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ヤクザヘヴン 【8/10】


(前回)


第八章 長崎逃避行


 当初は驚きつつも見世物の一環だと考えて空を見上げていた群衆は、その頭上でホバリングする巨龍が咆哮するや、たちまち腰を抜かさんばかりとなって逃げ散った。セツコたちと勇者のパーティー以外は無人となった由布院駅前に、勇者のドラゴンが着陸した。

 勇者はひらりとドラゴンの首の付け根に跨った。続いて、ドラゴンの背に女たちが一列となってしがみついた。そしてドラゴンを離陸させた勇者は、天に昇りつつ大見得を切った。

「見たか! これが神の勇者のちからだ!」

 セツコが上空の勇者に大声で呼びかけた。

「ほんま凄いねぇ勇者くん! どうしてそんな凄いドラゴンを仲間にできたんね?」

「もちろん、ぼくが勇者だからだ!」

「……そうじゃなくってね、あれよね。ドラゴンを仲間にするのになんか物凄い冒険? したんじゃろ? ウチに詳しく教えてくれんかいね?」

「いいだろう! ぼくの冒険のことを聞けば、おまえもぼくのパーティーにぜったい入りたくなるぞ!」

 そして勇者はドラゴンを上空で旋回させながら、滔々と自慢話を始めた。セツコたちは勇者を無視して額を寄せ合った。

「どうすんじゃい。武器言うても、袋の中に、セツコのガンと、あとはグレネードのたぐいが何個かあるだけなんで? さすがに、あがいなんには通用せんじゃろ」

「クマちゃん、あれの倒し方知っとる?」

「知るか馬鹿者。あれは、未だ実戦投入されたことはないが、将来の大規模な戦闘に備えて育成しているものだ。あれと生身で正面から戦おうとする者からして、前代未聞だ」

「クマ公。自分が役に立たんいうことを自分で説明しよるだけで、何でそがいに偉そうにできるんじゃ」

「黙れヒッポ。ああいうのこそ貴様ら日本の民の得意分野だろう。大体、セツコの着ているそのTシャツは何だ」

 クリストフォロスはセツコの胸部を、嫌悪感も露わに横目で見た。セツコとヒッポも釣られてそれを見た。Tシャツにプリントされた「モンハン」のパッケージイラストが、暴力性のままに引っ張られ歪んでいる。セツコとヒッポが、ほぼ同時に閃き、互いを見た。

「フラッシュバン持って来とる?」

「おう。閃光玉が現実でもあがいなんに効くんかは知らんがの」

「何の話をしている?」

「とにかくね、クマちゃん。やってみんと分からんけど、時間稼ぎをして隠れるくらいはいけるかも」

 セツコは麻袋からヒップホルスターを取り出すと、袋をヒッポに渡して、二丁拳銃をジーンズの腰に吊るした。はるかに気分が良くなった。クリストフォロスが訊ねた。

「私が手伝えることは」

「儂らからちょっと離れてから、お姫さんをお姫さんだっこでもして、大体儂らとおんなじ方角に逃げてくれや」

「……ヒッポ君、わたしも、自分の脚で結構速く走れるよ?」

「クマちゃんがテッちゃんをだっこしてればね、セクハラ腐れ外道の勇者でも、さすがにクマちゃんを攻撃で……」

「危ない!」

 クリストフォロスの警告で、全員が咄嗟に後方に跳び退った。直後にセツコたちがいた場所に火球が着弾し、爆発した。クリストフォロスとテレサの荷物は跡形もなくなった。テレサが一跳びで駅舎の屋根に飛び乗ったのを見て、セツコとヒッポは目を丸くした。

「……そういや、お姫さんもカタギじゃあなかったよの」

 たった今ブレス攻撃を放ったドラゴンから、勇者が地上に向けて怒鳴った。

「なんだおまえたち! ぼくがせっかく説明してやってるのに、なんでちゃんと聞かないんだ?」

 クリストフォロスが怒鳴り返した。

「何をするかゲオルギウス! テレサの身に何かあったら、貴様は破門どころでは済まされんぞ!」

 勇者は真っ青になった。クリストフォロスは激怒した。

「本当にそんなことも分からずに撃ったのかこの大馬鹿者!」

「う、うるさいな! ちょっといたずらしただけじゃないか! ちょっといたずらしただけなんだから、だれにも言うなよ?」

 セツコとヒッポは囁き合った。

「セツコ。どっちに向かやぁあええかの?」

「別府の方向にこの先何があるか分からんけえ、とりあえず西のほうじゃね」

「決まりじゃの」

 セツコは、屋根の上のテレサの横に並び立ったクリストフォロスに向け、顎で合図した。クリストフォロスはテレサの前に跪いた。

「テレサ……様、まことに失礼ながら……」

「肩の傷は大丈夫なの?」テレサは彼の口上を遮って、また、あの笑みを見せた。「……お父さん?」

「多少痛みますが、任務のためならばこれしき……」

 皆まで聞かずに、テレサはクリストフォロスをお姫様だっこした。恐れおののかんばかりの表情になった彼に、テレサは笑顔のままで、囁いた。 

「お父さんがわたしを運ぶと、お父さんの背中を矢で狙われるかもしれないから」

 クリストフォロスは、まるで命乞いをするかのように、街路に立つヤクザたちに視線を向けた。ヒッポがウィンクを返した。セツコは笑顔で二丁拳銃を抜いた。それを合図に、皆が駆け出した。

 勇者が残忍さを隠そうともせずに笑った。

「にげられると思うなら、やってみろ! ずるい女やねこがどうなっても知らないぞ!」

 ヤクザたちは、夕陽を目印に街路を疾走した。住民や観光客が次々と、空のドラゴンに気付いて悲鳴を上げた。幸い、ヤクザの全力疾走には、あのドラゴンもすぐには追い付けないようだ。テレサは、クリストフォロスを抱えながらも、街路に面して建ち並ぶ建物の屋根を易々と跳び渡って、ヤクザたちに並走している。ヒッポが感心した。

