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尖った石をどう捉えるべきのか?
こんにちは、みなさんはどう大晦日を過ごしましたか?
僕は、友人とNiziプロジェクトを見ながらすごしました。
Niziプロは、自分にとってはいろいろ学ばせていただいたことが多いのですが
一番驚いたのは、アイドルを志望する女の子たちの心の白さです。
どうしてこんなにも心が清いのか?
そう思わずにはいられないほど、一つ一つ真剣に練習に取り組むピュアさがありました。ほんとアイドルの原石って感じです。
自分と何が違うのかななんて考えてまして、、、、
そういえば僕にもこういう素直な時期があったなと思いだしました。
もともと個人の自我とは石のようなものだと思うのです。
石と石が重なり合って一つの社会を作る。
で、社会が出来上がった後は上手くハマる穴ができてそれを個人という石に求めようとする。
だから、その穴に上手くハマらないと「もっとこうあるべき」というものに染まってしまいます。
そして、個人としての尖りをどう解釈するかなのですが
①この尖りを認めていない社会がおかしい
②この尖りを保有している自分を修正するべきだ
の2択です。
多くの場合、後者を選んでしまいます。その方が対抗しなくていいから楽なのです。
いや、社会に対抗するという莫大のコストに対して自分の尖りが有益なものであることを示すファクトとエネルギーがないのです。
しかし、社会に指標を委ねるということは同時に自分は一番になれないということと常に求められる姿が存在することを受け入れることを意味します。
それで幸せだと感じれる人はそれでいいかと思います。いや、それを幸せだと思える人は社会に求められる軸で生きて評価を受けてこれた正直すごくすごく恵まれた人なのだと思います。
しかし、幸せは本当にそういった限られた人にしかなくていいのでしょうか?
自分は、これまでいい評価をこれまで他人から受けたわけではない。でも、幸せになりたい。
そして、自分以外の人も全員が幸せに生きれる権利を持つべきではないかと考えたときに②では不可能ではないかと考えています。
だから、②でうまくいかない人はしっかりと社会に①として強調するべきです。
つまり、橋本環奈が1000人に一人の人材であるという社会の指標があるから渡辺直美という女性のセクシーさが生まれる。
うーん、、、全然まとまらない文章で何が言いたいのかわからなくなってきたけど
人が全員幸せになるためには、自分が既存の社会の指標で負だと感じることに対してその指標が正になるまで訴え続けるのが必要ではないかということです。
それが、きちんと自分や社会と向き合うことではないでしょうか?
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