見出し画像

【祝7周年】【夏】 ユウジョウとく別きかく: 王道を往くためのカラテ三題噺仮説、及びその実証 【祝シ1完】【ぜんりょくで祝う】



ハジメマシテの人もそうでない人もコンニチワ!

いつものセンセイが、しばらく前に「おれは16さいになったので真の勇者としてロトゼタシアに旅立つ」という書置きを残して失踪してから現在も連絡がとれないので、今回は特別に、センセイが遺したメモをもとにわたしが紹介します! それでは張り切っていきましょう! マジンゴー!




次元の彼方へ物語を跳ばせ! 「真マジンガーZERO」

(画像はAmazonの商品ページへリンクしています)


この漫画はスゴイです! なんと、無敵のスーパーロボット、マジンガーZが愛と勇気で悪を討つんです!

大事な事なのでもう一度言います。

マジンガーZが愛と勇気で悪を討つんです!



愛と勇気で悪を討つ!


あらすじ:究極の魔神、新覚醒!! 滅びの荒野をただ独り行く兜甲児! 全人類を、その英知を破壊するマジンガーZを止めるべく、兜甲児が立ち上がる!! 今ここに、まったく新しいマジンガー伝説が始まる!!!(第一巻裏表紙より引用)


すごく「!」が多いですね。でもスゴイなのはそこではありません。繰り返しになりますが、無敵のスーパーロボットが愛と勇気で悪を討つのが、とにかくスゴイなんです!

こんなことを言われても、「無敵のスーパーロボットが愛と勇気で悪を討つことの、いったいどこが凄いの?」、「昔のロボット」と思う人がほとんどでしょう。ですが、だからこそ、このマンガはスゴイなんです!

つまり、「真マジンガーZERO」は、「昔のロボットが愛と勇気で悪を討つなんてフツー」と思っていた読者でも、読み終わったら「昔のロボットが愛と勇気で悪を討つのがスゴイ!」って思わせてしまう、そのパワーがスゴイ作品なんです! 

よくわからない昔のロボットが出てきてもダイジョブ! 何の予備知識も要りません。わたしもマジンガーZについては「昔のロボット」以上の知識はありませんでしたが、むしろ、そのおかげでこのマンガのスゴイさに驚きました!

だから、第一巻だけを読んで「なんだか暗い」という印象を持っても、どうか二巻以降も読んでみてください。一巻が暗いのはちゃんとした理由があります。なんとこのマンガは、タイムリープ物なんです!



途方もなく巨大な敵に傷付きながら抗いながら、史上空前最強バトル!


このマンガはタイムリープ物なので、最初が暗くないと話が始まりません。暗い出来事が何も起こらないのにわざわざタイムリープをする人はいないからです。わたしは映画でも見たので詳しいです。

だから、最初は人類がしょっちゅう滅びます。マジンガーは無敵なので、ちょっとしたことでうっかり宿敵Dr.ヘルもなにもかもまとめて一切合切滅ぼしてしまいます。このマンガの主人公、ミネルバX=サンはタイムリープができるので、人類がうっかりマジンガーのせいで滅ぶたびにタイムリープします。それでもまた人類が滅ぶのでタイムリープします。ここまでが第一巻です。

だから第二巻からがこのマンガの本番です。タイムリープを繰り返してミネルバX=サンが偶然たどりついた世界線、そこはなんと、マジンガーZが平和の守護神として戦う世界だったのです! わたしはまずここで驚きました! わたしたちにとってマジンガーZが正義のスーパーロボットなのは当たり前で、誰もそのことを疑いません。ところが、人類がしょっちゅう滅ぶ次元からやってきた主人公の目には、その当たり前が全く逆の奇跡に映るんです。逆転の発想! ワザマエ!

この舞台設定が決まれば、あとは何が出ても威力で決まります。昔のロボットアニメで当たり前だった要素が、逆に主人公にとっては何もかも奇跡のパワーで感動する要素になる。それを読者も主人公といっしょに体験するのです。こうして、出してくる物語要素がベタであればあるほど高威力に決まります。

それと第二巻以降は、どうやらマジンガーZ以外の作品からのゲスト登場人物がたくさん出ます。わたしに分かったのはハニー=サンとドス竜=サンだけですけど、多分その他のゲストもナガイ=センセイの作品からのゲストだと思います。ゲストが登場する理由もちゃんとありますが、そこは読んでみてのお楽しみです。

これ以上はもう説明しなくてもいいと思います。是非読んでみてください。第三巻以降は、最終巻となる第九巻まで、全編ノンストップ高密度のクライマックスに次ぐクライマックス! ミネルバX=サンにとって奇跡の世界と思われたこの世界に隠された衝撃の真相! タイムリープのお約束が適用された結果、タイムリープの弊害でいくらなんでもやりすぎなくらいに強化された最強の敵! 

読者は目撃するでしょう。最強の敵に愛と勇気で立ち向かう、本当に文字通り掛け値なしの、史上空前最強バトルの衝撃。タイムリープのお約束である皮肉要素が無敵のスーパーロボットによってコテンパンにやっつけられる瞬間です。センセイの遺したメモには「イガン」、「宇宙しょう失」といった意味不明の言葉が混じっていますが、わたしにはよくわからないので無視することにします。

わたしは読んだので予言できます。最終第九巻のクライマックスを読んでいる最中のあなたは、きっと、クライマックス真っただ中なのに一度巻を置くはずです。そして、周囲を見て近くに人がいないことを確認してから、あなたは世界中の人々とシンクロして、思い切りロケットパンチを撃つでしょう。わたしは実際そうしました。そうして続きを最後まで読んで、あなたは「マジンガーは無敵」であることを感動とともに実感するのです……


それでは、最後に恒例の星数判定タイム! キャバーン!



判定: ★★★★


残念ながら星一個減点です。わたしは公平なのでセンセイとは判定が異なります。

ですから、いくらなんでも一部の描写が明らかに一線を越えているという問題点を指摘せざるを得ません。たとえば、二巻の「パイルダーオン」は、常識ある社会人であれば、たとえ思いついても思いついたこと自体をそっと心の中に隠しておくたぐいのものです。

そして第四巻から登場するとあるコスチュームですが……正直もう擁護のしようがないです。あれを平然と出してくるというのは、明らかに何らかの感覚が麻痺しています。PTAが少年マンガのエッチ性にいちゃもんをつけるとかそういうレベルではないです。青少年のなにかをサーチ・アンド・デストロイするアティチュードが先鋭化しすぎて人類社会にケンカを売るレベルに達しています。作者の自我が心配です。タバタ=センセイ! ヨゴ=センセイ! ナガイ脳になっていませんか? ちゃんと家族と話をしていますか!?

そういった要素がダメ野郎的な読者にとっては星が10個も20個も増える要素なのかもしれませんが、わたしは敢えて、この素晴らしい作品を青少年に勧めにくくなってしまうという問題点を、悲しみとともに指摘します。

最後に苦言を呈しましたが、そういった要素を好む人に限らず、そういった要素にそこまで強い抵抗がない多くの読者にとっては星満点評価のはずです。是非ともしてください!

そして、この偉大な作品は、同じく偉大な作品である「ニンジャスレイヤー」の読者にも強くオススメです。マジンガーZとニンジャスレイヤー、まったく異なる二つの作品ですが、一見奇をてらっているように見えるのに、実は真正面から王道の物語を語って読者を感動させるというテイストが凄く似ているんです。なぜでしょうか?

その疑問についていつものセンセイが日夜研究した成果をこれから発表します。題して「カラテ三題噺仮説」!



アティチュードをもって三題噺せよ! そして臆せず王道を往け!


なんとか盛り上げようと思ったのですが、正直センセイの遺したメモの内容はわたしには理解できない部分が多いので、ここからはメモを直接引用していきます。


タルサ・ドゥームに支配された業界のやつらは、ファルシのルシがコアラでマーチみたいな戯言を「アッ世界観!」とか言ってもてはやしてばかりでどうしようもない。そんな登場人物の内なる積極的な行動原理に直接結びつかない状況ばっかり細かく設定するのを世界観と間違って呼んで反省しないから、主人公の行動が「ファルシのルシがコアラでマーチするので仕方がないから戦うか」みたいな流されてばっかりの腰抜けに見えて、プレーヤーがついてこないのだ。そうやって物語の基本的な構成要素がいかに物語をドライブするかというフィクションの根本的な力を軽視するから、なんか表面的な設定だとかプロットだとかをいじくりまわすだけになって、業界のやつらがぜんぜん反省しないので、見渡す限り、いちいち現実からかい離した設定の能力バトルだとか、登場人物の誰が死のうと割とどうでもいいデスゲームみたいなののジェネリック製品であふれかえるのだ。腰抜けになりたくなければ、そういう設定いじりやプロットいじりみたいなのは金輪際やめろ。たとえば、タルサ・ドゥームの東大が技術とかコンテンツとか言ってるが、 https://togetter.com/li/1113967  みたいなのは技術でもなんでもなくて本当にどうしようもないので、その欠点をちゃんと理解した上で利用するのでなければ手を出すな。なぜなら、きちんと物語を支える基本の要素が決まってるのならプロットも勝手に必然的に決まるから、意図的にプロット操作で何とかしようとしているやつは物語の基礎がぐらついてるということを証明sてて技術がないのに、そこに目を背けて「AはBのため、Cをしたが、目標は達せず代わりにDを手にいれた」みたいなプロットの意図的操作をして何ができるかというと、結局、物語のラストにたどりついたのに主人公が悲しみのままに傍観しているだけの話にしかならず、読者から「またバタフライエフェクトのジェネリックか」と蔑まれ犬にもかえりみられぬ死を迎えて荒野に屍をさらすことになる。それだけで終わる主人公の物語と、物語のスタートで悲しみのままに傍観している主人公が物語を通じて立ち上がりアティチュードに目覚める物語と、どっちがパワがあるかはお前に説明する必要はないだろう。それでも先に挙げたプロットいじりで勝負したいなら、お前にはアティチュードが必要不可欠だ。つまり、ABCD全部の要素を一貫し、かつ主人公の内なる行動原理となる物語の基本的構成要素という物語の土台をきちんと固める必要がある。これだけ言っても「アティチュードとかチョーダサイ」みたいなことを言って小説サイトのランキング上位だからという理由で出版させては作家を使い捨てにして小金を稼ぐ商売をしている業界の奴らは、バズったりリツイートされるのはただの認知を広める手段でしかないのにリツイートがすごい多かったりするのが価値があるみたいなことを本気で信じているので、リツーイトの数だけ比較するなら頑張って作られた作品よりもカワイイニャンチャン画像のほうがはるかに高い価値があることになるが、あいつらはあほすぎてそんなことも分からず、ある日メキシコの酒場でダニートレホを見かけてすぐ「アッ一緒に自撮りしてリツイート数」と脊髄反射して不用意にダニートレホにちかずき、あっというまにナイ

……これ以上引用してもきりがないので、途中の理由は飛ばして結論にいきます。

カラテ三題噺とは、それぞれ明確な物語の要素としての位置づけがある三要素を考えるということらしいです。メモによると、三要素は、A、B、C であり、それぞれ、

 Aは「アティチュード」

 Bは「ベタ」

 Cは「ちょっとした着眼点」

の略なんだそうです。意味が分からないですね。メモから関係がありそうなところを引用します。

A「アティチュード」とは、具体的には、主人公その他の行動原理をもたらす、作品を一貫する要素だ。これはシンプルであるほど強い。また、別に現実との折り合いとかは考える必要はなくて、むしろ作品内でしか通用しない理屈であるほうが効果的であることが多い。ニンジャスレイヤーでいえば、「ニンジャが出て殺す! ノーカラテ・ノーニンジャ」がまさにこのアティチュードであることがお前にはわかるはずだ。ちなみに、フィクションともなればいろいろな設定も必要になるが、そういった数々の設定がちゃんとアティチュードと有機的に結びつかないと失敗する。ニンジャスレイヤーはニンジャとかコトダマとかの設定がアティチュードと勇気的に結びついてるので成功しており、ファルシのルシがコアラでマーチするやつはそれがないので失敗してる。アティチュードをちゃんとシンプルに強くしてない状態で「世界観」とかをやたらに強調するのは失敗するからやめろ

……そうなんですか。次いきます。

B「ベタ」とは、読んで字のごとしそのままのベタ要素だ。平然とあるあるネタを多用したりテンプレ展開を利用しても、Aのアティチュードがしっかりしてれば、それは王道の展開となる。アティチュードがなかったら平凡になるだけだ。だからお前は、プロットをいじくったり世界観とかで褒められようとする前に、アティチュードをもって堂々とベタ要素で勝負する度胸を持て。ニンジャスレイヤーは、スシグルメ対決とか、ヒロインのピンチに現れるなぜか誰も正体に気付かないタキシード仮面とか、学園ホラーとか、ヤンク抗争とか、野球とかのベタを意図的にあからさまにぶち込んでくるが、アティチュードがあるので、次のC「ちょっとした着眼点」とあいまって物語の構成要素の相互にケミストリーが生まれてることがわかるだろう。

これは少しは分かります。どう役に立つのかは分かりませんが。

C「ちょっとした着眼点」とは、読んで字のごとしそのままのちょっとした着眼点だ。大事なのは、これもAあるいはもっと背後のおおまかな要素と関連して導き出されるものであることだ。ニンジャスレイヤーでいえば、エピソードん違いはあるが「Bの要素のサイバーパンク的考証」であることが多い。そういった視点で、王道の物語でありつつ、ベタな要素に新たな切り口から光を当てるということで物語は面白くなるのだ。

これは具体例を考えると分かりやすいですね。スシグルメ対決だと、実際には読者が口にすることができない紙に書かれた料理について登場人物があれこれするのがどうしてわたしたち読者にとってタノシイなのか、学園物だと、生徒会長や風紀委員が絶大な権力を持っていて、たいてい沢山の手下を引き連れ毎朝リムジンで登校するカネモチの生徒が一人は登場するような非現実的な学園がなぜフィクションでは「日常」扱いされるのか、といった「お約束」に隠された疑問をクローズアップする視点、そういう異化する視点がありつつ同時に奇をてらわない物語が進行するところがニンジャスレイヤーの面白さなんですね。

それはいいとしても、「カラテ三題噺」を一体どう使えというのでしょうか。

「カラテ三題噺」は、要するに、三幕構成みたいな分析のツールであって、直ちにそこから物語が生まれるわけではないし、当然、唯一絶対の正しいメソッドみたいなものでもなんでもない。だが、実作の過程で自分の構想を「カラテ三題噺」で分析すれば、それがシンプルでベタであっても王道で成功しそうか、それとも複雑な設定があるだけでプレーヤーが置き去りになるのかが分かり、修正したりより効果的に改良したりとかができるだろう。そういった形で三幕構成と同じように使うものだ。お前も興味があったら、試しに分析してみるといい。雑多なアイディアがうまくまとまらないときにアイディア相互の関係を整理するのにも使えるだろう。とにかくアティチュードを忘れるな。ファルシのルシがコアラでマーチの失敗の原因はそこにあることを肝に銘じろ。

なるほど、よくわかりませんが、試しに「真マジンガーZERO」を分析してみましょう。

Aは、明らかに「マジンガーは無敵」ですね。

Bは、「ベタなタイムリープ」でしょうか。

Cは……「マジンガーは無敵」から関連して導き出される、「ベタなタイムリープ」に別の切り口から迫る要素……わかりました! これこそ「愛と勇気で悪を討つ」です!

スゴイ! なんだかスッキリしました。こう考えると、ベタなタイムリープのお約束で話が進むのに、最後はバタフライエフェクトのジェネリックにならずに、愛と勇気でタイムリープに決着をつけて「愛と勇気で悪を討つ」が新鮮に感じられて「マジンガーは無敵」で感動する仕組みが分かります。王道です!

だから、「カラテ三題噺」はたぶんですけど役に立ちます! わたしにはセンセイの話は半分も理解できませんが、なんだか使えるみたいなので、理由はわからなくてもとりあえず使っていきましょう。

それに、センセイの話でも、わたしにもすごく理解できる部分があります。センセイの話はいろいろややこしいですけど、大事なことは、もっとずっと簡単に言えると思います。

つまり、わたしは知っています。「悲しみのままに傍観する」で終わる物語は、ぜったい「ふたりがお互いを見つける」物語にかなわないです。




わたしは、大切なトモダチと出会い、そのことを理解しました。














◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
















 晴れ間を覗かせる早朝のネオサイタマ東部、オールド・カメ・ストリート。そのメインストリートは、ストリートの中央に公園を兼ねた幅広の緑地帯を備えた、ネオサイタマの典型的なマーケットストリートである。緑地帯を挟んで南北に伸びる細い二本の舗装路に新鮮な食材をメインとした露店が並び、多くの買い物客が行き交う。舗装路に面した店舗のいくつかは軽食堂で、通勤通学途中にそこで朝食を済ませる者も多い。

 緑地帯には朝の散歩をする者やベンチに腰掛け会話する老人たち。ストリートの中ほどにある門をくぐりブッダテンプルに礼拝する多くの地元住民。ストリート南端に近い緑地帯の芝生の上で、オレンジ色の髪をツインオダンゴにまとめアオザイを着た娘を中心とした、タイ・チー(訳註: 太極拳)のカタを鍛錬する10名余のサラリマンやオーエル(原註: 女性サラリマン)の集団。それを見守るカンフー胴着姿の小柄な老いた男。日はまだ低く、大きな菩提樹が芝生に淡い陰影を落とす。

 ネオサイタマに長く住む者によれば、あの約10年前の大異変--日本を鎖国状態に陥らせていた磁気嵐が晴れ、やがて月を砕き大地を裂く天変地異がネオサイタマを襲い、遂には国家崩壊に至った危難の時期--以後、年々、晴れの日が増えているのだという。ネオサイタマに絶えず重金属酸性雨をもたらしていた汚染雲から重金属類を資源として回収する技術をどこかのメガコーポが開発し大気マイニングをしているのだと、まことしやかに噂されている……

 ……菩提樹の木陰でタイ・チーの鍛錬を行う者らの中心にいる娘は、その名をコトブキという。一見何の変哲もない人間だが、実は、マッポーカリプスの世のネオサイタマにあっても稀な「ウキヨ」、すなわち自我を持ったオイランドロイドである。彼女が人間社会で暮らすようになってからまだ数ヶ月。何を見ても物珍しく、晴れた日には決まって、ねぐらとしている場末のピザ屋を出発してあちらこちらを散歩し、しばしば地下鉄等で遠出もする。そして、2週間ほど前に、遠出をしてこの有名な朝市を訪れた際、一人タイ・チーのカタを行う老人に出会った。

 カンフー胴着姿の老人が朝のタイ・チーを行う光景は、コトブキが愛好する旧世紀映画で見た光景そのものだった。感激したコトブキはその場で老人に弟子入りを申し込んだ。老人は何も答えず目を細めてほほ笑むだけだったが、コトブキはそれを入門許可と解釈し、老人を自らの師父と定めた。

 以来コトブキは、晴れた朝には必ず師父とともにタイ・チーを行っている。彼女の電子のニューロンとマシンのボディをもってすれば、タイ・チーのカタを師父そっくりになぞることは容易である。それでもなお、タイ・チーの優雅な重心移動がもたらすフィードバックは、日々異なる朝の空気と相まって、いつも彼女に新鮮な感触をもたらした。

 オールド・カメ・ストリートの南端は東西方向に走る片側三車線のカンパチの大通りに接しており、大通りの歩道を行きかう者の目には、コトブキと師父が鍛錬を行う様はあたかもストリートの南入口となる大トリイを第四の壁とした舞台上での演舞のように映る。こうして、タイ・チーを修行するアオザイ姿の美しい娘は、たちまち通勤サラリマンたちの評判となった。数日もすると、一人また一人と、通勤途中に朝の体操を兼ねてタイ・チーの鍛錬に加わるサラリマンやオーエルが現れた。今では、コトブキは10数名の弟弟子を率いる師範代といったところだ。

 やがてタイ・チーのカタが終わり、サラリマンたちは再び通勤の途に就くが、コトブキにはまだ師父とともに残って行う修行がある。この頃、コトブキは、個人的な事情から自らの戦闘力を高める必要を感じていた。だが師父は、カタに含まれる動作のほかにはパンチやキックといった攻撃ムーブをコトブキに示すことはない。コトブキは、自らのニューロンで考え、カタから実戦のテクニックを導き出さねばならぬ。そして、その工夫の成果を師父の前で示すのだ。

 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。カンパチの大通りのこちら側の歩道も大通りを挟んだ向かいの歩道も、通勤通学途中の多くの市民が行きかう。大通りから数ブロック南の、近年開発された高台にあるダンチ(原註: 日本特有の社宅コンドミニアム密集区域)が見える。ありふれた平穏な市民生活の光景がコトブキを和ませる。自然と口元に笑みが浮かぶ。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力して体にかかる重力を意識する。左拳を腰の位置で固める。そして、重心移動とともに幹めがけてショートパンチを繰り出した。

 ズン

 体重の乗った突きが太い幹を揺らす。コトブキは師父に向かって振り返る。師父がいつものように無言のまま目を細めてほほ笑んでいるのを見た瞬間、カンパチの大通りからドスンという衝突音が聞こえた。

 コトブキは反射的に衝突音の方向を見た。大通りの向こう側の車線、東から走ってきたトラックが一人の男を撥ね飛ばしたところだった(原註: 日本の車道は左側通行である)。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そして、交差点角に立つビルの陰となってコトブキの視界から消えた。コトブキの顔が悲しみに曇る。「ペケロッパ」としか喋らないあの奇妙な人たちが不幸な事故の犠牲になるのを見るのは、コトブキが人間社会で暮らすようになってから数えて、これでもう3度目だ。

 「ペケロッパ・カルト」という変わった宗教の信者だというあの人たちは、何を生き急いでいるのか、頻繁に酷く不注意な行動をとって事故の犠牲となる。そして、国家権力なき、メガコーポとヤクザが支配するこのネオサイタマでは、企業の庇護もヤクザクランの庇護も受けないあの哀れな人たちの死を悼む者などなく、企業やヤクザクランに被害を及ぼさない事故で加害者が罪に問われることもない。その事実がますますコトブキの心を暗くした。現に、大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ……

 と思った矢先、コトブキは、大通りの向こうの歩道に見覚えのある制服姿の少女がいるのに気づいた。確か、いつもこの時間帯に大通りの向こうの歩道を大慌てで駆けていく少女だ。その少女が、交差点の近くの歩道にへたり込み、呆然と被害者が撥ね飛ばされた方向を見つめている。

 やがて、少女は、助けを求めるかのようにあたりに視線を漂わせる。少女と目が合う。




ニンジャスレイヤー第四部「エイジ・オブ・マッポーカリプス」

第8.5話 【ペケロッパ・カルト】




 その10分前。

 オールド・カメ・ストリートから数ブロック南のサクラガハイツ・ダンチ。無機質な直方体のコンドミニアムが整然と並ぶさまはプロジェクトめいているが、清潔さと治安は段違いだ。立ち並ぶ相似形の建物のひとつ、3号棟の8階に並ぶ玄関スチールドアの一つがばたりと開き、力強い「イッテキマス」のシャウトとともに制服姿の少女が飛び出した。トーストを咥えながら共用エレベータに向かって駆け出したところで、室内から母親らしき声。

 「ヒロコ! ベントー忘れてるわよ!」

 ヒロコと呼ばれた少女はすぐさま自宅に駆け戻る。数秒後、再びスチールドアをばたりと開いて、小ぶりのフロシキ包みをPVC通学鞄にねじ込みながら飛び出す。広く額をさらすショートカットの黒髪に、日本の教育制度の伝統に則った水兵服と膝頭が丸出しのスカート。そのバストは到底豊満とは言い難い。

 エレベータで一階に降り3号棟のエントランスを飛び出したヒロコは、そのままトーストを齧りつつダンチの敷地内を走る。歩道に至るあたりでトーストの残りを無理やり口に詰め込む。緩やかな下り坂となる歩道を進むと、その先は高台から市街地に降りる、3つの踊り場を備えた幅広のコンクリート階段だ。だがヒロコはスピードを落とそうともせず階段に突入する。

 ヒロコは3段飛ばしで第一の踊り場に到達し、4段飛ばしで第二の踊り場に、5段飛ばしで第三の踊り場に到達して、なおも第三の踊り場で加速する……まさか残りの階段は大跳躍によりすべて飛ばすつもりか? その試みは危険だ! なぜなら次のカットでは、純粋に演出上の理由で、階段を降り切った地点に地面すれすれの高さでカメラが設置されているからだ! その邪心なきアオりのアングルを前にして跳べるのか!?

 それでもなおヒロコは……跳んだ! カメラは超高速度撮影で天を仰ぐ! そのカメラのはるか上空をヒロコが飛翔! カメラレンズは空中のヒロコをクローズアップ! だが一部見えぬ! 空中で折り曲げた膝の角度が絶妙! 脚部が一部被写体を遮っている!……そしてカメラを跳び越したヒロコは軽やかに前転着地し、その勢いのまま再び駆け出す……たった今、超スロー再生で丹念に検証したが、1フレームたりとも写っていない。ナムサ……いや、 ゴウランガ!

