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ヤクザヘヴン 【7/10】


(前回)


第七章 長崎旅行記


 長崎駅を出発してはや五時間余り、ヤクザと聖堂騎士が呉越同舟する鉄道馬車は、既に佐賀教区に入っている。今日はこのまま鉄道の旅を続け、特に問題がなければ日が沈む前には鳥栖駅に到着し、そこで宿をとる予定だ。

 昨夜は結局徹夜となった。二人掛けの椅子が向かい合った、引き戸で廊下と区切られた客車の小さな個室に席をとると、クリストフォロスを除く者はあっという間に眠りに落ちた。疲労した馬を替えるために、約二時間ごとに行う駅での馬車交換――乗降場に客車を停車したまま馬だけを繋ぎ代えるのはかえって手間なので、厩舎で予め準備され引き込み線を通って乗降場に来る、新たな馬が牽く別の客車に乗り換えるのだ。乗客は待ち時間で、手洗いに行く用事等々を済ませる。それまでの馬車は、分岐線に乗り厩舎に向かう――の時を除けば、クリストフォロス以外の者はずっと椅子の上で眠りこけている。

 クリストフォロスは、彼の隣に座って、窓に頬を寄り掛からせてガラスを涎で汚している女ヤクザを見た。この女の馴れ馴れしさには虫唾が走る。何を勘違いしたのか、彼のことを、あたかもこの女ヤクザに惚れているかのような物言いまでしていた。あれで彼をからかったつもりなのか。彼がヤクザの名前を口にしないのは、単に、このヤクザどもの名前を口にするだけで、口が汚れる思いがするからだ。だがそのようなことを、わざわざヤクザに教えてやる必要もない。ヤクザと違い、栄えある聖堂騎士たる者、どんな相手に接する時も最低限の礼儀というものをわきまえている。

 それに比べて、この女ヤクザの無礼ぶりは底が見えぬほどだ。見た目からして、暴力性のままに盛り上がるその胸部のため、ヤクザにふさわしい間抜けなTシャツの裾は極度に寸足らずとなり、殿下を前にして平然とへそを晒しっぱなしにしている。端的に言って邪悪である。この任務が無事果たされた暁には、Tシャツの邪悪性について、騎士団に持ち帰った上で入念に議論する必要がある、と彼は考えた。

 女が女なら、猫も猫だ。ただの獣として振舞うのをいいことに、向かいの席で寝そべった呪われし獣は、肩から上を殿下の膝枕に載せている。獣の行為は想像を絶する不遜の極みであるが、意外にも殿下が御喜びの様子であったので、彼は僭越な行動に及ぶのを差し控えた。殿下の前でなければ、即刻この獣の血で刃を汚しているところだ。任務の性質上、帯剣していない今の彼には、それが不可能なのが業腹である。ともあれ、この獣にも睡眠欲があったことだけは有難い。獣が絶えず口にする罵詈雑言には、彼自身の魂が汚される心地がした。

 全く、この獣が吐き散らす罵詈雑言こそ、ヤクザどもの救いようのなさを証明しているといえよう。何か気に入らないことがあれば、少しの我慢も見せぬままに呪いの言葉を垂れ流す。世界を呪うことしか知らぬ、無知蒙昧の極みだ。

 世界は邪悪と穢れに満ちている。だからといって、世界を呪って何の得があるのか。キリスト教の歴史の中で異端とされた宗派のいくつかは、そのことをわきまえずに、この世界自体を邪悪なものとして捉え、終いには、この世界を創造した神すら偽りの神だと考えるがごときものだ。要するに、ヤクザどもの精神的な似姿にすぎぬ。

 世界は邪悪と穢れに満ちている。その邪悪と穢れは、信仰に背く人の営為により生み出されるものだ。にもかかわらず、信仰を知らぬ者ほど、信仰に背く人ではなく神を呪うのだ。世界を満たす邪悪と穢れの責めを神に帰するなどという筋違いを、何故人は疑問に思わぬのか。法は、人を殺してはならぬと説く。これに反して殺人が起きることもあろうが、だからといって殺人の責めを法に帰することなどできるはずがない。その程度の理屈すら解そうとせぬ無知蒙昧ぶりこそが、人が信仰に背く原因であると、彼は考えていた。

 呪いの獣の罵詈雑言に対して、神ならぬ人にすぎぬクリストフォロスは、確かに腹を立てる。内心、素直に認めてさえいる。あの獣は確かに、彼よりも遥かに口が達者だ。だが、彼が同時に、怒りと同じほどの憐みをヤクザどもに感じていると言って、果たしてヤクザどもは信じるだろうか。いや、理解するだろうか。愛というものを。

 世界は邪悪と穢れに満ちている。だがそれでもなお、世界には、本当にかけがえのない何かが存在するのだ。それが何かは、人によって違うだろう。

 ただ一つのかけがえのないものがあるのではない。神こそが、そのただ一つのかけがえのないものであると考えるのは、すなわち妄信である。あるいは狂信である。神はこの世界に住まわれるのではないからだ。そのことすら理解せずに妄信する者、あるいは狂信する者の行きつく先は、神をこの世界に探し求めるという愚かな振る舞いの当然の帰結としての、絶望の果ての狂気である。

 神は人を、全ての者が分け隔てなく、そのかけがえのない何かをこの世界で探せるようにと、世界を御造りになられた。そうして人は、その者にとってかけがえのないものにめぐりあった時こそ、この世界の価値を知るのだ。本当にかけがえのない何かがこの世界にある、それだけで、たとえ邪悪と穢れに満ちていようとも、世界には無限の価値があるということを。

 クリストフォロスは、聖長崎王国に生まれたことで、陛下を知った。これだけでも、たぐいまれな僥倖だ。陛下は長崎に奇跡をもたらされた。陛下はかけがえのない御方だ。それだけでなく、クリストフォロスは、殿下にまで巡り会うという僥倖にまで恵まれた。殿下は王国の光だ。かけがえのない御方だ。

 つまり、世界の価値は果てしない。だからこそ、神は全能であられるのだ。この世界の価値を知りながら世界から拒絶されることの恐怖を思えば、どうして信仰に背くことなどできよう。

 クリストフォロスは、眠る殿下を見た。そして、殿下の膝に眠る猫を見た。本当にかけがえのないなにかが、存在し、そしてこの世界に価値をもたらすという単純な事実を知らぬまま、ただひたすらに世界を呪う、憐れなヤクザ。


――――――――――


 昼過ぎ、肥前鹿島駅に停車した。今日三度目の馬車の交換がある。クリストフォロスは、女ヤクザを見た。窓ガラスの涎は正視しがたい状態だ。彼は女ヤクザに囁いた。

「起きろ」

 起きない。

 仕方なく、女ヤクザを肘先でつついた。女ヤクザはそれを払いのける仕草をした。クリストフォロスは、女ヤクザのふくらはぎをつま先で遠慮なく蹴った。ようやく、下品な唸り声を上げて身じろぎし、遠慮のないあくびをしながら女ヤクザが覚醒した。女ヤクザはぼんやりと個室の中を見回して、クリストフォロスの視線に気付いた。彼は言った。

「馬車の交換だ。降りろ」

「……ん? ああ、そうなんね。ありがと」

 女ヤクザは現在地を確認しようと窓を見て、窓ガラスに付着した汚濁に気付いた。女ヤクザは立ち上がり、寸足らず状態のTシャツの裾を無理やり引っ張り、裾でガラスを拭いた。窓の外の乗降場にいる客や駅員が一様に目を丸くした。クリストフォロスは、まるで我が事のように恥じ入った。

 殿下と猫も、個室内の動きに促されて目を覚ました。クリストフォロスは立ち上がって、頭上の棚から荷物を下ろした。彼自身の小ぶりの背のう、ヤクザの麻袋、そして殿下の、書類入れを兼ねた皮張りの四角い鞄。彼は麻袋を女ヤクザに押し付けてから、殿下に鞄を手渡した。

 昼飯時である。乗降場では、何人かの売子が乗客相手に軽食や飲み物を売っている。弥生時代から長い時を経ても、今なお佐賀の平野は長崎随一の穀倉地帯である。米に加え、小麦で作られるパンはもちろんのこと、佐賀の大麦で作られるエールやウィスキーは銘酒の代名詞といえるほど名高い。牧畜も盛んだ。そのほかにも、苺、蜜柑、梨といった果物の栽培。更に、外海に対して海岸線を要塞化した長崎北部にあって、有明海は長崎教区の大村湾と並ぶ、貴重な海の幸の産地である。過去、かつての進駐軍が母国からもたらしたクラムチャウダーは、その具をハマグリからアサリに替えて、今では王国民に広く親しまれている。

