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ヤクザヘヴン 【10/10】


(前回)



第十章 壇ノ浦


 天神最上階の全面ガラス窓が、爆風で全て砕け散った。透明な機体が、明滅するように数瞬本来のオリーブドラブに塗装された姿を晒した後、透明に戻った。呆然とするベンの背中をセツコがどやした。

「分かったじゃろ!? ほら早く!」

 破損個所から自動消火装置の泡を吹きながら不安定に揺れる機体の入り口めがけ、ベンとセツコはジャンプした。入口ハッチを密閉するセツコの横で、ベンが操縦席に怒鳴った。

「たく坊! 早う出せ!」

 ヤクザバード2はふらつきながら前進を開始した。セツコとベンは、機体の大半を占めるコンテナ内部へと通じるドアをくぐった。コンテナ内部は、乗員輸送用の座席が取り付けられているだけだ。セツコたち以外の者は、既に座席に座ってシートベルトをしていた。見る限り、コンテナ内部には先のブレス攻撃の被害は及んでいない。セツコとベンも座席に座った。ベンが座席の下からナイロン製のバッグを取り出して開け、中に入っているインカムの予備を皆に見せた。

「全員これ付けとけ」

 そう言って、ベンは隣のセツコに一つ手渡してから、残りを重政兄弟を除く他の者に投げて渡した。それからベンは、インカム越しに訊ねた。

「たく坊、機体のダメージはどんなじゃ」

 全員のインカムに、神経質な男の声での早口が、操縦席から届いた。

「誰もあんなのがいるなんて情報を教えてくれないから無駄にあんなのを喰らっておかげでメインエンジンは停止状態だし仕方なく垂直離着陸用のスラスターを斜め後方に向けて噴射して無理やり飛んでる状態だからスピードなんて期待しても無理だけど俺がなんとか飛ばしてるみたいな感じでだましだま……」

「分かったけえ、もうええ。後ろになんか付いて来とるか?」

「後方カメラがやられたから見えないけどレーダーだとこっちに遅れて五,六〇〇メートルくらい後ろからぴったりついてきてる何かがいてステルス状態でも後ろにいるやつの目はごまかせないみたいだしこのままだとまたさっきの攻撃食らうから蛇行しながら何とか広島まで……」

 ヒッポがインカムで割り込んだ。

「おいベン! たく坊! このまま広島まであのドラゴンを引っ張ってくんか!? どっかでドラゴン撒かんといけんじゃろうが! もっとスピード出んのんか!?」

「スピードはこれ以上無理だからドラゴンか何か知らないけど追い付かれないだけましで振り切るスピードはどうやっても出ないから広島まで行けないなら機体を捨てて隠れるしかないけどそんなことをしてもドラゴンか何かに見つかり次第上から攻撃されるし隠れるにも場所を選ばないといけないけど長崎の地理はさすがの俺でも……」

「しもうたわ……」ベンが額に手を当てて呻いた。「あそこですぐ勇者の奴に『ドラゴン連れて家帰れ』言うときゃ済んだのに、何であの場で思いつかんかったんかの……」

 セツコの顔が突如輝いた。

「そうじゃベンちゃん! ヤクザバードのスピーカーで、後ろの勇者くんに帰れ言うたらええんじゃない?」

「俺の特技は一回こっきりしか使えん隠し玉じゃけえの。いくら勇者がアホでも、もう耳栓か何かしとるじゃろ」

 セツコは口をへの字にした。誰も発言しないのを確認して、クリストフォロスが控えめに口を開いた。

「私に考えがあるのだが……」

 クリストフォロスの声を受けて、全員が彼を見た。彼は言った。

「私の失敗を繰り返してみるのはどうだ?」


――――――――――


 コンテナ内部のモニタには、機首暗視カメラが撮影する、前方から迫り来る門司要塞の巨大城壁の映像が、画質の荒い緑色で映し出されている。皆のインカムに、操縦席から早口が届いた。

「なるべく波を立てないようにソフトランディング狙うけど衝撃に備えて!」

 モニタ映像の中で、ヤクザバード2の機首のすぐ下を城壁が通り過ぎた。次の瞬間、ヤクザバード2は急制動し、次いで無重力の感覚がコンテナ内に訪れた。

 ヤクザバード2は、門司要塞の巨大城壁を低空で通りすぎた瞬間、ほぼ真下に落下し、落水直前で垂直離着陸スラスターを短く噴射して、壇ノ浦に不時着水した。ほぼ同時にヤクザバード2のエンジンが停止した。操縦席からの説明によれば、コンテナが密閉されていれば浮きになるので、ヤクザバード2は沈まないはずだ。先ほどコンテナ内で急遽打ち合わせた作戦を実行に移す時だ。