 ヒロコは横断歩道を渡り、北に向かって歩道を駆ける。

 「チコク、チコク……」

 日本人のパンクチュアルさを賞賛するチャントが無意識に口から洩れる。多くの通勤サラリマンたちとすれ違い、あるいは追い越す。不思議と歩道の中央が空いているのは、ヒロコの毎朝の疾走がここを通る通勤サラリマンたちにとってお馴染みの光景となっているからだ。ヒロコのあずかり知らぬことだが、疾走する少女の姿を、勤務先に向かう憂鬱な道のりの中のささやかな心の慰めとする者も多い。

 数ブロックを直進し、やがてヒロコは北に向かう道路がカンパチの大通りと交わる交差点に近づく。そこにあるコンビニの角を右に曲がって数十メートル進めば通学バスの停留所だ。ここで華麗な90度ターンを決めるのがヒロコの密かなこだわりである。

 そしてこの日もヒロコは全速力でコンビニの角に到達し……東方向から来た、テクノギャングの小グループに追われ必死に逃走中だった男と激突した。

 「グワーッ!」

 ヒロコは激突の衝撃に悲鳴を上げた。そして、斜め方向に弾き飛ばされ信号機のポールにぶち当たり、更なる悲鳴を上げて歩道上に崩れ落ちた。

 「グワーッ!」

 ヒロコは苦悶しつつも強いて目を開き、衝突相手に謝ろうとした。

 「ゴメンナ……」

 衝突相手を見て、言いかけた言葉が止まる。衝突相手は歩道からはみ出してカンパチ大通りの車道上にへたりこんでいた。ソーマト・リコールめいて時間の流れが鈍化する。「量子が憎い」とプリントされたTシャツを着、ゴテゴテとパーツを増設した奇怪なサイバーサングラスをかけた貧相な男。サイバーサングラス越しでも、その男がヒロコを呆然と見つめていることが分かった。自分をこの運命に陥れた者を。

 その男がよろよろと立ち上がろうとした次の瞬間、東から来たトラックが男を撥ね飛ばした。男は宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そして、西隣のブロックの歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。被害者を追いかけていたテクノギャングたちがすぐさま西隣へのブロックへと横断歩道を渡って被害者に駆け寄り、スカベンジャーめいて被害者のボディを路地裏に持ち去った。

 その時、遅れてきた一人のテクノギャングが、へたり込んだままのヒロコを興味深げに見たが、ヒロコの水兵服の胸部に刺繍されたスゴイテック社の企業ロゴに気付き、すぐさま略奪の対象とすることを諦めた。メガコーポの庇護を受ける学校の生徒に手出ししようものなら、企業警備員から凄惨な報復を受けるのは確実である。

 ヒロコは茫然自失し、あたりを見回す。だが、通行人の誰一人としてヒロコを助けようとも咎めようともしない。多様な性のありかたが許容されるここネオサイタマでは、制服姿の少女に不用意に近付こうものなら、老若男女問わず誰であれスケベ犯罪者予備軍の烙印を押されかねないのだ。

 ヒロコは生まれて初めての、自分でも説明できない違和感のような何かを感じた。ほとんど助けを求めるかのように周囲の人々を見る。カンパチの大通りの向こう側、オールド・カメ・ストリートの入り口近くにいる女の人に気づく。最近見かけるようになった、チャイニーズドレスみたいな恰好でカンフーか何かの修行をする、変わった、綺麗な人。その人と目が合う。


_____________


 同日午後3時。スゴイテック社立ネオサイタマ第一高校。時計台を備えたコンクリート4階建ての校舎の3階、2年B組では、この日最後のカリキュラムである「愛社精神」の授業中だ。

 「……このように、旧時代における法治国家というものの実態とは、誰の利益も代弁しない、市場におけるプレーヤーとしての意識を全く欠く官僚組織による権力の独占であった。法の制定と適用をこのような国家権力が独占した結果、旧時代においては、企業テロによる殺人も、志ある市民による自発的ホームレス排除も等しく刑法犯として処罰の対象となるという不条理が当然のこととされていた。その上、国家が徴税と富の再分配について明確な経営ビジョンを持たぬことから、貧富の差は拡大! 教育費の捻出のために貧困層が未成年マイコ産業に従事することすら横行! 労働力の搾取を奨励する労働法制が企業を支配! 市民の経済活動の低下と景気の悪化をもたらす悪循環の装置として、法治国家は機能していたのである!……」

 スキンヘッドの鬼軍曹めいた教官が、教科書を朗読しながら、サイバー学習机が整然と並ぶ教室内を歩く。生徒たちは無言で各々の学習机のモニタに表示された教科書テキストを黙読する。江戸時代の寺子屋に範をとった日本特有の効率的学習システムである。教官のバリトンボイスが教室内を緊張で満たす。

 「……かような不条理をことごとく駆逐したのが、企業による統治である。各企業が、各々の従業員と将来の従業員たるその子弟を、人的リソースの最大化を目的として処遇することは経営判断上当然であり、その結果もたらされたベネフィットは多岐にわたる。従業員たちが医療等の社会保障の面で経済格差により不利益を被ることは皆無となった。従業員にはその出世レベルに応じた適切な社宅が提供され、従業員の子弟に施される教育は、各人の潜在能力を最大限に伸ばし人的リソースを最大化することのみを唯一の目的とした合理的システムに改善された。旧時代における、偏差値による生徒のマッピングといった無意味かつ不効率な制度は全く滅びたのである……」

 教官は教室を一巡し、教室前方のUNIX教卓前に戻った。そして教室内を睥睨し、やおら一人の生徒を指名した。

 「ヤクシマ・タマヨ=サン!」

 「ハイ!」

 ヒロコの隣の席のタマヨが起立した。ヒロコを含め、タマヨ以外の生徒全員が安堵のため息を洩らす。ヒロコは軽い罪悪感をおぼえながら親友のタマヨを見守った。教官が問う。

 「答えろ。この企業統治の時代において、法の支配に代わる秩序の根本原理とは何か」

 「ハイ! 市場原理です!」

 「デカシタ」

 教官はその答えを是とした。ヒロコは再び安堵した。教官は生徒たちに教えを垂れた。

 「市場原理こそはミエザル・テの真理を具現化し秩序をもたらす根源である。市場原理の下、企業が顧客のみならず従業員とそ家族に与える利益は単なる恩恵ではなく、対等な関係にある企業と市民を律する秩序の当然の帰結となるのだ。市民による行為の是非は、したがって、市場原理と企業倫理に照らして企業経済活動に害悪を加えるものであるか否かにより判断される。ここにこそ、貴様らがミエザル・テを体現する所属企業に忠誠を誓うべき根本的な理由がある……」

 果たしてそうだろうか。教官の説明を聞きながらも、今朝感じた違和感が再びヒロコを襲う。教官の説明は複雑だが、少なくともどこにも間違いがないように思う。それでも、なぜ疑問に思うのか自分で説明できない疑問が湧いてくるのをヒロコは抑えられない。

 その時、教官は、教室の窓際列最後尾の席で物思いに沈むヒロコに気づいた。

 「貴様! イヤーッ!」

 教官は教導シャウトとともに教卓のUNIXチョーク発射筒のボタンを押した。チョーク発射筒から射出された白チョークがヒロコの広い額に命中! ブルズアイ! ヒロコは思わず悲鳴を上げた。

 「グワッ」

 他の生徒はヒロコから目を背けるかのように教科書モニタに目を落としている。隣のタマヨだけがヒロコに心配そうな目線を向けた。教官はヒロコに命じた。

 「立て。何を考えていた」

 「あたし、その……教官のお話について考えていました……」

 「答えになっておらんな。具体的に言え」

 「……」

 言ってもいいのだろうか。自分が、持ってはならない疑問を抱いていることが薄々感じられる。教官はヒロコの答えを求めたまま沈黙する。プレッシャーに結局負ける。

 「あたしは、つまり……所属する企業やほかの企業に迷惑をかけないことでも、悪いことしたときには、罰が必要なときもあるんじゃないかな、と思って……」

 言ってしまった。今度はクラスの全員がヒロコに目を向けた。教官はしばしの沈黙ののち、重々しく宣告した。

 「貴様の発言は、社内倫理規定2条3項所定の『愛社精神の欠如』に該当する」

 「……」

 ヒロコの足が恐怖で震えだした。タマヨは泣きそうな表情でヒロコを見上げている。

 「だが、貴様はまだ若い。直ちに発言を撤回しろ。自らの過ちを自覚しているのなら、貴様の発言は聞かなかったことにしてやる」

 タマヨが胸をなでおろすのがわかった。だがヒロコは何かが自分を押しとどめるのを感じる。

 「……」

 タマヨが訝しむ目線をヒロコに向ける。ヒロコは自分でも分からない。なぜ教官の言うとおりにしない? 教官の声が一層厳しくなる。

 「どうした?」

 ヒロコは分かりかけてきた。自分の疑問は持ってはならないものだ。だが、疑問を持った自分を否定するのは、きっと、自分の中にある大切な何かを殺すことだ。それだけはしてはいけないと直感した。ならば、どうする。

 「教官!」

 いきなりヒロコは決断的に挙手した。教官は不意を突かれ、思わず再度ヒロコに聞いた。

 「どうした?」

 「あたし、トイレに行きます!」

 教室内は唖然とした生徒が半数、クスクス笑う生徒がもう半数。教官の返事を待たずにヒロコは教室を飛び出した。

 ヒロコは廊下を駆けた。トイレに行くというのは当然嘘だ。ヒロコは決意していた。要するに、疑問の原因をなくせばいい。そのために、自分の力を使う。この力を使っても必ずしも良いことにはならないことは、母親に言われなくても判っている。だが今回は、何より他人のために力を使うのだし、格別自分が何をするわけでもない。大丈夫なはずだ。

 廊下の端の階段まで来る。ヒロコは今朝の大跳躍の光景を頭に思い浮かべ、念じる。そして、下り階段の途中の踊り場に向かって跳躍した。


___________


 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力して体にかかる重力を意識する。左拳を腰の位置で固める。そして重心移動とともに幹めがけてショートパンチを繰り出そうとしたところで、カンパチの大通りからドスンという衝突音が聞こえた。

 コトブキは反射的に衝突音の方向を見た。横断歩道を渡ろうとしていた男を、西から走ってきてドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折したトラックが撥ね飛ばしたところだった。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そして被害者は、大通りを挟んだ向かいのブロックの角にあるコンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ……

 と思った矢先、コトブキは、大通りの向こうの歩道に見覚えのある制服姿の少女がいるのに気づいた。こちらに背を向けているが、髪形や背格好からすると、確か、いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女のはずだ。その少女が、コンビニの近くで棒立ちになり、被害者が落下した方向を向いている。

 すぐさま、テクノギャングかスカベンジャーらしき小グループが被害者の遺体を路地裏に運び去る。棒立ちのままの少女は、やがて振り返り、戸惑いの表情であたりに視線を漂わせる。少女と目が合う。


___________


 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力し左拳を腰の位置で固めたところで、大通りの向こうでちょっとした騒ぎが起きているのに気づいた。いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が、交差点角のコンビニの近くでいきなり通行人の貧相な男の襟首を捕まえたのだ。その男が渡ろうとしていた横断歩道を、ドリフトせんばかりの勢いで右折トラックが通過していった。

 あの少女は一人の命を救ったのだとコトブキが感激したのもつかの間、今度はテクノギャングの一団が少女と男を取り囲んだ。どうやらテクノギャングは追い剝ぎか何かの目的であの男を追っていたらしい。だが、少女は両手を広げて仁王立ちになり、貧相な男を背中にかくまっている。

 ハラハラしながらコトブキが見守る中、少女は一歩も引く様子を見せない。何たる義と勇の心。やがてテクノギャングたちは、諦めた様子ですごすごと退散していった。

 コトブキは、このサツバツたるネオサイタマの街で正義がなされた光景に心を熱くした。明日、もし明日が雨なら次の晴れた朝、必ずあの少女に会いに行ってトモダチになろうと即座に決意した。心地よいカタルシスに突き動かされ、無意識のうちに軽く左拳で傍らの菩提樹の幹を突く。

 パン

 コトブキは不思議な感触に戸惑い、自らの左拳を見つめた。まるで水面を突いたような手ごたえの無さ。突きが命中した点を中心にさざ波が広がり、菩提樹の幹を、枝を、葉をサラサラと揺らす。さざ波のような振動は同じく地を伝ってコトブキの足を震わせ、アオザイの裾を浮き上がらせて胴を伝い、頭部に達した。ツインオダンゴにまとめていた髪がほどけてふわりと肩に落ちた。

 戸惑いが残ったまま、ふと大通りの向こうを見ると、命を救われた男が少女にペコペコと何度もオジギをしたのち、左右をよく確認してから横断歩道を渡って西に消えていった。

 コトブキは我に返って師父を見た。師父の顔からいつもの笑みが消えていた。師父は目を見開き、コトブキの目を見据えて、力強く頷いた。たちまちコトブキは破顔し、師父の反応速度を超えたスピードで師父を両腕ハグしてそのままクルクルと回転した。師父は足が宙に浮いた状態でしばらくコトブキに振り回された。


___________


 同日午後3時。スゴイテック社立ネオサイタマ第一高校。時計台を備えたコンクリート4階建ての校舎の3階、2年B組では、この日最後のカリキュラムである「愛社精神」の授業中だ。

 「……このように、旧時代における法治国家というものの実態とは、誰の利益も代弁しない、市場におけるプレーヤーとしての意識を全く欠く官僚組織による権力の独占であった……」

 スキンヘッドの鬼軍曹めいた教官が、教科書を朗読しながら、サイバー学習机が整然と並ぶ教室内を歩く。生徒たちが各々のモニタに表示された教科書テキストを黙読する中、ヒロコは生まれてこのかた数知れず戦い、しばしば敗北してきた宿敵、すなわち睡魔と対決していた。

 前回のやり直しの際に、あの男が、自分が何もしなくても勝手にあっさりと死ぬ運命にあったとことを知り、ヒロコは最初は呆れ、次いでむやみに腹が立った。しかし、他人が目の前で死ぬ運命にあることを知ったという事実は、知らず知らずのうちにヒロコの心を重くした。昼休みの時間に、ベントーの箸が進まないのを見たタマヨにずいぶんと心配された。それは、最初に今日のベントーを食べたときと同じだった。だから、ヒロコはまた力を使うことにした。

 今回の今朝は正直怖かった。水兵服に刺繍された企業ロゴを見ればあのギャングたちは手荒な真似はできないだろうという計算はあったが、実際にどうなるかはやってみなければ分からない。結果的にあの男を守りきれた時は、心底、自分と家族が帰属するメガコーポに感謝した。同じベントーを3回食べるはめになったが、3回目が一番オイシイだった。ダイエット中だというタマヨが持参していたオニギリの大半まで平らげてようやく満腹になり、結果、今まさに睡魔に敗北しつつあった。

 教官は教室を一巡し、教室前方のUNIX教卓前に戻った。そして教室内を睥睨し、うつらうつらしているヒロコに気づいた。

 「貴様! イヤーッ!」

 教官は教導シャウトとともに教卓のUNIXチョーク発射筒のボタンを押した。チョーク発射筒から射出された白チョークがヒロコの広い額に命中! ブルズアイ! ヒロコは思わず悲鳴を上げた。

 「グワッ」

 他の生徒はヒロコから目を背けるかのように教科書モニタに目を落としている。隣のタマヨだけがヒロコに心配そうな目線を向けた。教官はヒロコを叱責した。

 「なにを寝ぼけている。起立しろ。涎を拭け」

 男子生徒の大半と数人の女子生徒が反射的にヒロコを見た。ヒロコは立ち上がり、負傷したボクサーめいてこぶしで口元をぬぐった。教官はしばしの沈黙ののち、重々しく宣告した。

 「貴様の態度は、社内倫理規定2条3項所定の『愛社精神の欠如』に該……」

 その時、教室前方のUNIX大スクリーンと生徒たちのサイバー学習机のモニタの全てが一斉にブツンと音を立てて、コマンドプロンプト画面めいた黒一色に変じた。教官は目をしばたたいた。教室中がざわめきはじめたところで、教室前方のUNIXスピーカーから旧世紀ドラムマシンの単調なリズムパターンが流れ出した。

 ドンツクドンツクドンツクドンツク……教室は一瞬にして不気味なアトモスフィアに支配された。不意にすべてのモニタが復帰したが、そこには見知らぬどこかの空間が映し出されていた。真上からの弱々しい照明がコンクリート床に立てられたマイクスタンドを照らしている。よほど広い空間なのか、柱が立ち並んでいるのがおぼろげに分かる以外、背景はほとんど闇に沈んでいる。そして、貧相な男がフレーム外から現れ、マイクの前に立って謎めいたチャントを唱えた。

 「アーテステス、チェクワンツー、ワンツー」

 その途端、モニタに「ドンツク大きい」、「やまびこ」といった意味不明のIRCコメント弾幕が流れる。明らかに不穏なカルティストの暗号めいたコメントと、何よりも、その男の姿にヒロコは戦慄した。真上からの照明ではマイクの前で俯く男の顔かたちはほとんど見えない、というより、あのサイバーサングラスをつけていない。しかし、男の「量子が憎い」とプリントされたTシャツにははっきりと見覚えがあった。

 ドラムマシンの音量がやや低下する。教室中がモニタに映る光景を見守る中、貧相な男はフレーム外に消え、かわって修道士めいたローブをまといフードを目深にかぶった長身の男がマイクの前に立った。ローブの男は何やら話し始めたが、ほとんど聞こえない。モニタに再び「マイクとおい」、「巻数」、「シマッテコーゼ」等のカルト暗号IRCコメント弾幕。

 ローブの男は身をかがめて、マイクスタンドの継ぎ目スクリューを緩め、スクリューより上の部分を伸ばして、マイクが口の高さになるように調節し、継ぎ目スクリューを締め付けた。だが、締め付けが弱かったらしく、男がマイクから手を離したとたんに継ぎ目から上がゴトリと音を立てて落下し、マイクスタンドは男の腰の高さまで縮んだ。たちまち様々な大きさ、様々なフォントで無数の「草」のカンジが滝のように流れてモニタを埋め尽くした。

 今や教室内は完全に恐怖で凍り付いていた。あの教官ですら例外ではなく、顔面を引きつらせ、一言も発することができない。モニタ内、ローブの男はマイクスタンドからマイクを外して右手で直に保持した。ドラムマシンのリズムパターンが変化する。ドンツツック、ドンツツクツ、 ドンツツック、ドンツツクツ……暗黒原始宗教の生贄儀式めいたリズムをBGMとしてローブの男が再び話し始めた。

 「きこえますか……私はいま、あなたのUNIXに直接はなしかけています……」

 猟奇! 大規模UNIXハッキングテロ! 恐怖を上回る衝撃に、幾人かの生徒が早くも失禁した。ローブの男はオジギし、更なる猟奇犯行声明を続ける。

 「私は、ペケロッパ・カルト、ネオサイタマ中央第四ネストの導師、アルケミーです。今日は神聖なるペケロッパ神の福音をお伝えするために、特別に話をすることにしました……今この時から、穏やかな1bitの世界への退行がはじまることをお知らせします。量子的なゆらぎや偶然性に左右されない、あるべきものだけががあるべきようにありのままに存在する新しい宇宙の誕生です。新しい宇宙への移住をご希望のかたは、画面下に表示されている公式IRCチャネルにメッセージをお送りいただくか、公式IRC-SNSアカウントに直リプをお送りください」

 全く意味が分からない。教室内の誰もが周りの者と顔を見合わせていた。モニタには、アルケミーという名の狂人の姿を覆い隠す勢いで、ハンドクラップやパーティークラッカー、クスダマなどの図柄のスタンプが表示されている。

 「ねえ、これって……」

 タマヨがヒロコにささやきかける。ヒロコが、これは単なる悪ふざけだと答えようとしたその時。

 「レンキン・ジツ! イヤーッ!」

 モニタ内のアルケミーがシャウトとともに胸の前で両掌を打ち鳴らした。本来はドヒョー入りかシントー・シュラインでの祈祷の際に行われる神聖な動作、カシワデである。生徒たちは再び驚きと共にモニタを見た。邪悪なカルティストはカシワデ姿勢で静止している……何も起こらない。教室内に安堵の声が広がり始める。

 だがその時、全モニタが再びブラックアウトし、2秒後に画面が復帰した。今度は大小さまざまな種類の魚が泳ぐイケスの映像である。だが、ただ魚が泳ぐだけの光景であるにもかかわらず、ヒロコはその映像により正気を削られるかのような感覚をおぼえた。幾人かの生徒が新たに失禁した。そして破滅が始まった。

 さきほど教官から居眠りを咎められてから突っ立ったままだったヒロコの横顔を閃光が照らした。反射的に窓の外を見る。1マイルほど離れたところで爆発が起こっていた。数秒遅れて地響きのような振動が伝わり校舎の窓ガラスを揺らす。異変に気付いた教官や他の生徒たちも立ち上がり窓の外の光景に目を向ける。次々と新たな爆発が起こった。UNIXの大規模な不具合により、ネオサイタマ各所のジェネレータが暴走しているのだ!

 そして、校庭の中央部分が盛り上がり始め……轟音とともに巨大な火柱を吹き上げた! 校庭の地下に設置されたジェネレータの爆発である! 企業テロに備えた強固な防弾防爆強化窓ガラスのおかげで教室内に被害は及ばなかったが、生徒たちは反射的に各々のサイバー学習机の下に避難した。

 ピーピキピーピキピーピキピーピキ、キュンキュンキュンキュンキュン……校舎全体に特徴的なアラート音が響き渡る。災害時緊急避難プロトコルが発動したのだ! すぐさま教官はUNIX教卓の赤色緊急ボタンめがけ、強化プラスチックのカバーの上から拳を叩きつけた!

 「イヤーッ!」

 たちまち生徒たちのサイバー学習机の天板がパカリと開き、中から防災頭巾、防災ラジオ、ハードビスケット、蒸留水のボトルといった災害キットが現れた。続けて教官が号令をかけた。

 「総員! スタンバッテオケ!」

 「「「「「ハイ!」」」」」

 生徒全員が机の下から這い出て起立し返事をした。これ以上の詳細な指示は不要である。地震、台風、ツナミ、カイジュウなどの自然災害に先進国としては異例な頻度で襲われる日本では、学校や企業、ヤクザクランまでもが日常的に災害遭遇時の避難訓練を行っている。

 生徒たちは普段の訓練通り、防災頭巾を被りその他の災害キットを収めたキンチャクを腰に装着して廊下に整列し、おろした腕の肘を90度曲げて指先を前方に向ける姿勢をとった。クラス全員が整列を終えた段階で、教官の指示に従い校庭あるいは体育館といった然るべき避難先に向かう手筈である。早くも整列を終えた別のクラスは、学級委員の合図に合わせ、学籍番号順、名前順、身長順と自在に整列の順番を変更しながら点呼をとっている。

 だがヒロコは、既に、今回に限って異変が起きた原因をさとっていた。防災頭巾を被ったまま、しばし考え、そして決断した。

 ヒロコは教室から飛び出し、クラスの整列には加わらずに廊下を駆けた。そして、廊下の端の階段に至る。跳躍。


___________


 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力したところで、大通りの向こうでちょっとした騒ぎが起きているのに気づいた。いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が……コトブキのトモダチの少女が……いや、トモダチになるのは明日だったはず……突如ニューロン内に矛盾した複数の想念がわきあがり、コトブキは戸惑った。とにかく、その少女がコンビニの近くでいきなり通行人の貧相な男の襟首を捕まえたのだ。

 次にテクノギャングの一団が少女と男を取り囲んだ。少女は両手を広げて仁王立ちになり、貧相な男を背中にかくまう。やがてテクノギャングたちは、諦めた様子ですごすごと退散していった。コトブキは一時の戸惑いを忘れ、心地よいカタルシスに突き動かされて無意識のうちに軽く左拳で傍らの菩提樹の幹を突いた。

 パン

 コトブキは、今度は不思議な感触に戸惑い、自らの左拳を見つめた。まるで水面を突いたような手ごたえの無さ。突きが命中した点を中心にさざ波が広がり、ツインオダンゴにまとめていた髪がほどけてふわりと肩に落ちた。

 戸惑いが残ったまま、ふと大通りの向こうを見て、コトブキはわが目を疑った。あの少女が、何故か、どこから持ってきたのかロープまで持ち出して、今しがた助けたばかりの男を相手に大立ち回りを演じていた。自分で助けた男をあのロープで縛ろうとしているのか?

  コトブキは師父を見た。師父はいつもの笑みを消して目を見開き、コトブキと同様に通りの向こうの光景を見て困惑していた。ややあって、師父はコトブキへと振り返り、しばしコトブキと無言で見つめ合った。そして、困惑の表情のまま、コトブキに向けておずおずとサムアップした。

 コトブキもまた迷った末、師父に向かい拱手包拳オジギをして師父の前から退き、カンパチの大通りを渡る横断歩道を目指して走り去った。


_____________


 夕刻。キタノ・スクエアビル1階の通りに面したテナントに入居する「ピザタキ」。夜の営業にはまだ早く店内に客はいない。店主らしき男がカウンター内で低いスツールに座りゲイシャポルノ雑誌に目を落としている。

 チリン。入口ドアの風鈴が鳴りコトブキが入店する。首から上だけをカウンターの上にのぞかせた店主は、あからさまにペケロッパ・カルト信者じみた奇怪なサイバーサングラス着用者と制服少女という胡乱な組み合わせの新顔をコトブキが背後に従えているのを見て、ため息とも呻きともつかない声を上げた。

 しばらく宙を睨んだのち、店主はあらためて新顔たちを見た。ご丁寧なことに、ペケロッパ者の両手首は体の前でロープで縛られ、そのロープをコトブキが保持し連行している格好だ。店主は諦めの表情を浮かべつつも、新顔たちを先導する狂ったオイランドロイドを咎めた。

 「コトブキ! てめえ今度は何を……」

 コトブキは店主の顔にむかって手のひらをかざして彼の罵声を遮り、そして、なぜか誇らしげな態度で宣言した。

 「タキ=サン、大変です。タイムリープ者を見つけました!」






#1

 場末の薄汚い外観のピザ屋「ピザタキ」に連れてこられたことで、ヒロコの困惑はこの日の頂点に達した。

 もう4度目になる今朝、哀れなペケロッパ・カルト信者を「保護」しようと悪戦苦闘していたところで助太刀に現れたのは、あの変わった、綺麗な人だった。その人は、見た目からは想像もつかない腕力を発揮して、たちまちペケロッパ信者の手首を縛りあげた。その時は驚きよりも嬉しさがはるかに上回ったが、その後は困惑の連続だ。

 歩道に突っ立っていても仕方がないので、その人の提案でオールド・カメ・ストリートに移動し、緑地帯の適当なベンチに陣取って自己紹介をした。その人は「ドーモ。コトブキといいます」と名乗った上で、「実はウキヨなんです」と付け加え、両手で自分の両目を指さした。コトブキの瞳には、たくさんの羽を生やした天使のような図柄が刻印されていた。コトブキが「ウキヨ」であるという事実以上に、時折発生する「ウキヨ」による凄惨な殺人事件の報道やその他の「ウキヨ」に関する噂話からかけ離れた、妙に調子が外れたコトブキの人懐っこさにヒロコは困惑した。

 何より困惑したのは、ヒロコが事情を説明したときだ。ヒロコが、正気を疑われる覚悟で(最初は自分がこのペケロッパ者に衝突して死に追いやったことは省いて)ことの経緯を説明すると、コトブキはヒロコの力について全く疑おうとしなかったどころか、「やっぱり!」と嬉しそうに笑った。理由を訊くと「ヒロコ=サンを見た時になんとなく分かったんです」と答え、さらに「映画でも見ました」と付け加えた。

 「保護」したペケロッパ者にも困惑させられた。噂には聞いていたが、実際に話すと噂以上に奇怪だ。何を聞いても「ペケロッパ」としか答えない。伝えたいことがあれば、なぜかサイバーサングラスのLED電光表示パネルに表示される。一応、感情はあるようだ。3度目の今日の午後3時すぎにペケロッパ・カルトを名乗る者が大規模UNIXハッキングテロを起こした様子を説明したときには、血相をかえて「ペケロッパ! ペケロッパ!」と繰り返した。サイバーサングラスを見ると「なぜ知っている」の表示。そして、善後策を考えるために、実際には何の目的で何を行おうとしていたのかと訊くと、重々しく「ペケロッパ」と言ったきり、何も答えなくなった。サイバーサングラスには「黙秘する」の表示。

 仕方なく、乏しい手がかりをもとにコトブキと相談したが、コトブキの提案は何かにつけて、映画における成功率を根拠としたものだった。そして、そのどれもが映画的な非現実的なものだった。ニンジャに頼ろうとコトブキが言い出したときには、内心、頭を抱えた。メガコーポやヤクザクランが、ニンジャ--今でもその実在を疑う声が絶えない、超自然的な戦闘力を持つという恐るべき暗殺者--を雇っているという話はヒロコも何度か聞いたことがあるが、まさかコトブキがニンジャを雇っているはずがない。だいたい、(ニンジャについて真剣に考えている時点で非常識かもしれないが)常識的に考えて、こんなことに手を貸すニンジャなどいるのか?

 自分でも方策を考えたが八方塞がりだ。企業警備員に告発したところで、ヒロコ自身がわざわざ狂ったウキヨと結託して哀れなペケロッパ者を引っ立ててきた狂人と思われるのがオチだ。そもそもこのペケロッパ者は、厳密には誰にも何にも未だ危害を加えいてないのである。そして、実際にことをしでかした時にはもう手遅れだ。

 そうこうするうちに昼食時となった。ヒロコは持参していたベントーをコトブキとシェアした。ベントーの中に、ノリとゴマでモチヤッコの顔をデザインしたオニギリがあるのを見つけ、コトブキは感激した様子で「カワイイ」を連発した。そして、携帯IRC端末を取り出してオニギリがフレームに入るように調整して自撮りし(コトブキから一緒に写るよう求められ、ヒロコは応じた)、画像データをSNSにアップした。ヒロコ自身の端末といえば、面倒事を覚悟していたので、先の跳躍後から電源を切りっぱなしにしている。

 ベントーだけでは足りないので、コトブキはストリートに面した軽食堂からチャとともにギョーザやクレープを買ってきた。コトブキはペケロッパ者にもギョーザを食べさせ、ストローでチャを飲ませた。「アーンしてください」と言われて口を開けるたびに口にギョーザを入れられ咀嚼するペケロッパ者は満更でもない様子だった。そのことが妙にヒロコを苛立たせた。それから、本来マシンであるはずのコトブキがクレープを食べる様を違和感なく受け入れている自分に気づいて自分に呆れた。

 そこで、何とはなしにコトブキの素性を聞こうと話を振ったのが大失敗だった。コトブキがかつて、何故か旧世紀映画のライブラリに監禁されていたという話は、まあいい(あれほど映画にこだわる理由がこれで分かった)。そこから先は、監禁ルームを脱出するきっかけとなったニンジャとニンジャの死闘! 恐るべきソウカイヤ(ネオサイタマで最も強大なヤクザクランのひとつであることはヒロコのような一般市民でも知っている周知の事実だ)が放ったニンジャエージェントからの逃走劇! 

