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ヤクザヘヴン 【9/10】


(前回)


第九章 賢者現る


 武器や端末を奪われて、頭に袋を被せられたセツコたちは、乗用車と思しき乗り物に詰め込まれた。意外にも手足の拘束はないが、テレサがいる以上、セツコやヒッポが無謀な真似に及ぶのは不可能だ。こちらに抵抗の意図がないことは相手も承知しているだろうが、一応、セツコの頭には銃口が突き付けられている。やがてセツコは、重力に逆らって上昇する感覚を味わった。 

 さほど強くない上昇の感覚が一分弱続くと、今度は前へと進む加速度を感じた。飛行はごく短かった。車両から降ろされて感じた風や音、そして足裏のコンクリートの感触から、比較的高層の建造物の屋上であることが推察された。銃口に促されて歩き乗り込んだエレベーターは、やや降下しただけで停止した。

 エレベーターを出た一歩目から、上等な絨毯を踏む感触があった。何のドアもくぐらずに五〇歩ほど歩いたところで、肩を掴まれ向きを九〇度変えられてから、今度は上から肩を押された。座れということだ。素直に従って腰に伝わってきたのは、固めながらも、いかにも上等そうなクッションの感触だった。左右に同じく誰かが座った。セツコたちが座らされたのは、カウチソファか何からしい。

 「なっちゃん」を襲撃した集団がソファの後ろに整列したようだ。そのまま待たされて三、四〇分ほど経っただろうか。だれか別の人間が二人、セツコたちへと絨毯の上を歩いてくる微かな足音があった。セツコの前でその足音が移動を止めた。ソファの後ろの人間が、セツコたちの頭から袋を取り去った。セツコは素早く周囲を見た。

 ビルの最上階に近いフロアにしてはやけにだだっ広い。テニスを同時に二試合開催できるだろう。博多にはおよそ似つかわしくない、重厚な木の内装。壁面の大きな本棚と相まって、ヨーロッパかどこかの大邸宅にある図書室を連想させる。

 足音の数に反し、目の前にいる人間は一人だけだった。金髪を丁寧に撫でつけた若者が、三つ揃いのスーツの上着を、背後のこれまた重厚な木製の机の上に置いて、寛いだ様子でセツコたちを見ている。まだ少年の面影があるその表情は、落ち着きと余裕を湛えている。若者が軽い微笑みとともに言った。

「『天神』にようこそ。是非とも皆さんにお会いしたかったのですが、普通の招待では、皆さんは応じてくれなかったでしょう。やむなく、少し手荒な方法に頼ってしまいました。お詫びさせて下さい」

 若者は、その言葉通りに頭を下げた。

 セツコは、この状況そのものに感じる違和感とはまた別種の違和感を感じ、それが何なのかはすぐには分からず、困惑した。思わず左右を見た。突如として、クリストフォロスがまなじりを決し、立ち上がりながら叫んだ。

「ゲオルギウス! この馬鹿者が! なぜここにいる!?」

 クリストフォロスは乱暴に肩を掴まれ、ソファに戻された。セツコもようやく気付いた。目の前の若者は、あの勇者と真逆の雰囲気だが、見た目は生き写しだ。セツコは思わず絶賛した。

「どしたんね勇者くん!? あの変な恰好よりも、ぜんぜんイケとるじゃないね!」

 ヒッポが億劫げに言った。

「セツコもクマ公もよう見てみいや。こいつが、ドラゴンから落っことされて大怪我したばっかりのあほんだらに見えるんか?」

 セツコはクリストフォロスは、お互いを横目で見た。ヒッポが続けた。

「名乗れえや。あの勇者のあほんだらの双子か、そうでなけりゃあ兄弟か何かじゃろうが」

 クリストフォロスが怒鳴った。

「貴様の名前などどうでもいい! まず答えろ! テレサはどこだ?」

 遅ればせながらセツコも気付いた。同じソファの左右にヒッポとクリストフォロスが並んでいるだけで、テレサが見当たらぬ。

 若者が答えた。

「僕の指示で多少お世話をさせてもらっています。姫にあんな酷い汗まみれの格好をさせたままにするのは、僕としても忍びない」

 ヒッポが睨んだ。

「おんどれら腐れ外道は、なんでどいつもこいつもアホのくせして威張るんじゃ。お姫さんの着替えはのう、あの勇者のあほんだらのせいで、ドラゴンに焼かれてしもうたわ。おんどれも責任のある話じゃろうが」

「とにかくね、すぐにテッちゃんに会わしんさい。勇者くんみたいなセクハラをテッちゃんにしたら、しばくだけじゃ済まんけえね」

 その様を想像したらしく、クリストフォロスが顔色を変えてガタガタ震えた。若者は沈痛な面持ちとなった。

「どうやら彼は、話に聞いていた以上の醜態を晒しているようですね。兄に代わって、お詫びさせて下さい。僕はヒエロニムス。ゲオルギウスの双子の弟です」

 ヒッポが絨毯の上に唾を吐いて、ソファに反り返った。

「なんじゃあ気取りよってからに。あのあほんだらが勇者なら、おんどれは賢者とか言い出すんじゃろうが」

 それを聞いて、ヒエロニムスと名乗った若者はすぐさま噴き出し、心底愉快そうに笑い声を上げた。セツコたちは思わず互いを見た。若者は、涙を拭ってからしばし息を整えた。

「いやあ、さすがの機転です。あの兄程度では、手も足も出なかったのは当然ですね」

 ヒッポは嘲りで答えた。

「何儂らを褒めて、自分は勇者のあほんだらよりかは話が分かって頭がええみたいなアピールしよんじゃ。手口が見え透いとんじゃボケ。ええか、勇者のあほんだらよりもな、よりによって勇者のあほんだらみたいなのを手駒に選ぶおんどれのほうが、よっぽどアホじゃあクソボケが」

 若者は頷いた。

「僕はそれを侮辱だとは受け取りませんよ。ヤクザの皆さんと僕との発想の違いです。僕に言わせれば、手駒に賢さは要りません。むしろ邪魔です」

 セツコがニヤリと笑った。

「能書きはもうわかったけぇ賢者くん」

 若者がややうろたえた。セツコの笑みは確信のそれに変わった。

「ヤクザ舐めんなさんなよ賢者くん。あの勇者くんの兄弟じゃあって言われるんが嫌じゃけえ、そうやって賢そうにしよるんでしょ? 手駒とか言うてね。賢者くんが賢いんは褒めてあげるけえ、賢者くんって呼ばれても怒りんさんなや、賢者くん?」

 若者は表情を取り繕い、なんとか苦笑して見せた。別のどこかからクスクス笑う声が聞こえた。セツコたちは思わず周囲を見渡した。もう一人が姿を現そうとする様子はない。クリストフォロスが言った。