 各々昼飯を買い込み、新たにな客車に乗り込んで、個室で腹ごしらえをした。四つ足では飯が食いにくいと宣(のたま)う獣のために、食事の間だけ、窓の帳を下ろしてやることにした。昨日広島を出発して以来何も食べていなかったヤクザたちは、目につく限りの多種多様なサンドウィッチと果物、加えてクラムチャウダー、そして案の定、相当な量のエールを買って、窓際と引き出し式の小さなテーブルに所狭しと並べた。チーズや果物のサンドイッチを前にして、殿下もことのほか御喜びの様子だ。思わずクリストフォロスの口元が軽くほころんだところで、獣が飽きもせずに減らず口を叩いた。

「しっかし、おどれらは気が利かんのう。弁当くらい用意しとけや」

 クリストフォロスは、大ぶりの握り飯を一口頬張り、しっかり噛んでから飲み込んだ。

「夜中に厨房を使えば怪しまれる。所詮は獣、その程度のことも分からぬか」

 獣はふんと鼻を鳴らしてから、取っ手付きの素焼きの器に入ったエールを啜り、目を見開いた。

「なんじゃあこりゃあ! おいセツコ、お前も早う飲んでみい!」

 女ヤクザも一口飲んで、口を手で覆った。

「……いやほんまに凄いわぁこれ! あっちにおった頃でもこんなに美味しいんは無かったよ!」

 クリストフォロスは笑みを押し殺した。

「広島で貴様らが飲むような邪悪な工業製品と一緒にされては困る」

「あぁ、違うんよ。ウチが『あっち』言うたんは、広島じゃなくって、レジメントにおったころの話よ」

「おいセツコ」獣が遮った。「長崎の奴相手でもな、その話はすんなや」

 女ヤクザは珍しく反省の色を見せた。

「ほうじゃね。ごめんヒッポちゃん」そして目をすがめるクリストフォロスに言った。「内緒にせんといけん話なんよ。ごめんね」

 クリストフォロスは本心から答えた。

「貴様らの秘密になど興味はない」

 女ヤクザは、さもつまらなさそうな表情を浮かべてから、全粒粉の丸パンにハムとチーズを挟んだサンドウィッチを齧り、一転今度は笑顔となって口いっぱいに頬張り、満足げに鼻からむふうと息を吐きつつ咀嚼した。さもあらん。ひとしきり、サンドウィッチを齧ってはエールで流し込んだのち、女ヤクザは殿下に馴れ馴れしく口をきいた。

「それにしてもテッちゃん、金髪にしとるとほんまお姫様じゃね! テレサちゃんいうよりはエルザちゃんみたいよ」

「エルザとは、どこの国の姫君なのじゃ?」

「えっと、アレ、アレ……」女ヤクザは獣にたすけを求めた。「ヒッポちゃん、あれってアレ何っていう国じゃったかね?」

 獣がしばし宙を睨んだのち、答えた。

「……儂もぱっと思い出せんわ」

「まあええよ。テッちゃんにも今度DVDみせてあげるけえ。それで、テッちゃんってハーフなん?」

「……ハーフ?」

「殿下、御尋ねなさるには及びませぬ。無知蒙昧なる日本の民特有の概念にてございます」

 獣が邪悪に口を歪めた。

「クマ公はほんまに、何かといやあ無知蒙昧じゃあ邪悪じゃあ言いよって、よう飽きんの」

 クリストフォロスは敢えて答えてやることにした。

「貴様らのいう『ハーフ』なる概念は、所詮は『人種』などという、近世になってからでっち上げられた非合理的な概念の副産物にすぎん。何故貴様ら日本の民は、そのような概念にいつまでも固執するのだ?」

「クマ公の割にはいっちょまえなこと言いよるの」

 クリストフォロスは軽く顎先を上向かせた。

「だから貴様らは無知蒙昧だというのだ馬鹿者が。クレオパトラが助けを求めてカエサルの許に現れたとき、カエサルはクレオパトラを見て『黒人』だと考えたと思うか? 彼がガリーやゲルマンやブリトンといった蛮族を全て一緒くたにして自分と同じ『白人』と考えていたか? ギリシア人やローマ人がピラミッドを前にして、『白人』と『黒人』のどちらが知的かなどと比較するようなことをしたとでも、本気で思うのか貴様らは」

「……クマちゃんって、意外と物知り?」

「人類ならガリア戦記くらい読め。読書や歴史の勉強くらいはしておけ」

「じゃけぇいちいち偉そうにすんのは止めえや。活版印刷は邪悪なんじゃなかったんかい。だいたい学校なんか行っとらんでもの、カエサルじゃろうがナポレオンじゃろうが、どっちも腐れ外道の極みじゃあって分かっとりゃあ十分じゃ」そして獣は、ややむっつりとして付け加えた。「ほいじゃけどの、クマ公のくせに、ちびっとええ事言うたわ。ちびっとじゃけどの」

 クリストフォロスは再び笑みを押し殺した。

「我々長崎の民は、神の御教えに従い、合理性を重んずるのだ。貴様ら日本の民は、一概に非合理的であるから面倒だ」

 獣は平然と笑った。

「何を自慢しよんならこのあほんだら。お姫さんにあがいな、のじゃのじゃいう喋りかた仕込んだんは、どこのどいつなら」

 殿下の御顔が曇った。女ヤクザが鋭く声を発した。

「ヒッポちゃん!」

 女ヤクザは悲し気に殿下の御顔を下から覗いた。

「ごめんねテッちゃん。ウチらはテッちゃんの悪口を言うつもりはないんよ。お願いじゃけえ、それだけは分かっとってね」

 殿下は微笑みで答えた。女ヤクザはクリストフォロスに向かって口を尖らせた。

「ほいでもね、ウチもほんまは心配よ。テッちゃんがあんまり他の子と違う喋りかたしたら、お友達が出来にくかったりせんのんね?」

「差し出がましいことを言うな。殿下がどのように御話しになられるかは、国の将来にかかわる重大事だ。殿下もまた、御成長の暁には公務を御努めにならねばならぬ。その時のために、殿下の御話しようを含む教育方針等々について、円卓会議にて入念に議論し、決定したのだ」

「ほいじゃけえ、クマ公はあほんだらなんじゃ。おどれらが長崎の中で威張ろうが何しようが勝手じゃけどの、長崎の外なら相手のことも考えちゃらんといけんじゃろうが」

「……何が言いたいのだ」

「ちいとは考えてみいや。お姫さんはの、長崎出たら、既成事実作るのに何か人前で喋らんといけんのんじゃろう。これから外国と仲良うせにゃあっちゅう時に、お高く留まったお姫様じゃあ、長崎の奴らは常識通用せんアホじゃあって思われたら逆効果じゃろうが」

「…………」

「議論した議論せんとか、正しい正しゅうないとかの話をしよるんじゃないんで」

 女ヤクザが笑顔で殿下に提案した。

「ねえ、テッちゃん、ウチらと一緒におるときだけでもね、テッちゃんのお友達みたいな喋りかたで話してみん?」

「私の頭越しに何を勝手な。内政干渉だ」

 女ヤクザが真剣な面持ちで返した。

「これからホテルに泊まったり、別府の温泉に行ったりせんといけんのでしょ? その時に、他の人からテッちゃんの喋りかたがお姫様みたいじゃって思われてもええんね」

 完全に見落としていた。努めて平静を装った。獣がせせら笑った。

「クマ公の喋りかたも問題じゃけえの。今みたいな偉そうな喋りかた続けよったら、まずいことになるで」

「テッちゃん、練習してみよ? ウチをお姉ちゃんだと思って、ウチのこと呼んでみて?」

 殿下は戸惑いを見せた。

「姉上……じゃ駄目、なの?」

「お姉ちゃん。はい!」

「……姉さん」

「なあに? テッちゃん」

 女ヤクザは笑った。殿下の御顔が輝いた。殿下はその輝きをクリストフォロスにも向けた。だが殿下が急に思案顔になった。女ヤクザも彼を見て思案した。

「……やっぱりクマちゃんはお父ちゃんかね? 服なんか、日曜日のパパっぽいもんねぇ」

 彼は民間人に偽装するために、質素な木綿の開襟シャツとありふれたジーンズを身につけているだけだ。第一、殿下の「パパ」など、僭越の極みだ。

「ほいならセツコは、ねえちゃんじゃのうて、かあちゃんのほうがえかろうが」

「何言うんね。ウチがそんな年に見えるん?」

 母親でも十分通用するとは言わなかった。

「セツコまでクマ公の娘ぇいうんは変じゃろう」

「そんなんを突っ込んでくる奴がおったら、いとこのお姉ちゃんじゃみたいなことを、適当に答えりゃええよね」

 女ヤクザがヤクザ性を露わにしてニヤつき、クリストフォロスに顔を向けた。

「ほら、クマちゃんも、テッちゃんのこと呼んでみんさい。姫とか殿下とかじゃなしによ」

 クリストフォロスは愕然とした。見落としていたのは当然ともいえる。殿下を名前で呼ばわるなど、想像の埒外であった。伏し目がちに殿下を見た。殿下は微笑み、小さく頷いた。深く息をして、決意を固めた。初陣の記憶にあるそれを遥かに勝る勇気を振り絞って、口を開いた。

