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ヤクザヘヴン 【6/10】


(前回)


第六章 長崎風土記


 古代ローマ帝国におけるキリスト教公認及びその後の国教化以降の人類史上、日本における禁教のごときキリスト教布教に対する大規模かつ苛烈な弾圧が行われた例は稀である。キリスト教伝来以来現在まで一貫して、長崎は日本のキリスト教信仰の中心の一つであり、浦上天主堂は信仰のとりでの象徴であった。その浦上天主堂もまた、長崎における核兵器使用により破壊された。

 だが、信仰のとりでの象徴が物理的に破壊されたことは、信仰のとりで自体が失われることを意味しなかった。それどころか、信仰のとりでそのものが、肉体を備えて地上に現出した。

 中心となったのは、粗末な麻のローブをまとった、灰色の髭と髪の偉丈夫であった。彼を中心とした少数の集団もまた、広島におけるヤクザたちと同様に、長崎において救助活動に尽力した。

 そして連合国の進駐が始まると、やはりその集団も進駐軍の前に姿を現した。

 北から長崎市を目指して進んでくる進駐軍の車列を待ち構えていた少人数の集団の中から、彼は樫の杖を手に前に進み出て、進駐軍に向けた呼びかけを行った。わたしたちと共に祈りを捧げてほしい、そして神と長崎の民の前で、長崎の災厄を招いたことを詫びてほしい、と。

 ジープの助手席で、進駐軍の指揮官は一笑に付した。遺憾ながら、謝罪の必要を認めない。あなたに言われなくとも、わたしは日々神に祈りを捧げているので祈りも間に合っている。申し訳ないが遠慮させていただく。

 指揮官に対し、彼は言った。わたしはあなたがたに言うが、既に神の御意思は示された。あなたがたは神の前に跪き、赦しを請わねばならない。

 そして彼は、手にした樫の杖を天に向かって突き上げ、いかずちを招来した。

 進駐軍の全軍が茫然自失した。彼は言った。あの災厄の日、神がわたしにこのちからを授けられた。わたしの仲間もそうである。わたしは神の御意思を理解した。このちからもて皆をただしき信仰に導けと、神はそのようにわたしたちに御命じになったのだ。

 指揮官がジープから降り、跪いた。ほとんどの将兵が指揮官に続いた。彼は将兵に立ち上がるよう促した。そして彼に付き従うよう伝えた。

 彼に従い徒歩で南に向かっていた進駐軍に、やがて、二つの鐘楼がともに破壊された、煉瓦造りの聖堂の廃墟が見えてきた。それを目にした進駐軍の誰もが顔をこわばらせ、あるいは俯いた。あれほどの規模のカトリックの聖堂がこの町にあったことなど、誰も知らなかったのだ。

 彼はその廃墟がある低い丘に進駐軍を導いた。早くも聖堂の復旧作業が始まっていた。聖堂を前に振り返ると、滅ぼし尽された長崎の街が一望できた。

 屋根と床が燃え尽きた聖堂の内部は、既に全ての瓦礫が撤去されており、ほとんど空っぽだった。かつては美しいステンドグラスがあった窓は間に合わせの板で塞がれていた。奥には急ごしらえの質素な木の十字架があった。その脇には、何かを乗せ覆い布が掛けられた、小さな台座があった。指揮官を先頭に、進駐軍は十字架の前に進み出た。

 入れるだけの将兵で聖堂がいっぱいになると、彼は台座の上から覆い布を取り去った。そして台座の上にあった物体を手に取り、皆に示した。それは首だけとなった、空洞の目の、木製のマリア像の残骸だった。聖母マリアが、あの災厄の火に焼かれた長崎の民の御姿となっていた。