「賢者くんとやら。仮にも賢者なのであれば、我々が先を急いでいることは知っているはずだ。賢者くんなら賢者くんらしく、要件を簡潔に言え。賢者くんの賢者の言葉であれば、聞いてやらんでもない」

 そう言ってから、彼はセツコたちに不敵に笑って見せた。ヤクザたちも、不敵な無言の頷きで答えた。セツコは追い打ちをかけた。

「賢者くんは賢いけえ、テッちゃんにケガさせたりせんと思うけど、ウチらは賢者くんと違うて賢くないんよ? 賢者くんの言うとることが気に入らんかったら、さっさと賢者くんをしばくけえね」そしてセツコは背中越しに背後に親指を向けた。「こんなカタギじゃ、ウチらの相手にはならんよ?」

 若者は、軽く宙を睨んでから言った。

「僕がそれを承知の上で、敢えて皆さんの身体を拘束していないのもお分かりでしょう。僕は皆さんに、協力の申し出をしようとしているんです」

「勇者のあほんだらが思ったよりもアホすぎてヘマしよるもんじゃけえ、焦って仕方のう方針変えよっただけじゃろうが。偉そうにすんなや。頼み事があるんなら土下座でもせえ」

 若者は再び余裕の表情を取り戻して微笑んだ。

「そこはちょっと誤解がありますね」そして若者が背後に振り向き、机の向こうに向かって言った。「そろそろ、どうですか?」

 机の向こうでしゃがんでいた、黒いドレスを着たサヤカが、立ち上がって叫んだ。

「サプラーイズ!」

 ヤクザたちも騎士団長も、そろって呆然自失した。サヤカは満足げに、繰り返し小さく跳ねた。

「驚いとる、驚いとる」

 若者が再び噴き出したことで、セツコは怒りとともに言葉を取り戻した。

「サヤカちゃん! なんでウチらを裏切るんね!?」

 サヤカはきょとんとした。

「裏切る? 何のこと?」

 クリストフォロスがヤクザたちを怒鳴りつけた。

「一体何なのだこの無茶苦茶な娘は! 飛行機から飛び降りるだけでは気が済まんのか!? 親は一体どういう教育をしている!?」

 突然サヤカの顔が悲しみに曇った。ヒッポが言った。

「クマ公、言いたいんは分かるがの、こいつの親のことだきゃあ言ってくれんなや」

 クリストフォロスは何かを察した表情になった。十字軍の兵士の母親は、出産時に悲劇に見舞われることが多い。だが、セツコが言った。

「今クマちゃんが考えとるんとは、ちょっと事情は違うんよ。また今度説明するけえ」

 サヤカが笑顔を取り戻した。

「セッちゃんもヒッポおじちゃんも、優しいけえ好き」

 若者が言った。

「僕からも言っておきます。僕がサヤカさんと会ったのは、一昨日の夜が初めてです」

 セツコたちは再び呆気に取られた。しばらく思案してから、ヒッポが訝し気な目を若者に向けた。

「勇者のあほんだらに儂らを待ち伏せさせたじゃろうが。そがいなんが出来たんは何でじゃ。儂は王様の近くにおるやつが情報源じゃあ思うとったけど、クマ公が広島に来てから立てた作戦じゃけえ、鉄道使うことまで全部知っとるやつは長崎にはおらんはずじゃ。ずっとクマ公といっしょにおったけどな、鉄道使うことや行き先なんかは誰にも話しとらんで? ほんまは、サヤカが儂らの作戦を漏らしたけえじゃろう。いくらサヤカがアホでも、一昨日偶然会った奴に、そんなことせんわぁ。前々から内通しとったんじゃなきゃあ、筋が通らんで」

「おじちゃん。なんであたしのこと、裏切り者みたいに言うん? そんな大事なこと、あたしはヒロ君でも話さんよ?」

 ヒロ君と呼ばれたヒエロニムスが割って入った。

「すみません。埒が明かないので僕に説明をさせてください。僕は、僕の理想を実現するために、長崎にいる、とある人と密かに手を組んだ。長崎から破門されて長い僕ですが、仲介したのは、破門後も連絡を取り合っていた兄です。その後の流れは、ここに来る前の皆さんの予想で概ね正解です。協力者は、騎士団長に近い部下から巧みに情報を入手し、皆さんの計画を知りました。こういうことを告白するのは心苦しいですが、テレサ姫の身辺に危険が及んでいるという偽の情報を騎士団長に流したのも、そのラインです。期待通り、騎士団長は緊急避難的な計画を立てて、長崎の外に助けを求めようとした。騎士団長を博多や門司要塞で捕らえ損ねたのは、単なる失敗です。騎士団長の能力を見くびっていました。正直に言います。クリストフォロスさん、僕はあなたの能力を見くびった上、あなたを罠にはめて、聖堂騎士団を王の身辺から遠ざけようとしていました。あなたが僕を恨むのは当然です」

 クリストフォロスは、ただ冷ややかにヒエロニムスを見返した。ヒエロニムスは、はっとして付け加えた。

「忘れていました。皆さんが鉄道を使ったことが分かったのは、単純な理由です。浦上大聖堂の脱出トンネルがありましたよね? トンネルの存在を長崎の協力者が知っていたので、騎士団長を見失ってから、あのトンネルの出口を監視していたんです。騎士団長が広島から長崎に戻ってくるとすれば、正面玄関から大聖堂に出入りするわけがありませんから。そして皆さんの出発の朝、皆さんの馬車を駅まで尾行したというわけです」

「ほいでもの、長崎におる奴や勇者のあほんだらに、どうやりゃあすぐ連絡つくんじゃい」

「スマホですよ」

 セツコたちはまたもや顔を見合わせた。ヒエロニムスは淡々と説明した。

「どこでも電波が届くようなテクノロジーはなくても、日中は太陽電池で充電して、夜の特定の時間だけ起動する通信中継用のドローン網があれば、限られた少数と連絡するには十分です。ドローン網に接続するパスワードを知っているスマホの持ち主であれば、ネットも使える。長崎のささやかなテレホタイムというわけです」

「ヒロ君。テレホタイムって何?」

 ヒエロニムスは咳払いした。

「……まあ、それとは関係なく、一昨日、あのトップユーチューバーのサヤカさんが、いきなりこの天神に遊びに来たのは全くの偶然でした。階下の余りの騒動……じゃなくて歓迎ぶりを鎮めるために、僕がサヤカさんに直接お会いしてこの最上階にお招きしたところ、予想外に打ち解けてもらえまして。お話するうちに、サヤカさんが、博多に来たヤクザの皆さまとお会いする方法を知っているとおっしゃったので、僕は即座に、計画の大幅変更を視野に入れて、僕の計画を率直にサヤカさんに明かしました。その上で、サヤカさんに、博多でヤクザに接触する方法を教えてもらったのです」