「お姫さんなら、クマ公と違うて立派なヤクザになれそうじゃの」

「それは今はええけえ、ヒッポちゃん、フラッシュバンすぐ使えるように準備しとってね」

 たまたまヒッポが袋を抱えていたおかげで、袋がブレスに焼かれなかったのは幸運だった。そう考えてから、セツコは気付いた。あのブレス攻撃が来る気配がない。セツコは振り返った。ドラゴンは高度を落としてテレサの背後に迫ろうとしていた。ドラゴンの左右の脚に、ローブの女とチュニックの女が片手だけでぶら下がり、もう片方の手で鎧の女の足首をそれぞれ掴んで、鎧の女を逆さ吊りにしている。逆さ吊りの鎧の女は、両手を広げてテレサの背に迫ろうとする恰好だ。ヒッポも振り返った。

「なんじゃいありゃあ。ラピュタの真似でもするんか?」

 セツコは、効くことを祈りながら二丁拳銃でドラゴンの脚めがけ発砲した。着弾とともにドラゴンが吠え声を上げ、煩わしそうに脚を振った。振り落とされた女たちは、悲鳴を上げながら屋根に激突した。前方を睨む勇者が気づいた気配はない。テレサの腕の中で背後の光景を目撃したクリストフォロスが叫んだ。

「止まれ!」

 テレサは急停止した。慣性を利用して転がるように屋根へと降り立ったクリストフォロスは、低空で頭上を通り過ぎようとするドラゴン目掛け跳び、ドラゴンの尾にぶら下がった。クリストフォロスはドラゴンの尾を登り始めた。テレサたちを追い越したことに気付いた勇者は、ドラゴンをターンさせた。セツコは走りながらテレサに叫んだ。

「テッちゃん! こっち!」

 テレサは頷くと、屋根の上で急加速し、一跳びでヤクザたちの横に追い付いた。ヤクザたちは再び目を丸くした。ヒッポが言った。

「お姫さん、ほんまは普通にクマ公よりも強うないか?」

 テレサは笑った。

「お父さんには内緒にしてね、ヒッポ君?」

 クリストフォロスは今や、ドラゴンの背中から生えた棘を掴みながら、よじ登るように勇者へと向かっている。ドラゴンの首元から地上を見ていた勇者は、テレサがヤクザと並んでいることに気付いたらしく、ドラゴンに彼らを追わせながらきょろきょろし始めた。そして、ようやく自分の真後ろに目を向けた瞬間、クリストフォロスが勇者に飛び掛かり、背後から勇者の首に腕を回した。もがく勇者に合わせて左右に蛇行しながら飛ぶドラゴンの首元で、チョークを決めようとする聖堂騎士団長と、これを振りほどこうとする勇者のもみ合いが始まった。背後のドラゴンとの距離が徐々に開いた。ヒッポがニヤニヤしながら心底感心して見せた。

「クマ公、あがいにハッスルするタイプじゃったっか? 父は強しじゃの」

 テレサが、誇らしげに微笑んだ。

 街のはずれが近づいた。遠くに、例の階差機関の密集地が見えてきた。ピストン等の動力が稼働している様子はない。定時を迎えて業務は終了し、職員は帰宅の途についたのだろう。セツコが拳銃をホルスターに収め、無言でヒッポに片手を差し出した。ヒッポは紙筒を握らせた。セツコは振り返り、肚の底から怒鳴った。

「クマちゃん! そろそろ降りて!」

 彼は、セツコが彼に振って見せた「チップスター」に気付いた様子を見せた。そして、いつの間にか上がっていた高度にややためらいの様子を見せたのち、勇者を解放してドラゴンから飛び降りた。自由落下する彼を、ひとり後方の彼を目掛けて跳んだテレサが、放物線の頂点でキャッチした。

 セツコは左の拳銃を抜いて発砲し、勇者を挑発した。勇者がセツコに狙いを定めたのを確認して、セツコは時限信管の撃発装置を作動させた。

「おまえたちはもうおしまいだ! ひろい場所だから、これからゆっくり一人ずつ狙って、こいつのあごでかみ砕いてアーッ?」

 閃光と轟音がドラゴンの鼻先で炸裂し、ドラゴンは空中で見当識を失った。どちらが上か下かも分からなくなったドラゴンは無我夢中で羽ばたき続け、速度を落とさぬまま錐揉み状態となった。ドラゴンはそのままセツコたちの頭上を通過し、勇者を振り落とした後、高度を落としながら激しくバレルロールを続けた挙句、とうとう階差機関をなぎ倒しつつ、地表に激突した。無数の歯車に加え、動力のピストンその他が盛大に吹き飛んだ。

 遠目にではあるが、ドラゴンが起き上がりそうな気配は全く見えぬ。セツコとヒッポは、ただ遠くを眺めた。

「その場にぼとって落っこちるんじゃないんね……」

「……ゲームの真似を軽々しくせんほうがええってことじゃの」 

 背後から足音が近づいてきた。ヤクザたちは恐る恐る振り返った。勇者との格闘の興奮冷めやらぬクリストフォロスが、鬼の形相でヤクザたちを睨んでいた。ヤクザたちは、雷に怯えるかのように、固く目を閉じて顔を背けた。怒りの化身と化したクリストフォロスが、怒りに震えつつも口を開こうとした。だが、テレサが彼の腕にしがみついて、彼を見上げた。

 彼はテレサの顔を見て、それから目を閉じ、天を仰いだ。再び目を開いた彼は、ヤクザに言った。

「まずは身を隠し、今後の計画を練る必要がある」なおも心配顔のヤクザを見て、彼は付け加えた。「被害の責任は、全てあの馬鹿者に負わせて処理させる」

 ほっと安堵のため息をついたヤクザたちに、クリストフォロスの背に隠れるようにしながら、テレサが笑顔で小さく手を振った。


――――――――――


 前夜に引き続いて王と質素な食卓を囲み、ヴェロニカ以外の者を人払いしてから、晩酌のエールとワイン、さらには続けてモルトウィスキーの瓶に手を伸ばしたテレサは、今宵もご機嫌だ。長崎を出て行ったことには何の悔いもないと思っていたが、正直、久しぶりの故郷の酒と肴は格別だった。チーズからして、これだけのモノを長崎の外で食おうと思えば、バカみたいな出費を覚悟する必要がある。

 酒や肴はもちろんのこと、晩酌の相手まで意外と面白いのは大発見だ。テレサと卓を挟んで座るエラスムス国王は、慎ましくワインを口に含むだけだったが、実はこいつはいける口だ、とテレサは見ていた。こいつをエキニシにでも連れてってはしご酒をしながら、飲み友達の前でカミナリ芸でもやってもらえれば、相当楽しい夜を過ごせるに違いない。

