の時間を共有していた」という事実を確認するために語られているのである。
「隣の宴会では、「ほかの世代には構造的に共有されえない話題」だけを若者たちは延々と選択し続けた。たぶん、その「排他性」が、彼らにはある種の「共生感」を担保してくれるのであろう。

 同じ時間を生きていない人を排除することで、私たちは一緒に生きていることを確認しているのかもしれません。今日(金曜日)飲み会だったあなたは明日、「昨日はありがとうございました」と言ってるかもしれませんね。


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