 ヒッポが血相を変えた。

「おいサヤカ! このあほんだらが! セーフハウスをバラしたんはおんどれか!」

 サヤカは、またもや真顔で問い返した。

「セーフハウスって何? さっきから、あたしに意味が分からん言葉ばっかり」

 ヒッポは項垂れた。仕方なくセツコが引き受けた。

「ほいじゃけえね、サヤカちゃん。サヤカちゃんは、ウチらが博多に来たら、『なっちゃん』に行くこと知っとったんじゃろ? そういう場所って、普通他の人に話したらいけんのんよ?」

 サヤカは本格的にはぶてはじめた。

「ほんまに意味分からん。セッちゃんの知り合いなら、誰でもセッちゃんがあのお店に行くことはすぐ分かるよ? セッちゃんも、あたしが最初に博多で生配信したの観とってくれたよね?」

 突如としてサヤカの清楚な顔が殺意で歪んだ。

「あの『なっちゃん』ってお店ね、広島焼きって旗を立てとったでしょ!? マジ許せんよね!? もしセッちゃんが博多に来たら、絶対あのお店に殺しに行くって誰でも分かるよ!?」

 セツコは固まった。クリストフォロスは断言した。

「たった今確信した。貴様ら広島のヤクザは、等しく狂っている」

 ヒッポが項垂れたまま、力なく呟いた。

「もうええ。もうええサヤカ。賢者のあほんだらもの、儂ゃあもうなんも突っ込まんけえ、さっさと言いたいこと言えぇや」

 ヒエロニムスは、机の上に腰掛けた。

「僕はサヤカさんとお話するうちに、広島のヤクザの皆さんについて、僕自身が固定観念に囚われていることを悟ったのです。僕はこう考えました。過去、僕が長崎を去ったのも、長崎の協力者と手を結んだのも、全ては、僕の理想を実現するためです。そしてもし、僕が直接ヤクザの皆さんと語り合い、皆さんに僕の理想を理解してもらえるのなら、別にヤクザの皆さんと対立する理由もない。ヤクザの皆さんの協力も得て、広島も長崎も、同じ目標に向けて進むことができるなら、長崎内部での対立の演出など、迂遠でしかないと。むしろ、そのような対立など無視し、クリストフォロ騎士団長にもヤクザの皆さんにも、積極的にエラスムス国王の説得に協力していただけるのであれば、過去の長崎内部での対立は、全て水に流すことができるでしょう」

 サヤカがソファの前に来て、セツコの手を取った。

「セッちゃんもびっくりするよ! ヒロ君のアイディアって、ぶちすごいんよ!」

「はあもうええけえ、さっさと済ませえ」

 エレベーターが到着した。

「丁度いい。姫にも続きを聞いてもらいましょう」

 皆がそちらを向いた。旅の汚れを落とし、シンプルながら上質な青いドレスに身を包んだテレサが現れた。さすがに、あのブロンドのカツラはもう被っていない。ヒエロニムスは、ソファの後ろに並んでいた配下の私兵を手で追い払う仕草をして、彼らを壁際まで下がらせた。それから、まだまだ座る余裕があるセツコたちのソファを掌で示した。

 セツコたちを見たテレサは、小走りでソファに駆け寄ってきた。そして、一番端、クリストフォロスの隣に座ると、ヒエロニムスへ高貴な怒りの目を向けた。

「わらわたちに対するかような扱い、いかに申し開きするつもりじゃ?」ヒエロニムスが口を開くより先に、テレサは傍らのクリストフォロスに問うた。「クリストフォロス殿。状況を説明せい」

 クリストフォロスは、やにわに平時の感覚を取り戻し、慌ててソファから降りて跪いた。テレサはこっそりと、ヤクザたちに笑顔を見せた。クリストフォロスは、目線を絨毯に落としたまま、テレサの下問に答えた。

「この無礼なる不届者は、かの勇者を名乗る馬鹿者の双子にして破門者である、ヒエロニムスと名乗る者。勇者を名乗る馬鹿者を自らが操り、王国内部での対立について裏から糸を引いていたことをたった今認めたところでありますが、厚顔無恥なるこの者は、性懲りもなく、この者の意図するところを説明されれば、広島のヤクザ共々、陛下と聖長崎王国が一致協力して同じ目標に邁進するであろうとの大言壮語を吐く次第。殿下の御許しがあり次第、直ちにこの者には勿体無い速やかなる死を与えるところですが、いかがいたしましょうか」

 壁際に並んでいたヒエロニムスの私兵が、音を立ててアサルトライフルを構えた。それに対し、ヒエロニムスは再び手を振って制し、銃口を下ろさせた。テレサは言った。

「クリストフォロス殿。この者を尋問するのじゃ」

「はっ」

 クリストフォロスは立ち上がり、ヒエロニムスに向き直った。

「貴様の理想とかいうものについて、十分納得できる説明をしろ」

 クリストフォロスは、床を指さして見せた。ヒエロニムスは笑って、床に降り立ち、話し始めた。

「単刀直入にいきましょう。僕の理想。全ての計画の最終目標。それは世界からの戦争の根絶です」

 にこにこするサヤカを除き、皆、怪訝な表情で無言のままである。しばし、沈黙の時が流れた。ヒエロニムスもまた、やがて怪訝な表情になり、ソファに座る面々を順に見た。

「……皆さん、『戦争の根絶なんて、どうやって実現するのか』といった質問がしたいのではありませんか?」

「ほいじゃけぇ、とっとと勝手に喋れえ言うとるじゃろうがこのあほんだら」

 ヒエロニムスは、努力して苦笑して見せた。そして口を再び開こうとしたところで、机の上からくぐもった振動音が聞こえた。彼は軽く会釈して、上着のポケットからスマホを取り出し、応答した。

「僕だ…………そうか。任せる」

 ヒエロニムスはTEDスピーチ気取りの笑みで弁解した。

「失礼しました。天神の正面玄関に殴り込みがあったようでして。天神下層部や中層部の商業区域では、対立するシンジケート同士の抗争は日常茶飯事です。僕たちとは無関係でしょう」

 そして結局、彼は話を続ける糸口を探すかのように、宙に視線を漂わせた。話の腰を折られるのが、とことん苦手なようだ。セツコがヘラヘラしながらクリストフォロスを肘でつついた。