「……テレサ」

 殿下の――テレサの顔が再び輝きに満たされた。テレサも彼を呼び返した。

「クリストフォロス……」

 女ヤクザがぷっと噴き出した。

「ダメじゃないねテッちゃん。お父ちゃんよ、お父ちゃん」

 何故かテレサが少し落胆したように見えた。そして、テレサがやや恥ずかし気に彼を呼ばわった。

「……お父さん」

 それを聞いた瞬間、予想だにしなかった嗚咽がこみ上げてきた。無意識のうちに口を覆った。ヤクザとテレサから顔を背け、肚の底から膨れ上がる感情と戦った。無駄だった。彼は呻き、落涙した。

 獣が爆笑した。

「おどりゃクマ公! 何でそがいに面白いんじゃ! なに急に涙もろくなっとんなら!」

 女ヤクザが笑ってたしなめた。

「ええじゃないねヒッポちゃん。やっぱりクマちゃんも、威張っとるように見えて、ほんまはええ人じゃったんよね」その目からも涙がこぼれ、彼女は笑顔で目元を拭った。「あら、いけんわぁ。クマちゃんがあんまりにええ人じゃけぇ、ウチまでもらい泣きするじゃないね!」

 ぶるぶると震える彼の背に、再びテレサが呼びかけた。

「ねえ、お父さん」

 手のひらで顔を拭い、恐る恐る彼は振り返った。テレサの笑みは悪戯のそれだった。そのことに気付いて、なぜか嗚咽の発作がぶり返した。獣が再び爆笑して、女ヤクザが手を叩いて笑った。しばらくして、指先で彼の背をつつく者があった。途端に涙が引っ込んだ。振り返ると、案の定、女ヤクザがニヤついていた。

「ウチのこともセツコって呼んで? あ・な・た?」

 先の感情はたちまち雲散霧消した。彼は女ヤクザを睨みつけた。

「必要があれば、そうする」

 その夜は、家族として全員で一つの部屋に宿泊した。皆、すぐに眠りに落ちた。


――――――――――


 翌日も早朝に出発し、鹿児島本線で久留米へとしばし南下してから久大本線に乗り換え、東へと向かった。日が沈む前に湯布院温泉の玄関口である由布院駅に到着するだろう。そこで客車を降りて旅の疲れを癒し、明日は馬車なり人力車なりを拾って別府に向かう。

 昨日と同様の小さな個室の中で、テレサは打ち解けた様子でヤクザとの会話を楽しんでいる。昨日から話すうちに、テレサの言葉からは、あっという間に硬さが取れた。話し相手の女ヤクザが胸部の暴力性によって寸足らずにさせているのは、奇妙な大剣を構えた戦士が巨大な悪龍らしき怪物に立ち向かう図案のTシャツである。「MONSTER HUNTER」と書かれているのは、元となったまんがか何かの題名であろう。何であれ、その邪悪さは一目瞭然だ。ヤクザにお似合いのその邪悪さには、嫌な予感さえする。テレサはその邪悪さに興味を示さぬまま、あの忌々しい地獄の獣にすら「ヒッポ君」と親しく声をかけている。

 意外なことに、映画やあにめといった邪悪な文化についてヤクザたちは話題にしなかった。だが時折、額を寄せ合い声を潜めてテレサとヤクザたちが囁き合うのだけは気にかかる。もとよりヤクザたちがテレサと親し気に振舞うのは、重ねて業腹である。テレサの笑顔を見るたびに彼の内に蘇るあの喜びがなければ、ヤクザどもにはいい加減猿ぐつわでもかませていたとこだ。

 女ヤクザが一つあくびをして、暢気に言った。

「まあ、最初は何で馬で鉄道走らせよるんかねぇって思ったけど、こう、のんびりしてるのはええねえ」

「貴様らが知らぬだけで、蒸気機関車以前には、馬車鉄道はごくありふれたものだったのだぞ。その歴史も長い」

 女ヤクザは横目でクリストフォロスを見た。

「クマちゃんね、いい加減、そういうケンカ腰はやめたらどうなん? ウチらは仲良しでしょ?」

 そう言って、女ヤクザはテレサに笑顔を向けた。テレサはちらりと彼を見て、クスクス笑った。クリストフォロスは強いて涙をこらえた。

「ウチはほんまにね、クマちゃんと会えんようになるんも寂しいんよ? 順調すぎて、あしたにもお別れじゃあって思うとねぇ、クマちゃんほどじゃないけど、ほんまにすぐ涙が出そうになるんよ?」

「……何か騒動でも起きればよいとでも言いたげな口ぶりだ」

「そんなわけないじゃないね。ねえヒッポちゃん」

「儂は起きてもええと思ってるで。クマ公おちょくるんは楽しいけえの。なんかトラブったら、遠回りじゃけどの、みんなしてまた鉄道乗って鹿児島にでも行ってから、船でもかっぱらって長崎出てきゃあええわい」

「言っておくが、何があろうと、鹿児島教区に行くことだけは、絶対に駄目だ」

 ヤクザたちはきょとんとした。

「長崎の外の者にはほとんど知られていないだろうがな、かの地は一応は長崎の一部とされているが、その実態は、人斬りパルチザンが跳梁跋扈する、真の暗黒の地だ」

 ヤクザたちは暢気に噴き出し、続けて飽きもせずに爆笑した。ひとしきり笑ってから獣が嘲った。

「クマ公、おんどりゃあほんまに口を開きゃあ、面白いことしか言わんのう。儂ゃあ、だんだん好きになって来ちょるわ」

 このヤクザたちは、大口を叩く割には戦というものが分かっていない。これではテレサを無暗に危険に晒しかねない。

「いいかよく聞け。我々長崎十字軍はこれまで、日本やアメリカの軍隊に対して無敵を誇ってきた。日本やアメリカの軍隊は、電気仕掛けに頼りきりな上、我々を攻撃するには、戦車や軍艦といった兵器のその大きな図体を十字軍の前に晒すほかなく、飛行機なども、攻撃が当たれば意外に脆い。強固な砦さえあれば、いくらでも対処のしようがある」

 クリストフォロスは、意図的に残虐に見える笑みを作った。

「だが人対人となると、そうは簡単にはいかん。鹿児島教区ではな、十字軍の兵士が夜道を歩いていると、いつの間にか忍び寄っていた鹿児島の民が、兵士でも何でもない、何の特別なちからもない民がだぞ、突然吠え声を上げて切りかかって来る。この私ですら、あの声には背筋が凍る。見えぬ敵ほど対処が困難な敵はない。確かに我々は、ちからを授かっていない者に比べればはるかに強靭な肉体等々に恵まれてはいる。だがそれでも、兜を割るほどの、切れ味鋭い日本刀の斬撃をまともに受ければ無事では済まぬ。未熟とは到底言えぬ、少なくない十字軍兵士が、鹿児島の地に倒れた」

「時代劇かなんかかいな。時代錯誤もええ加減にせえよ」

「極めて深刻な時代錯誤だ。鹿児島が王国に降ったのち、電気のない生活になったことが災いしたのかもしれぬ。かの地の者らは厄介な薩摩隼人の血に覚醒し、こぞって、いにしえのスパルタの民か何かのような生活を男子に送らせるようになった」

「そんなん、チャンバラの練習しとるやつをしょっ引けば済む話じゃろ」

「そのような常識が鹿児島で通用すれば苦労はない。鹿児島の人斬りパルチザンは、理屈ではなく血によって行動する。剣術の鍛錬一つをとっても、地面に突き立てた木の棒を、手にしたこれまた木の棒で、絶え間なく雄たけびを上げながら、息の続く限りひたすら叩き続けるというものだ。そして鹿児島では、男という男が、木を叩かざる者薩摩隼人にあらずと言わんばかりに、暇さえあれば叩いている。残念ながら我が王国には、木で木を叩くことを理由として民を逮捕できる法はない」

 ヤクザたちは顔を見合わせた。

「要するに、お豊ちゃんみたいなんがいっぱいおるんじゃね」

「ドリフターズを鹿児島で売りゃあ、ええ銭になるかもしれんの」

 クリストフォロスは、侮蔑の笑みを抑えられなかった。

「そのまんがなら知っている。迂闊にもそのまんがを携えて鹿児島を訪れた観光客が、地元の者から制裁されるという事件があったからな。パルチザンの価値観によれば、薩摩の侍が、織田信長から入れ知恵をされたり金髪の種族と協力したりというその内容は、許しがたき侮辱なのだそうだ。軽々しく商売っ気を出すと、文字通りの命取りになる」