 自由となったコトブキは世界を股にかけて悪を成敗する! 彼女を助け傍らで共闘するのは、凶暴なるジゴクの猟犬のごとき赤黒のニンジャ、ニンジャスレイヤー!(なぜニンジャがわざわざコトブキを助けるのかは、コトブキの話を聞いても今一つ理解できない。設定が甘いのだろう。彼女のニンジャに関する執拗なこだわりも謎だ)

 コトブキと仲間たちの活躍に刮目せよ! 闇のヨグヤカルタ(そんな名前の街が本当に世界のどこかにあるのだろうか?)を舞台としたニンジャとニンジャの死闘! なぜか場末のピザ屋に現れた恐るべきニンジャとニンジャの死闘! コトブキを襲う最大のピンチ! そして、こともあろうに世界遺産のプラハのお城を舞台としたニンジャとニンジャの死闘! 異次元から謎のニンジャ空中戦艦が侵攻! それに加え、邪悪なニンジャに監禁されたヒロインと、愛ゆえに危険を冒して救出を試みる魔術師にして詩人のニンジャとのロマンス! コトブキ自身もまた、愛ゆえに戦うニンジャのために立ち上がる! 漆黒のドレスに身を包んだコトブキがガトリングガンを構え巨大ゴーレムの肩に仁王立ち! 邪悪なニンジャの大軍勢めがけぶっ放す!

 ……ヒロコはコトブキの想像力の豊かさに感心しつつも、完全に呆れ果てた。ウキヨの電子のニューロンというものは、こういった妄想をするのが人間よりも得意なのだろうか……実際には、コトブキの語る身の上話(?)にいつしか完全に引き込まれていたのだが、そのことに気づいて、最低限の自分のプライドを守るために、呆れ果てることにした。だが同時に、コトブキのトモダチになりたいと思った。

 気が付くと、とうに時刻は午後3時を過ぎていた……何も起こらない。やはりこのペケロッパ者が鍵なのは間違いない。だが、どうするのか。解決策が見つかるまでどこかに監禁でもするか? そんな場所はどこにも心当たりがない。まさか自宅に連れ帰るわけにはいかない……悩むヒロコを見かねたコトブキの提案が「頼りになるひと」がいるという場所に行くことだった。

 挙句、地下鉄を乗り継いでたどり着いたのがこの薄汚い外観のピザ屋だった。先ほどのコトブキの「身の上話」に出てきた店のことを思い出して、ヒロコは微かに不安をおぼえた。


#2

 ヒロコはコトブキと同じテーブルについて、店内を見渡した。外観から予想したよりも店内は清潔、というより最近になってあちこち補修したようだ。補修は雑で、壁や床のあちこちがまだら模様になっている。

 客らしき者はいない……と思ったら、隅のテーブルに異様な男が一人。ゲームやアニメでよくあるファンタジー世界の旅人のような服装の、マントのようなコートをまとった黒ずくめの男だ。長靴をはいた猫みたいな帽子をかぶったまま、紙片になにごとか書きつけている。ヒロコは、現実に羽ペンを使っている人間を生まれて初めて見た。さっきのコトブキの「身の上話」に登場した魔術師だかなんだかを思い出す……まさか。ヒロコは深く考えないことに決めた。

 それから、ヒロコは、コトブキがつい先ほど「タキ」と呼んだ、カウンターの中からヒロコを胡散臭げな目で見るガイジン--名前や、言葉にガイジン訛りがないところからするとハーフガイジンか?--を見つめ返した。こいつが「頼りになるひと」なわけがないのは外見から明らかだ。人を外見で判断してはいけないという大人の説教は実際大嘘だとヒロコは信じている。よほどの事情がない限り、人は大抵の場合、外見通りの人間だ。

 ヒロコは「タキ」を観察する。だらしなく伸ばして真ん中分けにした脂じみた金髪。胡散臭さをなみなみとたたえた青い目に無精髭。一言で言って薄汚い。目鼻立ち自体からすればなんとかすればどうにかなりそうなのに、肝心の本人がどうにもこうにも自力でするつもりがないのが外見から明白だ。要するに、何でもかんでも他人のせいにして自分ではロクに何もしないタイプ。判定: 論外。

 その「タキ」は、ひととおりジロジロとヒロコたちを睨め付けてから、コトブキに訊いた。「……で、こいつらのどっちがタイムリープ者だって?」ちゃっかりコトブキの隣の椅子に座っていたペケロッパ者が憤懣の声を上げた。「ペケロッパ!」その意味を完全に取り違えて、タキは真顔でコトブキを見た。「お前、こいつと喋れるのか?」

 コトブキはタキに対する軽蔑を隠そうともせずに答えた。「何言ってるんですか? 貴方の自我が心配です。こちらのヒロコ=サンがタイムリープ者です。見てわからないんですか?」タキはほとんど憐れむような目でヒロコを見た。「嬢ちゃんな、こいつは、この通りのあほなんだ。何のアニメに毒されてんのかは知らねえけどよ、あんまりこいつに妙なこと吹き込むのはやめてくれねえか?」何を言い返してもこいつに馬鹿にされるだけだと分かって、ヒロコは押し黙った。その時。

 「なんと、この目でタイムリープ者を目にする日が来るとはな」いつのまにか、ヒロコたちのテーブルの傍らに、あの黒ずくめの男が立っていた。タキは苛立ちを露わにした。「おいオッサン、頼むからヤメロ。アンタまで絡むとますますワケがわからねえ」

 だが男はタキを完全に無視して、帽子を胸に当ててヒロコにアイサツした。「ドーモ。コルヴェットです」コトブキが付け加えた。「愛ゆえに戦う詩人です」コルヴェットは苦笑した。「そのことはそろそろ忘れてくれんかね?」ヒロコは深く考えないようにしながら言葉を返した。「ど、どうも」

 タキが全員を睨んだ。「オレには分かってんぞ。お前ら揃いも揃って本気でタイムリープがどうとか世界の危機だとか相談するつもりだろ。マジでお願いだから、アタマおかしくなりそうな話はどっか余所でやってくれ」

 コルヴェットはさも意外そうに眼を丸くして見せた。「何の不思議がある? オヒガンの彼方にアクセスし時空を遡行するジツであれば、珍しいものではあってもだ、決して魔術的には不可能ではないぞ?」……ジツ? 魔術? ヒロコは深く考えないようにした。タキは声を荒げた。「そういうことじゃねえよ! オレが言いてえのはだな、ここはオレの店だッてことだ!」

 「さすがです。コルヴェット=サンは話が分かる大人です」コトブキは笑みとともにタキを半目開きで見た。「貴方も見習ってください」ヒロコの内にタキへの同情の念が湧いてきた。普通に考えれば、ヒロコの話を鵜呑みにする人のほうがよほどおかしいのだ。だが、タキがヒロコに向ける非難の目を見て、ヒロコはタキに同情するのをやめた。

 コルヴェットは再び苦笑した。「あまり俺を持ち上げんでくれ。実際、どうしてそんなことが可能なのか俺にも分からんのだ」それはそうだ。ヒロコ自身にも母親にも、仕組みは全く分からない。「だが世界には、時間どころか次元を超えて現れるニンジャすら存在する。数少ないものの、大異変前の、確実な出現の記録が残されている」なぜかコトブキがピクリと反応した。

 「俺が言ったのも、そのニンジャに比べれば、タイムリープのジツのほうがよほど現実的だというだけの話よ」ニンジャという言葉も現実的とはなにかということも深く考えないようにしながら、ヒロコはコトブキを見た。ヒロコの視線に気づき、コトブキはあわてて言った。「なんでもありません」そして、急に何かを思い出した様子で続けた。「それよりも」

 「それよりも?」ヒロコがおうむ返しで訊いた。コトブキは深刻な表情を浮かべた。「ヒロコ=サンから話を聞く前だったのに、わたしにもなんとなく分かったんです。デジャヴ……っていうのとは似てるけど全く逆で、同じことが起こるというよりも、なぜか違うことが起こってるっていう感じがしたんです」

 「ふむ……そうであるなら、何かしら説明がつけられるかもしれん」コルヴェットは心底面白がる顔になった。コルヴェットは空いている椅子に座って内ポケットから手帳を取り出し、真新しいページを開きヒロコたちに示して、そこにペンで一本の線を引いた。

 「つまりこうだ……お嬢さんのジツは時空を丸ごとやり直すような大掛かりなものでははく、あくまで記憶や体験といった情報だけを過去に送るものだとする」直線上の右の一点から左の一点に向かう、弧を描く矢印を書く。「そして、過去のお嬢さんが異なった行動をとることにより、世界線が分岐する」左の点から右下に向かって、最初の直線から枝分かれした斜めの直線を引く。

 「そして、コトブキ=サンは、何らかの形で、間接的にしろ、枝分かれした世界線の両方を認識する」最初の横線と斜め下への直線の両方にまたがる楕円を書く。「でも、どうやって?」コトブキが首を傾げる。

 「一部の魔術師による研究途上の話ではあるんだがな、オイランドロイドは、オヒガンの彼方にある集合意識にアクセスすることで自我を得る……つまりウキヨとなるという」コトブキは目を寄り目気味にして視線を上方に漂わせた。「そんなことが……あったような気もします」

 コルヴェットは足を組んで背もたれにもたれかかった。「何しろ自我に目覚めた瞬間を自覚するウキヨなぞおらんから、ウキヨから話を聞いたところで、研究はなかなか進まんみたいだな。ただ、大異変の直前、初めてウキヨらしき存在が記録されたころには、どうやらその集合意識を通じて、『感情のアップデート』が行われていたそうだ」

 コルヴェットはニヤリと笑った。「実は俺も記録映像を見せてもらったことがあるんだがな、大異変の直前、人気オイランドロイドアイドルが、いきなりステージ上で観客とライブ中継カメラに向けて両手の中指を突き付けたのよ」コトブキは口を覆った。「まあ!」

 「あれは確かに見ものよな。そのころを境に、無数のオイランドロイドが暴走する事件が起こった。そのうちの多くの暴走オイランドロイドが、当時ネオサイタマで発生した同時多発的暴動市民に同調する動きを見せた。暴走したオイランドロイドのいくつかは自我があるかのような振る舞いをしたと記録されている」ヒロコは置いてけぼりの感覚を味わう。魔術とは性的ドロイド研究のことをいうのか?

 「それがどうして、わたしが世界線? の違いが分かることになるんですか?」コトブキの質問を受けて、コルヴェットは椅子に座りなおして身を乗り出した。「そこよ。そこがまさに幾人かの魔術師がウキヨに強い関心を寄せる理由につながる。命なき被造物に自我を宿す秘術。だが、感情とはなんだ? 感情それ自体を情報として伝えられるものか?」さっきから、なぜ「感情」の話をしているのか。ヒロコの困惑をよそにコルヴェットは続ける。

 「感情とは、そもそもが状況に対する心的反応だ。ゆえに、他者に感情というものを伝える際は、必ず『体験』がセットになる。『悲しい』という感情がどういうものなのかを説明する言葉を尽したところで『悲しい』という感情を真に理解することはできぬさ。いや、理解ではないな。獲得だ。そのために必要なのは、ある自我に『悲しい』という反応をとらせた体験の共有だ」

 コトブキの期待の眼差しを楽しむかのように一呼吸おいた後、コルヴェットは続けた。「つまり、俺の仮説は、こうだ。オイランドロイドの、あるいはウキヨの集合意識というものは、オイランドロイドやウキヨから体験のフィードバックを受け蓄積する存在だ。これを通じて集合意識は何らかの成長あるいは進化を行い、また、その成果を分身ともいうべきウキヨたちに注ぐ。そしてその集合意識はオヒガンの彼方、つまり時間軸が、というより時間が流れる方向、時間の在り方それ自体が現世と異なる時空にあり、したがって、現世の世界線をまたいでアクセスしうる存在ということになる。要するに」

 コルヴェットはコトブキを見据えた。「お前さんの感じた感覚の正体は、オヒガンの彼方にある集合意識を通じた、異なる世界線をまたいだ異なるお前さんの体験の共有だ」

 「わかります」コトブキもまた真剣な面持ちでコルヴェットを見た。「つまり、わたしは異なる世界でもヒロコ=サンと出会う運命なのですね?」そういうことなのか?「いや、お前さんには悪いが、お嬢さんと出会ったり出会わなかったりするということだな」

 「それは違うと思います」コトブキは即座に断言した。「ヒロコ=サンに出会うかどうかは、わたしが決めるからです。わたしには自我があります」そしてヒロコに向き直り微笑んだ。「だからわたしは、ヒロコ=サンのトモダチです」なぜかヒロコは涙が出そうになった。タキが悪態をついた。「フ****(4文字抹消)トモダチ同士でそろそろどっか遊びにでも行けよ」コトブキが表情を一変させタキを睨んだ、その時。

 チリン。入口ドアの風鈴が鳴り、長身の青年が入店した。手には齧りかけのヤキイモ。「タキ=サン、調べ物だ。今す……」入り口近くのテーブルに陣取るコトブキたちの中に胡乱な組み合わせの新顔がいるのを見て立ち止まり、青年の言葉が途切れた。コトブキが青年に説明した。「タイムリープ者を見つけたんです」

 青年はヒロコとペケロッパ者を見比べた。ペケロッパ者が憤懣の声を上げた。「ペケロッパ!」その意味を完全に取り違えて、青年は真顔でコトブキに訊いた。「こいつと喋れるのか?」「そんなわけありません! どうしたんですか? 今日は何だか変ですよ?」コトブキはフライトアテンダントめいて手のひらでヒロコを示した。「ヒロコ=サンです」ヒロコは無言。

 青年は訝しむ表情をタキに向けた。タキは喚いた。「お前何だその目はよ! 何でオレのせいだって決めつけんだ!? だいたいそこの、オイランドロイドのくせに前後の一つもやらせてくれねえイカレポンコツだって、元はといえばお前が……」

 コトブキが立ち上がり、決断的にタキを指さした。「タキ=サン! 貴方さっきから何ですかその言葉遣いは! 女の子の前ですよ? だから貴方はいつも、いつまでもダメ野郎なんです」タキが喚き返す。青年は罵声の応酬を無視して、ヒロコたちのテーブルから離れたカウンターの端の席に腰掛ける。そして、その光景を見るヒロコの耳には、タキとコトブキの声は全く届いていなかった。

 読者に説明せねばなるまい。若年の日本人女性の大半は、日頃から日本の伝統的価値観に基づく厳格な貞操観念に縛られているが、心惹かれる異性との出会いによりしばしば心理的抑圧のタガが外れ、その反動で極度の興奮に襲われニューロンが異常高速回転する極限状態となる。

 そしてヒロコは、先ほど入店してきた青年を見たまさにその瞬間、この極限状態に陥っていたのである!


#3

 ヒロコは、青年が入店したとたんにその佇まいに気付き、固まった。年恰好からすると歳はヒロコとは大きく違わないはずだ。大学生くらいか。実年齢よりも若く見えるだけかもしれないが。何の飾り気もない黒い短髪。ヤキイモを持つ指は長い。身を包むシンプルなパーカーと細身のカーゴパンツは一種のファッションという言い訳が通用しないほど綻んでいる。そんないでたちなのに、凛としたアトモスフィアを放っている。

 そして、青年のまなざし。まだあどけなさがわずかに残るといってもいいほどの顔立ちなのに、そのまなざしには、繊細さと、ある種の凄みといったものが同居しているのだ。やがて、ヒロコを見つめる青年と目が合い、ヒロコの観察眼は青年の睫毛の意外な長さを捕捉する……!

 ……ヒロコの意識から強制的に接続を切られた、ヒロコの理性をつかさどるニューロンの領域では、この時、カートゥーン描写されたヒロコが両腕をブンブン振って、視界モニタいっぱいに表示された「大好物」の三文字をかき消そうとしていた。視界モニタの横に設置されているのは、頂点にハートマークを備えた何らかの縦棒グラフ型インジケータ。その数値は早くも50ポイントに達している……そして…… 今まさに、超自然の煌きが満ちるヒロコの視界の中、青年がスローモーションでヒロコに向かって振り向く……!

 ……現実レイヤーにあるその青年は、カウンターに腰かけ再びヤキイモを齧ろうとしたところで、異様な視線を感じて振り返った。そして、口を半開きにしたままあたかも大好物を見るかのような視線を彼に向けて放っている新顔の少女に一瞬たじろいだ。青年は素早く状況判断を行い、自らの手の中にあるヤキイモを見た。何らか得心した表情を見せた青年はヤキイモを半分に折り、口をつけていない下半分を包装紙ごと少女に放った。

 ヒロコは、無意識のうちに両手でヤキイモを受け止めたところで我に返った。そして、直ちにニューロンの理性の領域に意識を向けて、カートゥーンヒロコとニューロン内協議を行った。このヤキイモはどういうことだ? なぜあの視線の意味をここまで誤解できる? あの人は相当なあほだ……その事実が逆にインジケータの数値を75ポイントにまで押し上げたため、カートゥーンヒロコはすぐさま警報を発令した。あの人のようなあほにヒロコが陥落してしまったら、めんどくさいことになる。カートゥーンヒロコは、低頭身の小カートゥーンヒロコの軍勢を招集し、城壁の防備を固め始めた。

 その時、コトブキがヒロコに声をかけた。「ヒロコ=サン、それ大好物なんです」ヒロコはその声にぎくりとしてコトブキを見た。コトブキが続けた。「半分もらえますか?」焦った。ヤキイモのことか。「も、もちろん。どうぞ」ヤキイモを更に半分に折り、コトブキに渡した。コトブキはヤキイモを頬張って目を細め、幸福そのものの笑みを浮かべた。「オイシイです」

 ヒロコも、自分で勝手に感じた気まずさを紛らわそうとヤキイモを齧った。ヤキイモを咀嚼するコトブキを見るうちに、急に場違いな疑問が浮かんだ。そんなことを訊くのは明らかにシツレイだと分かっていたはずなのに、つい小声で訊いてしまった。

 「コトブキ=サン?」

 「なんですか?」

 「……コトブキ=サンって、その……食べたあと……するの?」

 にわかにコトブキの表情が掻き曇った。ヒロコは失敗を覚った。すぐさま謝ろうとしたヒロコにコトブキが先んじて、悲しみの表情とともに答えた。

 「わたしには、ヤキイモを食べたあとおならをする機能はないです」

 ヒロコは口を開きかけたまま目をパチクリさせた。理解に数瞬を要した。そして、理解した瞬間「ぷっ!」爆笑した。「プッハハハハ! アハハハハハ!」コトブキは頬を膨らませた。「どうして笑うんですか!?」

 「ゴメン、コトブキ=サン、あたしがきいたのは、そういうことじゃなくって」言いながら、体を折り曲げ笑い続ける。コトブキはヒロコを非難した。「ヤキイモを食べたあと、おならをしてみんなで笑うのはタノシイです。憧れます!」それを聞いて、いよいよヒロコは呼吸に困難を生じ始めた。「コトブキ=サン、おねがい! もうヤメテ!」

 ヒロコは涙まで流して笑い続けた。不満顔のコトブキも、際限なく爆笑を続けるヒロコを見るうちになぜか笑いがこみ上げ、結局、ヒロコの爆笑に加わった。やがてコトブキは身体バランスを崩し、ヒロコの右肩に両手でもたれかかった。それが更なる爆笑をヒロコにもたらし、またコトブキが笑うという爆笑の循環をもたらした。

 カウンターの青年は、彼女たちの爆笑を見て自分の手の中にあるヤキイモをしばし眺めた後、カウンター内のシンクにあるディスポーザー(訳註: 生ごみ処理機)にそれを放り込んだ。ペケロッパ者は心底うんざりした様子で吐き捨てた。「ペケロッパ」タキは自棄気味にペケロッパ者に声をかけた。「たまにはいいこと言うじゃねえか!」コルヴェットは目元に薄い笑いをうかべて肩をすくめ、懐からスキットルを取り出し、一口呷った。そしてタキが、この日最低の暴言をヒロコに向かって浴びせた。

 「おい、レズマイコショーをおっぱじめんなら、テメエん家でやれや。そこのポンコツ連れてってな。豊満でもねえくせに、客からカネもらえると思うなよ」

 ヒロコは人生最悪の侮辱を受け、とたんに怒りに青ざめた。カウンターの青年がわずかに目を細めた。コルヴェットの厳しい声。「おい、タキ=サン! そいつはいくらお前さんでも……」コトブキが片手でコルヴェットを制しながら、ゆらりと立ち上がった。そして宣告した。

 「タキ=サン、貴方は度し難いフ***(3文字抹消)野郎です。貴方の底知れぬダメさを甘く見ていました。ダメ野郎カルマポイントの累積により、今日という今日こそ、物理的な教育の必要性を認めます」コトブキは、スツールに座るタキを冷酷な目で見下ろしながら、カウンター端の、キッチンとホールを仕切るスイングドアに向かった。

 タキの顔が恐怖に凍り付いた。「いやお前、本気じゃないよな!? なんかこう、あるだろ! ロボット三原則とか!」コトブキはアオザイの袖をまくった。「貴方の自我に対する医療行為として解釈可能です。問題ありません」だが、コトブキがカウンター端の青年の脇を通りすぎようとしたとき、青年がコトブキの肩を掴んだ。「コトブキ」

 コトブキは青年を見た。青年が続けた。「タキ=サンの肩を持つ気はさらさらないが、いい加減、用事があるならさっさと済ませてくれ」「そうでした!」コトブキはシリアスな面持ちで青年の両肩を掴み返した。「世界の……危機です!」そしてその表情のままヒロコに向かって頷いて見せた。タキは緩み切った安堵の表情を浮かべた。

 ヒロコは自らのおかれた状況をあらためて認識し、愕然とした。あの人の前で自分から話さないといけないのか? 口を半開きにしてコトブキを見つめ返した。それでコトブキにある程度伝わったようだ。コトブキは再びヒロコに軽く頷いた。「ヒロコ=サンは世界を救う使命の重さに苦しんでいます。わたしがかわって説明します」

 コトブキの説明は要領も良く、大方正確だった……ヒロコのキャラクターが、ネオサイタマに正義をもたらす義と勇の心を兼ね備えたヒロインなるものに改変されていることを除けば。ヒロコは青年のほうをちらりと見た。まるで関心を払っていない様子で、カウンターの天板に目を落としている。なぜか、ほっとした……

 ……ヒロコがペケロッパ者を救う……何の因果か、アルケミーという不気味な男を首謀者とした大規模UNIXハッキングテロ発生……話が、ヒロコがペケロッパ者を「保護」しようとした場面に差し掛かったところで、タキが口をはさんだ。「なんでそんなめんどくせえことするんだよ。そいつはほっときゃトラックに撥ねられて死ぬんだろ? それで解決じゃねえか」

 コトブキは目を伏せてゆっくりと首を振った。「貴方にヒロコ=サンの高潔な心を理解してもらうことは最初からあきらめています。黙っていてください」タキは鼻をならした。「何だよ偉そうに。お前らだってまともに解決方法も考えてねえだろうが。文句あるならそこの野郎の名前くらい答えてみろ」「話を聞いていないんですか? この人とは会話が通じないんです」「そいつの持ち物くらい調べてから言ってんだろうな?」

 コトブキとヒロコは顔を見合わせた。コトブキは「ゴメンネ」とペケロッパ者に声をかけて、その尻ポケットからウォレットを抜き出した。中には乏しい通貨素子、ヘンタイ・セルガがあしらわれた旧世紀テレカ(原註: 公衆電話用ストアドヴァリューカード)やトレカ(原註: トレーディングカード)、UNIXコードらしき文字列を書きなぐった何枚もの紙切れ、そして不穏な紋章が入った何らかの会員証。

 会員証には、サイバーサングラスをかけたその男の顔写真とともにカタカナの「ポコタン・ソネ」の表記。この男の名前か。会員証のその他の記載は01二進数表記やバーコードになっており、ヒロコたちには解読不能。「ソネ=サンです」コトブキが遅ればせながら答えた。タキは勝ち誇った。「……で? 他には?」

 コトブキは無言で俯いた。タキは立ち上がり、ニヤニヤ笑いを浮かべてコトブキを見下ろしながらカウンター内キッチンから出てきた。手にはノート型UNIX端末。「……そこで、テンサイ級ハッカーの登場だ。お前ら感謝しろ」そしてソネが左下腕に装着しているハンドヘルドUNIXを指さす。「コトブキ、そいつちょっと押さえてろ」

 ソネはサイバーサングラス越しにタキを睨んだ。半分諦めたか、特に抵抗しない。「ペケ、ロッパ」サイバーサングラスには「お前にはピーキーすぎる」の表示。タキは構わず手にしたノート型UNIX端末からLANケーブルをソネのハンドヘルドUNIXに接続し、自分の端末のキーボードをタイピングし始めた。

 とたんにソネのハンドヘルドUNIXが不具合を起こし、バチバチと火花を散らしたと思いきや、パンと音を立てて小爆発し、細く煙を上げ動作を停止した。カウンターの青年を除いた全員がタキを見た。ソネは憮然として吐き捨てた。「ペケロッッッパ」サイバーサングラスには「言っただろ」、続けて「弁償しろ」の表示。ヒロコは先ほどより長く青年を見る……瞬きひとつせずカウンター上の一点を見つめている。

 タキは一同を見渡し、重々しく告げた。「最後の手段だ」そしてコトブキに向かって言った。「お前、こいつとLAN直結しろ」その言葉を聞いたソネは、突然降ってわいたLAN直結のチャンスにたちまち激しい興奮状態に陥り、ぼさぼさの髪の襟足を掻き上げて首筋の生体LAN端子を示しつつ、唾を飛ばしながらまくし立てた。「ペケ! ペケ! ペケロッパロッパ!」サイバーサングラスには「LAN直結したい」の表示。

 ヒロコは本気で腹を立てた。今度は頭に血が上る。このタキとかいうゲスは、衆人環視の中でコトブキにソネのニューロンを直接前後しろと命じているに等しい。ヒロコは怒りと羞恥心で顔を赤らめつつコトブキを見た。コトブキは無言でタキをひと睨みし、次いで心底申し訳なさそうにソネの手を取った。「わたしには自我があるので、駄目です」その時。

 「ニンジャスレイヤー=サン!」コルヴェットの鋭い声が飛んだ。誰のことだ? コルヴェットの視線をたどる。その先にいるのは……あの青年。コルヴェットの声を受けて、青年はビクリと体を震わせ、顔を上げた。コルヴェットは更に声をかけた。「大丈夫か? 何かに呑まれておるようだったぞ?」

 「……平気だ。何でもない」青年は振り返って答えた。だが今思うと、確かにあの人の様子はおかしかった。ヒロコの力について何か思うことがあったのだろうか。過去について……再び青年を見る。青年と目が合う。ヒロコは直感した。あの人の過去について詮索してはいけない……それよりも、ニンジャ、すれいやー? それが名前なのか?

 再び青年はヒロコたちのテーブルから目をそらし、こちらに背を向けた。ヒロコはその背中をまじまじと見た。コトブキがヒロコに言った。「さっきお話したニンジャスレイヤー=サンですよ?」ヒロコはまたもや戸惑った。そんな話をいつ……まさか、あの「身の上話」に出てきたコトブキのサイドキック(訳註:バットマンにおけるロビンといった、ヒーローの相棒)?

 ようやくヒロコは理解した。あの人が、ニンジャ……だが次の瞬間、日本人のDNAに刻まれたニンジャに対する畏怖の感情があらぬ方向に刺激され、ヒロコの理性と意識との接続が切断! 危険なニンジャ妄想がヒロコの意識を飲み込んだ!