 指揮官が号泣した。多くの将兵が指揮官に倣った。祈禱が執り行われた。進駐軍が我先にと進み出て懺悔した。彼は父と子と聖霊の御名により、赦しを与えた。


――――――――――


 そして復興が始まった。


 長崎の進駐軍は、もはや進駐する者ではなく、軍の体すらなしていなかった。将兵のほぼ全員が長崎の市民と入り混じり、寝食を共にして復興作業にあたった。皆、それを自らの贖罪だと考えていた。

 故郷で大工をしていた兵士は、合衆国でフレーミングと呼ばれる工法を紹介した。日本では一般的にツーバイフォーと呼ばれる、組立式住宅も建造可能な、簡易ながら堅牢な木造家屋を短期間で建築できる技術である。復興の日々の中、あの災厄で能力を授かった者か否かを問わず長崎の民の間で急速にキリスト教への改宗が進むとともに、洋風ツーバイフォー住宅が長崎の標準的な民家として普及した。

 長崎の進駐軍がその本来の職務をほとんど放棄して長崎市民と一体化しつつあるとの報告は、広島で暗躍する謎の存在の報告と相前後してGHQ上層部に届けられた。上層部は困惑した。案の定、長崎にも広島のような異能の存在が出現してしまったようだが、こちらときたら暴力行為の一つもないまま、あっという間に進駐軍を事実上解体してしまった。しかも長崎の現状は、軍部の都合や面子といった点を考慮しなければの話だが、一片たりとも非難の余地がない理想郷のごとしである。現地からは「神のいかずちを見た」という忌まわしい報告があるものの、それさえ無視すれば平穏そのものだ。有難いことに広島とは違って、長崎の奴らはすこしもその能力を発揮する様子がない。

 GHQ上層部は結局、長崎をプロパガンダに利用することにした。

 「進駐」から約一年後、早くも核の爪痕が見当たらぬほどに復興し、落ちた聖堂の鐘楼も引き上げられて元通りとなったタイミングで、GHQ上層部は、各国の報道陣を長崎に呼び寄せて、大々的に宣伝させた。実質的には合衆国軍である進駐軍がもたらした奇跡。民主主義の守護者たる合衆国の兵士たちが、不幸な長崎市民を助け復興に励むその美しい姿。見よ、これがアメリカだ。神の御加護というほかないことに、すっかりキリスト教に感化された既存の長崎市民は、広島市民と全く異なり、核兵器使用については「神の御意思」と言うばかりで、不平不満の一つも記者に語ることはない――全ては神の御意思である。核によって焼き払われた長崎は、信仰の観点から言えば、ほのおによって清められたのだ――ハレルヤ。GHQはただ一点、「神のいかずち」に関してだけは入念に検閲して、記事から削除させた。

 こうして長崎の奇跡は世界に喧伝された。長崎は発展の段階に入っていた。

 進駐軍の土着化が進んだ。多くの将兵が母国から家族を呼び寄せ、あるいは現地で伴侶を見つけた。復興の日々を通じて父祖から受け継いだ開拓者の血に目覚めた者が、被災地域の外さらにその外へと進出して、母国を手本にした農地を開拓した。

 長崎市とその周辺は、北米のちょっとした都市とその郊外の如き様相を呈するに至った。

 そしてついに、公式に「進駐」が終わる日がやってきた。

 長崎の民が自主的に開催したセレモニーにおいて、彼は歴史的スピーチを行った。以前はカトリック教会でそれなりの地位にあった彼だが、あの日以来、彼は粗末な衣服を脱ごうとすることはなかった。荒い毛織のローブを身につけ民衆の前に立った彼は、敢えて還俗し自らが王位に就くこと、そして彼を国王とする国家を建国し、日本国から独立することを宣言した。

 この宣言は民衆の熱狂をもって迎え入れられた。進駐軍将兵の多くが王国に帰属することを望んだ。様々な事情により母国に帰国することを選択した者らは、涙を流して別れの挨拶をした。

