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「おまえを、許す」。自分を殺した敵に向けて父が放った最期の一言 - ルパート(ルワンダ)【Part 2】

ルワンダの大虐殺を生き延びた、漫画家のルパートさん。
Part 1では、そもそもなぜ大虐殺が起きたのかという歴史について、彼が伝えてくれた通りにまとめてみた。
Part 2となる本記事では、ルパートの当時の体験をお伝えしていく。

1994年4月7日。

「朝5時に起こされた僕たち兄弟に向かって、母がこう言ったんです。
『昨晩何が起きたと思う?大統領が殺されたのよ。きっと復讐しに来るわ、どうしよう…私たち、死ぬかもしれない。』

前日にフツ族である大統領が乗っていた飛行機が銃撃されたことを受け、その復讐のためにツチ族である自分たちは狙われるだろう、と。
正確には、大統領の死とは関係なくもっと前から綿密に計画された大虐殺の幕開けだったわけだけれども、いずれにしても、何か恐ろしいことが始まるんだという不穏な空気が流れてました。

しかしその空気とは裏腹に、ラジオで流れていたのはクラシック音楽。
実はこれが、恐怖のはじまりだったのです。

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当時ルワンダには3つのラジオ局があって。国営のものと、過激派フツ族のものと、ツチ族を中心とした反政府勢力である「ルワンダ愛国戦線(RPF)」のものと。
うちで聞いていた国営のラジオではその日、
『家の中にいれば安全です。状況が見えるまでは、自宅で過ごすようにしましょう』という放送が流れたのち、モーツァルトがかかったんです。

それを聞き、うちの両親も、まずは家でじっとしようという判断を下しました。

しかし…

朝7時。
家の扉を何者かがバンバンバン!と叩きました。近所に住む知り合いでした。
『家にいるな!これは、政府の策略だ!殺しやすくするために言っているだけなんだ。今すぐ逃げろ!』

つまり、あのラジオの放送は、従順に自宅待機しているツチ族の自宅を一つ一つ訪問して殺人するための仕掛けだったんです。
国営ラジオ局を運営しているのは当然大統領側、つまりフツ族側の人間たちですから。
それにまんまと引っかかったツチ族が、どんどん殺されていったわけです。

慌てて外を見ると、何人もの人が泣き叫びながら目の前を走り抜けていきました。『殺される!』『家が燃えてる!』そんな悲鳴がどこかから聞こえてきたりも。

『どこに逃げればいいんだ?』
『教会だ!』

たしかに、教会に行けば、植民地時代からずっとルワンダのために従事してきた白人の牧師様がいる。彼らならきっと救いの手を差し伸べてくれるはずだ。

時間がない。僕たちは必死に家を出る準備をしました。
とはいえ、数時間なのか数日なのか全然見当もつかないから、そもそも何をもっていけばいいかなんてわかりませんでしたが。

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父の決意と、最期の言葉

『俺は、行かない。』

家を出ようとしたその時、そう父が言い放ったんです。
『もう逃げるのに疲れたんだよ。逃げてばかりの人生はもういい。同じように感じる人がもしいれば、一緒に残っても良いぞ。』

フツ族からの抑圧を常に受け続けてきた父が、もうこれ以上は逃げるのを辞めようと悟った瞬間でもありました。

それを聞いた17歳の妹は、『私も残る』と答えました。
足が悪い祖母も、一緒に逃げるのは難しかったため、一緒に残ることに。

その夜。
殺し屋が家に来ました。しかし、父が現金を渡すと、手を上げることなく立ち去りました。

次の日。
状況が明らかに悪化していたのを見た父は、『悪い予感がするんだ』と、妹に教会に逃げるよう指示しました。

その晩。
父は、再度家に来た殺し屋に、弓矢で殺されました。
矢が刺さり、倒れ込んだ直後。
彼は、自分を殺した敵に向かってこんな言葉を放ったんです。
『お前を、許す。僕は良い人生だった。そしてこれから、良い場所へ行けるんだ』、って。

さらには、一部始終を見ていた祖母に、僕ら家族への伝言までしっかり伝えてくれたそうです。
『彼らの復讐をしてはいけない。悲しんではいけない。これからの人生も、善き人として過ごしてほしい』と。」

自分を殺した人に、その瞬間に、「許す」という発想が出てくるとは…

「まさにキリスト教の考え方なんですよ。キリストも、自分を十字架にかけた者たちを許したんです。
死ぬ瞬間にそれが言えるというのは本当にすごいことだと思います。
僕ら家族が憎しみや悲しみに負けることなくなんとか生き延びることができたのは、 間違いなく父のおかげでした。
今も、この考え方が僕を支えてくれていますね。」