「賢者くんは、無視されるんが苦手みたいよ? 可哀相じゃけえ、クマちゃんが尋問してあげたら? テッちゃんも命令しとったじゃない?」

 テレサが噴き出した。クリストフォロスは顔を俯けて笑みを押し殺してから、顔を上げて、問うた。

「賢者くんよ。まず貴様は何者なのだ」

 ヒエロニムスは安堵の表情を隠せなかった。

「僕自身は何程の者でもありません。シンジケート同士の縄張り争いから距離を置き、博多の混沌の中から生み出されるテクノロジーを求める世界各国の企業を顧客とした、ちょっとしたコンサルタントや仲介といった業務を行い、ここにオフィスを構えています」

「そのような何程の者でもない賢者くんと戦争の根絶に、一体何の関係があるのだ?」

 ヒエロニムスは何かを思い出したかのように、床に目を落とした。それから、クリストフォロスの目を見て言った。

「何かの理想を持つには、特別な誰かでないといけない、特別な何かでなければならないといった資格が必要なんですか? 僕は、僕の仕事が何であろうと、僕自身が誰であろうと、ただ僕の理想を持っているだけです。僕は、長崎に留まっていていては自分の理想を叶えられないことを知って長崎を出て、生活のためにここでこうして事業を営んでいるだけです」

「では、賢者くんがお待ちかねの質問をしてやろう。戦争の根絶などといった無理難題を、どのようにして実現するつもりか」

 ヒエロニムスは、純粋な感謝の気持ちに見える笑みを浮かべた。

「世界中の人は、戦争を無くそうといった議論をすれば、必ずこう考えます。戦争の原因がなくならない限り、戦争もなくならない。戦争の原因となる問題や各国の対立を無くすのは不可能だと。そして誰もが、そこから先の本質を考えようとしないのです。誰もが本当は、内心では真実に気付いているのに、そのことを直視するのが根拠もなく恐ろしく感じるから」

「私はあまり気が長いほうではない」

 ヒエロニムスは、小さく両手を広げてから掌を合わせ、続けた。

「戦争の原因が無くならないのはなぜか。それは、戦争の原因と呼ばれるものは、全て無意味な事柄だからです。無意味だから、ある戦争の原因が無くなっても、別の戦争の原因は、いくらでもでっち上げで新たに生み出すことができる。少なくとも現代は、無意味な事柄のための戦争を行う世界になっています。自称現実主義者に限って『戦争は外交の延長だ』などというフレーズを好むものですが、歴史を振り返ってみて、外交問題の解決手段として戦争を積極的に選択した国が、戦争を通じて最終的に外交目的を達成した事例が思い浮かびますか? 普墺戦争や普仏戦争といった戦争が行われた時代を最後に、軽く百年以上も、何の外交問題の解決にもならない戦争が引き起こされているのです。外交に限らず、宗教だってそうです。歴史上、純粋に宗教目的で戦争が行われた例は、せいぜいイスラム教の黎明期からしばらくの期間くらいでしょう。そのほかの宗教的な目的による戦争と言われるものは、十字軍をはじめとして、全て、世俗目的の戦争が宗教を大義名分として行われたものです。宗教的対立を原因とする戦争などというのは、それほど特異なことなんですよ。もしそうでないというなら、今でもヨーロッパ大陸でカトリックとプロテスタントが対立して戦争を続けていなければ、筋が通らない。歴史上のとある時点で、ある日ヨーロッパ大陸におけるカトリックとプロテスタントの対立が戦争の大義名分としての説得力を失った、ただそれだけで、過去のカトリック教国とプロテスタント教国の戦争は、あっさりと絶滅したんです。だから、聖長崎王国は当初、世界の笑いものになったんです。本気で宗教上の目的を掲げて戦争を行うなどというのは、それほど滑稽なものなのだと、本当は、世界中の人々が内心では理解している証拠です。なのに今でも、世界中の人々は、イスラム教過激派組織は宗教上の理由でテロを行うなどという嘘っぱちを、わざわざ信じてあげているのです。彼らが起こすようなテロが、本当に原理主義的教義に則ったものであるなら、彼らが起こすテロの大半がイスラム教圏で発生することも、自爆テロの担い手が女子供ばかりというのも、明らかに変だ。そして誰もが、そういった点から目を背けています」

「……ならば、この世界に戦争が絶えないのはなぜだ」

「金になるからです。自称現実主義者は滑稽ですよ。戦争が金儲けを目的として行われるなどというのは陰謀論だと、必死で言い張る。ですが、現代の戦争というものは、対立する当事者はどちらも多大な犠牲を払うのに、得をするのは軍産複合体ばかりです。これが戦争の客観的側面です。金儲けのための戦争なんてあるはずがないと誰もが思いたがるのは、多大な犠牲を払う戦争の実態がそれほど馬鹿げたものであるという事実から目を背けたいからです。自称現実主義者こそ、戦争はただ無意味で馬鹿馬鹿しいという残酷な事実から必死で逃れたいだけの、空想家です。そして世界中のほとんど誰もが、人間である以上、残酷な事実から逃れて空想にすがりたいと思うのは仕方がない」

「だが、賢者くんであれば、その賢者の知恵をもってして、戦争の原因を無くせるとでもいいたいのか?」

「だから」ヒエロニムスは笑って続けた。「僕が言っているのは、戦争の原因など、考えるだけ無駄だということです。誰がどこでどんなでっち上げを考えるかなんて、考えてもきりがない。戦争を無くしたいのであれば、戦争の手段をどう制限するかを考えないと」

 ヒエロニムスは、ソファの面々の表情を見て満足げな表情を見せた。

「戦争のための兵器を無くす? それは最も愚直な直接アプローチです。やろうと思えば、結局、世界中の既存の軍隊に直接戦いを挑むことになる。血みどろの戦争の原因を自分から提供することになるだけです。兵器の工場を破壊するのも愚策です。民間への直接の悪影響を避けられない。戦闘機の工場を破壊すれば、航空機の製造元は、民需のラインを軍需に転換するでしょう。結局、割りを食うのは世界中の航空会社やその利用客だ。ですが、一つだけ、現代の戦争に欠かせない、しかも、それが無くなっても民間に対する直接の悪影響を及ぼさないものがあります。もうお分かりでしょう。弾薬です。つまり、僕はこう結論しました」