 こうして、聖長崎王国とエラスムス国王陛下が誕生した。

 その報告を受けたGHQ上層部は爆笑した。そして、後は日本政府に任せてさっさと帰国することにした。報道等でその事実を知った日本政府や日本の人々は、笑っていいのかどうかの判断すらできなかった。

 「独立」の当初、日本政府と「長崎」との間には目立った確執はなかった。

 地方行政業務は、「王国」が名目上乗っ取る形で、結局、ほぼ従前どおりに運営された。問題といえば、長崎が中央官庁からの職員の派遣を拒否し、また、長崎から本来行われるべき「中央」への報告が途絶えたことだけである。しみったれたことを言えば、本来国庫に入るべき国税その他が長崎から徴収できなくなったことも一応の損害であろう。

 だが程無くして、長崎は徐々にその真の姿を現すようになった。


――――――――――


 独立宣言からひと月も経たぬうちに、聖長崎王国は、聖書の解釈に基づき科学技術を否認することを教義とする、長崎国教会の設立を宣言した。曰く、長崎にもたらされた災厄は、科学技術によって人間が堕落し神に対する謙虚さを失った結果である、すなわち傲慢の罪によりもたらされたものであると。

 そしてエラスムス国王陛下は、全世界に対し、人間の堕落をもたらす科学技術を廃絶することを目的とした、長崎十字軍による聖戦をおこなうことを宣言した。

 当然ながら、即座にローマ・カトリックから破門された。聖長崎王国は気にするそぶりも見せずに、王国内の変電施設と送電設備を破壊した。王国民は電気のない生活を送るようになった。

 その報道に接した全世界が爆笑した。ただし、日本政府や日本の人々だけは、相変わらず笑っていいのかどうかの判断すらつかなかった。

 そうこうするうちに、電気普及以前の生活に戻ることを嫌った「王国」の民の一部が、長崎から脱出するようになった。日本政府はようやく笑える気持ちになった。それ見たことか。だが、長崎が本当に「聖戦」を開始するとその笑いは即座に消えた。

 元来「長崎」のどの範囲が「王国」の領土であるのかについて、客観的な国境等は存在しなかった。そこに住まう者が「我は王国民なり」と思っていれば、そこは王国の領土であるというあやふやなものでしかなかった。

 だが、「長崎十字軍」が周辺地域に進出して、衝突も厭わず警察等の実力組織を排除し、王国への領土の編入を勝手に宣言するということを始めると、途端に、王国の実力行使によって日本国政府の統治が及ばない地域は明確になっていった。そして、それは広まる一方だった。当然ながら、新たに王国に編入された地域の住民はどんどん逃散していった。ようやく日本の経済復興が始まったばかりというこの時期において、日本政府にできることといえば、「長崎難民」と名付けられた人々を受け入れるための、場当たり的な対応しかなかった。

 「王国」の拡大を阻止する有効な手段がないまま、約三年後には、一部の離島を除いた長崎県の全域が「王国」となった。

 「十字軍」がついにその真の実力の一端を垣間見せて、佐世保港から米第七艦隊と創設間もない海上自衛隊の艦艇を排除した様を詳細に報告され、日本政府はパニックに陥った。プライドを大いに傷つけられた合衆国は日本政府に対し、まずは佐世保を奪回して港湾施設を復旧するよう要求した。

 だが日本政府から見れば、喫緊の課題は佐賀県もだが、何より「長崎」から最早目と鼻の先となったも同然の筑豊炭田をどう防衛するかだ。王国が、九州北部制圧より先に島原あたりから渡海して熊本以南を狙う可能性については、後回しにするほかない。日本政府は創設間もない陸上自衛隊を(あくまで公式には「長崎」は外国ではないため、治安出動を名目として)総動員して佐賀県に配備するとともに、合衆国に対して更なる武器供与を求めた。

