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ピンチをアドリブで乗り越える技 52/100(感情)
自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。
「もっと感情込めて!」
というダメ出しをされるのが演技である、というイメージが強いのではないでしょうか?
英訳するとすれば、「Bring out more emotions!」ですかね?
欧米の現場では、こういったことを言われることは、まずありません。
なんなら、「Be more subtle」もっと繊細に、と言われることの方が多いかもしれません。
演技に感情は込めない。
私はそう言い切っていいと思っています。
感情の演技は、大袈裟な演技になりがちで、自慰行為的でもあります。
はい、まさに、やっている役者本人はこういった演技は、結構気持ちの良いものです。
でも、臭い演技になると思います。
そもそも、感情というのはなにか。喜怒哀楽といいますが、日常の私たちは殆どの場合において、感情を出そうと思って出すことはしません。
その裏には思考があり、その思考が表面化したものが感情ではないでしょうか?
何の理由もなく怒る人は、相当ヤバい人ですよね。怒ることが目的なのではなく、「こうしたい」「これが嫌だ」「正したい」そういった思考の結果として、怒りの感情というのが生まれます。
そういった経緯を無視して、感情ばかり先行させて表面化させるような演技は、わざとらしく写ってしまいます。
たとえば部下に対して、自分が怒っているということを、伝えなくてはいけないとしましょう。
でもその根っこにあるものは一体なんでしょうか?
「部下を成長させたい」
「二度と同じ過ちを起こさないでほしい」
「ことの重要さを伝えたい」
「マウントを取りたい」
「空気を変えたい」
など、いろいろとあると思います。
ただ単に「怒りたい」
と思って怒る人は危険な人です。よく突き詰めて検証すれば、その裏には思考があります。演技するべきはそこなんです。
怒りは、その思考に付随してくるものであり、第一目標にはなり得ません。
もちろん、感情的な演技を全否定しているわけではありません。でも、そこには深みがなく、薄っぺらいですよ、という意味です。
漫画に例えるならば、感情の演技は『ジャンプ』や『なかよし』などの少年・少女マガジンに登場します。その単純さが魅力です、でもリアリティーは薄いですし、深みもあまりないじゃないですか?
もう一度言わせてください。これを否定しているわけではありません。でも、そこには明確な違いがあるということを、理解していただきたいと思います。
さらに踏み込んで考えてみると、大袈裟に怒る演技をしなくてはいけない時、そんな時でも「怒りの感情」を演技するということはないと思います。
例えば「殺すまで、絶対に許さない」というような非常に激しい、極限状態の思考を演技した上で、その大きな表現を実現するために発声やジェスチャーなどのツールを駆使します。
そこには自身を俯瞰視する存在であるThe Wittnessが存在するので、我を失うこともありませんし、必要とされれば、同じ演技を繰り返す再現性もあります。
これが確信犯的に、ツールを駆使して演技をする、プロの職人のような役者です。
と、ここまで言い切っておきながら、それでも演者の魅力というのは、その不確実性や予測不可能な感じ、に潜んでいるというのも事実なので、そのバランスが非常に難しいですね。
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