 ベンが操縦席に訊ねた。

「たく坊、ドラゴンはどうなった?」

「今真上を通り過ぎて俺もドラゴンを操縦席から目視できたけどあの様子だと作戦がうまく行ってドラゴンはヤクザバードを見失ったみたいだしこのあとしばらく暗いうちはステルス状態のヤクザバードを動かさなければ見つからないと思うから俺は正直本物のドラゴンをしばらくじっくり眺めたいけどみんなは急いで……」

 全員がシートベルトを外して立ち上がった。ベンが他の者に声をかけた。

「全員、しっかり頼むで!」

 皆、無言で頷いた。自然と皆の目がテレサに集まった。つい先ほどクリストフォロス以外の面々が初めて知らされた、テレサの強大なちからが、この作戦の根幹だ。セツコがテレサに声をかけた。

「テッちゃん。覚悟はいい?」

 テレサは頷いた。

 ベンがスマホ型端末で通話した。

「古賀野。こっちは、これから最終段階に移行する。お前は今すぐ脱出に移れ……」

 ベン以外の全員でヤクザバード2機首側面の出入り口ハッチに集まり、セツコがハッチを外に開いた。ハッチの縁から二メートル足らず下で、黒く海水が波打っている。夜明け直前の時間帯。前方は暗闇に沈む海があるばかりだ。かつて本州と九州を結ぶ橋を壇ノ浦に架橋する計画があったともいわれるが、ついぞ実現することはなかった。太平洋戦争中から存在した海底トンネルも、長崎の九州制圧を目前とした時期に日本政府の指示により破壊され、海水で満たされたまま封印されてて久しい。

 もう一度、全員で無言で頷いてから、セツコがインカムで合図した。

「ゴー」

 先頭のテレサが海面に手をかざした。たちまち海面に巨大な氷の柱が生じて、ハッチの足元に達した。間髪入れず、氷柱から続く幅広の氷の段差が生成された。氷の段差はみるみるうちに伸びてゆき、ゆるやかな勾配で中空に伸びる、氷のきざはしを形作った。

 テレサは、氷のきざはしに足を踏み出し、静々と昇って行った。続けて残りの全員が、ステルス風呂敷を被って中腰姿勢でテレサの後に続いた。

 テレサを先頭にきざはしを昇る間にも、氷のきざはしはアーチの頂点を経て、緩やかに下降しながら本州側へと伸びていった。テレサの生み出した氷のきざはしは、史上初の関門海峡を渡る橋となった。

 本州側で動きが生じるのが見えた。レーダーがドラゴンを捉えたのだろう。サーチライトが次々と点灯し、壇ノ浦上空を旋回するドラゴンを照らし出した。その背には、勇者たちの豆粒のごとき姿も見える。上空の勇者や本州側に、こちらの姿が捉えられるのも時間の問題だ。セツコは同じ風呂敷の下の重政兄弟に声をかけた。

「念のため、もう今からお願いできる?」

「当たり前っす」

「楽勝っす」

 テレサと風呂敷の下の一行の全員が不可視の力場に包まれた。そのまま全員で、ゆっくりと氷のきざはしを進んだ。東の空は先ほどから既に白み始めている。セツコはサヤカに声をかけた。

「ドラゴンが日本側とドンパチ始めるかもしれんけえ、そろそろ片付けてや。勇者くんには手加減してあげてるんよ?」

 サヤカは意地悪そうに笑った。

「セッちゃんに手加減したみたいにゲス君に手加減できるか、あたしには分からんよ?」

 セツコも笑顔を返した。サヤカは風呂敷から出て、一行の後ろに留まり、空を睨んだ。そして狙いを定めて上空に一直線にジャンプすると、そのままドラゴンの腹に下から頭突きを喰らわせた。ドラゴンが苦悶の吠え声を壇ノ浦に鳴り響かせ、その背にしがみつく勇者たちと共に落ちて行った。ドラゴンの落水で生じた巨大な水柱が、壇ノ浦の海面から空へと伸びた。サヤカなら、泳ぐなり海面を走るなりして本州に無事たどり着くだろう。