 佐世保の惨状について報告を受けた合衆国の脳裏には、あのGHQを通じて届けられていた広島の悪夢がよみがえりつつあった。合衆国は最大限、日本国政府の求めに応じた。そして、一九五五年の生誕祭、エラスムス国王陛下は、新年早々に佐賀へと進軍することを発表した。今では世界の誰もその言葉を笑うことはなかった。

 一九五六年正月元旦、佐賀平野の会戦が行われた。報道陣が一切排除された状況でその会戦を目撃したのは、当事者を除けば各国から派遣された観戦武官だけであった。「長崎十字軍」を名乗る、五〇人もいるかいないかという生身の人間が、合衆国製のメインバトルタンクを中心とした機甲部隊と対峙する光景は、冗談としか見えなかった。だが、既に広島のヤクザを知る日米は、悲観的な予測を立てていた。そして戦いの結果は絶望的だった。

 「十字軍」の兵士の先頭に立つエラスムス国王陛下その人が「神のいかずち」を解き放ったのを合図に、戦いは始まった。

 その杖のただ一振りで、紫電が見渡す限りを一飲みにした。

 佐賀平野に布陣した機甲部隊の戦車及びその他の車両は、電撃により即座に電気系統を破壊された。戦車を動かして砲撃するだけなら可能でも、通信機がいかれてしまえば各車の連携による組織的戦闘は不可能だ。戦車の外の歩兵等々は当然だが全滅状態である。創設されたばかりの航空自衛隊は、訓練を受けた乗員も装備も極めて乏しい。まともな航空支援は無理だった。その状態で、十字軍の兵士がその驚異的な身体能力を駆使して、通信機の故障のために撤退の指示に気付かぬままの、右往左往する車両に襲い掛かった。


――――――――――


 こうして佐賀平野での会戦は日本政府の惨敗に終わり、その後数か月で筑豊炭田が王国に飲み込まれた。だが、二つの要素が意外な形で九州全土の長崎化を遅らせた。

 一つは博多の存在である。王国とその主兵力である十字軍は、異端の教義によって団結する集団であり、当然ながらその教義を嫌って長崎から逃れる者も少なくなかった。長崎国教会から「破門」された異能者たちの流入先となったのが、博多である。同時に、広島のヤクザから「破門」された者も、その大部分が博多を目指した。結果として博多は、「破門者」と呼ばれる超常のアウトローが群雄割拠する、王国と同様に事実上日本政府の支配を受けないどころか、文字通りの無法地帯となってしまった。だがこれが幸いした。王国と相容れない博多の破門者たちは、十字軍に抵抗して小競り合いを繰り返し、十字軍の九州北部制圧に対する防波堤となったのだ。

 もう一つの要素は十字軍の兵力である。十字軍の兵士は強力とはいえ、いかんせん圧倒的に数が足りない。王国は、長崎化した地域の海岸線を要塞化して兵士を巡回させ、内陸では国境線に兵力を配置しているものの、長崎化された地域が広がれば広がるほど国境線の維持が困難となる。これが王国の東進及び南進の妨げとなった。

 付け加えると、五〇年代後半から始まったエネルギー革命も、日本政府の助けとなった。石炭から石油エネルギーへの転換は、結果として、筑豊炭田喪失の痛手を大きく和らげることとなったのだ。

 だが、このような幸運の積み重ねをもってしても、王国の進撃を完全に止めるには至らなかった。

 破門者と十字軍との小競り合いは、八〇年代末と推測される時期に、休戦協定によって終結した(休戦協定の正確な内容や、博多がどのように代表者を選出したのかといった点については、現在に至るまで当事者以外には定かではない)。それまでも、破門者の中にごく少数存在した超知性覚醒者を原動力として、科学技術と博多の街並みを異常発達させてきた博多は、休戦協定の後も引き続き、王国の黙認のもと、その野放図な垂直方向への発展を続けることとなった。

 この休戦を受けて、王国は九〇年代初頭には、博多を除く九州全土の制圧を実現した。この時、「長崎」は、特に注釈がなければ、聖長崎王国、及び、その領土である九州地方そのものを同時に指す言葉となった。