 スマホ型端末が振動した。長崎のど真ん中でも電波が入るヤクザの端末は、飲みの最中はひたすら忌々しい。テレサは、舌打ちしてから小さなグラスを卓に戻した。そして、スカートの下に履いていた短パンの尻ポケットからスマホ型端末を取り出し、通知内容を表示した。それを読み始めた途端、テレサは眉根を寄せた。王がテレサの表情に気付いた。

「ミカエル殿。何かあったか?」

 テレサは王に答える代わりに、片手の掌を向けた。そして、背後からの視線に気付いた。振り返ると、ヴェロニカも不安げな表情を浮かべている。

「あんたも読んでくれよ」

 そうヴェロニカに言って、テレサは椅子を降りてさりげなくヴェロニカのすぐ右隣に立ち、二人で同時に端末の画面が確認できるように、二人の前に端末を掲げた。そして、さりげなく、左手をヴェロニカの尻に伸ばした。即座にヴェロニカはテレサの左手首を掴んで捩じり上げた。テレサは悲鳴を上げた。

「いーってってててて! ゴメン! もうしない! これで最後! 本当だって!」

 ヴェロニカは無言でしばしテレサを睨みつけた後、その手首を放した。昨日から暇さえあれば考えていた、「ヴェロニカちゃんのお尻を触る百の方法」のうちの記念すべき五〇個目が、その連敗記録を更新した。成功例は未だゼロである。

 テレサは、惨めったらしい表情でヴェロニカを見上げながら、端末を脇に挟んで右手で左手首をさすった。そして、テレサの姿を見ても全く笑っていない王を見て、小走りに王の席に駆け寄って、王の皿の横に端末を置いた。表示された文章を見て、王の顔が曇った。

「……勇者を称する若い兵士の一行に発見されたとな。この後どうなる、ミカエル殿?」

「正直、俺には分かんねえな。プランに変更を加えて作戦を継続するのか、諦めてこっちに戻ってくるか。基本的には現場の判断だ」

「そうか……」

「でもな、もちろん、あんたの意向には誰も逆らわねえよ。あんたがテレサちゃんを呼び戻したいんなら、今すぐ俺がクリス達にそう伝えるけど、どうする? 今呼び戻せば、とりあえず今までのことは、全部しらを切り通せる。クリスがテレサちゃんをお忍びで温泉に行かせるために同行したとか何とか、適当に言い訳できる」そして、少し考えた後、結局付け加えて言った。「クリスがやったことも、今ならまだ、不問にして済ませられる。だけど、作戦を続行してからまたトラブったって時は、テレサちゃんやほかの奴らを守るために、クリスのことは切り捨てるしかないケースもあり得るぞ」

「いや、わたしの意向は構わんでくれ。全て任せる。わたしは、諸君らヤクザを信頼しておる。そして」王は直立不動のヴェロニカの視線を、真っ直ぐ見返した。「クリストフォロスは、その覚悟がある」

 俯くヴェロニカは、悲痛な面持ちを隠せていなかった。席に戻ったテレサは、テキストで短く返信した。

『Kの方針に変更なし。指示待つ。P』

 端末を仕舞ったテレサは、卓に頬杖をつき、小さなグラスでウィスキーを啜った。

「俺なら、即刻中止をお薦めするけどな。余計なお世話だろうけど、クリスはここで捨て駒にしていい奴じゃねえだろ」

 椅子から振り返ると、案の定ヴェロニカがさも意外そうな顔でテレサを見ていたので、テレサは一瞬だけ唇の端を持ち上げて見せてから、正面に向き直って、続けた。

「あいつは真面目で正直な奴だよ。俺が言うのも説得力ないけどな。あいつが、真面目で正直なせいで分かんねえこともあるんだってことを勉強すりゃ、王様、あんたの代わりを務めることだって出来るんじゃねえか?」それから、クリストフォロスの境遇を思って、つい笑ってしまった。「いや、あのセツコとヒッポに丸々二日もいじられっぱなしじゃ、あいつ、とっくにお仕置き喰らってるかもな」

 王も笑った。それからテレサを見つめ、言った。

「貴公にクリストフォロスをそう評価してもらえるのは有難い。申し訳ない程だと感じる」

 テレサは笑顔を消した。

「なあ、俺が昔長崎にいた頃のあんたは、雲の上の御方だった。けどな、こうやって会ってみると、あんたがこれだけ話せるやつだったってのは、正直驚いたよ」

「重ね重ね恐縮だ」

「恐縮なんかすんなよ。別に褒めてねえし」テレサの眼が鋭くなった。「あんたが雲の上の御方になっちまってるってことが、この国が、長崎がよ、どっかおかしくなってる証拠なんじゃねえか?」

「……貴公の指摘には言葉もない。わたしも内心、貴公と同じ疑問に長年悩んでいた」王は嘆息した。「そして、貴公のような指摘をする者が、わたしの周りには誰一人としていないことにも」

 テレサはしばし、そこまでサービスしてやるべきかどうか迷った。だが、この気さくな王に免じてサービスしてやることにした。

「言っとくけど、あんたの周りの人間、いっぺん、洗いなおしたほうがいいな。どんな古株でも忠臣でも、関係なしで」

 王が、返答の代わりに、無言で真剣な表情をテレサに見せた。テレサは身を乗り出して、右手の人差し指を振り立てた。

「今の長崎の問題は、本当に、十字軍の中の古株と若手の対立みたいな、組織の中だけの世代間の対立で済む話か? あの勇者とかいう奴は、博多に協力者がいるらしいけどな、あいつのやった事は、博多に協力者がいるってだけで説明つくか? 若い奴らを煽って表舞台に立たせといてよ、自分は絶対表に出てこないってやつが、多分、あんたの近くにいる」そしてテレサは皮肉な笑みを見せた。「んで、そういう奴に限って、あんたを雲の上まで祭り上げといて、自分はあんたの権威を利用すんだよ。あんたに固く忠誠誓った振りを続けてな。それが、俺が長崎の外だから勉強できた、社会の在り方ってやつだ。アドバイスになればいいがな」