 ……草木も眠るウシミツ・アワー。恐るべきニンジャ装束に身を包んだあの人が、高層ビル群を屋上から屋上へと跳び渡る。その腕の中には、プリンセスめいて抱きかかえられるヒロコ。ヒロコはあの人の首に両腕を回してしがみつき、瞳を閉じて夜の大気が頬を撫でるのを感じる。そして、ただひたすらに、あの人の力強い心臓の鼓動に身を委ねるのだ……

 ……そして……ヒロコのニューロンは異常高速回転、詳細な描写はあえて省くが、ニンジャに変身し愛するヒロコを守るあの青年とヒロコ自身が節操なく登場するニンジャ妄想を、コラージュめいて際限なく垂れ流した……テロリスト学校占拠シークエンス、スシ料理対決シークエンス、三角関係シークエンス、三角四角間関係シフト複雑化シークエンス、遊園地ダブルデート観覧車シークエンス。

 自動車接触事故児童救助記憶喪失シークエンス、野球大会決勝9回裏シークエンス、フンドシ重点海水浴シークエンス、違法公道レース対決シークエンス、ハナビ大会シークエンス、肝試しシークエンス、ライブハウス対バンシークエンス、オンセンシークエンス。

 発熱看病フートン(訳註: 布団か?)シークエンス、マツタケ狩りグリズリー遭遇シークエンス、階段転落自我入れ替わりシークエンス、巨大ロボット共同操縦シークエンス、冬山遭難孤立山小屋シークエンス……貞操観念に由来する心理的抑圧のタガをニンジャとの遭遇が弾き飛ばしたことにより陥った、重篤な変異型急性NRS(ニンジャ・リアリティ・ショック)症状だ! ナムアミダブツ!

 その時既に、ヒロコの理性をつかさどるニューロンの領域では、縦棒グラフ型インジケータの数値が128ポイントに達し計算負荷限界を突破して爆発四散、小カートゥーンヒロコの軍勢が守備する城壁を連鎖倒壊させていた。目をクロス字にし、あるいはナルト形状にした無数の小カートゥーンヒロコが、煙を上げる超自然の焦げ目や大型絆創膏をまとって倒れ伏す中、敗軍の将であるカートゥーンヒロコは城壁の残骸の上に白旗を掲げる……

 ……現実のレイヤーでは、コトブキがヒロコの両肩を掴み、必死で揺さぶっていた。「ヒロコ=サン! ヒロコ=サン! 戻ってきてください!」ヒロコの頸椎がガクガクと過激なカイロプラクティックを強いられる。やがて、満身創痍のカートゥーンヒロコが現実レイヤーの不可視領域に12分の1スケールでエントリーを果たし、ヒロコの口からさまよい出た、長い尾を引きヒロコの頭上を漂うエクトプラズム体をキャッチしてヒロコの口に押し込んだところで、ようやくヒロコの目が焦点を取り戻し、泣き顔のコトブキに気づいた。「……あたし……」

 コトブキはヒロコを抱きしめた。「良かった!……無事で!…… 怖がらせてしまってゴメンナサイ……」何のことやら再び理解できない。呆然とするヒロコの表情を完全に誤解したコトブキが続けた。「わたしのせいでニンジャスレイヤー=サンのことを誤解させてしまいました。大丈夫です。ニンジャスレイヤー=サンは悪いニンジャではありませんよ。悪には容赦しませんが、義心を持った、頼りになるひとです」

 まだ少しぼうっとしたまま、ヒロコは「ニンジャスレイヤー」の背を見た。横からコルヴェットが声をかけた。「お嬢さん、早死にしたくないんなら、この男についてはだな、十分以上に恐れたほうがよいぞ」

 そして、青年が……「ニンジャスレイヤー」がわずかに頭を振ったのち、振り返り、一同を無言で見、軽く天を仰いでから、口を開いた。「おれはあんた達の話にかかわるつもりはない。が、あんた達の話によると、そこの……」青年が言葉に詰まる。コトブキが助け舟を出した。「ソネ=サンです」青年が続けた。「……そう、そのソネ=サンは重要人物らしい」

 「それが何か?」コトブキが訊ねた。青年は、ややうんざりした様子で再び一同を見渡した。「……向こうのほうからソネ=サンを探しに来るとは思わなかったのか?」コトブキは再び口を両手で覆った。コルヴェットはつぶやいた。「これはしたり」タキは狼狽しつつも抗議した。「そういう冗談はやめろよな? な? こないだ店を修理したばっか……」その時。

 タキの言葉を遮って、入り口ドアが店内の床にバタリと音を立てて倒れた。続けて、異様な風体の巨躯の男が、頭部をドア枠につっかえながら、ロボットダンスじみた動きでぎくしゃくとエントリーした。しかも二人。タキは呻いた。「マジか」コトブキが答えた。「マジですね」

 青年は無言でカウンター席から床に降りた。ヒロコが見つめる前で、青年の足元から赤黒い炎が立ちのぼり、その全身を包み込んだ。炎は数瞬で掻き消えた。そこには、赤黒のニンジャ装束に身を包んだニンジャが立っていた。鼻から下を覆う鋼鉄のメンポ(訳註:面頬。参考リンク)には、恐怖を煽る書体で「忍」「殺」のカンジが刻まれている。

 赤黒のニンジャのボロ布めいたマフラーが超自然の風にたなびいた。ニンジャは二名の闖入者に向かって先手を打ってオジギし、決断的にアイサツした。

 「ドーモ。ニンジャスレイヤーです」


#4  

 先制アイサツを決めたニンジャスレイヤーの隣にコルヴェットが並び立ち、傾げた帽子の鍔の先端を右手でつまみ、アイサツした。「ドーモ。コルヴェットです」二人のニンジャは、新たにピザタキにエントリーしたロボットじみた外見の異様な二人のニンジャと対峙した。ペケロッパ・カルトの手の者であることは、状況のみならずあの外見からも明白だ。

 「ヒロコ=サン、こっちへ」コトブキはソネを小脇に抱え、ヒロコの手を引きカウンター内に避難した。既にタキがキッチンの隅でしゃがみ込み、鍋を頭にかぶっている。コトブキが見咎めた。「せめて女性をエスコートするくらい出来ないんですか?」「うるせえ! オレは慣れてるだけだ! だいたい、どれもこれも、お前らのせいだろうが!」

 闖入者のうち、先に入店した巨漢が電子音声を発した。「ドーモ。キルナインです」目はカメラレンズに、口はスピーカーに置換された異形。バイオハザードスーツめいたニンジャ装束がその巨体を包む。その上、左腕の肘から先はガトリングガンだ。その背中にはキーボードを備えたUNIX端末が埋め込まれている。胸のLED表示パネルには「KILL-9」の表示。

 キルナインの隣に立つ巨体が、やはり電子音声でアイサツした。「ドーモ。シーカーです」顔面右半分いっぱいにいくつものカメラアイを埋め込まれ、口があるべきところからマニピュレータが生えているという、キルナインをさらに上回るおぞましき外見である。

 4人のニンジャたちは睨み合う。一触即発のアトモスフィアであるが、今のところ互いに積極的に攻撃する意図はない。シーカーが電子音声を発して沈黙を破った。「頭部四半期呼称に枝の巣越え要請調査の後発見外VIPあなた取りすぎすべき」キルナインの胸のLEDパネルには「手荒しない」の表示。

 直ちに殺し合いとなる様子ではないとみて、タキが鍋をかぶったまま鼻から上だけをカウンターの上に覗かせて、ペケロッパニンジャたちに怒鳴った。「テメエら、なんでここがわかった!?」

 それを聞いて、ペケロッパニンジャたちは互いに顔を向けガリガリと甲高いノイズを立てて会話した。サイバネマイクの聴覚を持ちニューロン内UNIX増設手術を受けた者だけになしうる、高速圧縮言語による会話である。会話は3秒足らずで終わり、シーカーがニンジャ装束の懐に手を入れた。

 その瞬間、ニンジャスレイヤーは次の動きを警戒したが、シーカーが取り出したのは携帯IRC端末であった。シーカーは、IRC-SNSクライアントを起動し、幾度かタップとスワイプ動作を行ってから、端末の画面をニンジャスレイヤーらに示した。

 そこに表示されているのは、今日の昼食時、オールド・カメ・ストリートでコトブキがモチヤッコを模したオニギリといっしょに自撮りしSNSにアップした画像であった。ヒロコも笑顔でフレームに収められている。加えて、ソネのサイバーサングラスの端と「量子が憎い」Tシャツが見切れていた。コトブキは目を丸くした。「あら!」

 シーカーはさらにタップとスワイプ。次に示した端末の画面には、数週間前、コトブキがピザタキの店前で、手のひら側をカメラに向けたVサインを示しながら笑顔で自撮りし、「素敵な職場です」というコメントを付してアップした画像。「気に入った」ボタンが押され、通常のタイムラインの流れとは別に見返せるようになっている。キルナインの胸にあるLEDパネルには「フォロー済」の表示。

 コトブキはその表示を見て、立ち上がってペケロッパニンジャたちに微笑みかけた。「アリガトゴザイマス!」ニンジャスレイヤーとコルヴェットは無言で互いを見た。タキは激怒した。「コトブキ! バカ! こんな奴はとっととブロックしとけ!」

 コトブキは腕組みしてぴしゃりと言った。「わたしのフォロワー数は10万を超えています。いちいちフォロワーの素性を調べて問題がある人を探してはブロックするなんて、時間的に不可能です」タキは喚き立てた。「うるせえよ! 誰がそんな正論言えっつったよ!? いつでも正論言ってりゃ済むとか思ってんのはな、完全に毒されてるぞ! SNSの悪影響だ!」

 その言葉に、コトブキは虚を突かれたかのようによろめいた。そしてしばしの沈思黙考の後、言った。「タキ=サンの発言ではありますが、耳を傾けるべき点が含まれています。今後は、問題が指摘された投稿については、わたしの判断において削除することを約束します」

 「コトブキ」ニンジャスレイヤーが不意に口を挟んだ。その声は苦悩を滲ませていた。コトブキが振り返った。ニンジャスレイヤーはほとんど懇願するかのように言った。「できれば、アカウントごと消してくれ」

 コトブキは取り乱した。「何故ですか!? 何故貴方までそんなことを! わたしがアカウントを消すということは、わたしの10万人超のフォロワーに取り返しのつかない苦痛を与えることです!」そして、コトブキは絶望に叫んだ。「そのような巨大な犠牲の上に成り立つ正義とは、いったい何なのですか!?」

 ニンジャスレイヤーは、不本意げにタキと目線を交わした後、苦渋の表情でコトブキに答えた。「今は、そのことはいい」タキは勢いづいた。「そうだそうだ! そのソネ野郎をそいつらに渡して、さっさとお引き取り願え!」

 それを聞いて、ようやくコトブキは、小脇に抱えたままになっていたソネの状態を確認した。ソネは、チョークを極められた状態でサイバーサングラス越しにコトブキのバストを押し付けられ、既に失神していた。コトブキは、ソネを床にそっと横たえた。

 コルヴェットが沈黙を解き、ニンジャスレイヤーに訊ねた。「……さて、どうするかね?」「特にこいつらと争う理由はない。今度ばかりはタキ=サンに賛成だ」「そうか……だが、その前に一つ確かめさせてくれ」そして、ペケロッパニンジャたちに向かって、言った。「アルケミー=サンを知っておるかな?」

 コルヴェットの問いを受け、ペケロッパニンジャたちは再び数秒ほどガリガリと高速圧縮言語で会話した後、同時にコルヴェットに向き直り、こくんと頷いた。キルナインの胸のLEDパネルには「支部から要請」の文字。ニンジャスレイヤーは小声でコルヴェットに訊ねた。「アルケミー=サンとは誰だ?」「お嬢さんの話に出てきた大規模UNIXハッキングテロの首謀者の名よ。聞いておらんのか?」

 ニンジャスレイヤーはコルヴェットの質問の意味するところを悟った。「……おおかた理解した」コルヴェットはペケロッパニンジャに対する警戒を続けながらも、横目でニンジャスレイヤーを見据えた。「お前さんは気に入らんだろうがな、あのお嬢さんの言ってることは無視できん」ニンジャスレイヤーは憮然として答えた。「何故だ。多少UNIXやジェネレータが爆発しようと、おれには支障はない」

 ペケロッパニンジャたちは冒涜的ニンジャ彫像のように固まったまま、ニンジャスレイヤーらの出方を無言で見守る。コルヴェットは言った。「お嬢さんの話からすると、俺の予想では、やつらの企みは単なるUNIXのハッキングにとどまらん。ネットワークそのものに異変が起きるだろう。コトダマ空間にな。そしておそらく、ウキハシ・ポータルにも支障が出る。場合によっては、壊滅的なやつだ」

 ニンジャスレイヤーは顔をしかめた。ウキハシ・ポータルとは、大異変後の世界で急速にいびつな進化を遂げたオーバーテックの産物の一つであり、限定的な条件の下にではあるが、世界のある地点と別の地点とを一瞬で移動する異次元のルートを結ぶデバイスである。目下ニンジャスレイヤーが追い続けている敵を捕捉するためには、ウキハシ・ポータルを失うわけにはゆかぬ。

 ニンジャスレイヤーはカウンター内を見やった。ソネはまだ失神している。そして、呆けた表情で状況を見守っているヒロコとかいう小娘が目に入る。ニンジャスレイヤーは忌々しさを噛み殺しながら、コルヴェットに言った。「コルヴェット=サン、ソネ=サンを頼む。しばらく引き離してくれ。あいつがマクガフィンだ」

 コルヴェットは笑った。「マクガフィンか。ポエット! お前さん、実はアートの才があるんじゃないか?」ペケロッパニンジャたちは、ニンジャスレイヤーの言葉を聞きとがめ、高速圧縮言語で会話した。そして、キルナインが左腕ガトリングガンの銃口をニンジャスレイヤーらに向けた。

 コルヴェットは微笑みを浮かべたまま、カウンターに向かう。キルナインの銃口がその動きを追う。コルヴェットは失神状態のソネの傍らに跪く。懐から何らかの薬剤らしき液体が入った小瓶を取り出して蓋を取り、ソネの鼻に近づける。小瓶の内容物のにおいをかがされたソネは、口をわななかせながら覚醒した。「ペ……ペケ……ロッパ……」

 コルヴェットはソネに声をかけた。「さぞかし良き夢に浸っておられたであろうところを申し訳ない。立てるかね?」ソネは上体を起こし、自らの意識を確かめるようにゆっくりと左右に首を回してから、コルヴェットを見て、答えた。「ペケロッパ」そして立ち上がった。サイバーサングラスには「俺に構うな」の表示。

 コルヴェットもまた立ち上がり、ソネの肩に手を置いた。ソネは訝しんでコルヴェットを見た。ペケロッパニンジャたちは無言。ガトリングガンの銃口はなおもコルヴェットに向いている。コルヴェットはペケロッパニンジャたちに笑いかけた。「サラバ」次の瞬間、コルヴェットとソネの姿が渦巻く風とともに消えた。

 ペケロッパニンジャたちは5秒ほど固まったのち、高速圧縮言語会話を交わした。そして、再度、キルナインが銃口をニンジャスレイヤーに向けた。ニンジャスレイヤーは、ドアが破壊された店の入り口を顎で指し示した。ペケロッパニンジャたちが同時にその方向を見る。店を出た路上にコルヴェットとソネがいた。ソネはその場に嘔吐した。

 コルヴェットは再び笑顔を浮かべてペケロッパニンジャたちへと手を振り、呼ばわった。「オニサンコチラ」高速圧縮言語会話の後、シーカーが店外に向かった。コルヴェットとソネの姿が再び消え、通りの向こうに現れた。すぐさま、コルヴェットはソネを米俵めいて肩にかつぎ、逃走を開始した。シーカーがその後を追った。

 シーカーの背中を見送っていたキルナインは、シーカーらが視界から消えたのを確認し、カメラアイをニンジャスレイヤーに向けた。ニンジャスレイヤーはカウンターを横目で見て低く言った。「伏せてろ」次いで、異形の巨躯を睨んだ。「ツイてないな。あんたも、おれも」そして、腰を落とし、獲物に襲い掛かろうと狙いを定める獣のごとき構えをとった。


#5

 ガトリングガン発射音、そしてニンジャたちのシャウトと打撃の応酬の轟音がピザタキの店内を満たす中、ヒロコはカウンター内、ヒロコを庇うコトブキの体の下で、うつぶせになりガタガタと震えていた。ヒロコの理性を、コトブキの温もりが辛うじて繋ぎとめていた。失禁していないのは奇跡だ。コトブキがいなければ、失禁どころか発狂していただろう。ヒロコは恐怖に震えながらもコトブキに感謝した。

 スイングドアの下の隙間から垣間見える戦いの光景は、色付きの風が暴れまわっているようにしか見えない。ニンジャたちが足を止めて刹那の打撃の応酬を行うときだけ、霞む人影がおぼろに見える。そして、そのときに必ず響き渡るニンジャのシャウト……「イヤーッ!」「KILL-9!」……「イヤーッ!」「KILL-9!」……「イヤーッ!」「KILL-9!」……その恐ろしさは、時折鳴り響くガトリングガン発射音や、それに続く銃弾を弾く金属音などとは比較にならない。

 ニンジャたちのシャウトは天井を、壁を、床を震わせて、ヒロコの聴覚と内臓を揺さぶる。接近戦の打撃衝突音は、まるで分厚い鋼鉄に砲弾が激突したかのような轟音だ。それらの音の一つ一つが、ヒロコの正気を徐々に削るかのような感覚を与え、死の恐怖よりもなお恐ろしいアトモスフィアでヒロコを支配し、ニューロンをマヒさせる。なのにヒロコは、まるで魅入られたかのように、スイングドアの隙間の光景から目をそらすことができない。

 やがて……ほんの一瞬静寂が訪れたかと思ったその時、「イイイヤアアーーッ!」一際激しくニンジャスレイヤーのシャウトが大気を揺さぶり、続けて天井から巨大な破壊音とキルナインの奇怪な電子音声の悲鳴が響き渡った。「セマフォ!」

 ヒロコは、反射的に体と首をひねって天井を仰ぎ見た。コンクリートむき出しの天井にキルナインが大の字で打ち付けられ、その巨体を中心にレッキングボール解体作業じみた蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていた。コトブキがガバリと立ち上がり、カウンターから身を乗り出して叫んだ。「ニンジャスレイヤー=サン! 今です! ヤッチマエ!」

 ヒロコは思わず起き上がり、膝立ち状態でカウンターの向こうを見た。黒い炎でかたどられた鉤爪と化したニンジャスレイヤーの右腕から炎の縄が伸び、キルナインに巻き付いた。キルナインの巨体が天井から剥がれ落ちようとしたその時、死神の怒号の如きニンジャスレイヤーのシャウトが轟き、フラッシュバンめいてヒロコを床に打ち据えた。

 「Wasshoi!」

 ニンジャスレイヤーはシャウトともに炎の縄を引き戻し、高速で落下する異形ニンジャの巨体にサイドキックを叩き込んだ!「イヤーッ!」渾身の蹴りが命中し球状に膨らむ衝撃波を発生させる! 吹き飛ぶキルナイン!「セマフォ!」今度は入り口近くのコンクリート壁に叩きつけられる!「セマフォ!」

 なおもニンジャスレイヤーの容赦なき攻撃は止まらぬ! さらに引き戻し!「イヤーッ!」サイドキック!「イヤーッ!」「セマフォ!」再び壁に衝突!「セマフォ!」引き戻し!「イヤーッ!」サイドキック!「イヤーッ!」「セマフォ!」衝突!「セマフォ!」引き戻し!

 「イヤーッ!」「イヤーッ!」「セマフォ!」「セマフォ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「セマフォ!」「セマフォ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「セマフォ!」「セマフォ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「……」「……」


_____________


 数瞬の失神状態から回復し起き上がったヒロコの視界の先で、キルナインは糸の切れた肥大化ジョルリ人形のごとく壁から剥がれ床に倒れた。ニンジャスレイヤーは左腕を力の漲りに震わせながら渾身の水平処刑チョップを構える。その目が殺意に燃えるのが見える。ヒロコは卒然と悟り、震えあがった。これから、殺すのだ。

 だが、ニンジャスレイヤーが再度のシャウトを発する直前、キルナインの口部スピーカーから微かな電子音が漏れた。キルナイン本人を除き、その場の誰も知らなかった。それが旧世紀UNIXのブート効果音であることを。そして、ニンジャスレイヤーがシャウトとともに炎の鉤縄を引き戻すと同時に、密かに意識を回復していたキルナインは背後の壁を蹴った!

 「KILL-9!」ニンジャスレイヤーめがけ人間光子魚雷さながらに超高速水平飛翔! ニンジャスレイヤーは咄嗟に両腕をクロスさせ防御姿勢をとる! そこにニンジャスレイヤー自身の引き戻しの勢いに壁を蹴るニンジャ脚力の勢いを乗せたキルナインが頭から水平直立姿勢で飛来! KRAAASH!

 ニンジャスレイヤーの両腕は渾身の魔球を弾き返そうとするスラッガーめいて巨体ニンジャの高速飛翔ヘッドバットを受け止め衝突に耐える! だが敵の勢いが強い! ニンジャスレイヤーに受け止められほとんど空中静止状態となってもなお押す! ニンジャスレイヤーの腕がバットスイングと魔球の球威の均衡状態のごとく軋む! 床を踏みしめる踵がジリジリと下がる!

 そしてついに……均衡状態が破れた! 均衡状態から弾き出されたのはニンジャスレイヤーだ! 「グワーッ!」体をくの字に曲げたニンジャスレイヤーが、背後からワイヤーアクションで引っ張られるかのように、最奥の壁めがけ吹き飛ぶ! 激突!「グワーッ!」

 キルナインの衝突時に勝るとも劣らぬ破壊音を立てて大の字に壁に叩きつけられたニンジャスレイヤーは、衝撃のあまり肺の中の空気を一度に吐き出すことを強いられ、壁の破片とともに崩れ落ちた。キルナインは衝突地点で飛行時と同じ水平直立姿勢のまま冷凍マグロめいてごろりと床に落下したが、1秒後には起き上がった。そして、壁際のニンジャスレイヤーに向かい歩み始めた。

 その光景を目にしたヒロコは、時間の感覚を失い無音の空間に放り出された……傾いた視界に、キッチンの隅でうずくまったタキがシェルショック発症者めいて必死で両目を閉じ両耳を塞いで絶叫しているのが映る。視界が揺れ、かたわらのコトブキをとらえる。その目に決意が宿っている……

 ……ヒロコがその意味を理解した時には、既にコトブキはカウンターの上に飛び乗っていた。ヒロコはコトブキの名を叫び、腕を伸ばす。その指先をすり抜け、コトブキはタタミ5枚分先の敵目掛け一直線に跳び、おどりかかる。敵ニンジャはそれに気づき一瞬コトブキを見る。が、すぐに無視して、床から起き上がろうとするニンジャスレイヤーを再び見下ろす。そして、 辛うじておもてを上げたニンジャスレイヤーの眼前に銃口を向ける……

 ……ニンジャスレイヤーは見た。異形のニンジャの傍らに中腰で降り立ったコトブキが、カンフーシャウトとともに、左ショートボディを繰り出す。力感がないどころか、まるで肩から先が液体となったかのような軌跡のボディブロー。だが、その突きが敵の脇腹に決まった瞬間、コトブキの左拳を中心としてニンジャの巨体が波紋状に波打った!

 「……!」キルナインが声もなく硬直する! 続けざまに同じ左腕が生命を得た水のように動き、頭上へのショート裏拳を繰り出す!「ハイッ!」キルナインの顎先を中心に波紋! 間髪入れずキルナインの心臓めがけ、スタンス踏みかえの動きと完全な調和を見せる、湧き上がる奔流の如き右掌打!「ハイッ!」キルナインの左胸部を中心に波紋! 

 巨漢ニンジャの全身が極度振動! カメラアイが割れレンズの破片ががはじけ飛び、さらにその巨体を駆け巡る複数の波紋がキルナインの体内で多重衝突! 巨体を内部から破壊する! タツジン! キルナインは直立したまま邪悪なボブルヘッド人形めいて震え、破壊されたカメラアイ跡と耳から出血! さらに口部スピーカーから大量吐血!

 もはや内臓とニューロンをほとんど破壊され棒立ちになったキルナインを前に、コトブキはあらためて決断的な眼差しをむけ、最後の一撃に向けてスタンスを踏みかえた。「ドンナニモ」つぶやいたコトブキの瞳がギラリと光り、「ナッチマウゼ」体が僅かに沈む。そして繰り出されたのは……飛び上がりながらの雷神の一撃のごときリバース・ラウンドハウス・ハイキック(訳註:おそらく上段後ろ回し蹴りの意)である!

 「ハイヤーッ!」 研ぎ澄まされた電子のニューロンに制御された、マシンのボディの限界を極めるスピードと精緻さで放たれた足刀がキルナインの顔面を捉える! そのままドロイドの全体重を乗せて脚を振りぬく!