 長崎は、門司及び小倉の海岸線の本格的な要塞化に着手した。本州侵攻のための拠点を築いているのだと容易に推察された。長崎の本州侵攻は目前と思えた。

 九〇年代を通じて、関門海峡を挟んだ軍事衝突が散発的に続いた。

 これらの衝突は専ら、日本の自衛隊と米軍の連合軍が、長崎の本州侵攻を遅らせるべく、建造途中の門司小倉要塞の破壊を目的として攻撃するという構図であった。その攻撃は、全て十字軍により返り討ちとなった。

 佐賀平野の会戦から様変わりした戦闘機や爆撃機、ミサイルといった現代兵器も、十字軍が放つ超常の攻撃の前には全くの無力であった。本州側から砲撃を行う要塞砲、戦車、野砲その他は、密かに日本海側から迂回上陸した少数の十字軍兵士の餌食となった。水中を泳いで水面下から船体に直接攻撃をかける十字軍兵士によって多くの艦艇を沈められ、米第七艦隊ですら甚大な被害を被ることとなった。

 これらの不毛な戦いが意外な効果を生んだ。

 九〇年代のこれらの戦いは、本州の目と鼻の先で発生したため、CNNその他のメディアにより全世界的に報道された。関門海峡を挟んで、砲弾どころか爆発する火の玉や光の矢の嵐、夜空を切り裂く光の剣といった魔法そのものの攻撃が飛び交い、現代兵器が次々とド派手に破壊されるというハリウッド映画じみたその光景は、長崎の存在を再度世界全土に喧伝した。その教義や王国民の暮らしぶりが知れ渡ると、長崎を理想郷と信じる全世界のキリスト教原理主義者、ナチュラリスト、ニューエイジかぶれにヒッピー崩れその他もろもろが、長崎への移住を希望して、海に開かれた長崎の唯一の玄関口である別府を目指すようになった。この影響で、それまでも細々と噂を聞きつけた者の海外からの移住があった長崎であるが、九〇年代中盤以降、安定して毎年一〇万人前後の人口増加を達成することとなった。

 そして、二〇〇〇年代に入ると間もなく、長崎は沈黙した。

 大小数々の武力衝突も、日米両国政府を諦めの気分が支配するようになると徐々に減少し、二〇〇〇代初頭には、もはや武力衝突は極めて稀となった。だが長崎もまた、本州侵攻に着手する気配を見せなかった。

 日米は遅まきながら気付いた。元々なにもしなくても、ここが長崎の攻勢の限界点だったのだ。長崎には、本州に進出しても、長崎化した本州の新たな領土を維持しながら攻勢を続けるだけの兵力はなかったということだ。では九〇年代に無駄にちょっかいをかけて被った大損害は何だったのか、ということになるので、日米両国の政治家及び官僚は、「バブル紛争」や「トリクルダウン紛争」などといった珍妙な造語の数々で、大衆をけむに巻こうと腐心することになった。

 以後、現在まで十余年にわたり、聖長崎王国は、「聖戦」継続の姿勢は公式には一応崩さぬまま、観光可能な暗黒の地と化したかつての九州において、表面上は安定した存続を保っているのである。


――――――――――


「……確かに当時、わたしを含め、多くの者が王国の進むべき道を案じるようになった。どの程度先の話になるのかまでは分からずとも、将来、十字軍が更に拡充されれば、再び進軍を開始することは可能であろう。だが、言ってしまえば、わたしも含めて皆、頭が冷えたのであろうな。そして、わが娘を授かったことで、わたしはようやく神の御意思を真に理解したのだ。聖戦が間違いであったとは思わぬ。だが、愚かなるわたしは、聖戦の日々の中でいつの間にか、ちからによる征服という考えに囚われていたのだ。そして神は、盲目となっていたこのわたしを、罰ではなく祝福をもって御導きになり、再びわたしの目をひらかれたのだ」