「……誓って、貴公の忠告に従おう」

「それじゃ、最後にいいか?」テレサはニヤリと笑ってから首を傾げ、ウィスキーのグラスを掲げた。「そろそろ部屋に戻んないとな。俺はこれから、事態の急変に備えて徹夜で待機だ」

 王も応じて、微笑みとともにワインのグラスを持った。二人は長崎の未来に乾杯した。


――――――――――


 午後九時を過ぎ、電気のない街にしては意外なほど遅くまで賑わいを見せていた湯布院温泉の人通りも、ようやく途絶えた。駅にほど近い裏路地にひと塊となって身を寄せ合い、ステルス風呂敷を被って会話すら絶ったままじっと息を潜めていたセツコたちが、静かに風呂敷の下から立ち上がった。

 今回の作戦は、まったく古賀野におんぶにだっこの有様だ。古賀野が浦上大聖堂に残って替え玉を完璧に演じている限り、クリストフォロスらと対立する陣営に十字軍の高官がいたとしても、決して大規模なテレサの捜索を、配下に対して公式に指示命令することはできない。誰の許しを得たのか、好き勝手に動き回っているように見える自称勇者のパーティーにさえ捕捉されなければ、まだまだチャンスはある。

 ひとつ風呂敷の下で季節外れのおしくらまんじゅう状態だったセツコたちは、夜とはいえ汗まみれだ。寸足らずのTシャツの裾を盛大にまくり上げつつ、繰り返し裾を前方に引っ張ってはTシャツの下に夜気を取り込んでいるセツコの仕草を見て、クリストフォロスはすかさずそのTシャツの裾を自らの手で掴んで下に引っ張り、はしたない仕草を止めさせた。手で自分を扇いでいる汗まみれのテレサが、セツコの真似をしようとする様子はうかがえぬ。そのことを確認して安堵の表情を浮かべたクリストフォロスは、ヒッポが麻袋に仕舞おうとしているステルス風呂敷を指さし、溜まっていた不満を吐き出した。

「何だその便利な代物は。そのようなものがあるのに、何故、只じっと隠れ潜んで時間を無駄にしなければならなかったのだ。それでも科学か」

 セツコは人差し指を立てて、ヒッポは肉球を口にかざして、同時に「静かに」のジェスチャーをした。セツコがひそひそ声で言った。

「それが完成した時にはウチらも期待しとったんじゃけど、結局あんまり便利じゃないんよね。それ被って移動しとるところを誰かに近くで見られたら、なんか透明なビラビラしたんが動きよるわぁって、すぐバレるんよ。足跡なんかの痕跡を消してくれるわけでもないしね」

「じっとしとりゃあそら目立たんいうても、下手にくしゃみでもしてみい。誰もおらん場所からくしゃみだけ聞こえたら、聞いた奴は、そいつが只の通りがかりみたいなんでもの、幽霊でもおるんかぁ言うて、ビビってあたりを探し回るで。山やら森ん中で潜伏する時の迷彩いうんなら結構使えるけどの、それ以外じゃあ結局、苦し紛れの手段にしかならんわ」

 クリストフォロスは、あてつけがましく余裕の笑みを見せた。

「科学といったところで、所詮はその程度か。余り自慢顔はせぬがいい」

「じゃけえ何でクマ公が勝ったみたいな顔しよんじゃ。儂らがいつ自慢したんじゃっちゅうんじゃこのボケ。自慢はおんどれの専売特許じゃろうが」

 テレサが声を潜めつつもクスクス笑った。

「ヒッポ君もお父さんも、いつの間にか喧嘩するくらい仲良くなったね」

 クリストフォロスとヒッポはそろって傷付いた表情になった。

「頼むけえ、儂がクマ公と同レベルみたいな言い方せんでくれえや」

 テレサがあの笑顔をヒッポに向けたのを見て、クリストフォロスは強い無念の表情を浮かべた。セツコが言った。

「ほらほら、ヒッポちゃんもクマちゃんも、そろそろこれからどうするか考えんと」

 ヒッポとクリストフォロスは互いを見た。

「……それで、別府から出るんは、もう無理かの」

「ゲオルギウスがいくら馬鹿者でも、港を監視するくらいのことはするだろう。下手をすれば、例の龍が監視のために飛んでいる可能性もある。あれは意外と賢いのだ」

 ヒッポは顔をしかめた。

「あんなんは、一匹だけじゃないんかい」

「長崎が焼かれた際に、神が地上にもたらされた奇跡の爬虫類の末裔だ。普段は地熱に恵まれた地域で、繁殖や品種改良を行っている」

 セツコが珍しく、クリストフォロスを非難する口調になった。

「科学がいけんって言うとるのに、なんでそがいな品種改良するんね」

「農作物の品種改良と同様、神の御意思に委ねて交配を試すだけだ。科学からは程遠い」

 ヤクザたちはそろって俯き、首を振った。テレサが見かねて発言した。

「それでみんな、どこに向かうの?」

「どこに行くにしろ、いっぺん鉄道でまた西に戻るしかないよの」

「それも簡単ではない。あの馬鹿者でも、港と同じく駅も監視するだろう。鉄道自体、夜明けまで動かん」

 セツコが目をしばたたいた。

「待ってクマちゃん。鉄道って夜は動いとらんの?」

「当たり前だ。厩舎の馬も睡眠が必要だ。だから夜は貴様らと同じ部屋で宿泊するはめになったのだ」

「テッちゃんやクマちゃんがウチらとお泊りしたかったんじゃって思っとったのに、違ったんじゃね」

「馬鹿も休み休み言え」

「わたしは、お姉さんやヒッポ君と宿に泊まって、楽しかったよ」

「ほんま、テッちゃんは優しい子じゃねえ!」

「それはもうええセツコ。結局、鉄道が夜動いとらんけえいうて、それがどしたんじゃ」

 セツコは、ついさっき思い浮かんだ直後に頭から逃げ出したアイディアを探して、しばし宙に視線を漂わせた後、ようやく再びアイディアを捕まえた様子で、にいっと笑った。

「ほらヒッポちゃん、鉄道いうたら、あれがあるんじゃないんね? あの、なんていうたかね、こう」

 セツコは腰のあたりで両手で棒か何かを横にして掴む仕草をしてから、そのまま屈伸運動をした。

「こうやってね、シーソーみたいなんを手で漕いで走る、こまいのんがあるじゃない」

「手漕ぎトロッコか」クリストフォロスは思案顔になった。「夜間に軌道を保守点検するためのものがあるはずだ。今夜が保守点検の日でないことを祈るしかないが、あれば使えるだろう」