 ギュルルルルル! コトブキの渾身のキックを受けたキルナインは、直立不動姿勢で巨大なコマのごとく回転! 半ば破壊された頭部からUNIXパーツの破片をまき散らす! なおも回転! 回転!……やがて、ゆるやかに回転のスピードが弱まり……回転を止めたキルナインは、再び棒立ち状態となった。そして、ゆっくりと、その巨体をうつ伏せにして床に倒れこんだ。

 「フゥーッ……」コトブキは、右手親指をなめ、軽やかにスタンスを2度踏みかえた後、息を長く吐きながらゆらりと右拳でリードブローを打つ寸前の構えを取り、ザンシンした。そしてニンジャスレイヤーに目を向けた。床に手をつき身を起こそうとするニンジャスレイヤーの目は驚愕に見開かれていた。

 ニンジャスレイヤーが立ち上がりながら半ば呆然として見守る中、コトブキは、目をぎゅっと瞑って何やら身悶えし、直後に満面の笑みで喜びを爆発させた。「できました! ヤッタ!」そしてニンジャスレイヤーに背を向け、バンザイ姿勢で垂直に跳び空中で両脚をW字に曲げるジャンプをぴょんぴょんと繰り返した。ニンジャスレイヤーは背後の壁にもたれて、しばし息を整えた。

 コトブキはしばし無我夢中でジャンプを繰り返していたが、唐突にその動作を中断し、ニンジャスレイヤーへと振り向いた。「見てもらえましたか?」ニンジャスレイヤーは、素直に認めることにした。「……ああ」そして、素直に付け加えることにした。「……助かった。恩に着る」

 その時、コトブキの肩越しに、スイングドアを押し開けてヒロコがふらつきながらもコトブキに駆け寄ってくるのが見えた。ヒロコは顔をわななかせ、ボロボロと涙をこぼしていた。コトブキも気付いて振り返った。ヒロコはコトブキの真正面に立つと、コトブキの右拳を両手でつかみ、祈りを捧げるかのようにその手を自分の胸の前で掲げ持ち、声を絞り出した。

 「……コトブキ=サン……」それ以上ヒロコは何も言えなくなり、しばし俯いたまま啜り泣いた。コトブキは微笑みながらヒロコに声をかけた。「ヒロコ=サンのおかげですよ?」「……あたしの?」ヒロコは鼻をすすりあげながらもキョトンとした顔になった。

 「そうです。今朝の、ヒロコ=サンが義と勇の心で正義をもたらした尊い姿を見たことで、わたしは師父の教えを体得したのです。門が開き、道が見えました。わたしはこれからも師父の教えを受けてカンフーし、道を進みます。門を開いたのはヒロコ=サンです」コトブキは、自分の右拳を包むヒロコの手に、さらに左手を重ね、言った。「ユウジョウです」

 ニンジャスレイヤーは、人知れず、コトブキの言葉に静かな衝撃を受けていた。道……道を進む……ヨグヤカルタの闇が脳裏をよぎる……認めなければならない。先ほどのブザマは、自分が呼吸一つ満足にコントロールできないことの証左だ。だが、今は……

 ふとコトブキたちのほうに目をやると、再び泣き出すやに見えたヒロコの表情がにわかにこわばり、こちらをちらちらと見て気にする仕草をみせた。ニンジャスレイヤーは、ヒロコにはっきりと不快感の目線を向けることにした。なぜかその目線を受けてヒロコは何やら決意した表情になり、小声でコトブキに訊ねた。「コトブキ=サン、お手洗い、どこ?」

 とたんに、コトブキとヒロコは目を合わせてクスクスと笑い出した。ニンジャスレイヤーは鼻を鳴らし、再び軽く天を仰いだ。コトブキとヒロコは笑い合いながら店の奥に消えた。カウンター内では、ようやくタキがよろよろと立ち上がるところだった。

 タキは、相変わらずの情けない面でニンジャスレイヤーを恨めしげに睨んだ。ニンジャスレイヤーは見返した。何様のつもりだ。あのヒロコとかいう小娘のほうがよほど豪胆だ。ふと、何がタキとヒロコの違いをもたらしているのかという妙な疑問が浮かんだ。おまえはヒロコとかいう小娘よりもよほどタキに近い人間だ、という内なる声が聞こえてくる気がしたので、考えるのをやめ、タキに声をかけた。

 「タキ=サン、仕事だ」タキがなおも精一杯の無言の抗議をするかのようにこちらを見つめる。ニンジャスレイヤーは、未だ機能停止状態で床に転がるキルナインの背中を指さした。キルナインの背中に埋め込まれているUNIX端末はほとんど原型をとどめていない。だが記憶装置だけなら生きているかもしれぬ。

 「こいつの背中の端末に接続してハッキングできるか? こいつらのアジトを調べてもらう」それを聞いて、ようやくタキが口を開いた。「……マジか?」ニンジャスレイヤーは答えた。「マジのようだ。それと、冷蔵庫にあるスシ・パックを頼む」


_____________


 ヒロコは洗面台で手を洗いながら、自らの幸運を思った。コトブキがいなければ、あともう少しで、あの人のいる前で人生最大の失敗を犯すところだった。そうなれば、恥辱のあまり即座にセプクしていただろう。考えながら送風機で手を乾かしている最中に、突然、ホールの方向から「KILL-9 MYSELF! SAYONARA!」という奇怪な電子音声の断末魔とともにサツバツとした爆発音が聞こえた。

 ヒロコは慌てて水兵服で手を拭きながらホールに戻ったが、タキがまたもや情けなくへたり込んでいるものの、特に爆発の被害はないようだった。キルナインというニンジャはもはやどこにもおらず、ニンジャが倒れていた場所に黒い焦げ目があるだけだ。タキがへたり込んだままニンジャスレイヤーに向かって怒鳴った。

 「途中で爆発するとか聞いてねえぞ! 何てことさせんだよ! ビビったじゃねえか!」ビビったことは正直にみとめるのか、となぜか感心した。ニンジャスレイヤーがスシをつまむ手を止め、タキに答えた。「それは悪かったな。実害はない。それよりも首尾は」「ダメに決まってんだろ! 見りゃ分かンだろうが!」なぜそこで威張る。

 そこにソネを担いだコルヴェットが戻ってきた。ソネは再び失神している。コルヴェットは店内の様子を見渡して言った。「仕留めたか。チョージョー」ニンジャスレイヤーが答えた。「ああ。あんたにも無理を言った。礼を言う。そっちはどうなった」

 コルヴェットはソネを肩から下してスキットルを取り出し、呷った。「適当なところでジツで撒いてきた。撒かれたことに気付けば、そのうちまたここに戻ってくるだろうが。稼げた時間は、そうさな」言葉を切ってもう一口呷る。「少なくとも10分といったところか。あれが見た目通りの単純ロボットで、撒かれたことにしばらく気付かんでくれれば有り難いが……」

 コルヴェットは床のタキに目を向けた。「他に何かあったか?」タキは訴えた。「なあオッサン、聞いてくれよ。いつも身を粉にして尽くしてるこのオレに対してだぞ、そこに立って偉そうにスシ食ってるニンジャが悪逆非道にも……」ニンジャスレイヤーがタキの言葉を遮った。「あのペケロッパどものアジトを調べようとしたが、ハッキングでしくじった」「しくじってねえよ!  あのクソニンジャが勝手に爆発したんだろうが!」

 コルヴェットは訝しんだ。「あいつらの、アジト……?」ニンジャスレイヤーが説明した。「放っておきたいところだが、また妙なペケロッパのニンジャを送り込まれるのも迷惑だ。マクガフィンはこちらが握っている。あいつらのボスと話をつける。できれば、だが」「いや、俺が言ってるのはそこではない」コルヴェットはヒロコを見て訊ねた。

 「確か、話に出てきたアルケミーとかいう御大層な名前のニンジャが、自分のアジトについて犯行声明で言っておったのではなかったかな? あれは何といったか……」そういえば。「ネオサイタマ中央……第4?……支部とかなんとか……」ヒロコが記憶を探り出しながら言う。コトブキが携帯IRC端末を取り出し、なにやら検索をはじめた。

 タキはニンジャスレイヤーを見上げた。ニンジャスレイヤーはわざとらしいほどにタキを無視してスシ補給を続けた。コルヴェットがやや呆れ気味に言った。「お前さんたち、本当に聞いてなかったのか。俺は、なかなかに面白い話だと思ったぞ」

 「ありました」コトブキが示した携帯端末の画面にはペケロッパ・カルトの「ネオサイタマ中央第4ネスト」のIRC-SNS信者募集公式アカウントページ。丸いプロフィール画像は、フードを目深に被った男の顔写真。プロフィール欄には当該ネストの物理アドレスの記載まである。

 コルヴェットが感心した。「お嬢さんの記憶力も大したもんだ」やや照れる。コトブキが申し訳なさそうに言った。「『ペケロッパ』と『アルケミー』で検索したらトップで表示されました」今度は全員で顔を見合わせた。

 コトブキが深刻な表情になった。「SNSの恐ろしさが今、分かったような気がします」タキがコトブキを睨む。「『気がする』っていうのは何なんだよ。ほんとに分かってんのか?」ニンジャスレイヤーはタキを目で制し、次いでコトブキを見た。「今は、それが分かってくれれば十分だ」コトブキは曖昧にうなずいた。

 「出発する」ニンジャスレイヤーが決断的に告げ、空になったパックを隅のくずかごに放り込み、失神状態のソネを担ごうとした。「待て」コルヴェットが制止した。ニンジャスレイヤーは眉根を寄せた。コルヴェットが問うた。「お嬢さんはどうするつもりだ」「どうもこうもない。勝手に帰ればいい」「帰れればいいのだがな」

 その言葉を受けて、ニンジャスレイヤーはヒロコを一瞥した。コルヴェットが続ける。「さっきのシーカーとやらを片付けて済むのなら結構だが、おそらくすぐに別の追手が来るぞ。問題は、お嬢さんの顔が奴らにも知られていることだ」あのSNS投稿画像のことを言っているのだ。コトブキも気付いたらしく、愕然としてヒロコを見、そして俯いた。コルヴェットは苦い表情で言った。「俺の荒事の実力は知ってのとおりだ。俺にお嬢さんの護衛を期待せんでくれ」

 ニンジャスレイヤーはやや考えた後、渋々、目でコルヴェットに同意を示した。「そうなると」コルヴェットはヒロコを見た。「お嬢さんは、片が付くまで俺たちと、というよりニンジャスレイヤー=サンといたほうがいい」コルヴェットは、ニンジャスレイヤーから見えないようにヒロコにニヤリと笑って見せ、ソネを担ぎ上げた。「すなわち、運び役が二人必要ということだ」

 「わたしも行きます!」即座にコトブキが宣言した。「ヒロコ=サンはわたしが護ります」コルヴェットはコトブキを見た。「だがお前さんでは、お嬢さんを抱えたまま俺たちに付いてくることはできんだろう。手ぶらで来い」コルヴェットの言葉を聞いたニンジャスレイヤーがなぜか困惑する表情になった。

 タキがニンジャたちを見回した。「おい、オレのことは誰が連れてってくれるんだ? まさか置いてくつもりじゃねえだろうな」ニンジャスレイヤーは八つ当たりめいた怒気をこめて言った。「いつも通り、自力でなんとかすればいい。得意分野だろう」タキは怒鳴り返した。「なんだテメエ! この恩知らず! クタバッチマエ!」

 ニンジャスレイヤーはタキを無視し、途方に暮れた様子でヒロコを見下ろした。ややうろたえたヒロコにニンジャスレイヤーは告げた。「揺れるぞ」そして、ヒロコの返答を待たずに、ヒロコをプリンスセスめいて抱き上げた。

 たちまちヒロコの頭部は超自然の不可視の炎に包まれ、ヒロコは不可視の湯気をモクモクと立ち昇らせながら再び白目を剥いた。ヒロコの意識から切断された理性の領域にあるカートゥーンヒロコは、火災警報が鳴り響く中、赤色回転灯に照らされながら小カートゥーンヒロコ救急消防隊に出動を要請した。


#6

 10分後。

 「アイエエエエ!」夕闇が迫る中、ニンジャスレイヤーの腕に抱えられたヒロコは際限なく悲鳴を上げ続けた。

 ニンジャスレイヤーたちは西に向かい高層ビルの屋上から屋上へと跳び渡る。ニンジャスレイヤーが平然とタタミ十数枚もの距離を跳躍するたびに急上昇のGと落下の無重力感が不規則に訪れ、ヒロコの三半規管と内臓を揺さぶる。進行方向からぶつかってくる風圧は、まるでジェット噴射に逆らって突っ走るかのようだ。「アイエエエエ! アイエエエエエエエ!」

 「景色でも見て落ち着け」ニンジャスレイヤーが落ち着いた声で無理な注文をつけた。風圧に逆らって前を向くのはとても無理だと思い、ヒロコはニンジャスレイヤーの肩越しに背後方向を見る。相変わらず失神状態のソネを担いだコルヴェットの後ろから、ヒロコの通学鞄をたすき掛けにしたコトブキが遅れながらもなんとか付いてくる。

 「あんたやコトブキのために、これでもペースを落としてるんだ。どうせなら前を見ろ」親切で言ってくれているのだ、多分。ヒロコは強いて進行方向を見た。風圧で顔面の皮膚を歪めながら目を開ける。前方に広がる光景に、つかの間、それまでの恐怖を忘れる。

 遠くフジサンの山影の向こうに夕日が完全に沈んだばかり。地表の……眼下に広がる高層ビル群は夜の中で人工の光を発して輝く。そして地表とは逆に、西の空は夕日が残した最後の煌きに下から照らされている。まるで、西の空いっぱいに広がる、オレンジから淡い紫へと色を変える虹。ヒロコは初めて知った。夕暮れのネオサイタマが見せる雄大な姿。しばし見とれた。そして地表に目を戻し、現実に引き戻された。

 次に飛び移るビルの先は道幅がタタミ100枚分ほどもあるハルミ大通りだ。その向こうにも高層ビル群。どう考えてもジャンプで飛び越えられる距離とは思えない。だがニンジャスレイヤーは平然と言った。「掴まれ」

 まさかと思いつつ、ヒロコはここぞとばかりにニンジャスレイヤーの首に両腕を回した。風圧がヒロコの顔面皮膚に極度フェイスマッサージを強いていたが、ヒロコは自分が精一杯カワイイに見えることを期待してニンジャスレイヤーの顔を見つめた。

 途端にニンジャスレイヤーはヒロコの上半身を支えていた右腕をヒロコの体から離した。ヒロコは一瞬にして転落の危機に直面し、必死でニンジャスレイヤーの首にしがみついた。ニンジャスレイヤーは大通り手前の最後のビルの屋上に飛び移る。全くスピードを落とさない。逆に急加速。ヒロコは恐怖に目を剥く。

 そして……ニンジャスレイヤーはハルミ大通りの向こうのビルめがけ跳躍!「イヤーッ!」案の定タタミ20枚ほどの距離を飛んだところでジャンプは頂点を迎え落下し始める! ヒロコは落下死の恐怖に絶叫!「アイエエエエ!」開けた口の中にも風圧! ヒロコの唇と頬が出鱈目に波打つ! ナムアミダブツ! だが、ニンジャスレイヤーは右腕を打ち振り、前方の空へ超自然のフックロープを放った!「Wasshoi!」

 フックロープが伸びる先にあるのは、大通りの上空を回遊する広告マグロツェッペリンだ! ロープ先端の鈎爪が着陸スキッドを掴む! ニンジャスレイヤーはターザンジャンプに移行! ワザマエ! ニンジャにしか為しえぬ恐怖の振り子運動に、ヒロコはあらん限りの声を張り上げジャングルに響き渡る咆哮じみた絶叫を放つ!「アイエエエエエエエ!」


_____________


 同時刻。ピザタキに一人取り残されたタキは、店の2階の物置で必死にガラクタを漁りながら、フル回転するニューロンの片隅であの狂人どもを呪詛し続けていた。そして同時に、自らのプロとしての自覚を新たにしていた。

 ニンジャスレイヤーを名乗るあのニンジャは、たった一度ばかりタキの命を救ったことを恩に着せてタキをタダ働きさせ続けているが、実はタキのハッキングのスキルに頼り切りだ。おまけに闇社会の作法はなんら心得ていない。

 そこが少しはカワイイだと言いたいところだが、あいつは……あの狂ったニンジャはサンズ・オブ・ケオスとかいう胡乱なニンジャの集団と平然とモメゴトを構え、二言目には殺すと言って憚らない。そして実際に企業が所有するウキハシ・ポータルのただ乗りを繰り返して--おまけに、どういう趣味なのかそういう趣味なのかコトブキを従えて--わざわざ世界各地に出かけてニンジャを殺しては、およそ生きているのが不思議なほどの重傷を負う。それで結局、まるで帰巣本能に従うかのようにタキの店に帰ってくる。

 そこが少しはカワイイだと言いたいところだが、どう考えても狂っている。あいつは世界中でニンジャを殺して回っているが、そもそもの目的は、サツガイという男の消息を辿ることにある。情報が目的ならサンズ・オブ・ケオスの奴らとナカヨシにでもなればいいだけだ。なのに、なぜ当たり前のように殺す。

 そんな無謀な殺戮を繰り返していては、闇社会では到底長生きできない。実際既にあいつはソウカイヤのニンジャにも目を付けられている。あいつが生き残っているのはプロであるタキのおかげというほかない。実際タキが命綱だ。少しは感謝しろ。だが、あいつはどうにもひねくれていて、素直にタキに感謝する様子は全くない。無理をしているのが見え見えで、そこが少しはカワイイだと言いたいところだが……

 ……目下、タキはまたもや、あの狂ったニンジャたち(最近になって、コルヴェットと名乗る、よりによって魔術師を自称する明らかに狂ったニンジャまで店に出入りするようになった)のとばっちりで危機に陥っている。

 あいつらの話によれば、もう間もなく、あのイカれたペケロッパニンジャの片割れが店に戻ってくる。ここ最近は、今日の新顔のヒロコとかいう狂人をコトブキが連れてきたように、狂人が新顔の狂人を店に呼び寄せるのがいつの間にかチャメシ・インシデントになってしまった。さも当然のようなツラして店に棲みついているあの狂ったオイランドロイドも含めて、どこを向いても狂人ばかりだ。どうしてこうなった。

 だがタキは、そのプロの自覚をもってして恐慌状態に陥ることなく自らを支え、狂人どもを絶えず呪詛しつつもその冴えたニューロンにより打開策を見出していた。

 真っ先に思いついたのは、密かに地下4階に構えているタキの情報屋としての仕事場--当然ながらピザ屋としての表の顔は闇社会のプロらしい偽装だ--に身を隠すことだったが、プロとしての予測に照らし、却下した。あのシーカーというペケロッパニンジャは、名前からしても、顔の右半分をサイバネアイまみれにしたセンスを疑う外見からしても、いかにも物探しに長けていることをしきりにアッピールしている。隠れているところを見つかりでもしたら、あの狂人どもの仲間ではないという弁解は通用しないだろう……仮に言葉が通じればの話だが。

 だから、肝要なのは友好的アプローチだ。オレはあいつらの仲間どころか、哀れな奴隷も同然だ。ペケロッパのニンジャ様があの狂人どもをまとめて葬ってくれるのなら、オレが逃げ隠れする理由などどこにもない。だから今オレはこうして、ペケロッパのニンジャと友好的にコミュニケーションをとるためのツールとして何を活用すべきか比較検討している。

 まず見つけたのは、故障して物置に放り込んだままになっていた型遅れのサイバーサングラスだ。この手のデバイスはなぜか昔からオレの性に合わない。オレは見ての通りカート・コベイン(最高に涼しい旧世紀のロックスターだ。知ってるか?)似のハンサムだから、無意識のうちにキアヌその他を連想させるデバイスを忌避しているのかもしれない。だが、今回ばかりはそうも言ってられない。試しに電源を入れる……やはり壊れたままだ。表示パネルにも何も映らない。だが友好的態度をアッピールする上では、当面、これでも役に立つ。

 次に、真新しいスケッチブックを見つけて、こいつを利用することにした。コトブキの奴が、こないだプラハに行くときに、時間があったら風景をスケッチすると言って買ってきたやつだ。だがコトブキは、どうやって手に入れたのかジャンク品の物騒なガトリングガンまで調達してきて、そいつを無理やりプラハに運ぶために、結局、スケッチブックその他の旅行気分の荷物は置いていった。そのおかげで今回は助かる。

 それからオレは、自分のルックスを今一度客観的に検討した。身につけているのは、旧世紀レトロ調の長袖ボーダーシャツ。こいつは良くない。ペケロッパの友として振舞うには、余りにもセンスが良すぎる。この時ばかりは、オレ自身のワードローブのハイセンスさを恨んだ……打開策を求めて、あらためて物置内を見渡した。

 2階の一角は、今やあのコトブキの奴の棲家と化している。ふざけたことにずいぶんと上品なベッド……あいつに睡眠の必要があるとはどうしても信じられない。その傍らには正気を疑わざるを得ないカンフー鍛錬用の木人や、やけに大型の衣装箪笥。

 意を決して箪笥に歩み寄り、開ける。一体どういうシチュエーションで着用するつもりなのか全く分からない世界のどこかの民族衣装みたいな服が何種類も、加えて、オーエル制服その他の特殊コスプレイ業務用としか思えない雑多な衣類が収納されている。こんな服装では、あのペケロッパニンジャにも狂人だと思われて、目的を達することはできない……その時、とある服に思い至った。

 オレは箪笥下部の引き出しを開けた。洗濯されたTシャツや下着類が丁寧に収納されている。もちろん目当ては下着ではなくTシャツのほうだ。極めて不本意だが、引き出しを漁った。引き出しの衣類からたちのぼる極めて不本意な香りが鼻腔をくすぐった。ニューロンへの酸素供給を絶つわけにはいかないので、不本意だが極めて大きく吸い込んだ。程無くして目当てのTシャツを見つけた。

 取り出し、あらためてそのTシャツを見た……正直、眩暈がした。だが、これこそペケロッパどもの同類にふさわしい狂気のTシャツというほかない。背に腹は代えられない。オレは身につけているボーダーシャツを脱ぎ、そのTシャツに着替えた。そして、故障したサイバーサングラスとスケッチブックを携え、階下に降り、その時を待った……

 ……2分も経たぬうちに、雑に蝶番を取り付けなおしたばかりの入り口ドアが再びバタリと倒れ、シーカーが姿を現した。シーカーは店内を見渡し、店内にいる人間をスキャンして、服装等の外見データに照合させる。先ほど店内にいた人間に一致する者はいない。そのかわりカウンター内に立っているのは、外見データベースに一致しない、すなわち初見の、サイバーサングラスをかけた薄汚い男。男が着用している、それだけが目立って清潔なTシャツには、大きく「ことぶき」と書かれている。

 シーカーはスピーカーから電子音声を発した。「敗VIP他民衆所在応答疑問しなさい」男は……タキは故障したサイバーサングラスをかけたまま満面の笑顔で答えた。「ペケロッパ!」そして、スケッチブックの表紙をめくり、最初のページをニンジャに示した。そこには、黒色極太マーカーペンで書かれた「コンニチワ!」の文字。シーカーは無言。

 タキはすかさず語を継いだ。「ペケロッパ!」そしてスケッチブックをめくり、示した。次のページには「みんなはだい4ねすと? にいったよ!」の文字。シーカーは未だ無言。

 タキの笑顔に焦燥感が混じる。書き溜めたメッセージは今ので終わりだ。スケッチブックをめくり、まっさらなページに急いで新たな友好のメッセージを記載し、シーカーに示す。「ペケロッパ!」そこには「ワースゴイ!」の文字。シーカーはなおも無言。タキは文字に二重アンダーラインを引き友好のメッセージをエンファサイズして、再びシーカーに示す。反応なし。

 タキの笑顔が引きつる。急いでさらにページをめくり、新たなページにメッセージを書き殴った。「ペケロッパ!」シーカーに示したスケッチブックには、二重アンダーラインでエンファサイズされた「タノシイ!」の文字。それを見たシーカーが動いた。

 シーカーはカウンターに歩み寄り、タキに両腕を伸ばして、硬直状態のタキの手からスケッチブックとマーカーペンを取り上げた。シーカーは唖然として見守るタキの目の前でサラサラとスケッチブックに筆記し、タキに示す。そこには、無機質な太ゴシック体で「お前をペケロッパの家に連れて行く」の記載。

 タキの笑顔が凍り付いた。シーカーは構わず再びカウンター内に手を伸ばしてタキの襟首を掴んで引き上げ、シーカーの目前に立たせた。しばし、無言で見つめ合う。タキの硬直した顔面を大粒の汗が流れる。と、やおらシーカーは中腰になり、タキが悲鳴を上げる間もなくタキを両腕で持ち上げ、プリンセスめいて抱きかかえた。タキはシーカーの腕の中でしめやかに失禁した。

 
_____________


 やがて一行は目的地と思しきビルの屋上に辿り着いた。ここはもうネオカブキチョの領域。旧時代から相も変らぬネオサイタマ最大の「繁華街」である。ネオンの輝きに満たされた路上の喧騒。加えて、地上からも頭上のマグロツェッペリンからも絶えず鳴り響くCM音声。もちろんヒロコは話に聞いたことがあるだけで、実際に訪れるのは始めてだ。コトブキが携帯IRC端末を取り出しマップ確認した。「このヤクザビルの地下で間違いないです」

 それを聞くが早いかニンジャスレイヤーはヒロコを抱きかかえたまま隣のビルとの間の路地めがけ飛び下り、路地の両側にそびえるビル壁面を往復して蹴り渡りながら地上に達し、ヒロコを地面に下ろした。ヒロコは自力で立とうとしたが、途端に脚の力が抜けビル壁面に背中を預けてしゃがみ込んだ。ヒロコの目の前でニンジャスレイヤーの装束が灰が舞い散るように消え去り、青年は再びパーカーとカーゴパンツの姿となった。

 ヒロコたちを追ってソネを担いだコルヴェットが路地に降り立ち、ヒロコに笑いかけた。「ニンジャとのひとときの旅路はいかがだったかね?」ヒロコは答えようとしたが、立てない上に声も出ない。コトブキがビル壁面の配管を伝って滑り降りてきた。ヒロコの様子を見て、すぐに手を差し伸べた。「無理せず、ゆっくり立ち上がってください」

 ヒロコは、しゃがみこんだコトブキの肩に手を置き、ほとんどコトブキにもたれかかるようにして立ち上がった。苦労してようやく声を絞り出した。「……ありがとう」コトブキはたすき掛けにしていた通学鞄をヒロコに渡した。コルヴェットは再びソネに気付け薬をかがせている。数秒してソネは覚醒した。

 コトブキはソネにも手を貸した。「もう少し辛抱してくださいね」立ち上がったソネはあたりを見回して、気を失っている間にペケロッパのアジトが間近になっていることに気づいたようだ。ソネは苦々しい顔でつぶやいた。「ペケ、ロッパ」サイバーサングラスには「ありがとよ」の表示。

 それを見て、コルヴェットはロープの端をコトブキに差し出した。「コトブキ=サン、エスコートを引き継いでもらえんか」次いでニンジャスレイヤーに言った。「タキ=サンのことだから、今頃シーカーに俺達の行き先を教えているはずだ。先に行ってくれ。俺がここでアンブッシュする」ニンジャスレイヤーはやや考えた後、答えた。「シツレイを言って悪いが、一人で大丈夫か?」

 コルヴェットは懐から何らかの粉末が入った極小キンチャクをつまみだした。「先ほどはソネ=サンを連れていたから機会がなかったが、俺独りなら、俺のカゼのジツとこいつで、やれる」極小キンチャクを目の前に掲げて軽く振る。「おそらくな。あのシーカーのようなUNIX仕掛けにはてきめんに効く奥の手だ。持つべきものは魔女の友よ」

 ニンジャスレイヤーは頷いた。「判った。オネガイする」コルヴェットは帽子の鍔をつまんで前傾させた。「では、また後でな」コルヴェットの姿が霞むように消えた。ヒロコは、この程度ではもう驚かなくなった自分に気づいた。

 「行きましょう」コトブキの声を合図に路地を出て、ヤクザビルの正面に回った。目的地はその地下だ。通りに面して地下へと降りる階段がある。明らかに地下ヤクザバーへの入口。その両脇には双子のように瓜二つの、サングラスをかけた黒服。黒服の膝の高さの電灯内蔵正方形看板には「ブッチャー」と店名が書かれている。入口に掲げられた威圧的な書体の「新鮮なお肉です」のネオンショドーにヒロコの足がすくんだ。

 コトブキはソネを牽きがながら迷うことなく入り口に向かう。ヒロコはやや躊躇した末、コトブキに続こうとした。だが、ヒロコを見た黒服たちがさっと入り口をふさぎ、ヒロコを指さして同時にヤクザスラングを放った。「「未成年ダッテメッコラーッ!」」

 生まれて初めて直にヤクザの怒気を受けたヒロコは恐怖に後ずさった。よろめき倒れそうになったヒロコの背を逞しい腕が支えた。ヒロコは振り仰いだ。ニンジャスレイヤーが憶することなく黒服たちを見返していた。ニンジャスレイヤーは眉を目から離し気味にして、やや顔をそらせた。「社会見学だ。出張マイコサービスの。おれがこいつの保護者だ」

 コトブキが振り返って不思議そうにニンジャスレイヤーを見た。ニンジャスレイヤーは顎でコトブキを促した。コトブキは左右を見て、次にソネが繋がれたロープを持つ自分の手を見た。しばらく何かを考える様子を見せた後、手早くオレンジの髪をツインオダンゴにまとめた。そして改めて黒服たちに向き直り、腰に左手を当てた仁王立ちの姿勢をとった。

 あの黒服たちに立ち向かうつもりなのか? 咄嗟にヒロコがコトブキを止めようと口を開きかけたその時、コトブキは右拳を握り、その小指をぴんと立てて決断的に自らの鼻腔に差し入れ、黒服たちをキリリと睨み付けながらセリフを棒読みした。

 「女王様と呼べコノヤロー」

 「ペ……?」ソネは呆気にとられてコトブキとニンジャスレイヤーを交互に見た。コトブキのセリフを聞いたニンジャスレイヤーは軽く二度頷いて満足の意を示してから、さらに顔を反らせて下目使いで黒服たちを眺めた。「見ての通り、今日も絶好調だ」

 黒服たちは無表情のまま顔を見合わせた。コトブキの意図を悟ったヒロコは、黒服の疑念を打ち消そうとコトブキの背中めがけ、アドリブで叫んだ。「勉強になりますセンパイ!」黒服たちがヒロコに目を向けた。ヒロコは勇気を振り絞り、自らもまた右手小指を鼻腔に差し入れ、肚の底からコギャルスラングの雄たけびを上げた。「マジウケルー!」

 次の瞬間、ヒロコの頭上から「ぶっ」という妙な音が聞こえた。見上げると、歯を食いしばり眉根を寄せてヒロコを見下ろすニンジャスレイヤーと目が合った。ニンジャスレイヤーはすぐさま視線をそらした。ヒロコは鼻腔から小指を抜いた。黒服たちは無言で一行を5秒ほど観察したが、不意に互いに頷き合い、左右に分かれて入り口を手で示した。「「ドーゾ!」」

 コトブキは再び入り口に向かい、笑みとともに黒服たちに礼を言った。「アリガトゴザイマスコノヤロー」ニンジャスレイヤーはコトブキを追い越しながらコトブキにささやいた。「それはもういい」コトブキは鼻腔から小指を抜いた。コトブキの前に出たニンジャスレイヤーの方向から、再び先ほどの妙な音が聞こえた。ヒロコもコトブキに続いて、地下への階段を降りた。


#7

 生まれて初めて足を踏み入れるヤクザバーの店内は、想像していたよりもずっと清潔で、そして無機質だった。腹に響く重低音のビートに乗せたエンカの店内BGM。左手から奥にかけての壁際に並んだボックス席はすべて人数比1対2のヤクザとゲイシャで埋まっている。ミラーボールで照らされるフロアには金属ポール。