 ヤクザたちの反応に、彼は久々の満足を感じた。

「そして言うまでもなく、かの地に足を踏み入れるのは危険だ。十字軍兵士と知れれば人斬りに付け狙われる。でん……テレサが王に近い者と知れても当然同じだ。立って歩く猫を見れば、奴らは腹を掻っ捌いて郷土料理にしてやろうと群がって来るぞ。とりわけ、奴らパルチザンが正月早々読むがごとき本ときたら……」

 クリストフォロスはテレサの顔を見て、言い淀んだ。

「とにかくだ、かの暗黒の地では、一切の常識や従来の価値観は通用しないと思え。そして、仮に今後何らかの支障が生じたとしても、南にだけは向かってはならぬ。それは最悪の選択だ」


――――――――――


 夕刻にさしかかろうとするころ、テレサが、彼女の鞄を取ってくれるようクリストフォロスに頼んだ。彼女は鞄を膝に置いて開き、幾枚かの紙を取り出した。そして、書きかけの演説の原稿だと言って、女ヤクザに手渡した。女ヤクザは、原稿の文字がクリストフォロスに見えぬよう、わざと姿勢を変えて椅子に斜めに座り、原稿の裏を彼に向けて、その内容に目を通した。

 女ヤクザの目に、みるみるうちに涙が溜まった。女ヤクザは、鼻をずるずる鳴らしながら読み終えた。

 クリストフォロスはさりげなく原稿に手を伸ばした。それに先んじて、獣が両前足の肉球で原稿を挟んでさっと取り上げ、テレサに渡した。ムッとする彼に、テレサが笑って小さく肩をすくめたので、彼はまたもや感激の涙を流しそうになった。

「……姉さんは、どう思った?」

 ヤクザが昨日テレサに贈った話し言葉についての助言は、語尾から「じゃ」を取り除くという単純なものだった。女ヤクザはテレサの手をとった。

「……ほんま、テッちゃんは、ほんまにええ子じゃねえ……」

「もう少しなんか言えや」

「いやもう、テッちゃんが心配せんでも、ばっちりよ。このまま完成したらええよ」

 テレサは俯き、ためらいがちに口を開いた。

「実は、どうしても、その先が続かないの。どう書いたら良いのか、分からなくて」

「どうしてね? テッちゃんみたいな賢い子に分からんかったら、ウチにも分からんよね」

 会話が途切れた。クリストフォロスは躊躇した。内心で祈りを捧げた。そして、強いてテレサを見つめて、口を開いた。

「テレサ」

 テレサが彼を見た。動悸が一気に激しくなった。後悔が彼を襲った。だが、彼は続けた。

「どういうところで悩んでおら……いら……いるのか、仰ら……いっしゃ……言って、みては、どう、か……な?」

 テレサが彼を見る目に、純粋な感謝の気持ちが浮かんだ。彼は余りの僥倖に何故か恐怖を覚えた。再び声に出さずに祈った。テレサが意を決した様子で告白した。

「本当は、自分でも、こうすることが良いことなのか、自信がないの。わたしたちが、自分たちから、外国に友好を求めようとするのが、良いことなのか」

「よかったわぁ!」

 女ヤクザの失礼な発言にもかかわらず、テレサは軽く訝しむ表情を見せただけだった。女ヤクザは弁解した。

「いやぁあのね、よかったって言うたんはね、ウチでも答えられそうな質問じゃったけえよ」女ヤクザは鼻高々になった。「そういうんで迷う必要はないんよ、テッちゃん。みんなと仲良うしようと思ったら、迷わんでもええんよ。仲良うすれば、絶対いい事しかないんじゃけえ。ウチらヤクザもそうやって、上手く行ったんよ」

「何を馬鹿な。で……テレサがそのような幼稚な理想論で片付く程度のことで悩んでいるとでも思ったか?」

「ほいじゃあの、クマ公、今からおんどれを、ただのクマ公じゃなしに、理想なきクマ公って呼んじゃることにするわい」

「始終世界を呪ってばかりの貴様が何を言うか」

「勘違いすんなや理想なきクマ公。儂はの、いろいろ気に入らんことを馬鹿にしとるけどの、それは笑いもんにしとるだけで、憎んじゃおらんのんで」

「今度は、憎しみは何も生まない式の御定まりの説法か」

「ああもう、ヒッポちゃんもクマちゃんも、ちょっと黙っとって!」

 ヤクザ女は再びテレサの手をとった。

「今クマちゃんが言ったのと似とるように聞こえるかもしれんけどね、ウチが言いたいんは、本当は全然別なことなんよ。ウチもうまく説明できんのんじゃけど、憎んだらだめなんはね、憎んだら損じゃけえよ。憎まんといけんと思ってるんなら、それはただの思い込みじゃけえね。それどころかね、憎んだら、負けなんよ」

「……誰かがわたしたちを憎んでいても?」

「ほうよ。相手がテッちゃんを嫌ってるからってね、そういう人をテッちゃんが憎むのはダメ」

「それでももし……誰かのことが、どうしても憎かったら、どうすればいいの?」

「その時はね……」女ヤクザはテレサの両肩に手を置いて、満面の笑みを見せた。「憎む代わりにね、笑ってやりんさい」

「なあお姫さん、儂らが王様に会って色々話したときもな、儂がなんか言うたびにクマ公は一々怒りよったけど、王様は、お姫さんのお父ちゃんはの、ずっと笑いよったんで。ああいうんが、ほんまに偉い人よの。クマ公みたいな偽のお父ちゃんよりも、ずっと立派じゃ。お父ちゃんのこと自慢してええで」

 女ヤクザは顔をしかめて獣を見た。

「けどね、ヒッポちゃんの真似は、あんまりしたらいけんよ。悪口言わずに、ただ笑ってやりんさい。憎くもない人を笑うのもダメよ。理由もないのに人を見下すんが、一番いけんのんじゃけえ」

「クマ公なんかの、いっつも儂らのこと見下しとるじゃろ。あがいなことしよるけえ、逆に馬鹿にされるんじゃ。その程度のこともまだクマ公は分かっとらんのんじゃけえ、どうしょうもないの」

 テレサが、悲しみの目でクリストフォロスを見た。クリストフォロスはたじろいだ。彼はヤクザに対する憤りを募らせた。

「ご高説はもう結構だ。あのミカエルのような下種と平然と付き合うような貴様らヤクザに、……テ、テレサを惑わせる資格はないと思え」

 女ヤクザが彼を見た。悲しみと憐みの目で。彼は再びたじろいだ。

「長崎の人らがね、ミッキーのことを分かってあげようとせんから、結局、ウチらヤクザに頼るハメになったの、もう忘れたん?」

「……ミカエルから、自分のことを理解してくれなどと頼まれた覚えはない。我々に非があるかのようなことを言うな」

「もう! ミッキーがそんなこと頼まんでも、自分から相手の事を考えてあげんといけんのんよ! たとえばね、もし、ミッキーが新井さんに化けてウチに迫ってきたら」

「新井さんとは誰だ」

「新井さんのことも知らんくせに、よう広島に来る気になったの」

 女ヤクザは、何やら気味の悪い恍惚とした表情で自分の両肩を掴み、続けた。

「ウチは、分かっとっても絶対その手に身を委ねてしまうわあ。ウチのワガママヤクザボディが卑劣な手にかかって汚されてしまうわあ」

 テレサが噴き出した。

「テ、レサが聞いているのを忘れるな」

「けどね」女ヤクザは真顔になった。「実はミッキーは、絶対そんなことせんのんよ。いっつも下品なことばかり言いよるようなミッキーじゃけどね。それでね、どんなイケメンにでもなれるのに、普段はあの変な顔のぽっちゃりした格好しとるんよ」

「それがどうした。あの能力を使うのが面倒で、醜い正体を晒しているだけではないか」

 女ヤクザはクリストフォロスを見据えた。

「ミッキーが、普段はわざとあの恰好に化けとるのかもって、考えたことはないんね?」

 女ヤクザの言葉の意味するところを理解し、彼は絶句した。動揺を悟られぬよう取り繕った。

「それならそれで、奴はそうやって、見た目からして意図的に露悪的に振舞い、世界に対して斜に構えて生きているのだろう。信仰に背いた者の成れの果てだ」

「そういうふうに生きるしかなかったんよ。小さかったころから。物心ついたときから」

「…………」

「物心ついた時にはもう、世界のほうが先にミッキーを拒絶しとったんよ。寂しかったじゃろうねぇ」

 彼はもう、内心の動揺を隠せているかどうかに全く自信がなかった。

「……それが分かるから何だと言うのだ」

「だからね、ウチらはみんな、それが分かるんよ。ウチらヤクザは」

 テレサが女ヤクザを見つめた。その視線に気付いた女ヤクザは、寂しげに微笑んだ。

「ウチらのほとんどが、あの時、広島に住んどった人みんなが、あの時一度、世界から拒絶されたけえね」

 テレサが傍らの獣を見た。獣は俯いていた。テレサは獣の手をとった。そして、獣と肩を寄せ合った。女ヤクザは窓際に頬杖をついて、外を見つめた。無言のまま時間が過ぎた。


――――――――――


 湯布院温泉が近づいてきた。女ヤクザが突然、「んん?」と声を発し、腰を浮かせて窓ガラスに額を押し付けた。獣も床に降りて窓の外を見た。

 窓から見える浅い窪地では、地面に設置されたいくつもの大型のピストンや羽根車が蒸気を上げて稼働していた。ピストンや羽根車は、いずれもシャフトで、それぞれ別の、大型の東屋のごとき簡素な建造物と繋がっている。いくつかが集まって建っている、その建造物の屋根の下にあるのは、歯車がいくつも噛み合いながら積み重なった、壁のようなものだった。