そして、その言葉を当時は教会にいたルパートさんが聞けたということは、おばあ様とそのあと再会できたということだったんですね。息子を目の前で失うという体験をしていながらも、しっかりと伝言を伝えてくれたんですね。

「そうなんです。
父が殺された後、祖母は家の外に出るように命じられました。
そして、『残りの家族も全員殺しに行くと伝えておけ』という捨て台詞とともに、家に火をつけられたそうです。

大切な思い出を残したまんまだった家は一瞬にして消え去ってしまいましたが、祖母が無事に生き延びれたのは奇跡でした。

そして、同時に、僕がこうして生きていることも奇跡です。
あの時、『あ、死んだ』と思った瞬間は幾度となくあったし、周りのために戦っていた尊敬すべき人たちが目の前で殺されていきましたから。」

(当時の体験談の続きは、Part 3にて)

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憎しみでは、傷が癒えることはない

「僕は、このストーリーを世界に発信していくことが自分の使命だと思っています。その中でも一番伝えたいのは、『人は、許すことができる』ということですね。

大虐殺は、ルワンダという国が崩壊してもおかしくないような大惨事だった。これによって得した人なんて、一人もいないんです。
それでもこの国がしっかり再建できたのは、許す力(forgiveness)と受け入れる力(tolerance)があったからなんじゃないかなと思っています。

大虐殺では100万人が殺されていますから、一人一人復讐するのであれば、もう一回大虐殺を起こさないといけなくなりますよね。『正義』という名の大量殺戮を。

実は後日3、4名くらいの人が死刑になったのですが、そのシーンはどの立場の人にとっても不快なものだったんですよね。これを続けていたら、永遠に対立構造が拭えない。これは、解決策ではないな、と。

そこで、これ以上殺すのはやめよう。国を再生させるために力を合わせよう。という方向に切り替えることができたんです。
自分の罪を償いたい人がいたら、皆の前で謝罪をする機会が与えられました。そしてそれに対して、人々は僕の父親のように「許し」を与えたんです。

世界はいまだに、憎しみで溢れていますよね。正義という名の復讐は色んな所で起きている。
でも、僕が言いたいのは、それは何の解決策にもならないよということ。
少なくとも僕は、父のような心を持ち続けていたいなと、思っていますね。」

Part 3へ

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編集後記

ドラマや映画に出てくるようなシーンを25年前に実際に体験した張本人が、自分たちの泊っているAirbnbのホストをしていて、しかも3時間も直接話をしてくれる。
そんな場面を、まさか世界一周中に、いや一生のうちに経験できるとは思っていなかった。
だからこそ、そのストーリーを伝える者としての責任は大きい。(その分今回は書くのにものすごく時間がかかっている)
Part 1では、ルワンダでの大虐殺が起きた歴史を振り返る中で、争いごとがなぜ起きてしまうのか、ということについて考察した。
そしてPart 2では、起きてしまった争いを乗り越えるためのヒントとして、ルパートの父の「許し」という言葉について考えてみた。

父親と妹を残して教会に逃げたときの家族の不安さ。
もう二度と父に会えないかもしれない、と思いながらも一人教会に逃げたときの妹の覚悟。
「お前を許す」と言われた時の殺し屋の複雑な気持ち。
息子を目の前で殺されながらも、「復讐はしないでほしい」という言葉を胸に刻んだおばあ様の苦しみ。
焼き果てた家と、亡き父親の最期の言葉を知った時の家族の悲しみ。

苦しくて悔しくて悲しい感情の連鎖の中で、「それでも、許す」という覚悟を決めているのが、ルパートであり、多くのルワンダ人の取った選択なのだ。なんて強い国なんだろう。
ふと、南アフリカのアパルトヘイト中に収容されていた元政治犯も、同じことを言っていたことを思い出した。
「I just try to forgive and forget. (許して、忘れようとするのみ)」と。
こんなにも心の強い人たちに、私は出会ったことがない。
もし自分に同じことが起きたら、どんな行動や考え方を選ぶのだろうか…。

ここから私たちが学ぶべきことは何かと問われると、まだ上手くまとめられていないというのが正直なところだ。
「許す力を持ちましょう。」
そんな単純な話で片づけられるようなものじゃない気がしているから。
だけれど、ネガティブな経験からしっかり前に一歩踏み出せる力を持ちたいという方々にとって、ルパートの話が少しでも何かの気づきにつながったのであれば嬉しい。

最終章となるPart 3では、ルパート本人がどのようにして生き延びたのか、そして今どのような生き様なのか、に着目してお話してきたい。

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