 サヤカによるドラゴン撃墜は、サーチライトに照らされて、本州側にも目撃されたはずだ。予想通り、サーチライトが次々とサヤカ射出地点を捜索するように海面を照らし始めた。程なくして、きざはしを進むテレサをサーチライトが捉えた。他のライトも追随し、さながらスポットライトを浴びるかのように、テレサの姿が照らし出された。ステルス風呂敷を被って移動する後続は、おぼろげに彼女の背後に生じたオーラかなにかのように受け止められるはずだ。ヘリのローター音が次々と接近してくる。

 セツコは、テレサの背に声をかけた。

「テッちゃん。これから怖いことがあるかもしれんけど、ウチらを信じて、頑張ってね?」

 テレサが振り返った。彼女は、恐怖の色の欠片もないヤクザの笑みとともに、たどたどしく答えた。

「わたしは、だいじょうぶじゃけん!」

 セツコは笑顔で合格点を出すことにした。

 テレサがアーチの頂点に達したところで、一行は停止した。複数のヘリがその頭上を旋回した。本州側のスピーカーが、報道ヘリに対する退避の呼びかけを大音量で繰り返している。セツコは、次に展開するであろう場面を思って、暗澹たる心地となった。

 その朝の最初の陽光が、テレサを真横から照らした。その場面が到来した。本州側の海岸線を埋め尽くすコンクリートのトーチカ群から、一斉砲撃が行われた。報道ヘリのカメラは、下方のテレサがおびただしい閃光と爆発に呑まれる光景を捉えた。外れた砲弾により、テレサの周囲の氷のきざはしが砕け散った。

 爆発と閃光が収まった。浮遊する氷の上に立つテレサが、平然と笑顔を浮かべて、氷のきざはしをすぐさま元通りに再生した。その笑顔を、報道カメラがアップで捉えた。

 もう一度、一斉砲撃が繰り返された。結果は変わらなかった。テレサは笑顔で、上空と対岸に、繰り返し手を振った。セツコがインカムで指示した。

「ミュージック・スタート!」

 ステルス状態で着水したままのヤクザバード2が、外部スピーカーを使用し、本州側に向けて、アナ雪の例の曲のイントロを大音量で流し始めた。イントロが始まった途端に、ヒッポがインカムにがなり立てた。

「たく坊! その曲は止めえや! 歌詞がシチュエーションと真逆じゃあ! おどりゃあ萌えアニメばっかり見とって、ディズニー映画もろくに観とらんのか!」

 セツコが必死でインカムに叫んだ。

「たっくん! その曲はねぇ、お姫様がぶち切れて引きこもる歌なんよ!?」

 音楽が停止した。

「そういう指摘は俺だって知ってるし日本語版の歌詞が改変された結果がありのままのあなた応援ソングみたいになってて意訳と解釈しても擁護しきれないレベルに達してるからこれがもし普通の台詞なら脚本改変も同然だという意見は理解できるけど元々の英語の歌詞はディズニープリンセス自身がディズニープリンセスとして扱われることを拒否するどころか自分をディズニープリンセス扱いしようとする世間に堂々とケンカを売る姿を高らかに歌い上げるのがポイントになっててこれを通じてディズニー自身が従来のディズニー的な価値観を自ら批判的に採り上げて時代に合わせて変化することを恐れない姿を示したっていうディズニーに関する文化的な文脈があるからこその歌詞であることを考えるとそういった文化的文脈が今一つ理解しにくい日本の観客にとっては日本語吹き替え版のような大幅な歌詞のニュアンスの変更があったほうが多くの観客にとって内容に親しみやすいしそもそも原題の「Frozen」からして原語版では冒頭のミュージカルシークエンスから最後まで台詞でも歌詞でも繰り返して意図的に使用されるモチーフになっている単語なのにこの単語の複合的に異なるニュアンスを併せ持つという複雑なニュアンス自体が日本語に翻訳し難い側面があるから結局原語版に忠実なニュアンスの翻訳を目指しても自ずと限界がある以上この作戦でも日本の視聴者の受けを狙うんなら日本語版の翻訳の問題は無視してさらっとこの曲を流せば……」

「テッちゃんの映像は、全世界に流れるんよ? 日本の外のことを考えてや!」

 インカムが沈黙した。そのまましばし時が流れた。セツコが折れた。

「……たっくん。分かったけえ、続き流して」

 同じ曲が、再びイントロから流れ始めた。

 我慢して笑顔を浮かべ続けていたテレサが、ようやく本心からの笑顔を取り戻して、曲に合わせて旋回を交えつつ舞った。再び一行はゆっくりと進み始めた。次の砲撃はなかった。