 ヒッポがクリストフォロスにニヤリと笑った。

「使えりゃ、鉄道は儂らの貸し切りじゃの」

 セツコは不満顔になった。

「何ねぇ、クマちゃんもヒッポちゃんも。ウチのアイディアなんじゃけえ、ウチをもっと褒めてや」

 クリストフォロスはセツコに向かって大袈裟に目をすがめた。

「何を言うか馬鹿者。貴様らの思いつきでつい先ほど大惨事を巻き起こしたのを、もう忘れたのか」

 セツコは納得いかぬ様子で口をへの字に結んだ。クリストフォロスは無視して続けた。

「とにかくだ。貴様らヤクザの思い付きに任せてしまうと、破滅的な結果を招きかねん。実行の前に、懸念材料を洗い出すべきだ」

 クリストフォロスは、顎先をつまんで沈思黙考した。しばらくしてから、やおらヒッポに向かって口を開いた。

「ヒッポ。貴様、夜目は利くな?」

「当たり前じゃあ。この儂の見た目で夜目が利かんかったら詐欺じゃろうが」

「今後の安全は、全て貴様の肩にかかっていると思え。トロッコ前方を担当し、行く先にある軌道から目を離すな。分岐器で軌道が分岐していないかどうか、常に目を光らせるのだ。運悪く前方に障害物か何かがないかも当然注意しろ。そして、行き先の軌道が左右に曲がるときは、必ず前もって知らせろ」

「……なんかえらいムカつくの。クマ公がクソ偉そうに命令しよるのに、何でか少し嬉しゅうなったわ」

 テレサがヒッポに顔を寄せてから、皆に微笑んだ。

「ちっとも変じゃないのよ、ヒッポ君。今のお父さんの話し方って、いつもの、信頼する部下に指示をするときの口調にそっくりだったもの」

 セツコはニヤニヤした。ヒッポとクリストフォロスは、互いをちらりと見てから、すぐ目を逸らした。クリストフォロスはセツコを見た。

「力仕事は貴様に任せていいな」

「もちろんよね! ウチはもう全力で漕いでね、長崎最速の女になるけえね!」

「……それよりも、何かあったときにすぐに減速できるよう、常に気を抜くな」

 セツコは目を丸くして、ヒッポに呟いた。

「ほんまじゃあ。ほんまになんか、嬉しくなるわぁ」そしてクリストフォロスに真顔で言った。「クマちゃんって、ほんまに凄いよ。自分で分かっとる? 相手を信頼するだけで、相手が嬉しくなるんよ?」

 クリストフォロスが、虚を突かれた顔になって絶句した。そして、にこにこと彼に笑顔を向けるテレサに気付き、ほとんど狼狽した。彼はあからさまに態度を取り繕って、テレサに言った。

「テレサにも、私と一緒に働いてもらう必要がご、あり……る。軌道が曲がる時には、トロッコの内輪側に体重をかけて、脱線を防止しなければならない」 

 言い終えるころには、彼は無意識のうちにテレサから顔を背けていた。彼は自分でそれに気づいた様子で、ためらいながら、テレサを見た。そしてテレサの笑顔に何やら新たな要素を見出したらしく、彼はまたもや突然嗚咽した。他の者は、声を潜めつつも遠慮なく愉快に笑った。


――――――――――


「朝まで絶対ぼくを起こすな。おまえたちも、もう寝ろ」

 ジャンヌとバルバラにぞんざいに言い残して、ゲオルギウスは湯布院温泉でとった宿の個室に入った。三名とも、カタリナから最低限の応急処置だけ受けて、満身創痍のまま湯布院温泉の街中を捜索した。案の定、成果は皆無だった。カタリナは一人、墜落したドラゴンを全力で治療中である。勇者といえど、あのような特別な兵器を、そういくつも好きなだけ使えるわけではない。

 ゲオルギウスは背中の剣を外すと、これも床にぞんざいに転がしてから、一つため息をついて、ベッドに腰掛けた。

 彼はそのまま、しばし今日の出来事を振り返った。群衆は、彼を笑いものにした。勇者たるもの、そういった苦い経験も直視して、経験値とせねばならぬ。

 彼は、クリストフォロスや、情報によれば広島のヤクザだというあの女について考えた。クリストフォロスには、最後に門司要塞で会った時と同一人物とは思えぬほどの、何かがあった。あの女にも、未知の何かがあった。その何か。単なる悪を超える、その何かを感じ取った彼は、今日、確かにその勇気をほとんど挫かれた。その何かについて振り返った。

 彼は恐怖したわけではなかった。

 彼は、敗北には恐怖を感じない。戦いに敗北は付き物だ。たとえ敗北しても、勇者のプライドがあれば、再び立ち上がることが出来る。それが勇者というものだ。勇者のプライドがある限り、勇気は無限に湧き上がる。だから彼は、最後には勝つ。だから彼は勇者なのだ。そのことを教えられて以来、彼は自分が勇者であることを疑ったことはなかった。彼が勇者であることを否定する者など、誰もいなかった。

 その彼の勇気が、今日、挫かれるところだった。彼は振り返った。騎士団長とヤクザ。加えて、あのマスコットの猫。そして、テレサ姫。彼ら全員のやる事為す事、その言動の一つ一つが、彼が勇者であるという事実を全く無視して、横暴に彼に逆らった。そして、彼の勇者としてのプライド自体を揺さぶった。彼が勇者であることを否定するのではなく、彼が勇者である事実を無意味なものと扱って、彼が因って立つ世界を砕こうとした。

 彼は、悪の意味するところを考えた。今日目の当たりにした、横暴に好き勝手に暴れ、だれかの世界を破壊する力。それは、誰がどう考えても、悪だ。

 彼は、彼が戦わなければならぬ敵、すなわち悪を見定めたと思った。だが、それだけでは悪に立ち向かうことはできない。彼は自らの勇気の欠損を感じた。勇者としてのプライドを回復しなければならない。

 もちろん、寝る前の連絡も必要だ。

 彼は、金属板を鋲で打って補強した小ぶりな樫のチェストをベッドの下から取り出し、腰の革袋に入れてあった鍵を使い、開錠した。そしてその中から、やや型遅れのスマホと、手回し発電機を取り出した。