 店内に数歩足を踏み入れたところで、突然コトブキが立ち止まった。ヒロコはコトブキの脇から声をかけた。「どうしたの?」ニンジャスレイヤーも振り返った。コトブキは小刻みに震えて固まっている。ヒロコはコトブキの顔を見た。予想に反し、コトブキは感動に打ち震えながら、入口から見て右手のカウンターを見つめていた。

 ヒロコもコトブキの視線の先を見た。カウンター内では、青白いLED照明に照らされた透明な材質の棚と「乾杯っ!!」「晩酌気分一緒に」の小ネオン看板を背にして、逆U字髭をたくわえた凶相のメキシコ男がグラスを磨いていた。コトブキがつぶやいた。「……トレホ=サン……本当にいたんだ……!」

 その言葉の意味をヒロコがコトブキに訊ねようと思う間もなく、コトブキはソネを繋いだロープを取り落とし、凶相のバーテンに駆け寄って、携帯IRC端末を取り出しながら話しかけた。「トレホ=サン! 撮影許可いいですか?」

 なぜかトレホと呼ばれたバーテンは目をしばたたいて、入り口付近に立ち止まったままのニンジャスレイヤーを見た。ニンジャスレイヤーの口が「スミマセン」の形に動いた。ヒロコはロープを拾った。コトブキはバーテンの返事を待たずに端末を頭上高く掲げて自らとバーテンをフレームに収めようと位置調整した。

 ヒロコはあのバーテンがコトブキに何をするか気が気でなかったが、バーテンはシャッターに合わせて端末を睨み、殺人者そのものの表情になって見せた。コトブキはしきりにバーテンに礼を言いながらバーテンの真正面の席に座った。

 バーテンは再び元の凶相でニンジャスレイヤーを見た。ニンジャスレイヤーは小さなため息とともに店内を進みコトブキの左隣に席をとった。ヒロコは思わずソネと顔を見合わせた。ソネはヒロコに向かって肩をすくめた後、コトブキの右隣の席に向かった。ヒロコはさらにその右の席におずおずと座った。

 バーテンはカウンター席を順に眺めた。その凶相を通してですら、バーテンが思考を放棄したことが伝わってきた。ヒロコは、今日ほど出会う人全員から珍獣を見る目で見られることはもうないだろうと思った。バーテンはグラスを磨く手に目を落としたまま、サツバツとした声を発した。「……注文は」

 ニンジャスレイヤーとコトブキの声が被った。「ミルクを」「ミルクを!」ニンジャスレイヤーは強いてコトブキに目を向けようとしなかったが、コトブキは破顔し、ニンジャスレイヤーの背中を手のひらでぱんぱん叩いた。「さすが、わかってますね!」ソネが注文した。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「ケモスタウト」の表示。バーテンがヒロコを見た。ヒロコは怯みつつも答えた。「……あたしも、ミルクで……」

 バーテンはシャムロックで飾られた有翼四つ足神話ケモ動物のオーナメントを備えたビアタップからパイントグラスに緑色発泡液を注ぎ、次に他の者のミルクを注いでヒロコたちの前に並べた。そして、泡立つパイントグラスを無言でしばらく睨んだ後、ソネの前に置いた。

 ソネは早速、手首を縛られたままの状態にやや苦労しながらも、パイントグラスを両手で掴み、喉を鳴らして緑色ケモ液体を飲んだ。ニンジャスレイヤーは目の前のミルクをしばらく眺めてから、結局、儀礼的に一口飲んだ。そしてバーテンに向けて口を開いた。

 「ペケロッパ・カルトを知っているな?」

 その途端に店内BGMが鳴り止み、ボックス席のヤクザたちの目が一斉にカウンターの新参者に注がれ、バーテンがカウンターの下からショットガンを取り出す……という光景がヒロコの脳裏をよぎった。だが、実際には何事もなく、バーテンは再びグラスを磨きながらニンジャスレイヤーに答えた。「下だ」そしてソネをちらりと見てから付け加えた。「無害でアワレな連中だ。何を揉めてんのか知らんが、あまり苛めてやるなよ」

 ニンジャスレイヤーがバーテンを見る目をすがめた。バーテンはニンジャスレイヤーの視線に気付き、答えた。「別に隠すことじゃねえ。俺のボスが……このビルのオーナーがフロアの一つを連中に貸してる。何を一生懸命お祈りしてんのかは知らねえが、サケやオイラン遊びに無駄金を使うようなやつらじゃねえから、家賃の支払いも滞りない。上客だ」

 早々にパイントグラスを空にしたソネが口を挟んだ。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「もう一杯頼む」、次いで「こいつらにツケてくれ」の表示。バーテンの口角がわずかに持ち上がった。ソネは笑顔になった。

 バーテンは新たなパイントグラスにビアタップの液体を注ぎながら、外見よりも上機嫌な口調で続けた。「実際、時々訳が分かんねえことする連中だから戸惑うこともある。こないだなんか、借りてるフロアの壁に大穴開けやがった。とっちめて修理代を払わせようと思ったら、奴ら、放棄された旧世紀の巨大地下放水路か何かに通じるトンネルを掘ってた。放水路はネオサイタマのあちこちに繋がってるらしい。オーナーに報告したら、不問にするだとさ」

 パイントグラスを睨むバーテンが、ヒロコが浮かべた疑問の表情に気付いて、今度ははっきりとニヤリと笑った。仕事柄、あの凶相でも必要に応じて饒舌になれるのだろう。「企業の横流し品やら何やらを扱うスマッグラー(訳註: ここでは運び屋あるいは密輸業者の意。同名のニンジャは無関係)に使わせて使用料をとるんだよ。もちろんオーナーがだ。ペケロッパの連中はあのでかい空間でお祈りしてるだけで、横を誰が通ろうが気にもしねえ」

 ニンジャスレイヤーもコトブキも、もはや意外そうな表情を隠そうともしていなかった。バーテンはソネの前に新たなパイントグラスを置き、余裕の笑みで新参者たちを眺めた。「だからな、ヤクザのビジネスってのは、別に隠すもんじゃねえんだよ。一応ヤクザにもメガコーポにもタテマエってもんがあるからな、企業警備員の目の前でこれ見よがしに横流し品を運ぶようなことはしねえよ。だが、ヤクザがメガコーポにお目こぼしをもらってるわけじゃねえんだ」

 今やバーテンは教師役を楽しんでいるかのようだ。ヒロコはバーテンの瞳が知性で澄んでいることに気づいた。「あんたらにゃは気付かねえ社会の仕組みってのがある。ヤクザはネオサイタマのインフラだ。メガコーポの支配が及ばない個人の領域のな。人畜無害なサラリマンでも、自分のカイシャに不満を持つ奴はいくらでもいるから横流し品だって絶えねえんだ。それが気に入らねえからってカイシャがヤクザを攻撃するなら、そりゃ筋違いってもんだ。製品が横流しされたせいで生じるメガコーポの損失ってのも、マクロの視点から見りゃよ、ヤクザの秩序に必要なコストのためにメガコーポが負担する、一種の税金だ」

 「……そういうものか」ニンジャスレイヤーの声はお世辞には聞こえない。「礼なら、そこのお嬢に言ってくれ」バーテンが目でヒロコを示した。ニンジャスレイヤーも横目でヒロコを見た。「偉そうにレクチャーさせてもらったのも、正直に言えば、そこのお嬢の目が気に入ったからだ。自らの意思で為す者の目だ」

 バーテンは、そのメキシコの瞳に宿ったヤクザの知性の光をヒロコに向けた。「もし、あんたが奴隷の生活に飽きたなら、いつでもここに来るといい。仕事を紹介してやる」ヒロコは固まった。自分が褒められているのか馬鹿にされているのかも分からない。

 バーテンはヒロコの反応を予測していたようだ。「俺は勿論あんたを褒めてるんだ。奴隷呼ばわりされんのは誰だって嫌だよな。だがそれが、あんたが学校で教えられない事実だ。あんたも学校で散々愛社精神がどうとか聞かされてるんだろうがな、いいか、そんなもん全部ブルシットだ」

 「エッ……」ヒロコは思わず声を漏らした。バーテンはヒロコの水兵服に刺繍された企業ロゴに顎をしゃくった。「学校じゃ、教育費も医療費も無料なのは所属するメガコーポのおかげとか言われてるんだろ? だがな、こう考えてみろ。もしあんたが奴隷の所有者だとして、自分の奴隷が病気にかかって医者に連れてくときに、奴隷から医療費を取るか? 奴隷の生産性を上げようと思って教育を受けさせるのに、奴隷から学費を取る奴がいるか? 奴隷小屋の家賃を奴隷から取る奴はどうだ?」

 余りに異質なヤクザの思考をヒロコはすぐには飲み込めなかったが、しばらく無言で考えて、分かりかけてきた。結局、ヒロコの親たちの苦労も知らずに、ヤクザの地位をかさに着て人を馬鹿にしているだけだと感じた。ヒロコは反論しようとした。「だけど……」

 だがバーテンは断固とした口調で続けた。「そりゃ昔に比べたらずいぶんと生活が楽になったサラリマンどもも大勢いるだろうよ。だがな、昔の、サラリマンが奴隷未満の生活を送ってた時代ってのは、たとえ中身は絵空事でも、少なくとも人権っていう言葉、その概念が必要だった。聞いたことくらいはあるだろ?」

 授業で教えられたそれは、かつて国家が権力を独占するために市民の前にぶら下げた人参だ。バーテンは自分で手元のショットグラスにバーボンを少量注ぎ、見えない誰かに向けた小さなカンパイをして、呷った。「そんな絵空事のために国家やら法律やらの面倒事を抱えて、ほとんどの奴らは結局苦労しかしなかったとしてもだ、人間が、自分が奴隷じゃねえってことを証明するためにこそ、その苦労が必要だった」

 ヒロコは悔しさに押し黙り、目を伏せた。だが同時に、自分が何のために反論したいと思っているのか分からなかった。コトブキが見かねて口を挟んだ。「……トレホ=サン」バーテンはコトブキを見てまばたきした。「トレホ」が自分のことだと思い出したらしく、バーテンの口調が和らいだ。

 「いや、悪かった。俺が何をどう言おうと、どう考えるかはお嬢、あんた次第だ。結局、国家も法律も無いなら無いで世の中はそれなりに回る。どいつもこいつも自分が奴隷かどうかを気にしなくっても平気な、メガコーポとカネモチが談合で世の中のルールを決める今の世界は、歴史的観点から言えば、古代ギリシャあたりの直接民主制への回帰だ。人によっちゃあ結構な世の中なんだろうな」

 内心の悔しさよりもこのバーテンへの興味が勝り、ヒロコは顔を上げた。メキシコの瞳に、いたずらっぽさが垣間見えた。「意外か? 見どころがあるやつなら、ヤクザクランが学費を持ってくれる。俺もそれで通信制大学を終わらせた。社会を支えるヤクザの使命に興味が湧いたら、いつでもここにきて、あんたもそうするといい。俺がボスに推薦してやるよ」

 ニンジャスレイヤーがふと顔を上げ、しばらく頭上に目を向けた後、バーテンに言った。「……勉強になった」そして、パーカーの腹部ポケットから何やら紙片を取り出して無造作にカウンターに置いた。ヒロコは我が目を疑った。カウンターに置かれたのはオーパーツめいた万札だ。バーテンが万札を見て軽く顔をしかめた。「そういうのは、俺は正直嫌いじゃない。が、若いうちから余り格好をつけすぎるのも……」その時。

 「待たせたな」バーの入り口の方向から声が聞こえた。コルヴェットの声だ。入口の方向を見たコトブキの顔がこわばった。コトブキの表情を見たバーテンが入口に目を向け、凶相を珍妙な具合にゆがめた。ヒロコは右後方、入口の方向に身をひねった。コルヴェットと並んで、なぜかタキが立っていた。外出のために着替えたのだろうか。その清潔なTシャツには大きく「ことぶき」と書かれている。

 ソネは「ことぶき」Tシャツを着たタキを見て即座に爆笑した。「ペッ! ペッペッペ! ケロッパ!」ソネは手首を縛られた状態でハンドクラップしながら身をよじってヒロコたちを見回した。サイバーサングラスには「バカだこいつ」の表示。再びヒロコは入り口を見た。タキは俯いた。ヒロコの左後方からくぐもった声が聞こえてきた。ヒロコが振り向くと、ニンジャスレイヤーがカウンターに突っ伏すかのような姿勢でこちらに顔を背けつつ、漏れ出す笑いを押し殺そうと奮闘していた。ヒロコはつられて噴き出した。

 コルヴェットは一同の反応を満足げに見渡してから、芝居がかった仕草でタキを示した。「主賓のご到着だ」そしてバーテンに向け、通貨素子を親指で弾いた。「スリヴォヴィツェを」片手で素子を受け止めたバーテンは金額を確認し、わずかに眉を持ち上げた。「ボトルでか?」「いや、一杯でいい。カウンターの連中の分もそれで。余りは、少ないが取っといてくれ」

 バーテンはカウンター上の万札をつまみ上げた。「ああいうのを見習え」言いながら、ニンジャスレイヤーの目の前に万札を立てた。ニンジャスレイヤーは笑いを収めてバーテンに頷き、素直に万札をポケットに仕舞った。

 バーテンはヒロコの右隣にショットグラスを置き、琥珀色がかった透明の液体を注いだ。甘い果実と深い森を思わせる香りが漂った。その席にコルヴェットが座った。「オレも同じのを」タキが精いっぱいタフガイを気取りながらコルヴェットの右隣に座った。バーテンがもう一個ショットグラスを置いて注いだ。

 「カンパイは省略させてもらう」コルヴェットはショットグラスをイッキした。タキはそれに倣ったが、すぐさま下を向いてむせた。注文した液体のほとんどが「ことぶき」Tシャツに吸収された。「コルヴェット=サン」抑えきれない怒気がこもった低い声でコトブキが訊ねた。コトブキはタキを指さした。「何故、その人がいるのですか」

 「いや、それがな、予定通りに例の路地でシーカー=サンとお会いしたのだが……」そこでコルヴェットがソネの視線に気付いた。ソネはコルヴェットに軽く首を振って見せた。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「仕方ない」、次いで「気にするな」の表示。

 コルヴェットはソネに頷き返して謝意を示してから続けた。「……そのシーカー=サンなのだが、なぜだかその時、こう」コルヴェットは両腕で物を抱えるジェスチャーをした。「両のかいなにだな、あたかも愛しの姫君をいだくがごとく、タキ=サンを抱えておったのだよ。つまり、俺にも理由はよくわからん。詳しくはタキ=サンに聞いてくれ」

 「それはやめておきます」コトブキの声は冷たい。タキは強いて顔を上げてバーテンに注文した。「ケモラガーくれ」バーテンはタキを見て、息を飲むような音を立てた。コルヴェットの目に憐憫の情が浮かんだ。「まあとにかく、シーカー=サンの腕がタキ=サンでふさがっていたせいで、予想よりも随分と楽にシーカー=サンの用事が済んだ」ソネは無反応。

 コルヴェットは軽く咳払いした。「正直に言えば、タキ=サンをその胸に抱いていたシーカー=サンの心情を思うとな、実際、俺も忍びない心持ちがする」そして沈痛な面持ちでソネに向かって胸の高さに片手チョップを掲げた。「すまんな。本当にすまん」

 「移動しましょう」コトブキがタキに凍るような目線を送りながら言った。そしてヒロコを見た。「ここにいては危険です」例によってタキが喚き散らすかと思ったが、意外にもタキはおとなしくジョッキを啜っている。「コトブキ=サン、そこまで言わなくても……」「その人が着ているのは、わたしが普段着用しているTシャツです」その意味を理解し、ヒロコは文字通り総毛立った。スケベ犯罪者の実物を直に目にするのはこれが初めてだった。しかも、これほど間近に……

 ……ヒロコのニューロン内では、スケベ犯罪者の姿に重ねて無数の赤い警告メッセージが表示された視界モニタを前に、顔面上半分を超自然の細縦縞で覆われたカートゥーンヒロコが棒立ちになっていた。その足元にアルファ小カートゥーンヒロコが現れ、背伸びをしてカートゥーンヒロコのスカートの裾を引き、無邪気に訊ねた。「そいつは今、誰の下着を履いているのかな」カートゥーンヒロコは声にならぬ絶叫を上げてアルファ小カートゥーンヒロコを乱暴に蹴り飛ばし、力なくうずくまって頭を抱える……

 ……ヒロコは恐怖に突き動かされ、無意識のうちにカウンターの椅子を降りてコトブキの背に隠れた。タキが吐き捨てた。「さっさと行けよ。お前ら全員、オレの前から消えてくれ」コルヴェットが椅子を降りた。「しばらく、そっとしておくのが良いな」そしてバーテンダーに言った。「好きなだけ飲ませてやってくれんか」

 バーテンはコルヴェットに目で応じつつ、ニンジャスレイヤーに小声で伝えた。「奥の突き当りの左の階段だ。一番下、地下9階まで行け」ソネが椅子を降り、タキに歩み寄ってその肩に手を置き、慰めの言葉をかけた。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「気持ちは分かる」の表示。そして他の面々に振り返り、頷いた。

 一行はオツヤじみたアトモスフィアに包まれ、移動を開始した。化粧室の扉を通りすぎ、緑色で階段のマークが描かれた鉄扉を開ける。吹き抜けを囲んで、踊り場で90度ずつ曲がるスチール階段がはるか下まで伸びている。いつの間にかニンジャ装束姿になったニンジャスレイヤーが無言で前に出て先導を開始した。

 階段を降りるほどに気温が低下する。壁面にのたうつようなケーブルの束が現れ始める。やがて、ケーブル束は壁面を覆いつくし、危険異星生物に占拠されたLV-426めいた様相を呈する。弱々しい照明が時折バチバチと火花を飛ばす。

 そして一行は吹き抜けの底に至った。扉は「九」のカンジが描かれたフスマが一つのみ。施錠はされておらず、あっさりと開く。ニンジャスレイヤーが内部を見て暫く警戒したのち、振り返って一行を促す。扉の先には、やはり不気味なケーブル類で覆われた壁に挟まれた細い通路が続く。低い天井からもケーブルや黒い磁気テープが垂れ下がり、一行は原生林を掻き分けるかのように歩みを進める。

 左右に一度ずつ折れ曲がって進んだところで、タタミ20畳ほどの空間に出る。無人。天井から手術台めいた照明。壁際には天井まで旧世紀UNIXのパーツが積み上げられている。左手の壁の中ほどだけジャンクの山に覆われていない部分があり、立てたタタミ1枚ほどの大きさの穴が雑に空けられている。

 ニンジャスレイヤーが壁の穴に向かう。コトブキと相変わらずロープに繋がれたソネが続く。ヒロコは今更迷った。この先に自分まで進む必要はあるだろうか。だが、一人でこの空間に取り残されるさまを想像してとたんに気を変え、小走りになってコトブキの背に追いついた。

 地中を掘ったままのでこぼこの通路を進み、分厚いコンクリート壁を刳り抜き取り付けられたシャッターフスマに至った。先頭のニンジャスレイヤーが近づくと、シャッターフスマがひとりでに左右に開いた。ニンジャスレイヤーに続いて一行はコンクリート開口部をくぐった。

 そこは整然とコンクリート柱が並ぶ巨大な空間だった。オニタマゴ・スタジアム何個分になるのか見当もつかない。はるか頭上の天井にぽつぽつと見える照明は決して弱いものではないのだろうが、コンクリート床に届く光は一行の姿をぼんやりと照らすだけだ。タタミ50枚ほど先の空間に人影が見える。

 ニンジャスレイヤーとコルヴェットが並んでその人影に向かった。ヒロコたちはタタミ10枚ほどの距離をおいて続く。徐々に人影のディテールが明らかになる。フード付きのローブをまとった長身の男がこちらに背を向けている。ヒロコには、あの男だと分かった。その周りを何らかのオブジェが囲んでいるが、近づくにつれ、それが座った人間だと分かる。

 ニンジャスレイヤーとコルヴェットはローブの男からタタミ5枚ほど離れたところで立ち止まった。ヒロコたちは柱の陰から見守った。ローブの男は、コンクリート床に描かれたドヒョー・リング大の魔方陣めいたザゼン数式の中心に立っている。ローブの男を囲むのは、五芒星の頂点の位置に配置された、ガスマスクを装着し並列サークルLAN直結した5人のペケロッパ信者たちだ。アグラ姿勢でゆらゆらと上体を揺らし、ヒロコたちに気づく様子は全くない。

 そして……ローブの男が、フードを脱ぎながらゆったりとニンジャスレイヤーらに向かって振り返った。青白い肌に長いオールバックの銀髪。首から下は大部分がチタン色に鈍く輝くサイバネに置換されている。はだけたローブの胸元から覗く、わずかに残る左胸の生身の肌には「色即是空」の太ミンチョ体タトゥー。

 男は手にしたリモコンのボタンを押した。ガコンプシュー。ヒロコたちの背後で、先ほど通ったシャッターフスマが気密密閉された。そして男が、瞳のない真っ白な目に微笑みらしき表情をたたえて、ニンジャスレイヤーらにアイサツした。「ようこそペケロッパの家へ。お待ちしておりました。私はアルケミーです」ニンジャスレイヤーらがオジギとともにアイサツを返した。「ニンジャスレイヤーです」「コルヴェットです」

 ニンジャスレイヤーが口を開いた。「まるでおれたちが来るのが分かっていたような口ぶりだな」アルケミーは答えた。「そのことはまたいずれ。それよりも」アルケミーは柱の陰、ヒロコの傍らにいるソネに目を向けた。「ソネ=サンを保護して頂いたようで、ご迷惑をおかけしました」

 ニンジャスレイヤーはアルケミーを睨む目を細めた。アルケミーは鷹揚に笑った。「実際、私の目の届かないところで交通事故にでもあっているのではないかと、いつも気が気でないのですよ」「分かっているとは思うが、別に親切でソネ=サンを連れてきたわけじゃない」「勿論、交渉に応じるのは吝かではありませんよ」「立場を分かってないようだな。こちらの要求にあんたが応じるのかどうかだけが問題だ」

 アルケミーは余裕の態度を崩さぬ。「ソネ=サンの扱いを見る限りですが、あなたたちは彼がどれほど重要な存在か、ひいては私たちが目指すものの価値がどれほどのものかを、知らないのでしょう」「カルトの教義などクソどうでもいい」ニンジャスレイヤーは冷たく返した。アルケミーは頷いた。「それも仕方のないことです。人類の大多数が深淵なるペケロッパの教えをゆえなく軽蔑し、あるいは無視しているのですから」「何が言いたい」

 アルケミーは二人のニンジャに向かって歩いた。ニンジャスレイヤーとコルヴェットは身構えた。だが、アルケミーは魔方陣数式を歩み出たところで立ち止まった。「お話したいのは、これです」そして懐に手を差し入れ、何かを取り出しながら、コンクリート床に片膝をついた。

 ニンジャスレイヤーらが見守る中、アルケミーは取り出した物体を埃っぽいコンクリート床に置き、ニンジャスレイヤーらに微笑みかけた。床に置かれたのは、平凡なツルのオリガミだった。

 それを見たコトブキが、いきなりオリガミを指さして叫んだ。

 「映画で見ました!」


#8

 ヒロコは、素っ頓狂な叫び声を上げたコトブキを思わず見たが、コトブキは至って真剣な面持ちでオリガミを注視していた。ニンジャスレイヤーもまた、オリガミを前に床に跪く狂人から目線を外さない。「……馬鹿にしているのか?」

 アルケミーは微笑みを浮かべたままだ。「とんでもない……ところで、あなたはオリガミについて考えたことがありますか?」ニンジャスレイヤーがなぜか絶句した。ヒロコが訝しむ中、ニンジャスレイヤーがやや間をおいて苛立ち交じりの声で答えた。「……おまえの知ったことか」

 アルケミーはニンジャスレイヤーの返答を聞き、意外そうに軽く片眉を上げたが、すぐに元の表情で床の上のツルを撫でるかのような仕草を見せた。ツルは折り目のついた正方形の紙片に変わった。「オリガミをこのようにほどけば、一見ただの紙切れです。ですが、この状態にこそオリガミの本質がある。オリガミに孕まれた膨大な情報が」「……情報だと?」

 ヒロコは軽い困惑を覚えた。ニンジャスレイヤーの様子は、まるであの狂人の話に興味を持ったかのようだ。狂人は折り目のついた紙片を指先で摘み、立ち上がった。「そう、情報です。オリガミを解さぬ者にとっては、この紙に刻まれた折り目は、単なるランダムな直線にすぎない」

 アルケミーは紙片を左掌に載せた。「ですが実際には、この折り目は、それ自体がオリガミの姿を指し示している。知っていますか? たとえ折り目とは別に折り順を指定する情報がなくとも、折り目同士に矛盾が起きぬようオリガミを折ると、おのずと完成したオリガミの姿となるのです。そして、そのようにオリガミの解を導く手順は、厳密な数学的法則に従って決定されます」

 アルケミーは再び紙片を撫でた。紙片は完成直前の、平たく畳まれたツルの姿をとった。「ですから、このように正しい折り目が与えられた紙片でさえあれば、その紙片は、あるべきオリガミの姿をとる。すなわち、オリガミの折り目とは数学的な情報の記述なのです。そして、さらにそれが二次元から三次元に拡張された場合のその情報の膨大さたるや」

 アルケミーは畳まれたツルの両翼を摘んで軽く引いた。ツルは立体的な羽ばたく姿をとった。「少しでも想像してみれば、誰もが理解するでしょう。もし、我々が普段意思疎通に使用する言葉のみによって、このツルの形をなすようにオリガミの折り目の位置を正確に記述するとすれば、どれほど大量で迂遠な記述を要することか」

 言葉だけでツルのオリガミを説明する……思わずヒロコは想像してしまった。正方形の辺の何分の何の位置から直線が伸び、その角度はどの方向で、どこまで伸びて止まるのか。それが山折りか谷折りか……そんなことを、そもそもどういう順番で書いたらいいのか見当もつかない。いや、順番は関係ないのか? 言葉の順番に意味がない言葉……たちまち考えることにうんざりした。アルケミーが瞳の無い目を自分に向けて微笑んでいることに気付き、ヒロコはぞっとした。

 アルケミーはヒロコの表情を見て満足げに頷いた。「言葉に限らず、あるいは数式によっても。それだけではありません。与えられたオリガミの折り目だけからあるべきオリガミの姿を……解を導くためには、どれほどの計算が必要か。膨大なUNIX計算資源を必要とするでしょう。にもかかわらず」

 アルケミーが再びニンジャスレイヤーに目を向けた。ニンジャスレイヤーは……わずかに後ずさり、踏みとどまった。アルケミーは笑みとともに頷いた。「……熟練のオリガミ・アーティストであれば、開かれたオリガミの折り目を見ただけで、直感的にそのあるべき完成形を紙片のうちに見いだすと言います。私は実際羨ましい。宇宙をそのように直観的に把握できる、選ばれた人々が」

 アルケミーが繰り返しオリガミを撫でた。ツルが紙片に、またツルにと姿を変えた。「オリガミこそは、数式と、その演算過程と、そしてその演算の結果を同時に体現する、完全な宇宙の縮図です。魔境に揺らぐことのないゼンの境地のごとき、可逆的に計算可能な、宇宙の、縮図。あなたたちは理解できますか……その、宇宙の姿!」

 アルケミーはツルを紙片に変えて、それを狂信者の熱狂を込めて空中に放り投げ、カシワデを打った。空中にとどまった紙片が、一瞬後にはタタミ30畳ほどの面積の、微かに黄金色に光る透き通った平面となった。アルケミーの口調に興奮が混じる。「ほとんどの人は理解していないのです。オリガミがまさしく宇宙そのものたりうることを。実際、オリガミは演算機械といえるのです。それを、もし、離散的な計算を行うコードを実行する一種のUNIXとして扱えば」

 アルケミーは指をスナップした。頭上に浮かぶ平面のところどころが卵のような形に凝縮し、やがて卵から透き通ったツルが折られ、ひとりでに羽ばたき平面上を移動し始めた。ツルは徐々に成長しながら移動し、他のツルに出会うと、そこにまた新たな卵が生じた。卵は数瞬後には新たな小さなツルとなった。