「なんねぇ、あれ……」

「……また随分と、わけわからんもんを作りよったの」

「蒸気計算歯車だ。日本の民による呼称は階差機関だが、そのような名称は科学的であるかのような誤解を与えるため、我々は純粋に見たままの名前で呼んでいる。王国の統治には、多くの複雑な数学的計算が必要不可欠だ。そのような、統治にまつわる計算を日々行っているのだ」

「……いや、あがいなんは、ぱっと見、科学的じゃろうが」

 クリストフォロスはヤクザを教え諭した。

「自然の力を利用する水車や風車は科学的か? そろばんは科学的か? 鳩時計は科学的か? 否。断じて、否である。ゆえに、自然の地熱が生み出す蒸気を利用して歯車を駆動し数学的な計算を行うあれは、ちっとも科学的ではない」

「あれなら、いっそのことSLとかを作ってもええんじゃないね?」

 クリストフォロスは軽く俯いて首を振った。

「人為的に燃料を燃やし、その熱効率等々を考え始めると、途端に科学的になる」

「それで納得せえいうほうがおかしいじゃろ」

 彼は獣にぴしゃりと言った。

「貴様が納得しようがしまいが、どうでもよい。円卓会議で多くの時間を費やし議論した結果、そのように結論したのだ。なぜ貴様らは、我々の努力の結果を、そうも易々と否定できるのだ」

「このあほんだらが。仕事なんじゃけえ、おんどれらが努力すんのは当たり前じゃ。苦労自慢すんなや。苦労すりゃ何でも許されるんかっちゅうんじゃ。苦労した奴に文句言うたらいけんなんて理屈で言い逃れしようっちゅうんは、幼稚じゃ。このボケが」

 クリストフォロスが獣を睨みつけると、またテレサが笑った。深刻なジレンマに陥っていることを、彼はようやく自覚した。


――――――――――


 鉄道馬車は、夕陽が照らす由布院駅に到着した。

 女ヤクザは夕陽に目を細め、サングラスをかけた。駅舎やその窓から見える街並みは、長崎化の影響で、旅館や温泉施設であっても大半が洋風建築である。女ヤクザが言った。

「こないだ大きな地震があったって聞いたけど、大事(おおごと)にならんかったみたいじゃねぇ。よかったわぁ」

 クリストフォロスは、歩きながら振り返り、説明した。

「フレーミング、すなわち木造枠組壁構法は、柱だけではなく壁を強固にすることで、建物の剛性を確保する。大地震でも、低層の建築物に大きな被害が出ることは極めて稀だ。地震の多い日本の民の間で何故普及しないのか、理解に苦しむ」

 再び前を向いて駅舎を出たところで、彼は立ち止まった。背中に女ヤクザがぶつかった。よそ見をしていたこのヤクザが悪いのは明白であるにもかかわらず、彼女は文句を言った。

「どしたんねぇもう。危ないじゃないねクマちゃん」

 彼は無視して、天を仰いだ。

 駅舎のすぐ外で、あの馬鹿者が、恥ずかしげもなくあの女たちを従えて、仁王立ちでクリストフォロスを待ち受けていた。名前を思い出したくもない馬鹿者が、大音声で呼ばわった。

「この勇者ゲオルギウスの目はごまかせないぞ! ここで会ったが百年目だ! 観念しろクリストフォロス!」

 夕食の前にひとっ風呂浴びようと、あるいは今日の宿に向かおうと駅前の賑やかな通りを出歩いていた多くの観光客が、何事かと立ち止まって勇者を見た。電波が届かないため「SNS」投稿はできないのだが、早くも幾人かの観光客が条件反射的に「すまほ」を取り出し、撮影を始めた。

 クリストフォロスの真後ろにいた女ヤクザが、彼の背中からひょいと顔を覗かせて、しばし硬直した。そして、全身をわななかせながら地に崩れ落ち、転がったまま爆笑した。

「ぶっはははははは! ゆうしゃじゃ! ほんまに、っははははは! ゆうしゃがおる! っははは! あははははは!」

 ふと背後を見ると、四つ足の獣が、しゃがんだテレサの胸元に鼻面を埋め込んで痙攣していた。ヤクザ動物であることを隠そうとする努力であるのは理解できるが、許せるかどうかはまた別の話である。クリストフォロスは許さないことにした。彼は獣に歩み寄ってその首根っこを掴むと、十字軍兵士の膂力をもって、獣を駅舎の屋根の上目掛けて放り投げた。獣は屋根の向こうに消えた。彼は爽快感を味わいながら、手をはたいた。そして彼は、テレサを背後にかばった。

「……何故貴様がここにいる。どうやって情報を得た」

 勇者は呆れて見せた。

「そんなことおまえに聞かれて正直に答えるわけないだろこのばか!」

「博多に情報提供者がいるな」

 勇者は激しく動揺した。

「そ、そ、そんなわけが……そうだ! だいいち、ぼくがどうやって博多にいるやつと連絡とるんだ!」

 痙攣が収まった女ヤクザが、ようやく地面から身を起こして、進み出た。

「そんなことよりもねぇ、ちょっとええ?」

 クリストフォロスは、その背に一応、声をかけた。

「気を付けろ。奴は見た目よりもずっと危険だ」

「なんだそのライバルキャラっぽいセリフは! おまえは悪者なんだぞ! 自覚しろ!」

「そんな偉そうなこと言えるんね勇者くん。女の子にあんな格好させるのは、悪者じゃないんね?」

 女ヤクザが、勇者の背後を顎先で示した。勇者の後ろに、腹筋を外気に晒す理不尽な形状の鎧の女と、無駄に長いスリットで両脚から腰の上まで素肌を晒すローブを着たもうひとりの女が付き従っていた。増える一方の、彼らを取り巻く群衆の目が、一斉に勇者に注がれた。

 勇者は胸を反り返らせた。

「そんなの言いがかりだ! ぼくはジャンヌやカタリナの服装について命令したことなんかないぞ! ジャンヌたちの自由意志だから、ぼくには責任はない!」

「ジャンヌちゃんいうんは、どっちね」

 鎧の女が手を上げた。女ヤクザがサングラスを下にずらし、腰に手を当てた。

「ジャンヌちゃんは、そんな恰好で恥ずかしくないん?」

 群衆が鎧の女に注目した。鎧の女は、女ヤクザと勇者を交互に見、それから群衆の視線に気付いて、戸惑ったように周囲を見回した。

「……どうなんね」

 鎧の女は俯き震え、口を開いた。

「勇者様のためなら、恥ずかしくありません……!」

「なんね。ほんまは恥ずかしいってことなん?」

 勇者は喚いた。

「うるさいな! ジャンヌは恥ずかしくないって言ってるんだからいいだろそれで!」

 ローブの女が、両手に杖を抱えて応援した。

「そうです! わたしだって、勇者様のためなら、恥ずかしくありません!」

 勇者は、顔をしかめてそちらを振り返った。

「おまえはもう黙ってろカタリナ!」

 それから、勇者は急に名案でも思い付いたかのように意気込んで、女ヤクザの極端に寸足らずのTシャツを指さした。

「そういうおまえだって相当恥ずかしいぞ! Tシャツを着るだけであんなにすごいことになってる女がクリストフォロスと一緒にいるのは、なんだかずるい!」

 勇者の背後の女たちは、そろって自らの胸部を見下ろした。いずれも到底、女ヤクザのごとき暴力性を備えるまでには至っていない。勇者は宣言した。

「つまり、クリストフォロスは悪者だ!」

 群衆は勇者に冷ややかな目線を送った。勇者は目をしばたたいて群衆の目を見た。それから、やっと本題を思い出したかのようにふんぞり返った。

「そこの女がずるいから言い忘れてたけど、クリストフォロス! おまえの後ろにいるのは誰だ! テレサ姫がなぜおまえと一緒にいる? 王国に対する反逆の証拠だ! おとなしく降参して、テレサ姫を引き渡さないのなら、この」