 ヒエロニムスは笑みを消した。そして、本心からの理解を求めるかのように、皆をあらためて見回した。

「世界から戦争を無くす唯一の現実的かつ実効的な方法。それは、戦争に必要不可欠な消耗品、つまり銃弾や砲弾、あるいは弾頭といった弾薬を世界から根絶することです」

 誰も彼を笑おうとはしなかった。彼は続けた。

「これは戦争どころか、世界中のほとんどの問題を一挙に解決する可能性すらあります。考えてもみてください。ある日世界中で、弾薬を生産する工場が何者かに破壊される。復旧のめどは立たない。復旧したところでまた破壊されるかもしれない。そうなると、何が起こるか。まずアメリカ政府は、銃規制問題なんかほったらかしで、民間市場から銃弾の在庫を買いあさるでしょうね。銃社会アメリカの問題は解決したも同然です。銃社会に限らず、カルテル、ゲリラ、ギャングにマフィアといった非合法組織も銃弾の入手が困難になる。ヨハネスブルクもデトロイトも早晩、平和の街に変身するでしょう。AKがあっても弾がないテロ組織は軒並み自壊するほかありません。同じようにして、戦車があっても砲弾が買えない、ミサイルがあっても弾頭が買えない、そういった状況が生まれれば、世界中の国々が、戦争というビジネスよりも、もっと先の見通しの明るいビジネスがないかどうか真剣に考えるようになるでしょう。弾薬がなければ訓練もできないのですから、やがては、軍隊という組織自体も過去のものになる」

 ヒエロニムスは、皆の反応を待った。サヤカは相変わらずにこにこしている。その他の面々は、誰もが真顔だ。クリストフォロスが真顔のまま、ソファの面々にただ目線を送った。ヒエロニムスの心音等に疑うべき点がないということか。

「……なんじゃあこのあほんだらが。途中ちびっとはええ事言うんかのう思うて期待してしもうたんがムカつくわ。要するに、儂らに工場ぶち壊すテロ屋の片棒担げえっちゅうことじゃろうが。ふざけとんか。おどりゃあヤクザ舐めんなや。やりたいんなら、おんどれが自分でなんとかせえ。成功したら褒めちゃるわ」

 ヒエロニムスは笑った。

「つまり、僕が計画を遂行すること自体の価値は認めてもらえるのですね?」

 ヒッポは忌々し気に目を逸らした。再び振動音が鳴った。ヒエロニムスは、スマホを耳に当てて応答した。

「どうした。さっきの件か?」

 報告を聞くヒエロニムスが眉根を寄せた。しばし黙って報告を聞いた後、彼は「分かった」とだけ言って通話を切った。そして、壁際の私兵たちに向かって、彼の真下を指さすジェスチャーをした。私兵たちは無言でエレベーターに向かった。階下のトラブルが、徐々にこちらに向かって来ているようだ。セツコとヒッポは無言で目配せを交わした。そして、私兵の一人がエレベーターのボタンを押そうとしたところで、先にエレベーターのドアが開いた。満身創痍の勇者が満身創痍の女たちを従えてエレベーターの中から現れた。

 無言で固まったソファの面々をよそに、サヤカが歓声を上げた。

「ほんまじゃー! 勇者じゃー! すごーい!」

 手下たちは勇者と入れ替わりにエレベーターに乗って下に向かった。勇者はサヤカを見て、放心状態になった。そして、よろよろと数歩歩いてから結局立ち止まり、サヤカに向かって言った。

「本物の、サヤカ様……なのですか?」

「本物に決まっとるよ。なんていう名前なん?」

「ぼくは、ゲオルギウス……です」

 サヤカは思案顔になった。

「ゲオ、ゲル、ゲギ……」サヤカはしばらく考えてから、勇者に訊いた。「名前が言いにくいけえ、勇者君って呼んでもいい?」

「もちろんです!」

「勇者君は、サヤカのファンなん?」

「ファンです! サヤカ様に会えると弟から聞いたので、寝るのをやめて、急いで飛んできました!」

 サヤカは勇者に歩み寄った。勇者はサヤカに駆け寄った。そしてサヤカの前に跪き、その手をとって涙を流した。ヒッポが口を開いた。

「おい、サヤカ……」

 それだけ言って、ヒッポはため息をつき、遠い目をした。サヤカが振り返った。

「どしたん? あたしがヒロ君に頼んで勇者君を呼んでもらったんよ? いけんかった?」

 セツコが呟いた。

「サヤカちゃん。何でそんなことするんね……」

 サヤカがまた不思議そうな顔をした。

「何でって、勇者君の話聞いたら、ぶち会いたくならん? ヒロ君がね、勇者君の弟じゃって言うから、セッちゃんたちに会う方法をあたしがヒロ君に教えるかわりに、ヒロ君が勇者君を呼んでくれるって、約束したんよ」

「……その勇者のあほんだらが儂らに何したか、知っとんじゃろうの」

「そんなん知らんよ」サヤカは勇者に訊いた。「ヒッポおじちゃんたちに何したん?」

 勇者は狼狽した。

「その……ドラゴンを……」

「ドラゴン居(お)るん!?」

「はい! すぐ上の屋上に……」

「ぶちすごーい! ばり見たーい!」

「はい! お見せします!」

 喜色満面の勇者がサヤカを案内しようと振り返った。その先には、殺人者の顔となった女たちがいた。鎧の女が言った。

「勇者様。その娘は誰ですか」

 勇者はムッとした。

「だれって、サヤカ様は、ネットのトップアイドルだぞ!」

 ローブの女が言った。

「ネットとは何ですか」

 勇者は苛立った。

「うるさいな! 世界には、まだまだおまえたちの知らない秘密がたくさんあるんだ! ぼくは勇者だから知ってるんだ!」

 チュニックの女が言った。

「その娘の黒いドレスは、わたしたちと違いすぎます。闇落ちした感があります」

 勇者がブチ切れた。

「どこが闇落ちなんだよ!? 普通、こういう服のほうがいいだろ! 着てる人の魅力が引き立つだろ! あざとくないほうが!」

 女たちが互いを見た。それから鎧の女が訊ねた。

「勇者様は、わたしたちの装備がお好みではなかったのですか?」

 勇者はイライラした。

「いつぼくが装備の好みだとかそんなこと言ったんだよ!? なんかほっといたら、自分で勝手にどんどん服をあざとくしてっただけだろ! ぼくには意味分からなかったけど、おまえたちが傷つくかもしれないから、なにも文句言わなかったんだ!」

 鎧の女が殺人者の顔で睨んだ。

「布面積が減る度に勇者様が喜んでいたのは、勇者様を見れていればバレバレです」

 ローブの女が殺人者の顔で睨んだ。

「勇者様が嫌なら、別にこんな格好はしませんでした」

 チュニックの女が殺人者の顔で睨んだ。

「わたしが跪くたびに、勇者様はわたしの脚の付け根をすごく見てました」

 勇者が怒りの化身と化した。

「だからなんなんだよ!? 布面積が減ったらうれしいに決まってるだろ! 見えそうで見えないほどすごく見ちゃうだろどうしても! だからって、なんで自分で勝手に布面積減らしてるくせに、布面積が減るのがぼくの責任になるんだよ!? そんなのおかしいだろ! あざといって言われたら、それならそれで怒るくせに! ぼくがうれしいかどうかなんか無視して好きな服着ればいいのに、なんでみんなそうしないんだよ!?」