 本州側のトーチカ群へとゆるやかに降りる氷のきざはしを、一行は進んだ。銃を構えた兵士が次々と氷のきざはしのたもとに集まった。テレサは臆することなく進んだ。テレサが近づくにつれて、やがて、怯えた表情で兵士たちが後ずさりし始めた。テレサが進むほどに、きざはしのたもとに出来た兵士の空白は、外へ外へと半円状に広がった。

 兵士を掻き分けて前に進み出ようとする者が現れた。カメラクルーを引き連れた報道陣だった。複数の報道陣が、先を争って兵士を掻き分けた。そして、テレサが対岸に到着するころには、取り囲む兵士の前に、びっしりと報道陣の輪が出来ていた。微笑むテレサの頬を涙が伝った。そして、一行はきざはしのたもとに達した。

 テレサはコンクリートに降り立った。報道陣がテレサに駆け寄り、密着してテレサを取り囲んで、カメラでテレサの笑顔をクローズアップした。口々に質問を連射する報道陣を前に、テレサはしばらく親愛の笑顔を無言で振りまいた。

 突然、テレサの背後で重政兄弟が、次いでクリストフォロスが立ち上がった。何もない空間に突然現れた彼らに驚いた報道陣が、一斉に数歩退いた。クリストフォロスは、博多でセツコから渡されたサングラスを顔にかけた。そして、テレサを守るように一歩進み出た。クリストフォロスは決め顔になった。カメラがその決め顔をクローズアップした。クリストフォロスは、密かに練習していた口上を、イケボで述べた。

「本日は、早朝にもかかわらず多数の報道陣の皆様に御集り頂き、誠に……」

 歴史に残る記者会見が始まった。セツコとヒッポは誰の注目も受けないまま、ステルス風呂敷を被ったまま匍匐移動し、暗がりに逃れた。そして、腹這い状態のまま、テレサを見守った。ヒッポが呟いた。

「そういやあ、あの演説の原稿は、鞄ごとドラゴンに燃やされてしもうとったの。お姫さんは、ええがに喋れるかのう」

 セツコはヒッポに肩を寄せた。

「心配せんでも大丈夫よね、ヒッポちゃん。テッちゃんはもう、立派なヤクザなんよ?」




エピローグ


 彼らは進駐軍を嘲笑った。彼らの力をもってすれば、進駐軍など食い物や服や薬を年中届けてくれるサンタクロースに等しい。

 彼らの中にも稀に、か弱い市民を苦しめる者があった。そのようなことをして何の得がある。闇市で奪うくらいなら進駐軍から奪えばいいだけだ。要するに、あの地獄を目にしてもまだ、ちんけな自尊心を満たすために他者を、弱者を虐げることを求め、それに喜びを感じる腐れ外道だ。彼らは腐れ外道を嘲笑って、それから消した。その粛清を逃れたい者は、広島から自ら姿を消した。彼らは追わなかった。

 だが、彼らの多くは当然憎しみを感じていた。彼らの多くが憎しみの唯一のはけ口を、復讐を求めていた。誰も自分からそのような声を上げなくとも、お互い中にその欲求の存在を見出していた。

 まだ彼らが彼ら自身の名前を知らず、集まった人数もそう多くなかったころ、とある集会で、ついに一人の若い女が口に出して切り出した。夫と息子を失ったという女はその体験を語った。そして泣き崩れた。

 広島のみんなが笑いよるのを見るとね、いつもその時だけは忘れてしまうんじゃけど、それでも、ウチは忘れられんのよ。憎うて、憎うてね。やれんのんよ。

 すすり泣く女を皆がただ見守る中で、一つの声が上がった。それに賛同する声が上がった。その声は瞬く間に増えていった。皆がその欲求を持っていることを、皆知っていた。皆の声が一つになろうとした。その時、別な声が上がった。

 聞いてくれないか。

 英語で進駐軍を侮辱するために、皆に英語を教える教師役をしている男だ。アメリカ人が生み出した数多の悪態・罵倒の意味を、その男が背筋の伸びた姿勢で逐一詳細に説明するたび、日本人の想像を絶するその過激さと卑猥さに、老若男女問わず誰もが腹を抱えて笑い転げるのが常だった。その男の表情から、アメリカ仕込みの普段の陽気さが消えていた。皆が押し黙った。海軍少佐だったというその男は語り始めた。