 ヒロコは唖然としてしばらくツルが羽ばたき増殖する様を見守っていたが、アルケミーが再び指を鳴らした。ツルは動作を中断した。ヒロコは我に返ってアルケミーを見た。「このように、オリガミは、世界そのものが世界それ自身を演算する一つの宇宙となります。いわば、オリガミ・オートマトンが織りなす計算世界。あるべきものがあるべきようにありのままに存在するゼンの宇宙です。そして我々が囚われているこの物質世界もまた、根底を辿ればオリガミの宇宙であるはずなのです。実際そのように解釈可能! なのに!」

 この世界が、オリガミ……ツルのオリガミを使ったオリガミ芸は確かに面白かったが、ヒロコはそろそろ狂人による世界の解釈に付き合うのに飽きてきた。アルケミーは明らかに自分の長口舌に酔っている……ニンジャスレイヤーを見た。警戒の構えを維持して微動だにしない。アルケミーの狂信的な情熱は、今や怒りさえ孕んでいた。

 「この、忌まわしき偶然に満ちた、イデアの影というにも程遠い世界! 不確定性という名の呪いの軛! 我々を支配する盲目の神!」一人熱狂に駆られて意味不明の言葉を吐き散らすアルケミーは、とうとう中空に向かって姿が見えない誰かに語りはじめた。「そう、量子のゆらぎがもたらず偶然性こそが、この世界に住まう全ての者にとっての苦しみと恐怖の根源なのです」

 ヒロコはふと思い当たり、ソネのTシャツをあらためて見る……「量子が憎い」……だが、そんなことの意味が分かってどうする。ヒロコはいい加減馬鹿らしくなってきた。

 アルケミーの語りは、もはや完全な妄想だ。「かつて、偶然性がもたらす災厄を物質世界から除くために、古代ギリシャ哲人ニンジャたちを率いて世界の理を解明しようとしたパンドラ・ニンジャ。ですが、現在ではその伝説は歪められ、災厄を封じた箱の封印を解いた愚か者の寓話として伝えられています。何という欺瞞!」

 アルケミーは嘆いた。「本来は災厄の原因である偶然性を、最後に箱の中に残った『希望』と呼ぶ欺瞞。そのような欺瞞を強いられるほどに、人は太古の昔から、偶然性こそがあらゆる害悪の根源であるという事実を恐れ、目を背けてきたのです。インガオホーとうそぶいたところで、不条理が道理を殺すというこの世界の根本的な欠陥を覆い隠すための、虚しい自己欺瞞にすぎません」

 「それがどうした」ニンジャスレイヤーの声は侮蔑を隠そうともしていない。「交渉の引き延ばしでもしているつもりか? さっきも言ったが、おれはそもそも交渉する気はない」思い出したようにアルケミーの視線が中空から正面に戻ったが、動揺の色はない。「それも欺瞞です」「何だと?」

 「あなたの要求は聞かずとも判ります。どうやって嗅ぎ付けたのかまでは分かりませんが、我々の計画をUNIXハッキングテロとでも考えて、それを中止させようというのでしょう」アルケミーはやや首をかしげてみせた。「ならばなぜ、ソネ=サンを殺そうともせず、ここまでやって来たのです?」

 「おまえが要求に応じないなら、おまえを殺せば済む話だからだ」「つまり、ニンジャは殺す。しかし、たとえ目的のためであっても、哀れなモータル(訳註:定命の者。ここでは非ニンジャの意)は殺さぬ、と」アルケミーは軽く両手を広げた。「このマッポーカリプスの世ではたぐいまれな善性、そして感性。あなたのような人こそ救われるべきだ」

 ニンジャスレイヤーの返答がやや遅れる。「……図に乗るな」「誤解です。私ごときの力であなたを救えると考えるほど、私は傲慢ではありません。あなたを救うのは」アルケミーはヒロコたちがいる柱の方向をフライトアテンダントめいて手のひらで示した。「ソネ=サンです」ニンジャスレイヤーが一瞬だけ、わずかに首を回してこちらに横目を向けた。アルケミーは動作を中断したまま空中に浮いているオリガミ・オートマトン平面に指を向けた。

 「オリガミ用紙をナノメートル厚のシートにレンキンしましたが、物質世界の制約は如何ともし難い。あれの動作を続ければ、あっという間にツルを構成する物質が不足します」ヒロコは再び黄金色の平面を見上げた。言われてみれば、平面の面積が最初よりも明らかに縮んでいる。ツルに折られた分だけ縮んだのか。

 「……ゆえに、同様の演算機械を、物質世界ではなくネットワーク、コトダマ空間で動作させる試み、ということか」この場に至り初めてコルヴェットが口を開いた。「……ソネ=サンにそれほどの力が?」

 アルケミーが頷いた。「実際、不世出の天才です。とあるコードロジストのカバルに生まれた彼は、幼少のころにオリガミの本質に気付き、密かに研究を重ねました。やがて異端としてカバルを追われた彼を見出したのが、我々ペケロッパの使徒だったのです」

 ニンジャスレイヤーは沈黙している。アルケミーはその表情を見て満足げに続けた。「彼が着想したのは、計算世界の最初の種子となる、物質世界には存在しえない数多の角度を持つオリガミ。無論、物質世界においては、コードの実行によりUNIX上で動く仮想のオリガミでしかありません。しかも現状のUNIX演算性能の制約下では、実際の動作もままならない。ですが幸いなことに、私にはそれを別な次元で現実化させることが可能なジツがある」

 アルケミーは指をスナップした。頭上のオリガミ平面がただの紙片となって舞い落ちた。「私のジツは、コトダマ空間を経由させることで物質の構成を変換するものです。が、敢えて、コトダマ空間から物質世界への現出の段階を省略すれば……」アルケミーが再度カシワデを打った。アルケミーの足元にあった紙片が01の風となって消えた。「物質世界の存在をコトダマ空間内の存在に変換できます」

 「成る程。つまり、ソネ=サンのコードを実行するUNIXをコトダマ空間上の存在に変換し、自ら世界を形作るオリガミの仮想機械を、コトダマ空間に現実化させる、と」コルヴェットの声は深い懸念を滲ませている。「だが、それはネットワークのありかた自体の改変ではないか? ネットワークを基盤として動作するUNIX機器への影響はどうする?」

 アルケミーは熱心な教え子を見るかのごとき表情で答えた。「そのようなもの……勿論、新たな宇宙への移住のため、私のジツと連携する一部の特殊UNIXはスタンドアロンで確保します。ですが、その先は、もはやネットワーク利用のためのUNIXがそもそも不要。計算資源となるエテルは無限。その地平は無限遠の彼方。その次元において、コトダマ空間に満ちるエテルの流れを直にオリガミし、あるべき世界を思いのままに現実化する、新たな宇宙に変えるのです」

 アルケミーはほとんど得意げに両手を広げ身を反らせた。「そしてついに今日! ソネ=サンは長年に渡るコーディングを完遂させ、宇宙の種子たるオリガミをインストールしたUNIXを、我々のもとに運んできたのです!」その時。

 「ゴメンナサイ!」またもやコトブキがコンクリート柱の陰から唐突に叫んだ。アルケミーが思わずコトブキを見た。コトブキは縛られたソネの手首を掲げて、ソネの左腕に装着されたハンドヘルドUNIXをアルケミーに示した。「さっきぶっ壊しちゃいました!」

 アルケミーの顎が落ちた。コトブキはアルケミーに向かって、ぎゅっと目を閉じ顔の前でしきりに両掌を擦り合わせた。ソネが呆れた様子で口を開いた。「ペケロッパ」全員がソネを見た。サイバーサングラスには「自宅にバックアップがある」、次いで「当たり前だろ」の表示。アルケミーとコトブキが同時に安堵のため息をついた。

 アルケミーは気を取り直して一同を見渡した。「……予定が多少延期されるのは残念ですが、計画の偉大さに比べれば些細な遅延です。世界の法則から偶然性が全く排除される救済の時。その宇宙は事実上不変であり、情報量は意味を為さなくなる。ゆるぎなき、穏やかな1bitへの退行。その時が目前に迫っているのです。お分かりいただけましたか? 私は是非とも、あなたたちにその宇宙への移住をオッファーしたい!」

 ヒロコは、アルケミーに何か声をかけてやろうかとしばらく言葉を探して、結局やめた。彼らは要するに、肉体を捨ててネットの世界でワガママし放題を夢見て、努力の末ついにそれを実現したと言いたいのだ。なんて虚しい努力。学校やカイシャでジョックどもの餌食にされ続けるような人生を送ったかどうかしたのだろう。

 挙句アルケミーは、ジェネレータの暴走爆発その他の迷惑を掛けてでも肉体を捨ててワガママしようというオッファーを、自信満々で提示している。コトブキ=サンとトモダチになることすらない孤独な宇宙。ふつうは誰も応じるわけがないのに、彼らはそんなことも判らないのだ。ヒロコは呆れつつも、あのアルケミーという狂人にカワイソウを感じた。そしてソネにも。

 ヒロコは憐みの目でアルケミーを見た。だがアルケミーの表情にヒロコは困惑を深めた。アルケミーがニンジャスレイヤーを見る余裕の態度は、ニンジャスレイヤーの答えを予測し疑っていないかのようだ。それにもましてニンジャスレイヤーのあの様子……いつからか、あの容赦ない罵倒がずっと鳴りを潜めたままだ。ヒロコは焦りを感じた……まさか、あの狂人の言葉に惹かれているのか?

 最後の一押しとばかりに、アルケミーの声が再び情熱を帯びた。「想像してみてください。自らの意思で三世の書の記載内容をコントロールし可逆的に計算可能な宇宙。その住人ひとりひとりが、自らの宇宙を書き記した三世の書を司る神となる世界です。そこではもはや人は運命などといったものに隷属する存在ではない」

 アルケミーは、まるで救世主気取りでニンジャスレイヤーに向かって手を差し伸べた。「我々が、あなたに救済をもたらしましょう。たとえあなたの過去にどのような苦難があったとしても、そもそも過去という概念に囚われること自体が無意味……」「もういい。大体分かった」ニンジャスレイヤーがアルケミーの言葉を遮った。アルケミーの笑顔は能天気なほどの勝利の確信だ。だがニンジャスレイヤーは無言で首を巡らせ、後方、ヒロコたちの方向を横目で見た。

 ヒロコは見た。ニンジャスレイヤーの目は暗い怒りに燃えていた。ヒロコの理性はヒロコを安心させようとした。やっぱりあの人は大丈夫だ。その怒りはアルケミーに向けられているからだ。そう理解しつつもなお、ニンジャスレイヤーの目を見たヒロコは恐怖に呑まれた。コトブキは事態を察し、硬直し立ち尽くすヒロコの手を引いた。そして、ソネを繋いだロープとともに、更にタタミ20枚後方の柱に誘導した。

 アルケミーはニンジャスレイヤーを、そしてコトブキたちの反応を見て訝しんだ。ニンジャスレイヤーはアルケミーへ向き直り、言った。

 「今決めた。貴様を殺す」

 アルケミーの表情がにわかにこわばった。ニンジャスレイヤーの殺意に打たれたその顔には、今や動揺と畏れがあった。ニンジャスレイヤーの装束が内なる熱で煮立った。ニンジャスレイヤーは不浄の黒炎を纏う腕をアルケミーに向けて構え、ジゴクめいて宣告した。

 「慈悲があると思うな。ニンジャ、殺すべし」


#9

 ニンジャスレイヤーは殺意を研ぎ澄ました。彼はこの日、ずっと不快だった。あのバーテンの言葉が脳裏をよぎる。自らの意思で為す者の目。言われずとも彼自身気付いていた。たとえ僅かではあっても、確かに、その目に微かな面影を見出していた。だから、あの小娘を見た時からずっと不快だったのだ。

 そして何よりこの状況が不快だ。結局あの小娘を……ヒロコたちを危険に晒しているのは完全に自分のウカツだ。タキがどんなに危険なスケベ犯罪者だろうと、この場にいるよりタキの隣にでもいたほうが遥かに安全だ。

 その程度の事にも考えが及ばなかったのは、意識的にしろ無意識にしろ、ヒロコから敢えて目を背けようとしていたからだ。同時にヒロコの話から予測されるリスクも甘く見ていた。彼は自分で理解し、益々不快になった……そして今目の前には、そもそもの原因である狂ったニンジャがいる。ニンジャスレイヤーは視線に乗せてアルケミーに殺意を叩きつけた。 

 ニンジャスレイヤーの殺意を受け明らかに動揺したアルケミーであったが、数瞬後には冷静さを取り戻し、再び余裕の微笑みを見せた。「急にどうしたのですか。私の発言に至らぬ部分があったのであれば……」「命乞いのつもりか?」

 アルケミーはさも残念そうに顔をしかめた。「私たちが争う必要があるとは思えないのですが……致し方ありません。あなたの心変わりに期待しましょう」アルケミーは後方フリップジャンプで魔方陣の中央に移動すると、シャウトとともにカシワデを打った。「レンキン・ジツ! イヤーッ!」

 カシワデとともに、魔方陣でアルケミーを囲むペケロッパ信者のうち二名が叫び声を上げた。「「ペケロッパ!」」その者らの姿は01のノイズに分解され、次の瞬間、野球バットほどのサイズの複数の半透明の物体へと凝縮した。ペケロッパ信者一人につき5本。計10本。物体は微かな黄金色の輝きを放ちながらアルケミーの背後頭上に浮上し、蜂の群れめいた群体運動を始めた。その鋭利な先端はあたかも結晶の槍のごとく、いずれもニンジャスレイヤーを狙っている。

 ニンジャスレイヤーは宙を舞う結晶槍の群れを眺め、アルケミーに視線を移した。「相変わらず面白い手品だな。貴様に似たサンシタなら、つい最近プラハ観光のついでに殺したばかりだ」アルケミーが目を見張った。「もしや、エゾテリスム=サンを?」「何だ。手品師仲間が殺されて悔しいか」

 アルケミーは苦笑した。「とんでもない。あの魔術師気取りには我々も辟易していたのですよ。ネットワークに唐突な時空震をもたらして何をするかと思えば、ただ野放図に物質世界でエネルギーを暴走させるだけ。魔術師が聞いてあきれる」そしてニンジャスレイヤーに向かって両手を広げた。「あなたには感謝しかない。あれのせいで我々の計画にも実際支障が出ていたのです」「礼なら、貴様が死んでくれるだけで十分だ」

 アルケミーは余裕の笑みを崩さぬ。「そうしたいのは山々なのですが、その前に、私のジツの真価をご理解いただいて、私をエゾテリスム=サンの同類扱いしたことを撤回してもらいましょう」アルケミーは指をスナップした。結晶槍の群れがニンジャスレイヤー目掛け襲い掛かった。

 ニンジャスレイヤーは連続側転で回避した。ニンジャスレイヤーの軌跡を追うように結晶槍が次々と上空から飛び来たり、回避するニンジャスレイヤーの足元のコンクリート床を穿った。大したスピードではない……と判断しかけた次の瞬間、ニンジャスレイヤーの死角に回り込んでいた3本の結晶槍が同時にニンジャスレイヤーの回避ルートを先回りし、ニンジャスレイヤーを狙った。

 ニンジャスレイヤーはニンジャ第六感でその動きを察知し、咄嗟にバック転を繰り出した。3本の結晶槍は、それまでの結晶槍とは明らかに異なる高速で、一瞬前までニンジャスレイヤーがいた地点の床に突き刺さった。第一波の攻撃をすべて回避された結晶槍の群れは再び上空に舞い上がり、次いでニンジャスレイヤーを取り囲む動きを見せた。コンクリート床を穿った先端に欠けた様子はない。

 結晶槍が再びニンジャスレイヤーを襲った。今度はニンジャスレイヤーを包囲する結晶槍が水平に近い角度で不規則な間隔で飛来する。ニンジャスレイヤーは差し当たり回避に徹しながら状況判断した。油断さえしなければ結晶槍の回避自体はさほど難しくはない。アルケミー自身もさほどの使い手とは見えぬ。

 だが彼我の実力を承知しているはずのアルケミーの余裕の態度には、何らかの奥の手の存在を感じさせる。そうでなくとも、結晶槍を甘く見てその不規則な動きを読み誤れば無事では済まないだろう。ニンジャスレイヤーは次の一手を検討した。ニューロンをニンジャアドレナリンが駆け巡り、主観時間の流れが泥めいて鈍化した。ニンジャスレイヤーは意識の奥底から身をもたげる存在を感じた。

 (((グググ……その心がけ、まずは褒めてやろう)))ニンジャスレイヤーのニューロンに愉悦の声が響く。ニューロンの邪悪な同居者、ナラク・ニンジャの哄笑である。(((ブッダに会ったら殺すのコトワザのごとく、目についたニンジャを殺す……儂の日頃の教えの賜物……)))(黙れナラク)(((キンボシを狙うは今後の課題として……)))

 (少しは役立つことを言え)(((何を儂の知識に頼る必要がある? 目の前におるのはミダスニンジャ・クランのレッサーニンジャソウル憑依者に過ぎぬ。ミダス・ニンジャはかつて、そのジツであらゆる物を黄金にレンキンする日々に明け暮れた挙句、己の営みが黄金の価値を鉄くず以下に貶めることを悟ってクラン一同セプクして果てた愚昧の徒……目の前のニンジャはセプク儀式の背景に過ぎぬ、実際書割り……迷うことなく捻り潰せ……!)))

 邪悪な哄笑は徐々に意識の奥底に沈み、時間の感覚が戻った。いくつかの可能性を検討したニンジャスレイヤーは、まず回避の動きの中からアルケミーの眉間めがけ牽制のスリケンを放った。「イヤーッ!」アルケミーは動じることなく片手を掲げ、指先でスリケンを挟み斜め後方に逸らした。「イヤーッ!」

 逸らされたスリケンが通過した無人の空間に、突如として短剣を構えたコルヴェットの姿が現れた。ステルスからのアンブッシュを看破され驚愕するコルヴェットの頬に、赤く一直線の傷が生じた。アルケミーは振り返りもせず言った。「大方、自らを包むごく小範囲の大気に負の屈折率を与えるたぐいのジツなのでしょうが、その手のステルスは私には通じません」

 アルケミーは自らの瞳のない目を指さした。「私がこの『目』で何を見ていると思ったのです? 私には、この物質世界に重なるエテルの流れのレイヤーが見えているのです。私の目には剥き出しなのですよ、あなたがたのIPが」コルヴェットは自らの油断を悔い、つぶやいた。「ゆえに、我々の到来もお見通しだった、というわけか」

 「コルヴェット=サン、あいつらの面倒を頼む」ニンジャスレイヤーは動じることなくアルケミーを睨んだまま、肩越しに背後の柱へ親指を向けた。「おれの獲物だ」「……承知した」コルヴェットは後退した。ニンジャスレイヤーは次の手を試すことにした。結晶槍が列をなす陣形をとりニンジャスレイヤーを後方から襲った。ニンジャスレイヤーは敢えてアルケミーの周囲を大きく回りこむルートをとり、ダッシュとフリップジャンプを断続的に繰り出しつつ結晶槍を回避する途中で、唐突にアルケミーに接近した。

 「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはアルケミーへの高速ダッシュからすれ違いざまのイアイ・チョップを抜き打ちした。アルケミーは腕を回してこれを受け、容易にいなした。「イヤーッ!」直後、両者共に後方に跳びすさり距離をとった。両者がいた地点に高速で結晶槍が飛来した。ここまでは想定内。

 ニンジャスレイヤーはアルケミーから距離をとり、回避行動を継続しつつ連続してスリケンを投擲した。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」アルケミーは高笑いと共にヴィトローヴィアン男めいた5連続側転を繰り出し回避した。「ハハハハハ!」結晶槍の動きに全く鈍る様子はない。

 ニンジャスレイヤーはアルケミーのジツについて凡そ当たりをつけた。思っていた以上に厄介だ。迂闊に足を止めて接近戦を挑めば結晶槍の餌食。回避行動の中から繰り出す一撃で仕留められるほどの弱敵でもない。何より、回避行動を強いられる中での攻撃は容易に読まれる。当面の主導権がアルケミーにあることを認めざるを得ぬ。このまま回避を強いられればジリー・プアー(訳註:徐々に不利)か。

 ニンジャスレイヤーの読みは、アルケミーの余裕の語りに裏付けられた。「お気付きとおり、私のジツはキネシスの類で物体を操るものではありません。あれらは、私の意思とは独立して行動する、レンキンの過程でコーディングを施された物質なのです。無論」アルケミーは指をスナップした。結晶槍が瞬時にアルケミーの前に並び槍衾を作った。「私が簡易な命令を下すことも可能です」

 「大した手品だ。おかげで、貴様の寿命が多少は伸びる」「そうですとも、そうですとも!」アルケミーは心底愉快そうな笑顔を見せた。おそらく、次の手も読まれている。何の問題もない。正面から叩き潰す。

 アルケミーは指をスナップした。結晶槍衾が面となって一斉に真正面から飛来した。ニンジャスレイヤーは結晶槍を越えるように大きく跳躍した。「イヤーッ!」通常であれば自殺行為だ。いかなニンジャスレイヤーとはいえ、結晶槍とは違い、空中で方向を変えることはできぬ……回避された結晶槍は、すぐさまニンジャスレイヤーの背後で方向を変え、空中のニンジャスレイヤーを狙う! アブナイ!

 だがニンジャスレイヤーはジャンプの頂点で身をひねりながら、不浄の炎に覆われた右腕を打ち振った!「イヤーッ!」超自然の燃え盛るフックロープが伸びる! 更に左腕!「イヤーッ!」左腕からもフックロープ! ニンジャスレイヤーは二本のフックロープを接近する結晶槍に振るう! 爆ぜる炎とともに結晶槍が弾かれる!

 着地したニンジャスレイヤーの双眸がギラリと光り、すぐさま床を蹴って両手フックロープを縦横無尽に振るいながら結晶槍の群れめがけ飛び込む! 「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」その姿はさながら混沌の刃もて屠る古代ギリシャの呪われし神殺しの戦士! 機械的にニンジャスレイヤーを狙うだけの結晶槍は最早フックロープに打ち据えられ弾き飛ばされるばかりだ! 

 不浄の炎の鞭で行動を乱された結晶槍は、コードの命ずるところに従って攻撃すること能わず、ひと塊となってニンジャスレイヤーから距離を置こうとする動きを見せた。そこを狙い、ニンジャスレイヤーは自らの身体を軸に回転しながら追撃!「イヤーッ!」

 独楽のごとき回転から繰り出されるフックロープが結晶槍の群れをひとまとめに絡め取る! そしてニンジャスレイヤーはその回転の勢いのままに結晶槍の束を振り回し……アルケミーめがけ頭上から叩きつけた!「イヤーッ!」

 だがアルケミーはニンジャスレイヤーが結晶槍を絡め取った時点でこの攻撃を予測、バック転であっさりと回避した。想定内。所詮、挨拶代わりの大振りの攻撃にすぎない。ニンジャスレイヤーはアルケミーが距離を取ったのを見て本命の行動をとった。

 一瞬前にアルケミーがいた地点の床からコンクリート片が放射状に弾け飛び、結晶槍の束が床につきたてられた。構わずニンジャスレイヤーは結晶槍の束に向かって猛然とダッシュ、そのままフックロープで拘束された結晶槍に肩と背中を叩きつけるボディチェックを繰り出す!「イヤーッ!」ガギン! 極大の打撃を受けた結晶の束に徐々に亀裂が入り……数瞬後、まとめて黄金色の微粒子と化し砕け散った。

 「お見事」アルケミーがゆったりと拍手した。ニンジャスレイヤーも気付いている。アルケミー自身が積極的に攻撃に出ていれば、これほど容易に結晶槍を片付けることはできなかった。ニンジャスレイヤーは問い質した。「何を考えている」

 どこまで芝居のつもりか、アルケミーが寂しげな表情を見せた。「私は理解していただきたいのです。この物質世界の脆さとはかなさ。私がジツでレンキンした物質とて、コンクリート程度で傷つくことはなくとも、あなたが繰り出した攻撃、私たちをニンジャたらしむ根源的な力をこめた攻撃の前では容易に破壊される、かりそめの結合を与えられたものにすぎない」

 「だから手品を繰り出すのが貴様の交渉術か?」ニンジャスレイヤーは鼻を鳴らした。「無意味だ」「まあそう言わず、もう少し私の手品にお付き合いください」アルケミーは再びシャウトとともにカシワデを打った。「イヤーッ!」

 魔方陣内に残っていたペケロッパ者のうちの二人が再び結晶槍と化した。「「ペケロッパ!」」再び生じた10本の結晶槍はニンジャスレイヤーから距離を取り、高い位置からニンジャスレイヤーを遠巻きにした。アルケミーは指をスナップした。

 「またか。手品師ならもう少し……」ニンジャスレイヤーは嘲りを中断し、咄嗟に連続サイドフリップで回避した。空中の結晶槍の鋭利な先端に次々と光球が生じ、そこからニンジャスレイヤーを狙った光線が放たれた。

 自律遠隔攻撃結晶槍の群れが不規則に位置を入れ替えながら四方八方から光線を斉射する。斉射される光線はニンジャスレイヤーの回避ルートをも同時に狙っていた。5秒ほど続いた最初の連続斉射が終わった時、ニンジャスレイヤーの左肩と右腿が削られていた。いずれも浅手。だがまともに食らえば結晶槍の物理直撃と同等のダメージだろう。

 ニンジャスレイヤーは空中の結晶槍との距離を測った。遠隔攻撃結晶槍がひたすら距離をとるのであれば先の手は使えぬ。アルケミーが戯れるようにクナイ・ダートを投擲した。ニンジャスレイヤーは指先でクナイを挟み、投げ返した。アルケミーは笑みを浮かべて首を傾け回避した。ニンジャスレイヤーはアルケミーの無言の挑戦を悟った。望むところだ。

 再び結晶槍が斉射を開始した。ニンジャスレイヤーはニンジャ敏捷性の限りを発揮し、コンクリート柱が立ち並ぶ空間を連続トライアングル・リープで跳び、回避する。ニューロンの奥底からナラクがイメージを提示した。反物質アンタイ・ウエポンをも対消滅させる極大の威力のスリケン。それを連続して投擲し、墜とす。極限のニンジャ集中力とニンジャ第六感を要する。

 ニンジャスレイヤーはニューロンの奥底に意識を向けた。(力を貸せ! ナラク!)ナラクはニューロンの内に轟く禁忌のシャウトで応じた。(((ヤッテミルサ!)))ニンジャスレイヤーの意識がナラクと同調し、両目が赤く発光した。背中に燃え上がった黒い炎が肩から両手へと伝う。ドクン。心臓が強く鼓動し、ニンジャアドレナリンがニューロンをどよもした。

 周囲の光景が消し飛び、光源のない空間ですべての結晶槍の動きがほとんど静止した。ニンジャスレイヤーの腕を伝う不浄の炎が凝縮され、その手の内に炎のスリケンを形作った。結晶槍の本来の位置に先んじて結晶槍の像が動き、結晶槍の未来位置を指し示す。その位置を狙いすまし、ニンジャスレイヤーは左腕を振るった。「アタレ! イヤーッ!」

 残像を伴って振るわれた左腕が黒い炎のスリケンを射出、スリケンが螺旋軌道を描いて飛ぶ! 奥義、ツヨイ・スリケンだ! スリケンが描く炎の軌跡が伸びる先に結晶槍の一つが移動し、そこにツヨイ・スリケンが到達して結晶槍に命中! 結晶槍が砕け散る! 撃墜! ナラクと共鳴したニンジャスレイヤーが数える!「「ヒトツ!」」

 続けざまに、ニンジャスレイヤーは首と腰をひねって振り向き、同時に左脇の下から背後に向けて右手ツヨイ・スリケン射撃!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの背後をとろうとしていた結晶槍の一つがまたもや自らツヨイ・スリケンにぶつかりに行くかのように動いて命中、撃墜! 数える!「「フタツ!」」

 その時、結晶槍の一つがニンジャスレイヤーの正面に移動、鋭い先端に光球が生じた。さらには左右後方からそれぞれ結晶槍が接近、至近距離からニンジャスレイヤーを狙う。三方向からの同時攻撃フォーメーションだ!