 勇者はそこで言葉を切り、あたかも鉄塊のごとき馬鹿げた巨大さの両手剣を、背中から抜いた。破れ目を縫ったばかりのマントが、また少し切り裂かれた。勇者が苦もなく構えた剣の巨大さに、群衆がどよめいた。勇者は決め顔になった。

「滅龍の聖剣アスカロンが、おまえをゆるさないぞ!」

 群衆がやんやの喝采を送った。明らかに、見世物か何かだと思われている。この状況は利用できる。クリストフォロスは、業腹の極みであるが、勇者を相手にすることにした。

「誰が貴様に殿下を渡すものか。貴様たちのような、よりによって勇者を自称するが如き馬鹿者たちが、殿下の御身を奪おうと密かに計画しているとの情報は、既に入手している」

 クリストフォロスは、敢えて決め顔になった。

「殿下を誑かしその婿となって、不遜にも王位の簒奪を企てるつもりか! そのようなこと、聖堂騎士団団長であるこの私が、誓って許さぬぞ!」

 再び群衆がどよめき、その目が勇者に集中した。クリストフォロスに黄色い声援がぽつぽつ飛んだ。だが勇者は臆する様子を見せぬ。女どもにも全く動揺はない。女ヤクザはずらしたサングラスを元に戻して、足元を見てくつくつと忍び笑いを漏らしていた。業腹の極みがその頂を超えて、天へと昇りつつある。勇者が、まるで勝ち誇るかのように、妙に落ち着いた口調で言った。

「なにを言うのかと思ったら、その言いがかりはなんだ。ぼくだって、姫とおまえの仲くらい知ってるんだ。ぼくは勇者だぞ」

 勇者は馬鹿げた大剣を片手で持って、剣先をクリストフォロスに向けた。

「なのに、勇者であるこのぼくが、まるで悪者みたいに姫とおまえの仲を引き裂くはずがないだろ! 相思相愛のおまえたちの仲を!」

 クリストフォロスはぽかんとした。思わずテレサを振り返った。テレサは顔を真っ赤にして俯いていた。

 鎧の女が叫んだ。

「姫と聖堂騎士団長の仲を知らない人はいません! 二人を見たことがある人にはバレバレです!」

 ローブの女が、両手でその杖を捩じるような仕草で訴えた。

「姫の年齢的にかなり問題があるけど、わたしは目をつぶります!」

「ちょっと待て!」クリストフォロスはこの上なく狼狽した。「なんだその無責任な噂話は! 私は聞いていないぞ!」

 勇者は聞く耳を持たずに責め立てた。

「今更しらを切るつもりかクリストフォロス! 見損なったぞ! 男らしくしろ!」

 群衆が、クリストフォロスに冷やかしのヤジを飛ばしつつ、喝采した。勇者が進み出て、自信満々でクリストフォロスに言った。

「姫のようすをちゃんと見てみろクリストフォロス」

 クリストフォロスは恐る恐る振り返った。テレサは俯きながらも、あの笑みで、彼をちらりと見た。喜びが蘇り、彼は狼狽から立ち直りつつあることを自覚した。

 彼は落ち着いて言い返した。

「殿下の御様子が一体何だというのだこの馬鹿者」

「まだしらを切るつもりか? それでも聖堂騎士団長か? ならば」

 勇者は馬鹿げた大剣で天を突き、大見得を切った。

「神に誓って、こたえるがいい! おまえは、テレサ姫を愛しているのか!」

 群衆が静まった。黄色い声援が散発的に飛び交った。

 その問いを受けて、彼は自分でも不思議なほど逡巡しなかった。女ヤクザが慌てて乱暴に彼の肩を掴んだ時には、彼は既に口を開いていた。

「無論、愛している」

 群衆から大歓声が湧き上がった。女ヤクザは、彼の肩を掴んだままもう片方の手で頭を抱え、何故か失望した様子だ。彼は再び混乱に陥った。

「だから一体何なんだ? 私が殿下を愛しているのは当たり前だろう! なぜそれが相思相愛などという話になるのだ?」

 群衆は聞く耳を持たずに沸き返っている。女ヤクザが彼の両肩を掴み、揺さぶっている。彼は途方に暮れて、必死で訴えた。

「僭越だという誹りは受けるだろうが、私はただ、テレサを! あたかも我がむ……」

 女ヤクザがこっぴどく彼の頬を張って、黙らせた。クリストフォロスは呆然とした。群衆が再び静まり返った。すすり泣く声が聞こえた。彼は振り返った。テレサが泣いていた。彼は、呆然としたまま女ヤクザを見た。彼女は再び彼の両肩に手を置き、ゆっくりと首を振った。

 クリストフォロスは遅まきながら理解した。直ちに恐慌に呑まれた。彼は叫んで駆け寄ろうとした。その襟首を後ろから女ヤクザがひっつかみ、彼に尻もちをつかせた。女ヤクザは無言で彼を見下ろして制止した。そして、すすり泣くテレサの前に跪いて、何事かを小声でしきりに言って聞かせた。

 事態の急変にやはり困惑していた勇者は、我に返って喚きたてた。

「ほらみろ! クリストフォロスが姫を泣かせたぞ! クリストフォロスは悪者だ!」

「ええかげんにしんさい」

 女ヤクザが立ち上がり、勇者に向き直った。女ヤクザは勇者に向かって歩いた。

「テッちゃんを泣かしたんは、あんたじゃないね勇者くん。調子に乗りんさんな」

 女ヤクザは、ようやく立ち上がった背後のクリストフォロスに、首だけで振り向き、横目で言った。

「あんたは引っ込んどきんさい。テッちゃんの近くでテッちゃん守るのはええけどね、しばらくは、つまらんこと話しんさんなよ」

 クリストフォロスは無言で従った。迷ったが、結局テレサの傍らに向かった。テレサが顔を背けた。彼はテレサを背にして、女ヤクザを見守った。

 勇者は彼女に嘲りの目を向けた。

「なんだ? ぼくに刃向かうつもりか? おまえがいくらずるいからって、ぼくが手加減す……」

「ええ加減、口を閉じんと、しばくよ?」

 女ヤクザは、何らかの武術らしき構えをとった。勇者はむっとした。鎧の女が斧を手にして並び立った。その背後からローブの女が声援を送った。

「勇者様! お気をつけて!」

 勇者は声援を無視した。

「Tシャツがそんなにずるいのに、その上武闘家枠なのか? よくばりだぞ! ゆるしてやるから、ぼくのパーティーに来い!」

 鎧の女と杖の女が、愕然として勇者を見た。そして、そろって女ヤクザに怒りの目を向けた。女ヤクザは言った。

「勇者くんは、なんでそんなにセクハラしかせんのんね。もうええけえ、さっさとかかってきんさい」

「言ったな! 後悔してもしらないぞ!」

 勇者は大剣を軽々と振り回した。剣風を受けた群衆が後ずさった。勇者は大剣を大上段に構えた。

「くらえ! 必殺! ギガ……」

 言いながら振り下ろされる勇者の剣を前に、女ヤクザは最小限の動きで体を交わし、勇者の斜め後ろに回った瞬間、後ろから股間に蹴りを喰らわせた。

「ス……」

 勇者は、必殺技の名前を言い終えぬまま、剣を取り落とた。そして股間を両手で押さえて悶絶し、うずくまった。その時既に、女ヤクザは左拳だけで、鎧の女のみぞおちと顎先に、立て続けの小さな動きの打撃を見舞っていた。息が詰まり脳を揺さぶられ、鎧の女は横倒しに昏倒した。倒れた敵に対する警戒の構えを取って動きを止めた女ヤクザの胸部が、その暴力性を抑えんとするかのように一度大きく揺れてから、静かに停止した。発散された暴力の興奮に呑まれた群衆が、拳を振りかざして一斉に絶叫した。

 ただ一人、ローブの女が、地面に転がり悶絶する勇者に駆け寄った。

「勇者様!」

 ローブの女は、小声で何事かを念じると、ねじくれた杖の先で、勇者の腰をトントン叩き始めた。女ヤクザは呆れてしばらく宙を見上げてから、倒れた勇者に声をかけた。

「勇者くん、ほんまにあんたぁ、何がしたいんね?」

 癒しの術の効果が早くも表れ、勇者は脂汗をかきつつも、膝をがくつかせながら立ち上がった。

「ぼくを、ばかにしないほうがいいぞ! おまえたちの計画は全部知ってるんだ! だから、生きた証拠を捕まえて……」

 女ヤクザは丸腰の勇者の首を片手で掴んで、宙に釣り上げた。

「証拠?」

 勇者は女ヤクザの手首を両手で掴んでもがきつつ、当事者以外にはクリストフォロスにしか聞き取れぬであろうかすれ声を、必死で絞り出した。

「だからおまえたちの計画は知ってるって言ったろ? うっかり者のクリストフォロスのくせに姫の誘拐を成功させちゃったから、姫にそっくりすぎる替え玉がいる間は、いくらクリストフォロスが姫を誘拐したって言っても、誰も信じないだろ! 姫にそっくりすぎるせいで、替え玉を下手に殺すこともできないし! だから生きた証拠として姫とクリストフォロスを……」