 沈黙が訪れた。セツコが呟いた。

「勇者くんにも、事情があるんじゃね」

 ヒッポが嘆息した。

「クールジャパンの功罪じゃの」

 クリストフォロスが鋭く言った。

「なにを迷うことがある」

 セツコとヒッポはクリストフォロスを見た。クリストフォロスは断言した。

「くーるじゃぱんは邪悪だ」

 セツコとヒッポは同意しかねて互いを見た。ヒエロニムスが声をかけた。

「すみません、皆さん。そろそろ……」

 ヒッポが怒鳴りつけた。

「じゃけえ言いたいことがあるんならとっとと言えやこのあほんだら!」

「ですから、ヤクザの皆さんにも、僕の理想へのご理解を……」

「テロ屋の片棒なんか御免じゃ言うたじゃろうが! 聞いとらんのんかこのボケが!」

「いい加減、賢者くんも何が言いたいんね」

 ヒエロニムスは咳払いした。勇者の一味やサヤカも彼に注目した。

「話が途中になってしまい、申し訳ありません。僕が実際にお願いしたいのは、テレサ姫に、この部屋からネットを通じて会見を行っていただくことを、ヤクザの皆さんにも了承していただくことです」

 テレサが旅の仲間の顔を無言で見た。ヒエロニムスは続けた。

「ヤクザの皆さんに、弾薬製造工場の破壊といった実力行使をお願いするつもりはありません。計画では、これは長崎十字軍の新たな聖戦の一環として、長崎が主体となって実行するものです。その際、僕が必要な移動手段等々を提供する。ヤクザの皆さんにお願いしたいのは、そういった一切に対する黙認と不干渉、そして」

 ヒエロニムスは、テレサに向かって続けた。

「テレサ姫には、あくまで僕の計画に御賛同頂ければの話ですが、御自身の意思で、僕の理想に沿った内容のコメントを発表していただく。姫の話される内容がエラスムス国王の意図に一致しないとしても、だからといってヤクザの皆さんが姫を妨害なさる理由はありませんから、そのまま静観していただく。いかがでしょうか?」

 それからヒエロニムスは、思い出してクリストフォロスに言った。

「無論、騎士団長を含め、これまで聖堂騎士団側に立っていた者も、一切責任を問われることはないでしょう。姫が僕の理想に共鳴なさり、最終的にエラスムス国王もこれを追認されるのなら、王と姫の意を受けての騎士団長の行動には、何ら非難すべきところはない」

 ヒエロニムスは、再度テレサに顔を向けた。

「さあ、テレサ姫。どうなさいますか?」

 テレサは再び旅の仲間の顔を見て、迷う様子を見せ、結局俯いた。

 セツコとヒッポは囁き合った。

「ヒッポちゃん、どうしたらええね」

「……お姫さんが自分で決めた事に、儂らにも組にも、ゴネて文句言う筋合いはないの。それこそ出過ぎた内政干渉じゃあ。どうにもならんわ。作戦は失敗じゃあ言われても、あとは帰って寝るしかないの」

 セツコは小さく唸った。ふとテレサを見て、彼女がセツコに向ける視線に気付いた。テレサは言った。

「わたしは、姉さんの意見が知りたい」

 部屋中の視線がセツコに集中した。突然話を振られたセツコは、素っ頓狂な顔できょろきょろした後、腕組みしてソファに座りなおし、宙を睨み、足を組んで、しばらくしてまた足を組み替えた。皆が注目する中、セツコが口を開いた。

「もしウチがテッちゃんなら、賢者くんのお願いでも、お断りじゃね」

 ヒエロニムスが、憐れむかのような微笑みとともに、セツコに語り掛けた。

「僕の計画は、確かにテロと言えるかもしれません。ですがこれは、今までテロと呼ばれてきたものとは根本的に違います。従来のテロ組織といえば、平和のための戦いを標榜するのがお約束ですが、実際にはどれもこれも、思想や主義主張を盾にさもしい権力欲を満たそうとするものばかりです。僕の計画は、これとは真逆だということはお分かりでしょう。かならずしも破壊的手段は必要ですらないのです。一度、予告通りの弾薬製造施設の破壊を実行すれば、あとは破壊の予告を送るだけで、施設の操業を停止に追い込むことができる。仮に警告に従わないのであれば手を下す。世界中の世論が、僕たちの計画に……」

「あのねぇ賢者くん。そういうことじゃないんよ。賢者くんが賢いのはもう分かったけえ」

 ヒエロニムスが眉根を寄せた。セツコは彼を不敵に見返した。

「ウチが納得できんのはねぇ」セツコは、テレサに向かってニヤリと笑った。「こんなんハッピーエンドじゃないけえよ」

 ヒエロニムスは目をしばたたいた。セツコは構わず続けた。

「賢者くんの言う通りにするなんて、あれじゃろ? ウチやテッちゃんがみんなで頑張って旅したのに、最後には急になんか頭ええ人みたいなんが出てきて、ウチらがやってきたことはみんな無駄じゃったんよみたいなこと言って、なんかモヤモヤして終わるやつじゃないね。そんなんはね、なんか昔エバンゲリヨンみたいなんが流行ってからもう何十年もずっと続いて来とって、ウチは正直もう飽き飽きしとるもん。なんかモヤモヤして終わるんがリアルじゃあとか、哲学じゃあみたいなこと言うて褒めるんは。ほいじゃけえ、ウチは、そんなんは断る」

 ヒエロニムスの声に抑えられぬ怒気がこもった。

「あなたのいうことを、ただの感情論だと否定することは簡単です。ですが僕は……」

「賢者くんね、普通に考えたらおかしいんじゃないんね? 本当に賢者くんのアイディアが、そんなにみんなが賛成するようなええもんなんじゃったら、何でテッちゃんやウチがモヤモヤして賢者くん一人が大満足みたいな終わり方になるんね? もっと、テッちゃんもみんなも全員笑ってハッピーエンドにできる方法が、何でないんね? 何か賢者くんが隠し事しとるせいで、納得できんことをさせられる人が出てきたんじゃないんね?」