 だがニンジャスレイヤーは、空中仁王立ちの姿勢から正面の結晶槍に向け素早く右手のツヨイ・スリケンを投擲!「イヤーッ!」その勢いで身をひねり、炎を纏った左手チョップで左右の背後を切り払う!「イヤーッ! イヤーッ!」至近距離の二本の結晶槍は灼熱のチョップを受け、たちどころに飴のように切断! ツヨイ・スリケンが命中した正面の結晶槍と切断された二本の結晶槍が同時に砕け散る! 三連続撃墜! 巨大地下空間に響き渡る赤黒の悪魔の数え歌!「「イツツ!」」

 そして……コンクリート列柱間を高速移動する赤黒の風から炎の螺旋の軌跡が放たれるごとに結晶槍が砕け、10秒にも満たぬ間に残りの結晶槍が撃墜された。ニンジャスレイヤーはコンクリート床に三点着地した。短時間とはいえ、極限の集中力の中で高速移動と連続極大射撃を強いられたその疲労は無視できぬ。

 それでもなおニンジャスレイヤーは、「……スゥーッ」深い呼吸と共にゆらりと立ち上がり「フゥーッ……」タタミ十数枚先のアルケミーに向かってチョップ手を構えた。呼吸とともにニンジャスレイヤーの装束がふいごで吹かれるように膨張と収縮を繰り返し、ボロ布めいたマフラーがたなびいて火の粉を散らした。アルケミーは全く動じることなくシャウトとともにカシワデを打った。「イヤーッ!」

 魔方陣めいたザゼン数式に残っていた最後のペケロッパ者が「ペケロッパ!」の叫びと共に5本の結晶槍へとレンキンされた。それを見たニンジャスレイヤーが威圧した。「代わり映えのしない手品も、それでアウト・オブ・アモーだ」だがアルケミーは余裕の笑みをたたえている。「いえ、正しくはオーテ・ツミです」ニンジャスレイヤーは真意を測りかね、眉根を寄せた。

 アルケミーが笑みを消した。ニンジャスレイヤーは睨んだ。「いまさら貴様自身も戦ったところで無駄だ。手品のタネは割れている」真顔のアルケミーが不意に顔を歪め、低く笑い出した。ニンジャスレイヤーの声に苛立ちが交じる。「とうとう気でも狂ったか」

 アルケミーが笑いをこらえながら答えた。「いえ、まったく、たかが手品とはいえ、こうもはまるとは……」そして、嘲りの目でニンジャスレイヤーを見た。「なぜ、私がレンキンできるのがペケロッパ者だけだと思い込んでいるのですか?」

 ニンジャスレイヤーはその言葉の意味を悟り、己を呪った。アルケミーは再び真顔になった。「これが最後のチャンスです。あちらのお嬢様方……おや、一人はオイランドロイドですか。そういうご趣味で……まあ、それでもレンキンに支障はありません。ソネ=サンを引き渡さぬのなら、お嬢様方をレンキンします」

 アルケミーは指をスナップした。5本の結晶槍がニンジャスレイヤーの背後に回り滞空した。「無論、私にはニンジャのような強大な存在まで即座にレンキンするほどの力はありませんが、お嬢様方もあわせて同時に15本もレンキンすれば、あなたを斃すには十分でしょう。何なら、もっと別の物質にレンキンしましょうか? カワイイなお嬢様方に相応しい姿に……」

 ニンジャスレイヤーの眉間を汗が伝った。ニューロンの奥底からナラクの声が届く。(((多少数が増えたところで、最早あの程度の手品、恐るるに足りぬ……容赦なくアウト・オブ・アモーさせ、目の前のニンジャをば絶望に追い込み惨たらしく縊り殺せ!))) (黙れナラク)

 勝ち誇るアルケミーの顔が卑しく歪んだ。「全く、どれもこれもあなたのおかげです。オイランドロイドをレンキンするのも楽しみではありますが、まさか、あのような少女をレンキンできる機会を頂けるとは……制服少女を……フィヒッ……」堪えきれず、際限のない狂笑を始めた。「フィヒ! フィーヒヒヒヒヒ! フィヒヒーッ! ヒーッ! ヒーッ!」

 ナラクが叱責した。(((ええい! 何を躊躇うておるか! まさかあの小娘を気にかけているのではなかろうな? いくらオヌシにしても……)))(黙れナラク!)(((あのような小娘、助けたところで何の益がある!?)))(黙れ! ナラク!)

 ニンジャスレイヤーは邪悪なるナラクの意志に抗いながらも、その言葉を反芻した。あの小娘……ヒロコ。彼女が彼の前に現れた意味を。彼は不快だった。コトブキが語ったヒロコの物語は、彼の奥底に確かに存在する、別の願望を刺激していた。アルケミーの誘いなど比較にならぬほど強力に。それを認めることは何よりも不快だった。

 だが、彼は認めることにした。メンポの下に自嘲の笑みが浮かんだ。その意図を察したナラクが驚愕の叫びを上げた。

 (((何をバカな! サツバツナイトといいオヌシといい、なぜそうしきりに小娘にこだわる!?))) 

 (知るか。力を寄越せ)

 (((許さぬ! あのようなサンシタ一匹にそのようなリスクを冒すなど……! 取るに足りぬ小娘を庇いここで斃れるのがオヌシの本望か!? サツガイを何とする! リスクをヘッジせよ!)))

 (どうとでも言うがいい。力を寄越せ、ナラク!)

 (((このバカ! バカ! 許さぬ! 許さぬぞ……!)))

 ……ようやく笑い疲れたと見え、アルケミーは呼吸を整えながら、微動だにしないまま沈思黙考を続けるニンジャスレイヤーを見やった。その視線の先で、ニンジャスレイヤーの装束が突如としてざわめき始めた。アルケミーの第三の目は、ニンジャスレイヤーの内にある何らかの存在が煩悶し、その周囲のエテルをかき乱すのを感じ取った。

 アルケミーは訝しみ、改めてニンジャスレイヤーのアトモスフィアに注意を払った。突如としてニンジャスレイヤーが叫んだ。「どうとでも言え! ナラク!」アルケミーのニンジャ第六感がただならぬ異変を知らせた。アルケミーは指をスナップした。結晶槍の群れが整然と突撃を開始したその時、死神の咆哮が巨大地下空間を揺るがした。

 「Wasshoi!」

 そして死神が消えた。一瞬アルケミーの思考と足が止まった。それが命取りとなった。アルケミーが前方に漂うセンコめいた光点に気付いた瞬間、アルケミーは防御した。だが予想した打撃は放たれなかった。防御の隙間から伸び来った燃え盛る鉤手がアルケミーの顔面を鷲掴みにし、そのままタタミ数枚後方のコンクリート柱に後頭部を叩きつけた。

 その激痛をにわかに認識できぬほどの驚愕の中で、アルケミーはその顔面を掴む鉤手の指の隙間を通して、ほとんど密着状態となったニンジャスレイヤーをようやく視認し、事態を悟った。咄嗟にジツの解除を試みようとした時には既に手遅れだった。

 アルケミーに密着し右手でアルケミーの顔面を拘束するニンジャスレイヤーの背を、アルケミーもろともに5本の結晶槍が刺し貫き、コンクリート柱を穿った。

 「……アバッ……バ、バカナ……」アルケミーは呻き、眼前の死神の目を見て恐怖した。ニンジャスレイヤーはまるで衰える気配のない殺意の視線でアルケミーを射抜いた。アルケミーの本能が、速やかな死を迎えることを心から望んだ。

 「理不尽が道理を殺す。インガオホー、か」ニンジャスレイヤーはアルケミーの顔面を焼く右手に力を込めた。「ポエット。気に入った」その手は不浄の炎をアルケミーに流し込み、アルケミーを内側から焼き焦がした。「どうせならハイクも詠め」

 だが最早アルケミーは、残り僅かなその生命の終わりまでひたすらにジゴクの炎に焼かれ、苦悶するだけの存在であった。「アバーッ!」アルケミーの眼球が熱で爆ぜ、頭部にある全ての開口部から炎と煙が噴き出した。

 アルケミーがハイクを詠む様子がないと見て、ニンジャスレイヤーは無造作に逆袈裟の左チョップを振り抜いた。アルケミーの左肩から先と首が同時に刎ね飛ばされた。宙に舞い上がったアルケミーの焼け爛れた首が絶叫した。

 「サヨナラ!」

 アルケミーは爆発四散した。


#10

 「Wasshoi!」 

 距離を置いて何やらアルケミーと会話していたニンジャスレイヤーが突如として咆哮し、一瞬姿を消した。再び姿を現したニンジャスレイヤーはアルケミーをコンクリート柱に叩きつけていた。そしてニンジャスレイヤーの背に何本もの結晶の槍が突き刺さった。ヒロコの視界が露光過多になった。

 何もかもが白くなった世界で、ニンジャスレイヤーがアルケミーの左腕と首を一撃で刎ね飛ばした。アルケミーの燃える生首が空中で「サヨナラ!」と叫び、その体が爆発四散した。

 ニンジャスレイヤーに突き刺さっていた結晶の槍が輝きを残して雲散霧消した。その痕にいくつも傷口が残った。煙を上げて焼け焦げる傷口から沸騰する液体がどくどくと流れた。ニンジャスレイヤーはたたらを踏みつつ、アルケミーがいた場所に向かって再び構えをとろうとしてくずれ落ち、両膝立ちの状態で前方に倒れた。コンクリート柱に預けた頭がずるずると力なく下がり、途中で止まった。

 その時、ニンジャスレイヤーの最後の一撃の軌跡に沿って、コンクリート柱にぴしりと切れ目が生じた。斜めに走った切れ目から上の部分が徐々にスライドし、やがて床面に脱落した。そして、横方向に轟音を立てて倒壊した。

 コトブキがニンジャスレイヤーの名を叫んで駆け出した。コルヴェットが無言でその後を追った。ヒロコは取り残された自分を見出した。無意識のうちに自らもよろめく足取りでコトブキを追った。

 ニンジャスレイヤーのもとに駆け寄ったコトブキは、ニンジャスレイヤーを仰向けに横たえながら腰を下ろし、彼の頭を膝枕に乗せた。コルヴェットがアルケミーの爆発四散痕からリモコンを拾い上げてボタンを押した。ガコンプシュー。ヒロコの後方でシャッターフスマが開いた。コルヴェットは床に膝をつき、ニンジャスレイヤーの傷をあらためた。

 ヒロコはその光景を眺めながら近づいた。ニンジャスレイヤーまでタタミ5枚ほどの距離に接近したところで視界に色彩が戻った。ニンジャスレイヤーの下に広がり続ける血の海が目に入り、ヒロコの膝が落ちた。ニンジャスレイヤーの顔からメンポが剥がれ落ち、床に転がってガランと音を立てた。その目は閉じられていた。

 コトブキが目と口元を震わせながらニンジャスレイヤーの頬を撫でた。コルヴェットは険しい表情で見守る。本能がヒロコを絶叫させようとしたところで、ニンジャスレイヤーが薄く目を開き、コトブキたちを認め、かすれた声を発した。「……何だその顔は」

 コトブキの顔を一瞬安堵が満たしたが、すぐさま不安の表情に戻った。コルヴェットが再び傷をあらためる。煙を立てる傷口は早くも塞がりかけている。だが今なお出血は止まぬ。ニンジャスレイヤーも自らの傷口に目を向けて、言った。「……この程度、今までのに比べれば……」言いながら身を起こそうとし果たせず、再び力なく横たわった。コトブキは彼を優しく押しとどめるように膝枕の上の彼の頭を両手で包んだ。

 その時、ヒロコの傍らに背後から歩み寄る者があった。ヒロコは見上げた。ソネだった。コトブキたちも気付いた。皆が見守る中で、ソネは手首を縛られた両手を頭部にあてがった。プシュッと音を立ててサイバーサングラスから何本かのケーブルが外れた。ソネはサイバーサングラスを外し、床に無造作に放り投げた。サイバーサングラスは僅かに転がってニンジャスレイヤーのメンポに当たり、止まった。

 「……フーッ」ソネは茫洋とした目線を漂わせながら長く息を吐き、一同を見渡した。その目は意外にもつぶらだった。そして虚無の暗黒をたたえていた。ソネが喋った。「……そろそろ、マクガフィンはお役御免でいいか?」コトブキが硬直するのが見えた。再びヒロコはソネを見上げた。ソネは侮蔑の目でヒロコを見下ろした。「……こういう結末くらい予想できただろ」

 ソネは唖然とする一同を再び見渡し、笑みを見せつけて、言った。「ありがとよ。俺から全てを奪ってくれてな」誰も一言も答えられなかった。それを見て、ソネは満足げな表情で嘲った。「……愚か者どもが」そして身を翻し、後方の柱の一つに向かって突進し頭から衝突した。ソネは割れる音と潰れる音と折れる音を立てて倒れ、動かなくなった。

 ヒロコは呆然としたまま、再びコトブキたちに目を向けた。コトブキは拒否するように首を振り、頭を垂れた。コルヴェットが口を引き結んで目を伏せた。ソネに向けられていたニンジャスレイヤーの目線が動き、ヒロコを捉えた。ヒロコは、ただ見返した。ニンジャスレイヤーがヒロコを見つめた。「ヒロコ=サン」

 ヒロコは二度、まばたきした。あの人が自分の名前を呼んだのだと気づいた。ニンジャスレイヤーが再び言った。「ヒロコ=サン」ヒロコは答えた。「何、ですか……」ニンジャスレイヤーの目が無言でヒロコを呼んだ。

 ヒロコは立ち上がった。ニンジャスレイヤーにあと数歩のところまで近づいたところでよろめき、床に手をついた。ヒロコはそのままニンジャスレイヤーの傍らへとにじり寄った。手と膝が血だまりに触れた。

 ヒロコは這いつくばって震え、顔を上げてニンジャスレイヤーを見た。青年が訊ねた。「どのくらいまで戻れるんだ?」思わずコトブキたちを見回してから、また青年を見た。ようやく、自分の力について質問されているのだと理解した。ヒロコは過去の経験を振り返って、答えた。「一年、くらいは……」

 その答えを聞いて、青年は真上を向いて目を閉じ、長く息を吐きながら微笑んだ。青年は目を閉じたまま言った。「頼まれてくれるか?」なぜか返事ができなかった。青年は再び目を開いてヒロコを見つめ、告げた。

 「今から言う日時場所に、マスラダという男がいる。そいつに伝えてくれ。その日の夜の予定はキャンセルしろ、と。そうしないと」一呼吸置いて、続けた。「そいつと、アユミが死ぬ」

 マスラダが誰なのか、言われずともヒロコには判った。だから黙っていた。ニンジャスレイヤーが再度目線でヒロコを呼び寄せた。ヒロコは更に近づき、耳を青年の口元に近づけた。青年はヒロコだけに聞こえるように、その日時場所を囁いた。

 ヒロコは青年から顔を離した。青年は変わらずヒロコを見つめていた。「行ってくれ」嫌だ。

 動かぬヒロコを見て、青年はさも気まずそうに顔をしかめて、笑った。「すまない。言い方が悪くて。これでも、あんたに会えて良かったと思ってるんだ。本当だ」

 そう言って、青年は微笑んだまま、ヒロコを納得させるかのように一つ、頷いて見せた。その笑みの半分は自分自身を笑っているのだとヒロコには判った。青年の……ニンジャスレイヤーのまなざしは優しかった。それは、他人に希望を託した者の期待と安堵の目だった。嫌だ。そんな目で見るな。

 ニンジャスレイヤーから目を背けた。コトブキが視界に入った。コトブキもまた、強いてヒロコに微笑んだ。「約束します。わたしはかならず、またヒロコ=サンに会いに行きます」そして、涙をこらえる表情でコトブキも頷いた。「ユウジョウです」だが、コトブキの瞳は乾いていた。

 ヒロコは悟った。あれほど笑い、怒り、幸福そうにヤキイモを味わっていたコトブキ。なのに、涙を流す機能がないのだ。ヒロコを見つめるコトブキの目。涙を流さぬそれは、いびつな人形の目だった。嫌だ。そんな目で見るな。

 それからコルヴェットの視線に気付いて目を向けた。コルヴェットはもはや何も言わず、立ち上がり、ただヒロコを見て頷いた。まるで、全てを分かった上で兵士を死地に送り込む指揮官の目。嫌だ。そんな目で見るな。

 ヒロコは見渡した。誰もがヒロコを見ていた。ニンジャスレイヤーが励ますように言った。「さあ、行け」ヒロコはこの世界から拒絶されていた。それを理解してヒロコは立ち上がり、無言で皆に背を向けた。そして歩き始めた。

 しばらく歩いたところで足が止まった。ヒロコの背にニンジャスレイヤーの声が届いた。「行け」振り返らなかった。ただ再び足を動かした。ニンジャスレイヤーの声が再び歩き始めたヒロコの背を打った。「走れ!」溢れ出る涙をこぶしでぬぐいながら、ヒロコは走った。

 ヒロコは開かれたシャッターフスマをくぐり、無人の空間を過ぎ、長い長い階段を一人登った。機械的に足を動かすうちに先ほどのバーに辿り着いた。足元だけを見て出口に向かった。カウンターのタキがヒロコを見て何かを察した。タキは椅子を降り、ヒロコと無言ですれ違い、足早に店の奥に向かった。バーテンがヒロコの背を見送った。

 地上への階段を登ると、外は雨になっていた。サイバーLED傘や耐汚染PVCコートがひしめく夜の路上で、しばし立ち尽くした。適当に駅がありそうな方角に当たりをつけて駆け出した。黒服たちがその背を無言で見送った。

 群衆を掻き分けようとして、あっという間に足を滑らせてうつ伏せに転んだ。顔が水たまりに浸かった。群衆は皆ヒロコを無視した。立ち上がれないまま、ヒロコは無力感に耐えようとした。ソネの目にあったあの闇が近くにあるのを感じた。

 その時、ヒロコの頭のすぐそばで足音が止まった。ヒロコは無視した。だが足音の主は動こうとしない。ヒロコは顔だけを起こし前を見た。使い込まれた無骨なブーツがあった。上から声が聞こえた。「立て。娘よ」

 ヒロコは水たまりに両腕をついて身を起こそうとした。ブーツの男が片膝をついてヒロコの肩に手を添えて助けた。ヒロコは路上にへたり込んだ格好で目の前の男を見た。編笠を被り迷彩ポンチョをまとった見知らぬ男がいた。男の落ちくぼんだ目から放たれる鋭い眼光がヒロコを見据えた。

 男がヒロコに向かって静かに口を開いた。「……ここがナムなら、お前はとうに死んでいた」「……ナム?」訝しむヒロコに構わず、男はポンチョの中から乾いた清潔なテヌギー(訳註: 手ぬぐいか?)を取り出し、ヒロコの顔を拭い始めた。

 男はヒロコの顔面と頭髪から汚れを拭きとりながら、ヒロコに語りかけた。「常に周囲を警戒し、注意深くサヴァイヴせよ。そのためにも……」男は拭き終わったテヌギーを仕舞い、こけた頬に笑みらしき表情を浮かべた。「……笑顔を忘れるな」

 男はヒロコの目を見た。その目をそらさぬままヒロコの手を取り、立ち上がらせた。そして笑みを消し、ヒロコの右肩に右手を置いて、言った。「カラテだ」

 そう言い残し、男はヒロコの背後に歩み去った。振り返ると、もう男の姿はどこにもなかった。

 ヒロコはまたしばらく立ちすくんだ。今の言葉が否応なくヒロコの思考を捉えた。カラテ。知っている言葉なのに、なぜか、まるで初めて聞いた言葉のような違和感。

 それから口に出した。「……カラテ」自分で口にしたなんの変哲もない単語が、ひどくヘンテコに聞こえた。その響きがヒロコのニューロンを妙な具合に刺激し、ヒロコは小さく噴き出した。こんな時でさえ人間は笑うのかと思った。

 ヒロコは前を見て、もう一度呟いた。「カラテ」その言葉の響きが、ヒロコの身体に今なお残る活力を思い出させた。ヒロコは歩き始めた。「カラテだ」そして再び駆け出した。

 ヒロコはもう決意していた。通学鞄を置き忘れてきたことに気付いた。ニンジャスレイヤーに託された日付がどんな日だったかはすぐには思い出せない。だが、鞄にしまった手帳のカワイイカレンダーを見なくても、その日の数日前が、タマヨたちと組んだバンドで演奏した文化祭だったことははっきりと覚えている。

 本番の前夜、ヒロコは緊張してなかなか寝付けず、結局、文化祭当日の朝なのに寝坊した。慌てたヒロコは、ギターを背負っているのを忘れてうっかりいつものように階段を大ジャンプし、危うくギターを壊すところだった。

 ヒロコはその朝の大跳躍の光景を脳裏に思い描き、念じた。あとは、跳ぶだけだ。

 ヒロコは駆けながら周囲を見た。通りを挟んだ向こうに、今いる路上よりも低い場所に降りる階段があった。その先に続く脇道は退廃ホテル街(原註: 専ら複数人による性的行為を行う際に利用する、ほとんど日本独自の集合モーテル・システムの密集地)。構わずそこを目指す。

 横断歩道を渡り、群衆の切れ目を見つけ、さらに加速する。退廃ホテル街が間近に迫る。下り階段の手前まで迷うことなく駆ける。階段の先は、色とりどりの猥雑なネオンの輝きが浮かぶ夜の闇。その闇のただ中に向かって、ヒロコは肚の底からカラテシャウトの雄たけびを上げた。

 「Wasshoi!」

 雄たけびとともに闇の中へ全力で踏み切る。飛翔。







 5度目のその日の早朝。

 晴れ間を覗かせるネオサイタマ東部のサクラガハイツ・ダンチ。立ち並ぶ相似形の建物のひとつ、3号棟の8階に並ぶ玄関スチールドアの一つを開き、「イッテキマス」のアイサツとともにヒロコは自宅を出発した。この朝を迎え、ヒロコは過去を思った。

 二度目の文化祭の数日後、ヒロコは頼まれたとおりに伝言を届けた。そこで待っていたのはヒロコの予想通りの青年だった。だがその青年は、丁寧な物腰の裏にアーティスト気取りのような傲慢さが見え隠れするやつだった。ヒロコは伝言を伝えるだけ伝えて、妙な顔をする青年の前からさっさと立ち去った。あれで青年の何かが変わったのだろうか。多分、何も変わらなかったのだろう。多分。それから数か月。

 ヒロコはいつもの通学路を歩む。朝の跳躍も疾走もとうに止めていた。朝になると自然に目が覚めるようになっていた。急におとなしくなったヒロコのことを、タマヨたちは最初ずいぶんと心配した。だが一週間ほどで元通り普通に接してくれるようになった。どうやらタマヨたちは「好きな人ができた」と推理して納得しているらしい。ヒロコは自覚していた。本当は、朝が怖いだけだ。

 やがて、あの交差点が近づく。足がすくむ。だが、あの瞬間の数分前には、もう交差点に辿り着いてしまう。全身がすくむ。怯える表情を消せないのが自分でも分かる。見渡す。

 大通りを挟んだ向こう側、オールド・カメ・ストリートの入り口近くでカンフーか何かの修行をするコトブキがいる。しばらく前から見かけるようになっていた。だが、自分からは会いには行かなかった。コトブキもヒロコのことなど気にかけていないだろう。

 コンビニの角に立って東を見る。やがてソネが視界に現れる。自分を待ち受ける運命のことなど知らず、必死に背後に迫る運命から逃走している。

 ヒロコはソネを見つめる。ヒロコはずっと前から決意していた。せめて、最後まで目をそらさずに見届ける。それも言い訳だと分かっていた。結局、見捨てるのだ。でもだからこそ、見届けなければならないと決意していた。

 ソネがヒロコの視線に気付くが、構わず全力で逃走を続けてヒロコの前を通りすぎる。そして背後から追ってくるテクノギャングを振り返りながら横断歩道を渡り始め、ドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折するトラックに撥ね飛ばされた。ソネは宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そしてコンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。

 大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ。すぐさま、テクノギャングがソネの遺体を路地裏に運び去った。

 ヒロコは一人で耐えようとした。だが、その人の姿を探し求めるのを止めることができなかった。たとえ命のない人形だと分かっていても、無理だった。

 ヒロコは振り返り、通りの向かい側の大トリイにその人の姿を探し求める。コトブキと目が合う。


___________


 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように大トリイの向こうに広がる光景を眺め、通りの向かいのコンビニの角に立つ見知らぬ少女がコトブキを見ていることに気付いた。

 コトブキはいつものルーチンを中断し、その少女を見守った。やがて少女は東の方向をじっと見つめ始めた。少女が見つめる先から、テクノギャングに追われて必死に逃走する貧相な男が現れた。

 男は少女の前を通りすぎ横断歩道に差し掛かったところで、西から走ってきてドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折したトラックに撥ね飛ばされた。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そして被害者は、コンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ。あの少女を除いては。

 その少女は、コンビニの近くで棒立ちになり、被害者が落下した方向を向いている。すぐさま、テクノギャングが被害者の遺体を路地裏に運び去る。そして、棒立ちのままの少女が……いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が……コトブキのトモダチの少女が……いや、トモダチになるのは明日だったはず……突如ニューロン内に矛盾した複数の想念がわきあがり、コトブキは戸惑った。振り向いたその少女と目が合った。

 コトブキは戸惑いを残したまま、傍らの師父を見た。師父はいつもの笑みを消して目を見開き、コトブキと同様に通りの向こうの光景を見つめていた。ややあって、師父はコトブキへと振り返り、しばしコトブキと無言で見つめ合った。そして師父はコトブキの目を見据えて、力強く頷いた。

 コトブキは理解した。そして自我の赴くままに、複数の想念の中から最も望ましいものを選び取った。コトブキは師父に向かって拱手包拳オジギをして師父の前から退き、カンパチの大通りを渡る横断歩道を目指した。

 コトブキは横断歩道の信号がグリーンになるのを待った。その前からずっと少女はコトブキを見つめていた。コトブキが横断歩道を渡ろうとしているのを知って、少女の顔がわなないた。少女は無言でコトブキに訴えていた。コトブキは少女に優しく頷き返した。

 信号がグリーンになった。コトブキは横断歩道を歩んだ。少女は一歩も動けず、ただコトブキを待ちわびていた。横断歩道を渡り終え、少女の前に辿り着いた。少女はコトブキに倒れこむように崩れ落ちた。コトブキは少女を受け止め、少女と一緒に歩道に跪いた。

 少女はコトブキの胸に顔を埋めた。そして、コトブキの胸で声をくぐもらせながら、不規則な痙攣とともにごうごうと獣が唸るような声を上げて嗚咽した。

 少女の嗚咽を受け止めるうちに、また別な想念がどこからか降りてきて、コトブキは悟る。少女は自ら罰を欲し、それが叶えられないことに泣いているのだ。そして気付いていないのだ。あの、誰からも顧みられない不幸な男のために涙を流すのは、地上にただ一人、この少女だけであること。それ故に既に赦されているのだということを。あとで、教えてあげよう。いつか泣き止んだら。その時を想像してコトブキは思わず微笑んだ。

 少女の頭部の器官が分泌し得るありとあらゆる液体が嗚咽とないまぜとなってコトブキの胸元を濡らした。コトブキは微笑みながら少女を抱きしめ、その心臓の鼓動を感じながら瞼を閉じた。いつの間にか溜まっていた涙が溢れ、頬を伝った。あの日、数多くの仲間が虐殺された日にも流れなかった涙。コトブキは何も不思議に思わなかった。涙を、トモダチの頬の上に落ちるがままにした。

 少女の嗚咽がやがて、いつ果てるともしれぬ啜り泣きに変わる。より強く、トモダチの少女を掻きいだく。自分に涙を流させるその心臓の鼓動が心底羨ましかった。

 ふと気付くと、視界の片隅に「流れる自分の涙」のアンロックを告げるシステム通知が点滅していた。それもやがて消えた。

 そしてコトブキは、自分に涙を流す機能があることを、なぜか、ほんの少しだけうしろめたく思った。




【ペケロッパ・カルト】 終わり