 彼は発電機のケーブルをスマホの端子に接続してから、一心不乱に、文字通りの意味での自家発電を行った。


――――――――――


 道中、十分な休養を挟みつつも、セツコたちは丑三つ時前に原田駅に到着した。長崎化以前以後を通じた鉄道路線の最速記録を度々更新した事実は、永遠に知られぬことはないであろう。原田駅の先は筑豊本線が小倉に向かって伸びるばかりで、かつては原田駅から博多に向かって伸びていたこの先の鹿児島本線は、既に廃線となっている。

 セツコたちは、トロッコをちゃんと線路から取り除いた上でトロッコを捨て、北北西の方角を見た。天に向かって規格外の摩天楼が乱立する博多の都市上層部がここからでも見える。ここから先、無人の荒野を一〇数キロも行けば、ハイテク犯罪都市として世界に名高い街へと足を踏み入れることになる。セツコたちが自らの脚で疾走する時の速度からすれば、無いに等しい距離だ。

 セツコたちは、博多の摩天楼を望む荒野に立った。セツコとヒッポは、博多をしばし眺め、それから周囲を見回してから、ほぼ同時に同じ疑問に突き当たった。

「博多って高さは凄いけど、広さはなんかこう、思ったよりちんまりしとるねえ」

「おいクマ公、こっから北東に行きゃあ、わざわざ博多通らんでも関門海峡に行けるじゃろうが。どうなっとんなら」

「別に嘘を言ったつもりはない。博多を通過して、結局門司要塞に追い詰められ、結果としてそこから海を渡ることになったと、かいつまんで説明しただけだ」

「ほいじゃけえ、それじゃあ説明になっとらん言うとんじゃこのボケ」

「この馬鹿者が。博多が、小倉や門司への道を丸々塞ぐがごとき馬鹿げた巨大都市でないことくらい、地理に関する最低限の知識があれば、言われずとも分かるだろうが。何故私を非難する」

「あほんだらはそっちじゃクマ公。長崎やら九州やらの地理に興味を持っとる日本人なんか、どれだけおると思っとるんじゃ」

「まあそれはどっちでもええけえ。とりあえずクマちゃんね、なんでわざわざ博多に行ったんね?」

「だから、何故博多に行くことに、『わざわざ』という表現が伴うのだ。通常、非公式に密かに出国するなら、博多の港から密航船を使うしかないだろうが。それが出来なくなったから、やむを得ず非常手段を選択し、わ・ざ・わ・ざ、門司要塞まで逃れることになったのだ」

「ほうなん? 小倉や門司なら味方が多いんじゃないん?」

「いい加減少しは自分の頭で考えろこの馬鹿者。聖堂騎士団長である私がだ、わ・ざ・わ・ざ、十字軍が城壁で見張りをしているその目の前で、門司要塞から密かに出国したがる訳がなかろう。十字軍の中では、私は顔を知られているほうなのだぞ」

「まあとりあえず、それで納得しちゃるわ」

「恩着せがましい物言いはやめろ」

「ああもう! 二人が仲がええのはわかったけえ!」

 テレサがこらえきれなくなり、声を上げて笑った。クリストフォロスとヒッポは、またもやきまり悪そうに、互いに目を逸らした。クリストフォロスは咳払いをして、再び口を開いた。

「兎に角、口を挟まないでくれ。私は博多に入るなり、尾行に気付いた。尾行だけなら特段珍しいものではない。破門者の組織が、警告程度の意味で、尾行に気付かれるのを承知で尾行を付けるのだ。だがこのときは、港の手前で、明らかに破門者の手の者と思しき集団が、港に至る道を監視していた。私の来訪意図が漏れているのではないかと疑った。そこで私は尾行を撒いたのだが、案の定、港への道を塞いでいた者らにも、誰かを捜索しようとする動きがあった。ここで私は、あの者らの標的が私自身であることを確信した。港にたどり着いても、私を乗せる船はあるまいと容易に予想がついた。私はやむなく、広島で着る予定だった服に着替え、身につけられぬ荷物は、伝書鳩に至るまで……」

「伝書鳩!」

「そんなもん持って歩いてどうすんじゃこのあほんだら!」

「……荷物は、伝・書・鳩・に、至るまで! 処分して、博多を脱出した後、やむなく関門海峡を目指した」

「ほいで、門司に着いたら待っとったんが、今度はあの勇者のあほんだらじゃった、っちゅうことかい」

 クリストフォロスは頷いた。そして、ヤクザたちを順に見てから、続けた。

「訊かれる前に、私から正直に話しておく。関門海峡にたどり着いた後、どう出国するかは全く考えていなかった。完全な行き当たりばったりだ。笑わば笑え」

 ヒッポは重々しく頷いた。

「ようやくクマ公も、笑われることを学ぶ姿勢が出てきたの。そのまま励めよ、クリストフォロス」それからヒッポは皆に言った。「儂はベンに状況報告の電話をするけえ、その間に、クマ公とお姫さんは顔隠す準備しとけ。電話済んだら、すぐ『なっちゃん』に向かうけえの」

「姉さん、なっちゃんとは何?」

「博多のお好み焼き屋さんよ。広島にも『なっちゃん』は何個かあるんじゃけどね、博多にあるんは一つだけなんよ。ウチやヒッポちゃんは博多は初めてじゃけど、行ったことがある人は美味しいって言いよったよ」

「……何故わ・ざ・わ・ざ、そのような場所で食事する必要がある?」

「行ったら分かるけえ、黙っとれや」

 ヒッポは麻袋からガラケーを取り出して、ベンとの通話を始めた。セツコはクリストフォロスとテレサを見た。

「テッちゃんはスカーフがあるけえ、なるべく顔全部覆いんちゃい。クマちゃんはどうしようかねえ」

 セツコは、少し考えてから、自分のサングラスを外して、クリストフォロスに渡した。それから、麻袋の中を探って、結局着ないままだったフランネルシャツとサバイバルナイフを取り出した。セツコはシャツの胴回りをナイフで容赦なく切り裂き、そうして出来た布を一枚、クリストフォロスに渡した。
 クリストフォロスは布地を眺めた後、観念して、サングラスをかけた上で、布で口を覆って覆面にした。彼はまたもや、皆に笑顔をもたらした。


