定義されるものでもなく、評価される事でもなく
幸福論とは。
と、書いたけど、大層なことではなく。
「各々が勝手にやればいい」と前に書いたんですが、それが全てで。
誰かに定義されるものでもなく、誰かに評価される事でもなく。
各々が幸福になる事を目指せばいいだけなんじゃないかと思うのです。
お店で話していると、相手が求めてる幸せの違いに気付きます。
「一般的に」や「常識的に」という言葉は何も意味がなくて。
出世、結婚、家、車、時計やその他諸々。
100人が100人、これが幸福って事は無いんです。
金なら!
と、思ったけど、金持ちは金いらないとか言うからな。
世界平和ですら共通の幸福ではないし。
という事で、共通の幸福は無い。
だから、各々が勝手にという話なのです。
僕の幸せは、今の所求められる事で。
こう書くと、他者に委ねてる感がでるので嫌なんですが、仕事の幸せはこれかなと。
この仕事の全ては求められる事だと思ってるので、ここに幸せを感じられないなら辞めてると思います。
求められるというのは色々で。
僕が。じゃなくてよくて、モノでもいいし、場所でもいい。
ただ、誰かが必要と感じてくれて、足を運んでくれて、「この店に残ってほしい」と、思ってもらえるのは幸せなんじゃないかと思うのです。
学校でも、会社でも、そんな事ってないでしょ。
いなくなったら代わりがいて、いなくなっても店が回り。
でも、このお店はそうじゃなくて、それに気づいてる人が来てくれる。
この幸せは、自分でお店をやったから気づけて、僕の人生を大きく変えたと思います。
「自分が」というよりは、「誰かの」に、僕は幸せを感じるんだなと。
ただ、これはあくまでも仕事の幸せで。
私事と仕事は分けて考えています。
(またこの言葉を使ってきたな!)
僕にとって仕事というのはお金を稼ぐ事でしかなく。
そこに特別な何かを求める場所ではありませんでした。
ちゃんとやるし、上手くやるし、誰かの為に働きます。
でも、それは仕事だからで、仕事用の自分を作り、それはそれだと割り切っていたのです。
仕事が全てだと、そこで上手くいかなった時に不幸でしょ。
でも、仕事ほど他者に評価を委ねなきゃいけないし、自分でコントロール出来る部分は少なくて。
だから、分けて考える。
自分の幸せは、自分でコントロール出来る部分で考えようと。
これが僕の幸福論かな。
分けて考えると割り切れて、嫌だと思ったら逃げられる。
こんな考えでいると潰れる事はなく、生きていける。
何が幸せなのかを知っていると、楽ですよ。
うーん。なんか偉そうだな。
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