 何故自分がこの馬鹿者からうっかり者呼ばわりされねばならぬのか。彼の疑問を余所に、女ヤクザは満面の笑みを浮かべた。勇者は訝しんだ。彼女は勇者に囁いた。

「なんねぇ。見つかっちゃってどうしようかねえって思っとったけど、ウチらが勇者くんみたいなのに捕まらんかったら、とりあえずなんも問題ないんじゃね」

 ようやく勇者は、無駄に自慢話をし過ぎたことを悟った。女ヤクザは笑顔で言った。

「勇者くん。あんたにはもう用はないけぇ、さっさと帰りんちゃい。それとね、女の子には優しくして、女の子が言うことを、ちゃんとよう聞くようにせんといけんよ?」

 女ヤクザは勇者を地面に放り出した。彼女と勇者の会話が聞こえぬまま次の展開を待っていた群衆が、歓声を上げて勇者たちを嘲りの目で眺めた。ごほごほと咳き込みながら、なんとか手で上体をもたげた勇者が、女ヤクザを睨みつけた。

「そうかんたんに逃げられるとおもったらおおまちがいだぞこのばか。おまえには見えなくても、バルバラのクロスボウがクリストフォロスを狙ってるからな。おまえたちがすこしでもうっかりうごいたら、バルバラがうっかり者のクリストフォロスを容赦なく撃つぞ」

 クリストフォロスは怒りを押し殺して、女ヤクザの背に向けて言った。

「その馬鹿者の言ったことは嘘ではない。私には分かる。不用意に動くな」

 彼のその言葉に、群衆が息を呑んだ。勇者は再び立ち上がり、剣を拾って勝ち誇った。

「そうだわかったか。最初からすなおに降参してればよかったんだこのばか。ぼくはクリストフォロスとちがってずるくないから、いきなりクリストフォロスを撃ったりしなかったんだぞ」

 クリストフォロスは視覚、聴覚、そして嗅覚を最大限研ぎ澄まし、狙撃手の居所を探った。何らかの方法で極めて巧みに姿を隠しているが、生きている限り、心音や微かな身じろぎの音、あるいは体臭といったものまで完全に消すことはできぬ。狙撃手の位置さえ先に特定できれば、テレサをかばいつつ矢を回避し、事態を打開することはできるはずだ。

 勝利を確信した様子で、勇者がクリストフォロスに向かって歩み寄ってきた。

「おとなしく姫を渡せ、クリストフォロス。うっかり矢をよけようとして、うしろの姫に当たったらたいへんだぞ」

 クリストフォロスは歯を食いしばった。思わず踵が、じりとわずかに後ずさった。

 引き金と弓弦の音が微かに鳴った。その音で狙撃手の位置を知った時には、もはや矢を回避することは不可能だった。クリストフォロスはテレサの盾になるように体を晒した。クリストフォロスの目の前を、飛び来った影が素早く斜めに横切った。そして矢が消えた。

 数瞬の後、クリストフォロスは矢の行方を悟った。影が去った方向に目を向けた。あの獣が、背をこちらに向けて、地面に転がっていた。その下に血だまりが広がり始めた。

 力なく倒れたままの獣を目にした群衆から、悲鳴と怒号が上がった。群衆の敵意が勇者に向けられた。狼狽しながら後ずさる勇者が、必死で叫んだ。

「バルバラ! なんで撃った?」

 素足のほとんどを極限まで晒すチュニックを身に着けた女が、旅館の屋根の上から勇者の目の前に飛び降りた。女はすぐさま勇者の前で片膝をつき、勇者を振り仰いだ。

「お許しください勇者様! 奴がうっかり少し動いたので……」

「すこしすぎるだろこのばか!」

 それから勇者は、地面に転がった獣を指さしながら非難した。

「それに、ねこにケガをさせるなんて、悪者がすることだぞ!」

 女が必死で訴えた。

「わたしは悪くありません! あの猫が急に飛び出して来たんです!」

「いいわけするな! おまえはパーティーから外す!」

「そんな勇者様! わたしは悪くないのにパーティーから追放するなんて! わたし、闇落ちしてしまいます!」

「闇落ちしろ!」

 クリストフォロスの耳には、そういった全てが遠くに聞こえた。麻痺した感覚に包まれたまま、彼は獣に歩み寄り、膝をついてその背を揺さぶった。獣からは何の反応もなかった。それでも彼は必死で揺さぶった。

「おい! 貴様起きろ! おい!」

 無駄だった。彼はその名を叫んだ。

「おいヒッポ! 起きろ! ヒッポ!」

 彼はヒッポの身体をこちらに向かせた。ヒッポが両前足で、太い矢が突き立ったままの腹の傷口を抑えていた。腹は血に染まっていた。その目は閉じられていた。彼は繰り返し、ヒッポの名で呼びかけた。神に祈った。やがて、ヒッポが薄く目を開いた。彼の顔に安堵の表情が広がりかけて、消えた。ヒッポが口を開いた。

「……なんじゃあクマ公。うるさいの。なに必死になりよるんなら」

 彼の口がわなないた。声を強いて絞り出した。

「ヒッポ。貴様何故……」

「どんだけアホなんじゃおんどれは。お姫さんにとって、おんどれと儂と、どっちが大切なんか、分からんのんか」

 ヒッポが凄惨な笑顔を見せた。

「……ええ加減、ヤクザ舐めるんはやめえや。どんだけ世界がクソまみれでもの、儂らヤクザは、ほんまに大切なものがあれば、命張るんで。それが、儂が気に入らんもんでも、おんどれみたいなあほんだらのためでもの」

 彼は顔を伏せ、懇願した。

「もういい。ヒッポ、私が間違っ……」

「クマ公の詫びなんぞいらんわい。それよりもな、ちゃんと王様見習うようにせえや」

 彼はヒッポの目を見た。

「王様が言っとったんを、憶えとるか? 神のおちからはまこと……」

――神の御力はまこと偉大だ。喋る猫を御遣わしになって、わたしやクリストフォロスをして、謙譲の美徳を学ばせようとなさるのだからな――

 彼はあらためて、その言葉を思い返した。ヒッポが小さく頷いた。

「王様見習って、あの王様の真似して他人や物事を見るようにせえや。王様の言うとったんはの、立派なヤクザ目線の物の考え方じゃ」

「わかった。わかったから、ヒッポ……」

 ヒッポは笑って、震える前足を彼の顔に伸ばした。

「…… このまま励めよ、クリストフォロス……」

 前足が力なく落ちた。ヒッポの目が閉じた。

 彼はしばらく無言でうずくまった。いつの間にか涙が流れていた。やがて彼は、ヒッポのなきがらをその両腕に抱え、立ち上がった。

 彼は周囲を見回した。群衆の誰もが泣き、涙を流していた。彼はようやく思いだして、女ヤクザの姿を探し求めた。

 彼が振り向いた先にいる女ヤクザは、ただ突っ立っていた。サングラスのために、その表情は定かでない。彼女の唇は引き結ばれ、微かに震えていた。

 なきがらを抱えたまま、彼は彼女に向かって歩いた。近づくほどに、彼女の唇が一層強く震えた。そしてついに、彼は彼女の前にたどり着いた。彼女は無言のまま、静かにスマホを取り出し、彼を撮影した。

 彼はまばたきした。思わず腕の中のなきがらに目をやった。一瞬、ヒッポが目を開けていたように見えた。再び彼は女ヤクザを見た。彼女の全身が震え始めた。

 彼は深呼吸し、あらためてその五感に意識を向けた。

 血液のにおいがなかった。

 心音が絶えず続いていた。

 彼もまた、震えた。ようやく真相を悟った彼が叫ぼうとした時、先んじて女ヤクザが噴き出し、腹を抱えて際限なく爆笑し始めた。

「ぶぅわっははははは! あははははは!」

 なきがらが続いて爆笑した。

「ギャッハハハ! ギャヒーッヒッヒッヒ!」

 彼は怒りに我を忘れて、女ヤクザを怒鳴りつけた。

「セツコ! 貴様!」

 それだけ叫んで、言葉が続かなかなくなった。セツコは一層激しく笑った。彼は壮絶なる怒りの化身と化した。怒りのままに腕の中のなきがらを地面に叩きつけた。なきがらは素早く身を捻って着地し、爆笑を続けた。爆笑しながら、なきがらは腹に張り付けていたにせの皮膚と、その下にあった赤い液体まみれの硬い板状の物体を、まとめて剥がして放り捨てた。