 テレサと古賀野がドアを閉じた風呂場の中で秘密のガールズトークを真剣に続ける間、残されたヤクザとクリストフォロスは、国王たっての希望で、床に車座になって彼の話を聞いていた。

 粗末な麻のローブをまとった国王の表情は、優しい父のものだった。長崎への核攻撃の際にカトリックの典礼に使用する装束等々を失って以来、常にこのような粗末な衣服を身につけているのだという。

 ヒッポが尻を掻いた。

「親子の情にでも目覚めたんか。ご立派なことじゃの」

 とうとうクリストフォロスの右手が反射的に左腰に伸びた。当然そこには握るべき柄はない。それでも王は、クリストフォロスに厳しい視線を送った。

「クリストフォロス。控えよ」

 クリストフォロスは無言で目を伏せ、御意を受け入れた。王はヒッポの目を、次いでセツコの目を見つめた。

「親子の情が無いといったら、当然嘘になる。だがテレサは、わたしの娘であるがゆえに王国の光となるのではない」

 王が、やや気まずそうな微笑みさえ、ヤクザに見せた。

「還俗したとはいえ、かつては神に仕えた身。周囲の期待の声に押されて王を称するようにはなったが、后を娶ろうなどとはついぞ思わなんだ。だが、関門海峡の紛争が事実上終息に向かったころから、前線に立たなくなったわたしを大臣らがせっついたのだ。王の義務として、十字軍の拡大という公式方針に従った範を示せ、子を儲けよ、結果はどうあれ、一応のポーズは見せろと。そう言われて、ちからを授かっていない信徒の女性を娶り、一応のポーズをとったところ、意外にもテレサを授かったというわけだ。無用な犠牲がなかったのは幸いだった。わたしが結果として一人しか妻を娶らずに済んだのは、神の恩寵というほかない」

「テッちゃんのお母さんはどうしたん?」

「病を得て、天に召された。もう五年ほどになる。ともあれ、わたしを含め皆、テレサが生まれた時には、まさかテレサが神からちからを授けられているとは知らなんだ。随分とおとなしい赤子でな、それを除けば市井の王国民の子と何ら変わらぬように見えた。だが」

 王が遠くを見た。

「言葉を覚えるのが随分と早い子だった。テレサが三つになった年のことだ。その年の生誕祭、妻や臣下の内の近しい者だけが集まった晩餐の席で、テレサはその力を突然、わたしたちの目の前で披露した。それには当然驚いたが、なんとテレサはこう言ったのだ。物心つくまえから、ちからをみだりに使うことを神は御喜びにならぬと知っていたのだと」

「やっぱりテッちゃんは、ほんまええ子じゃねえ!」

 王が面映ゆさを見せた。

「幼子の前で、わたしたちは皆、恥じ入るばかりだったな。建国前の初心を取り戻したと、その時たしかに思った。わたしたちも最初は、このちからは、あくまで皆を正しき信仰に導くためのものだと、敵を除くために授けられたものではないと知っていたはずなのだ。だがいつの間にか、ちからは戦いの道具になっていた。許されぬことだ。罰せられてしかるべきである。だが神は、祝福の子テレサを通じて、わたしたちにその御意思を示されたのだ」

 ヒッポは平然と王の目を覗き込んだ。

「ええか、儂らが今回おんどれらに協力するけえいうての、儂らヤクザが、おりもせん神様に恐れ入る思うたら大間違いで。おんどれらが神様神様言うとる横でな、おんどれらと大差ないアメリカやらなんやらの腐れ外道どもが、世界中で好き放題ドンバチやりおうとるんじゃからの。説教するんなら、先にそいつらに説教せえや」