「ですが……」

 そのまま、ヒエロニムスの言葉が続かなくなった。今度はヒエロニムスに集まった視線に、疑いがこもっていた。一人サヤカだけが、セツコを見つめていた。

 ヒエロニムスの目に焦りの色が見えた。それを自覚したらしく、彼は強いて微笑み、スマホを取り出した。

「ちょっと失礼して、部下から報告を聞いてもいいですか?」

 返事を待たずに、彼はスマホを操作して耳に当てた。通話が始まった途端、彼は愕然とした表情を浮かべた。

「おい! 帰宅中とはどういうことだ!? 状況はどうなっている!?…………だから何で持ち場を放棄して家に帰るんだ? まだ……」

 通話を切られ、彼はしばし呆然とした。セツコとヒッポはニヤリと笑みを交わした。そこにサヤカの声が届いた。

「セッちゃん! セッちゃんの言うとること、わがままじゃないん!?」

 ヒエロニムスはまだ呆然とした表情で、声の主を見た。サヤカがセツコに近づいてきた。セツコは無言で立ち上がり、サヤカの前に立ちはだかった。セツコが口を開こうとするのに先んじて、サヤカが言った。

「セッちゃんは悔しいかもしれんけど、あたしは、ヒロ君が言うみたいになってほしい。セッちゃんは、あたしのお願いを聞いてくれんのん?」

 セツコはサヤカの目を見据えた。

「ごめんね。サヤカちゃんの頼みでも、ウチは納得できん」

 サヤカはぶるぶると震え、俯いた。そして声を絞りだした。

「なんでいつもあたしは他の人の言うこと聞いとるのに、セッちゃんだけは、わがまま言ってもいいん?」

 顔を上げたサヤカは、怒りの涙を流していた。

「セッちゃんがわがまま言うから、戦争がなくならんとか、ぶちムカつく」

 セツコは目を逸らさなかった。

「……ほんなら、サヤカちゃんはどうするんね」

 サヤカは無言でセツコを睨み続けた。セツコも無言でこれを受け止めた。サヤカのドレスの裾と髪の毛の先が、ふわふわと浮き上がり始めた。

「セッちゃん、あたし、本気出すかもしれんよ」

 サヤカは下ろした両手の拳を固めた。それを見て、勇者が叫んだ。

「サヤカ様! 神の勇者ゲオルギウスが助太刀します!」

 勇者はサヤカの背に駆け寄った。そして背中の大剣を抜いた。ボロボロのマントに新たな裂け目が出来た。サヤカは振り返らずに言った。

「邪魔。勇者とかいらんし」

 勇者は剣を取り落とした。そして訴えた。

「何でですかサヤカ様! ぼくはサヤカ様の活躍をスマホから応援するために、毎晩自家発電を……」

「何それ。ばりキモい」サヤカが氷の目を背後に向けた。「どかんと、ゲス君って呼ぶよ?」

 勇者はよろよろと後ずさった。女たちがその背中を受け止めて、口々に慰めた。

「あの娘が勇者様を愛していないのはバレバレです!」

「あの黒いドレスは、勇者様への思いやりがありません!」

「目を覚ましてください勇者様! あの娘は闇落ちしています!」

 サヤカは背後を無視して、その氷の目をセツコに向けた。セツコは目線を逸らし、鼻から息を吐いた。そして、振り返ってヒエロニムスに言った。

「ウチのガンはどこね?」

 ヒエロニムスはその声にビクリと反応すると、気圧された様子で慌てて机の反対側に回り込んだ。そして一番大きな引き出しを開けると、収められていた麻袋を急いで取り出し、ヒッポに放った。ヒエロニムスの私兵に奪われた後、麻袋の中にひとまとめにされていた武器や端末の中から、ヒッポがセツコのヒップホルスターを取り出して彼女に投げた。

 セツコは二丁拳銃を腰に吊るした。気分は良くならなかった。

「サヤカちゃんは、本当に、賢者くんを信じとるん?」

「戦争なくせれば、後のことは、あたしは別に構わんし」

 セツコの顔から悲しみが消え、ヤクザの顔になった。セツコは二挺拳銃を抜いた。

 次の瞬間、二人の姿が消えた。

 朧な影が、風切り音を伴いつつ、だだっ広い部屋の中を幾度も交錯した。時折、鈍い打撃音が連続し、銃声と共に銃弾が板張りの壁や絨毯に突き刺さった。

 突然、部屋の中央に、組み合った状態の二人の姿が明確になった。そしてサヤカが強引にセツコを投げ飛ばした。セツコは逆さになった状態で背中から本棚に激突し、大の字にめり込んだ。数秒後、セツコは本棚から剥がれ落ちて、そのまま絨毯の上にうつ伏せになった。サヤカは追撃せず、ただ倒れたセツコを睨んだ。セツコは震えながら身を起こそうとした。他の者は誰もが一歩も動けず、ただセツコを見守った。

 セツコは唇の端から流れる血を拳で拭いながら、立ち上がった。そして、肩で息をしながらサヤカへと向き直った。サヤカの表情には、ひとかけらの慈悲もなかった。

「セッちゃん。いい加減、あたしほんまに本気出すよ?」

 セツコは、無言で再び二丁拳銃を構えた。ヒッポが血相を変えた。

「おいサヤカ! こないだ市民球場のグッズ売り場で、本気出しかけて叱られたんを忘れたんか!」

 サヤカの顔に、更なる怒りが甦った。

「あのときは、転売屋が買い占めして限定カープBaby―Gが買えんかったから、転売屋に本気出そう思ったんよ! 市民球場で本気出したらいけんって怒られたんよ!?」

「ほうじゃのうて、市民球場じゃのうてもの、サヤカは本気出したらいけんじゃろうが!」

「何(なん)なんそれマジ分からん!」

 絶叫とともに、サヤカの全身が超自然の輝きに包まれ、その頭髪がアーティチョークのごとく逆立った。光とともにサヤカは飛び立った。サヤカは天井を突き抜け、天神の空に舞い上がった。サヤカが突破した部分を中心に、天井があらかた崩落した。ドラゴンが驚いて飛び立つ音が聞こえた。

 空中に留まったサヤカが、崩落した天井を通してセツコたちを見下ろした。サヤカは両手を頭上に掲げた。両手のひらの上に光球が生じ、徐々にその大きさを増していった。

 ヒッポが絶叫した。

「みんな早(は)よ逃げえ! サヤカは天神ごとセツコを消すつもりじゃあ!」

 それを聞いたヒエロニムスが、その場で失禁した。クリストフォロスも又、絶叫した。

「何をしているセツコ! 貴様も手から何か出して撃ち返せるのではないのか?」

「おどりゃクマ公! 気でも狂うたんか!? 早うお姫さん連れて逃げえや!」

 セツコはただ、上空のサヤカを見据えて、二丁拳銃を空に向けた。勇者たちが我先にとエレベーターに向かった。勇者たちがたどり着くより先にエレベーターのドアが開き、ベンが二人の黒服を従えて現れた。ベンの怒号が響き渡った。