 怒りの化身は壮絶なる怒りのやり場が見つからぬまま、怒りに震え、ただ叫んだ。

「貴様! 貴様ら!」

 その時、真相に気付いて同じく呆然としていた群衆が、遅れて爆笑した。

 怒りの化身は爆笑に包まれていた。怒りの化身の周りにいる誰もが、心の底から笑い、安堵し、涙をぬぐっていた。怒りの化身は、突然、無力感に襲われた。セツコが満面の笑みを浮かべたまま、怒りの化身を指さした。

「ほんまクマちゃんは、ほんまに、なんてええ人なんかね!」

 そしてセツコは、また身を屈して笑い出した。

 ヒッポが満足そのものの笑顔で嘲った。

「クマ公おどりゃあいっつも邪悪じゃあなんじゃあ言いよって、映画の一つもロクに観もせんけえ、こがいなベタな芝居に引っかかるんじゃあ! このあほんだら! 反省せえ!」

 ヒッポの嘲りを受けて、ようやく彼の思考が回復し始めた。

「ヒッポ! セツコ! なぜ私を担いだ?」

 ヤクザたちは、ヒイヒイ呻いて息を整えてから、ようやく答えた。

「クマちゃん、早とちりしんさんなよ。元はといえば、クマちゃんのための悪戯じゃあないんよ」

「ほうじゃほうじゃ。おんどれの話での、あの勇者とかいうあほんだらが、いっちょ前に厄介なスナイパー連れとるんが分かっとったけえの。もし勇者のあほんだらに見つかったら、スナイパーはどがいに無力化するかのぅいうて、セツコと相談したんじゃ。それでの」

 ヒッポは、虚脱して棒立ちのままの勇者とそのパーティーを、前足で指し示した。

「どうせスナイパーライフルじゃのうて弓矢なんじゃけえ、いっそのこと、わざと誤射さして炙り出しちゃろうかぁいう話になっての。うっかり可愛いこの儂を撃ってしもうたら、さすがに勇者のあほんだらどもでも動揺するじゃろうけえ」

「そういう説明はどうでもいい! 私に黙っていたのは、何故だ!」

 ヤクザたちは顔を見合わせた。それからセツコが答えた。

「それは、ウチらじゃのうてテッちゃんのアイディアよ」

 彼の内なる怒りの化身が、再び身をもたげ始めた。

「言うに事欠いて、貴様は何を……!」

「まあ聞けえや。元はといえば、おんどれが王様を心配させるんがいけんのんで?」

 彼は絶句した。

「クマ公は、ほんまはええ奴なのに、あがいにいっつもいっつも威張って人を見下すんがいけん言うて、王様はなんかっちゅうたんびに、おんどれに注意しとったんで。それが分かっとるんか? なのにおんどれが、ちっとも反省せんもんじゃけえ」

「ほうよね。でね、ウチらがセッちゃんと出発する前に、王様がセッちゃんにこっそり頼んだんよ。もしチャンスがあったら、クマちゃんをちょっとお仕置きして反省させてねぇいうてね」

「だいたいの、こがいな小細工なんか、ようく見とりゃあ気付くもんで。クマ公が儂らを毛嫌いして儂のことなんかロクに見もせんけえ、ヒッポの腹がどうも不自然じゃのうとか疑ったりもせんかったんじゃろうが」 

 ヤクザが語るほどに、彼の怒りはいや増して行った。彼は敢えて怒りを押し殺し、ヤクザたちに問い質した。

「まさか貴様ら、テレサが貴様らの邪悪な企みに加担していたとでも言うつもりか?」

 セツコは答えるかわりに、明後日の方向を指さした。彼は振り返った。群衆の近くにテレサが立っていた。彼は、ただ呼びかけた。

「テレサ……」

 テレサは彼から顔を背けていた。あの、世界から拒絶される恐怖が蘇った。恐怖の只中にある彼を、テレサが横目で見た。そしてテレサは、ヤクザの言葉を裏付けるかのようにあの笑みを浮かべた、。彼は呆然自失した。テレサが彼の表情を見て、こらえきれずに小さく噴き出し、笑った。その控えめな笑いは、再び群衆にも笑顔をもたらした。

 笑うテレサを見た彼の中から、即座に怒りと恐怖が立ち去った。恥であるとすら感じなかった。ようやく悟った。彼は、自らの愚かさを知らぬままに振舞っていた。道化だった。それを、彼だけが知らなかった。

 ジレンマなど、何も存在しなかった。

 彼が怒りを募らせるほどに、誰もが道化の怒りを見て笑いをこらえられなかった。ただそれだけだ。

 改めて思い返した自分の振る舞いは、ただひたすらに滑稽だった。クリストフォロスは、こみ上げる笑いを抑えられなかった。そして、彼もまた群衆と共に大笑した。彼はしばし天を仰いで、ヤクザと群衆と一体となり、笑い声を上げ続けた。

 そうして、笑い疲れた様子のセツコが、テレサに話しかけた。

「ほんまに、いいお仕置きが出来て楽しかったわぁ。ねぇ、テッちゃん?」

 テレサの笑いがぶり返した。セツコはテレサに入れ知恵した。

「これからも、なんかあったらね、クマちゃんのことを、こうやってお仕置きするんよ?」

 テレサは笑って頷いた。セツコも頷き返し、それから、ぽつんと笑いの輪から孤立した格好の勇者たちに振り返った。彼女の笑顔はヤクザのそれに変わった。セツコは宣言した。

「ほいじゃあそろそろ、勇者くんたちにお仕置きの仕上げをしようかねえ」

 群衆が大歓声で答えた。勇者たちは一様に恐怖で顔面を凍り付かせ、無意識のうちに互いに寄り集まった。

「その前に、訊くことがある」

 クリストフォロスはセツコの前に進み出た。黄色い成分の多い群衆の声が、彼の背中を後押しした。彼は勇者に問うた。

「ゲオルギウス。貴様の背後にいるのは誰だ。誰の指示を受けている?」

 勇者は気丈に振舞った。

「たとえおまえたちがぼくを拷問しても、ぜったい言うもんか。ぼくは勇者だぞ」

 群衆から失笑が漏れた。セツコは言った。

「ウチらは拷問はせんけどね、お仕置きはちゃーんと決めるけえね。もう観念しんさい」

 だが勇者は、なおも気丈だった。

「これでぼくを倒したと思ったらおおまちがいだぞ。ふつうボスっぽいやつは、第二段階とか進化形態とか、そういうのを用意してるんだ。そんなことも知らないのかこのばか」

 誰もがその言葉に戸惑った。勇者は自信を取り戻した様子で、首から細い鎖で吊り下げていた、小さな細い金属製の何かを鎧の下から取り出して、口に咥えた。そして、力いっぱい吹き鳴らす仕草をした。笛の音は聞こえなかった。

 今度は、クリストフォロスが凍り付く番だった。彼は振り返って言った。

「私が迂闊だった。セツコ、ヒッポ。今すぐテレサを連れて逃げろ」

 セツコがヘラヘラ笑った。

「どうしたんねクマちゃん。急になんねぇ。もしかして、ウチらを引っかけて、仕返ししようとか思うとる?」

 群衆がクスクス笑った。

「クマ公あんま無理すんなや。演技力はあるようじゃけどの、儂らを担ぐためのトリック考えるんは、まだおんどれの映画経験値じゃ無理じゃ。おどりゃあ経験値ゼロじゃろうが」

「貴様らに仕返しするなら、担ぐだけでは済まさん。私はそれほど寛大ではない。とにかく、早く逃げろ。私がここに残って、できる限り時間を稼ぐ」

「……いやクマ公。おんどれのシリアス演技、結構いけとるの。なあ、この仕事終わったら、儂らと一緒にハリウッド再挑戦せんか?」

 黄色い歓声が騎士団長コールを始めた。

「私のことはいくらでも馬鹿にして構わん。だから、私の言葉を信じろ」

「クマちゃんねえ、クマちゃんがそがいなこと言えば言うほど、何があるんか気になるんじゃけど」

「姉さん!」

 テレサが叫んだ。群衆のざわめきが途端に収まった。

「姉さん! 急いで! 早く!」

「テッちゃんまでどうしたんね。 何が起こるんね?」

 クリストフォロスは諦めて天を仰いだ。勇者が陰惨な笑みとともに、再び勝ち誇った。

「そうやって油断してるやつから順に、ひどいめにあうんだ! おやくそくだぞ!」

 そして勇者は遠くを指さした。思わず皆がそちらの方向を見た。由布岳のふもとから飛び立ったそれは、こちらへと急速に接近するにつれ、際限なくその大きさを増し、遠近感を狂わせた。巨大な何かが、その背にある翼で羽ばたいていた。

 ヒッポは、何らの悪態もないままに、ただぼんやりと口を開け、空を見つめた。

 セツコは、無意識のうちに呟いた。

「あんたあねぇ、絶対、ウチらのこと、馬鹿にしとるじゃろ」

 ドラゴンがあらわれた。


【続く】