 彼は中枢のすぐ近くで開戦に至る経緯を目の当たりにしていた。彼とその上司たちは反対していた。同じ勤務先の別な部署を見れば、賛成する者も少なからずいた。結局、そういった意見が通った。だが、と前置きしてから、彼は続けた。恥ずかしいことに、取り返しのつかないところまで来てから、ようやく気付いた。賛成した者が悪いんじゃない。そうやって、派閥に分かれること自体が間違いだった。組織が権力を追い求めれば派閥が出来る。派閥間の妥協の産物で出来上がった結論は、妥協を優先した代物だから合理性は二の次だ。結局、組織が人を腐らせる。

 彼は自嘲の笑みを浮かべた。俺はあの人を軽蔑するつもりはない。軽蔑することなんてできない。だが、真珠湾を攻撃して、いったい何がしたかったのだ。本気で相手を降伏に追い込むつもりなら、真珠湾の攻撃は、真珠湾と周辺地域の占領を目的とするはずだ。なのに、攻撃をするだけしてさっさと引き揚げるとはどういう了見なのか。そんな疑問を持ったのも、恥ずかしながらこの有様になってからだ。そして、今なら分かる。俺もあの人もつまるところ、開戦に反対しておきながら、最後には何の根拠もない希望的観測にすがりついて、馴れ合いの戦争を仕掛けたのだ。相手の厭戦気分などというものに期待して、そのうち馴れ合いで丸く収まるだろうと思い込んでいたのだ。いや、自分を騙していたのだ。当然のことだが、相手はこちらに調子を合わせて馴れ合いをする義理などないから、こうして、ほとんど誰もが苦しむ羽目になった。だから。

 彼は頭を下げた。憎むなら、俺をまず憎んでくれ。

 皆は沈黙を続けた。やがて声が上がった。自分は納得できません、少佐殿。憎むべきは敵であると愚考する次第であります。

 少佐と呼ばれて、男はその声の方向を見た。若者が生真面目な敬礼を彼に向けていた。気付いて、彼は訊ねた。君は陸軍か?

 そうであります。

 俺たちの間ではもう、そういうのは止そうじゃないか。

 若者は姿勢を崩さなかった。それは命令でありますか?

 彼は苦笑した。俺はこの有様になってから、心底、他人に命令をするということが嫌になったのだ。俺の言うことを聞こうと聞くまいと、君の自由だ。だが丁度いい。君に訊いてもいいかな?

 何でありますか?

 君の御実家には、シャーリー・テンプルちゃんのブロマイドやレコードはあったか?

 皆、その質問の意図を訝しがった。戸惑いを見せつつ、若者が生真面目に答えた。ありました。

 一瞬、彼に普段の陽気さが戻ったように見えた。では、君がテンプルちゃんのブロマイドを買ったのは何歳の時だ?

 皆が思わず笑った。彼も口元に笑みを浮かべた。若者は生真面目に答えた。自分は買っておりませんが、妹が両親から買ってもらったのは、確か自分が数え一三の年であります。あの最初の映画が封切られた年でした。

 そうか、と言って彼が笑みを消した。では、君はその何年後に敵を憎むようになった?

 若者は絶句した。皆が凍り付いた。彼が言った。皆に訊きたい。俺たちがこのような目に遭うずっと前、何故俺たちは敵を憎むようになったのだ。いや、俺はどうしようもない卑怯者だ。正直に言う。俺はちっとも敵を憎んではいなかった。俺の上司たちや、同僚の殆どもそうだ。俺は誰かを、敵を憎むように仕向けたことはない。だが、敵を憎もうとする人に、何かを言うこともなかった。

 皆、困惑して互いを見ていた。彼は皆を見た。そして続けた。実は俺にもうまく説明できない。だがそれでも、こう思っている。馬鹿げた話に聞こえるだろうが、憎しみというものは畢竟、誰かが誰かを憎むように仕向けることで生まれるものでしかないのではないか。誰かが誰かを憎むことによって得をする、また別の誰かによって。だから俺は言いたい。

 皆が彼を見つめた。彼は言った。

 誰かを憎んだ時点で、負けだ。

 先程まで啜り泣いていた女が、ゆっくりと立ち上がった。俯いたままのその顔は笑っていた。女は呟いた。

 やっとわかった。ウチは、この世界に復讐したいんよ。



【終】