「全員気をつけェい!」

 すぐさま全員気をつけした。上空から、光が一瞬で掻き消えた気をつけ姿勢のサヤカが、床に積もった瓦礫の上に垂直落下し、グラグラとバランスを崩した後、横倒しに倒れた。

 気をつけ姿勢のセツコが歓声を上げた。

「ベンちゃん! 重政くんらも! 助かったぁ!」

 ベンに付き従っていた重政兄弟が、セツコの表情に気付いて防音ヘッドフォンを外した。テクノか何かの音楽が、結構な音量で漏れ聞こえた。

「セツコさんお疲れっす」

「お安い御用っす」

 気をつけ姿勢のヒッポの顔が弛緩した。

「おいベン、寿命が縮むどころじゃないで? 何で下から来るんじゃなしに、屋上から来んのんじゃ」

「お前らの端末のGPS情報頼りに来たんでの、お前らがこのビルに居るんは分かっても、何階かが分からんかったんじゃ」

「何で儂らの端末の位置情報が分かったんじゃ? 奴らに奪われた端末は電源切られとるじゃろう」

 ベンは苦笑とともに答えた。

「簡単じゃ。どうせサヤカが騒ぎの中心じゃろうけえ、あいつの端末の位置を目印に来た」

 皆の目がサヤカに向いた。気をつけ姿勢で瓦礫に横たわるサヤカが言った。

「ヒロ君、あたしスマホの電源切れって言われとらんし、あたしは悪くないよ」

 ベンが鋭い目でサヤカを見た。

「そのヒロ君いうんが、俺らを舐めくさった博多の腐れ外道か。どいつじゃ」

 直立不動姿勢の皆の目が、ヒエロニムスへと向いた。ベンは彼に近づいた。

「お姫さんらをひっ捕まえて、何をするつもりだったんじゃ」

「ベンおじちゃん、ヒロ君は……」

「サヤカは黙っとれ」

 サヤカは黙った。

 ベンはヒエロニムスの前に立って、ドスの利いた声で言った。

「喋れ」

 ヒエロニムスは喋った。

「世界中の弾薬製造施設を停止させることによる戦争の根絶という僕の計画に協力を求めようと……」

「それからどうするつもりだったんじゃ。正直に言え」

 ヒエロニムスは正直に言った。

「大型兵器や銃火器に頼る必要がない長崎十字軍が、世界で唯一の実効的軍事組織となった後、各国にヤクザを利用して長崎十字軍に対抗させるよう働きかけ、ヤクザと長崎の共倒れを実現し、その後は博多が……」

「もうええ。黙れ」

 ヒエロニムスは黙った。そして、恐怖を顔面に張り付かせて、おずおずとサヤカを見た。他の者も彼女を見た。横倒しになったままのサヤカが、黙って涙と鼻水を流していた。ベンが再びヒエロニムスを睨んだ。

「最後に、お前とつるんどる長崎の親玉は誰なら……っと、待て。耳がええ奴がおったの」

 ベンはクリストフォロスをちらりと見て、スーツの内ポケットからメモ帳とペンを取り出し、メモ帳を開いてヒエロニムスに突き付けた。

「長崎の親玉の名前をここに正直に書け」

 ヒエロニムスはペンを持って、正直に書いた。ベンはペンを取り上げて、メモ帳と共に内ポケットに仕舞った。そして、何か言いたそうな目で見るクリストフォロスに気付いて、言った。

「お前が長崎におる黒幕の名前を知って、今すぐ何かが出来るとは思えんの。王様に相談する前に知ろうとせんほうがええ」

 そしてベンは、皆に言った。

「全員、楽にしてええぞ」

 全員が気をつけをやめた。ヒエロニムスは、その場に崩れ落ちた。セツコは、力なく起き上がろうとするサヤカに駆け寄って、何も言わずに抱きしめた。ヒッポが前足後ろ足をプラプラさせてほぐしながら、ベンに訊いた。

「で、これからどうするんじゃい」

「あとは帰るだけじゃ。飛ばしてきたヤクザバードを近くにステルス待機させとるけえ、あとはそれに乗りゃあええ。乗る奴は」

 そういってベンは部屋の中を見回して、クリストフォロスの隣にいる少女が、件の姫であることにようやく思い至った。ベンは急いで駆け寄って、頭を下げた。

「姫様、申し訳ない。咄嗟の命令じゃったけえ、『姫様以外は気をつけ』みたいな言い方は思いつかんかったんじゃ。この通り、勘弁してくれんかの」

 テレサは寛大に笑った。

「生まれて初めての、貴重な体験でした」

 言われて、ベンは心底申し訳ない表情で、重ねて頭を下げた。それからベンは、エレベーター前で所在なく突っ立ったままの勇者の実物に初めて注意を向け、噴き出した。ベンは言った。

「勇者に用はないけえ、さっさと帰れや。頼んでも、ヤクザバードには乗せてやらんで」

 勇者の顔を暗い憎悪が満たした。ベンは無視して、耳に装着したインカムを押さえた。

「俺じゃ、たく坊。最上階におったわ。ヤクザバードを最上階の窓んところに横付けしてくれんか」

 ものの二〇秒ほどで、全面ガラスの窓の向こうに、巨大で透明な物体の輪郭が揺らめいた。その表面の一部がドアのように開いて、機体の内部を見せた。ベンが機体のドアに近いガラス窓を蹴り割って、皆に声をかけた。

「それじゃ、とっとと飛び乗れや」

 それを聞いて、ようやく泣き止んだサヤカに並んで歩き始めたセツコが、はたと立ち止まった。セツコは振り返って叫んだ。

「みんな! 急いで!」

 そしてサヤカを急き立てると、大袈裟にテレサとクリストフォロスを手招きした。ベンが眉根を寄せて訊ねた。

「どうしたんじゃセツコ。何を焦りよんなら」

「言葉が通じんのがおるんよ! だからベンちゃんがおっても危ないんよ!」

 ヒッポも気付いて、背後に急ぐようジェスチャーをしながら、ヤクザバードに飛び乗った。それを見たテレサとクリストフォロス、重政兄弟が続いた。ベンがなおも怪訝な表情で言った。

「勇者のアホ以外にも、言葉が通じんかもしれんのがおるんか?」

 セツコはヤクザバードに向かってベンの背中を押し始めた。

「絶対言葉が通じん奴なんよ! 勇者のドラゴンが、近くにおるんよ!」

「ドラゴン?」

 そう言って、ベンは思わず勇者たちを見た。勇者が復讐者の笑みを浮かべた唇に小さな笛のようなものを咥え、音もなく吹き鳴らした。セツコが絶望の表情で呻いた。

「ドラゴンとか、セツコお前、気でも……」

 窓の外の透明な機体に、上空から放たれた火球が命中し、炸裂した。


【続く】