――――――――――


 フランネルシャツの肩と両袖部分を裂いてマフラー状にし、これで鼻から下を覆ったセツコを先頭に、博多の南ゲートをくぐった。博多の内と外を隔てるのは、長崎との間で締結されたという協定にでも従ったのであろう境界に沿って、一応といった様子で張り巡らされているフェンスだけである。フェンスに切れ目を作っただけのゲートには、特に扉も検問もない。犯罪都市博多は、密航船のたぐいを除けば特段の外部との交通手段がないだけで、誰でも自己責任で出入り自由である。

 ヒッポは、ペットのふりをしてセツコに抱きかかえられている。セツコの肩越しに後方を見張り、尾行の有無を監視する役回りだ。博多に複数存在する破門者のシンジケートが競い合うように設置している監視カメラに対しては、フランネルシャツの切れ端を利用した雑な偽装で顔認証システムを誤魔化せることを祈るしかない。セツコの後ろに、テレサ、クリストフォロスの順で続いた。

 クリストフォロスが小声で訊いた。

「セツコまで顔を隠す必要があるのか?」

 フランネルシャツの成れの果てを使って頬っ被りしたヒッポが小声で答えた。

「念のためじゃ。勇者のあほんだらが言うとったんじゃろ? 儂らの計画を知っちょるいうて。それがほんまなら、計画を知っとるクマ公の部下の誰かが情報源の一つじゃの。広島から来たヤクザが誰なんかぁいうのまでバレとる可能性もあるじゃろうが」

「…………」

「クマ公、おんどれの部下が悪い言うて決めつけんほうがええ。王様の忠臣みたいに思われとる、まさかこいつは裏切らんじゃろうみたいなんが、クマ公の部下からさりげなく聞き出しとるんかも知れんのんで?」

 セツコたちは、表通りをなるべく避けながら、スマホ型端末のマップ機能(ヤクザは独自の情報を基に博多の地図を作っている)を頼りに「なっちゃん」を目指して歩いた。全員、中心部に向かうにつれて非常識なほどに巨大さを増す建築物を、しきりに見上げることを止められぬ。逃亡者であることを悟られまいと努力せずとも、これでは誰が見ても只の興味本位の観光客である。

 凡そ北方向に向かって路地から路地へと進み大通りに突き当たると、北東方向に、文字通り雲を突く高さの超高層ビルが、中高層の雑多なビル群のはるか上へと伸びているのが見えた。原田駅から見た遠景の中でもとりわけ目立っていたものだ。博多で最も有力かつ財力のあるひと握りの破門者、通称「博多貴族」の居城が、博多で最も洗練された地域である中州に聳えているのだ。二〇〇メートルほど離れた地点で地表から見上げると、全くその頂上は見えない。セツコとヒッポは、サヤカによる博多襲撃の衝撃を思い出さずにはいられなかった。

 程なくして、路地の奥にある「お好み焼き なっちゃん」の暖簾を掲げた店にたどり着いた。クリストフォロスはセツコを睨んだ。

「このような場所に連れて来て、どうするつもりだ?」

「クマちゃんもこれを見れば分かるじゃろ?」

 抱いていたヒッポを地面に降ろしたセツコが指さしているのは、店の入り口脇にある、「広島焼き」の幟だ。

「……貴様らが広島に縁がある者だと無駄に宣伝しているようにしか見えぬ」

 セツコは大袈裟なほどのしかめっ面で空を見上げた。

「もうクマちゃん! 全然逆よね!」

 セツコは口を覆っていたぼろ布を下げ、真剣そのものの表情で彼に言い聞かせた。

「広島の人間の前でね、うっかり『広島焼き』なんて言ってもみんさい。殺されても文句言えんのんじゃけえね?」

 セツコは何故か勝ち誇らんばかりの表情になった。

「ほいじゃけえ、『広島焼き』なんて看板出しとるような店にね、まさか広島の人間が来るなんて、普通誰も思わんじゃないね!」

「……そうなのか?」

「ほうよね!」

 今度は、クリストフォロスが顔をしかめて空を見上げる番だった。

「……まさかとは思うが、貴様、店頭に『広島焼き』と掲げている店ならば、広島のヤクザの安全な隠れ家になるとでも言いたいのか?」

 セツコは目をぱちくりさせた。

「どうしたんね? それがなんかおかしいんね」

 クリストフォロスは覆面をかなぐり捨てて、久しぶりに怒りを爆発させた。

「貴様が言っていることは滅茶苦茶だ! 広島の民は皆狂っているのか? そのような理由でテレサをここに連れてきて危険に晒しているのか? 考えてもみろ。鹿児島教区で誰かが『さつま揚げ』と口にしようものなら薩摩隼人が切りかかってくる、などというたわごとを言ったところで、誰が信じる? セツコ、貴様が言っていることはだ、そのようなたわごとが、あたかも皆の常識であるかのように言っているのに等しいのだぞ?」

 セツコもまた、激怒によってこれに答えた。

「どこがおかしいんね!? さつま揚げはさつま揚げでしょうがね? でもお好み焼きを広島焼きぃ言うんは間違うとるじゃないね! ウチらに対する、広島に対する、侮辱じゃないね!」

 クリストフォロスは諦めの表情になった。

「セツコ。我々が『さつま揚げ』と呼ぶ料理はな、ご当地鹿児島教区においては、鹿児島の民からは『つけ揚げ』と呼ばれているのだ」

 彼は、憐れみすらその目に浮かべて、ヤクザを見た。

「およそ常識というものが通用せぬ鹿児島の地にあってもだ、さすがに、つけ揚げをさつま揚げと呼ばれて薩摩隼人が怒り狂うなどという話は、金輪際聞いたことがない」

 セツコは無言で、目に涙をにじませつつ、怒りと屈辱で身をぶるぶると震わせた。テレサは先ほどから、呆気に取られた様子で二人を見守るばかりだ。ヒッポが見かねて、彼女のジーンズの裾を引いた。それを無視して彼女の両手が腰のホルスターに伸びたその時、「なっちゃん」の入り口の引き戸ががらりと開き、スキンヘッドにヘッドバンドを巻き、前掛けをかけた髭面の男が、身を屈めながら店内から姿を現した。男はクリストフォロスとセツコを共に見下ろして、言った。

「たまたま店に他のもんがおらんけえ放っといたけどな、ええ加減中に入れや」

 セツコは男の顔を見上げ、次に銃を抜く寸前で止まった自分の手を見て、きまり悪そうに顔を伏せた。

「大将、ごめん」

 大将と呼ばれた、店主らしき男は苦笑した。

「ほんま、セツコはどこにおっても騒ぎしか起こさんのぉ。まあ入れや。お前らがこの店に来るのは初めてじゃろうが。ゆっくりしてけや」

 セツコはテレサにしおらしく謝罪の言葉をかけながら、おとなしく大将に従った。

 広くはない店内のほとんどは、畳ほどもありそうな大きさの一枚板の鉄板がはめ込まれたカウンターに占められている。似非広島風の店に偽装する観点から、店内にはカープカレンダーやカープの選手のポスター、あるいは選手のサイン入り色紙といった、広島であれば当然一つは飾られていて然るべきものは一切掲示されていない。セツコたちは貸し切り状態のカウンター席に陣取った。カウンターの向こうの大将が、冷えたビールの大びんとグラスを二つ、セツコとヒッポの前に置いた。それから大将は目でセツコたちを促した。

 セツコは勢い込んで注文した。

「肉玉そばダブルイカ天ネギかけ!」

 ヒッポは、いつになくリラックスした様子で、穏やかに言った。

「とりあえず、つまみをなんか適当に焼いてくれんかの」

 大将はテレサを見た。テレサはセツコに目で助けを求めた。

「ウチが頼んだんを分けてあげるけえ、一緒に食べようね」

 大将はクリストフォロスを見た。クリストフォロスは、やや気圧された様子を見せ、首を巡らせて周囲を見た。メニュー表に書いてある料理名は、「とんぺい」といった、暗号に近いものばかりだ。大将は、クリストフォロスの返事を待たずに、ボウルに入った粘りのある生地を、円形に薄く鉄板の上に伸ばし、その上に何らかの粉末の調味料をかけてから、千切りキャベツを山盛りにして乗せた。

 クリストフォロスは、結局、当てずっぽうで注文した。

「この、お薦めとされている『コウネ』を頼む」

 鉄板に何らかの内蔵の部位を乗せて焼き始めていた大将が、背後の冷蔵庫を開けた。取り出されたのは、特に変哲のない、比較的脂身の多い薄切り肉だった。ヒッポが言った。

「クマ公。コウネ頼んだくらいで広島通気取れると思うなや」

 クリストフォロスは、広島で地元住民に溶け込むには、コウネを注文するのが効果的であるという情報を得ることができた恰好だ。こういった情報は、いうまでもなく騎士団の行う諜報活動にとって有益である。

 大将が黙々と調理にいそしむ間、ヒッポは再びガラケーを取り出し、ベンに通話して今後の計画を話し合った。広島風お好み焼きの調理には意外に時間がかかり、先に、一口大にカットされた内臓肉とコウネが焼きあがった。大将は鉄板の上にアルミホイルを敷き、これを皿代わりにして四人の前に配膳した。内臓肉もコウネも、やたらと油がしたたっている。皆、口を油まみれにして食べた。

 やがて、お好み焼きが焼きあがり、大将は、焼きあがったお好み焼きを再度ひっくり返して焼かれた卵の面を上にすると、刷毛でソースを塗り、その上に大量の刻み青ネギをのせた。この、汁なし担々麺にも大量に使用される「観音(かんおん)ネギ」という青ネギは、なぜか広島のみでしか栽培されていない九条ネギの変種である。広島でただ単にネギと言えば通常観音ネギのことであり、お好み焼き専門店では、お好み焼きのキャベツをまるごとこのネギに置き換えた「ネギ焼き」も古くから根強い人気がある。広島の外で本場の味を再現しようとすると、地味に入手のハードルが一番高い食材でもある。

 大将は、完成した肉玉そばダブルイカ天ネギかけを、セツコとテレサの中間地点へと、鉄箆を使って滑らせた。タンパク質や炭水化物に加え、キャベツやネギといった野菜もバランスよく摂取できるお好み焼きは、ヤクザのハードワークにはうってつけの料理である。汗をかき塩分が不足した体には、濃いい味わいのお好みソースも心地よく感じられる。

 セツコは、待ってましたと言わんばかりに小さな鉄箆を掴んで、テレサに言った。

「テッちゃん、ウチがお手本見せるけえ、ようく見とってね」

 そう言ってセツコは、手にした鉄箆を逆手で握って、ガチガチと容赦なく鉄板の上に突き立てるようにして、一口大のお好み焼きを切り取った。そしてそれを鉄箆ですくい上げて、直接口に入れた。セツコは目を細めつつ、ほふほふと口の中を冷却しながら咀嚼した。テレサも期待に目を輝かせて、お好み焼きに鉄箆を打ち込んだ。クリストフォロスがお好み焼きを見て、何か迷うような表情で喉仏を上下させた。

 しばし食事が続いた。セツコとテレサは、切り取ったお好み焼きを、お互いの口に運んで笑いあった。ヒッポは時たま両前足でグラスを挟んで喉を潤わせつつ、電話での相談を続けている。最初に、クリストフォロスが察知した。耳を澄ませていたクリストフォロスが、大将に訊ねた。

「店主殿。今宵は団体客の予約は入っているか?」

 店主は真顔になって、首を小さく振った。ヤクザたちの表情も一変した。ヒッポが通話相手に言った。

「何か妙じゃ。このまま切らずに待っとってくれ」

 曇りガラスの引き戸の向こうに、数人の黒い人影が集まった。セツコが右の銃を抜いて叫んだ。

「伏せて!」

 全員が従った次の瞬間、複数のアサルトライフルが引き戸の向こうから店内を掃射した。ヒッポがガラケーに向かって怒鳴った。

「襲撃じゃあ! 相手は分からん! 救助送れえ!」

 掃射に続いて引き戸が蹴り倒された。セツコが腹這い状態から応射したが、相手はすぐに入り口の脇に身を隠した。

 クリストフォロスがヤクザたちに顔を向けた。セツコが言った。

「悔しいけど抵抗せんで。向こうは少なくとも、ウチらを殺すつもりはないようじゃけえ」

 店の外から店内に転がってきた金属缶が、白いガスを噴出した。


【続く】