 やにわにクリストフォロスが不敵な表情を浮かべた。

「言葉を知っていたところで、偉そうな口を利くしか能のない、物を知らぬ、傲慢不遜の呪われた獣よ。私が多少、理屈というものを教えてやろう。貴様は『オッカムの剃刀』を知っているか」

「馬鹿にすんなやクマ公。映画にだって出てくるわい。物事考えようっちゅうときは、いらん余分な理由は除(の)けといて、シンプルに合理的に考えぇいう、あれじゃろうが」

 今回はクリストフォロスの余裕の態度が崩れる様子はない。

「だが貴様は、オッカムの剃刀がどのようにして生まれたかまでは知るまい」

「それを知っとりゃ何じゃっちゅうんじゃ」

「修道士オッカムは、神の存在を論証しようと思索した末、その剃刀を見出したのだ」

「…………」

「貴様らは信仰を非合理的と決めつける。だが、陛下や殿下に、我々十字軍の兵士に授けられたこのちからを前にして、それが神の御意思によるものという説明以上に、簡潔な結論があるか。貴様らのいうアメリカかどこかの腐れ外道というのも、愚かにも神を前にしながら、その目がひらかれておらぬ者にすぎん。信仰を軽んじることは、かくも人を堕落させるのだ」

 猫が忍び笑いを漏らした。

「なんじゃあ、何をまた威張るつもりかあ思うたら、シンプルじゃけえ合理的いうて決めつけとるだけじゃろうが。論理の飛躍じゃ。オッカムとかいうオッサンは、ほんまにクマ公みたいなこと言うたんか?」

 クリストフォロスは押し黙った。猫は勝ち誇って見せた。

「まあええクマ公。神様の住所が分かったら、儂に教えてくれえや。そいつんちで直接クンロク入れてからの、なんでこがいに世界中腐れ外道どもだらけなんか、一応言い訳聴いちゃることにするけえ」

 セツコがヒッポのお尻をつねった。

「ヒッポちゃん、そのくらいにしときんさい。それとね、クマちゃん相手ならええけどね、テッちゃんの前でそんなこと言うて、テッちゃんを困らせんさんなよ。そんなことしたら、ウチ怒るけえね」

「わあっとるわい。クマ公の奴相手じゃけえ、おちょくるんが面白いんじゃろうが」それから、はっとした表情を見せ、王に言った。「王様もすまんかったの。誤解させたかもしれんけどな、儂らヤクザは、宗教信じとるからいう理由で他の奴らを馬鹿にしたりはせんのんで。そういうことをするんは腐れ外道じゃけえの。クマ公が馬鹿にされるんは、神様のせいじゃのうて、クマ公が悪いだけじゃけえ」

 王は苦笑した。

「いやはや、神の御力はまこと偉大だ。喋る猫を御遣わしになって、わたしやクリストフォロスをして、謙譲の美徳を学ばせようとなさるのだからな。かく心得よ、クリストフォロス」

 クリストフォロスは、御意を受け入れつつも落ち込んだ表情になった。

「ほうじゃほうじゃ。王様の言うことよう聞けやクマ公。そがいな不信心者の腐れ外道じゃけえ、儂の背中に生えとる羽が、おんどれにだきゃあ見えとらんのんじゃ」

 セツコがヒッポの耳を引っ張った。

「はい、もうおしまい! ええ加減にせんと、ヒッポちゃん、次はしっぽよ」

 ヒッポは反射的に両前足で尾の付け根をかばった。セツコが何か思いだそうとする顔になった。

「……ほうじゃった。あれをまだ聞いとらんよ。結局、テッちゃんのすごい力って、一体どんなのなん?」

「それは、テレサ自身の口から聞くがよかろう。おそらく、あれは答えようとはせぬだろうがな」

「殿下は、自らのおちからゆえに崇められるのを好まれぬのだ。一般の国民も、殿下が強大なおちからを授かったとは漏れ聞いているが、おちからがどのようなものかまでは知らぬ。そのおちからを用いぬがゆえに、皆から慕われている、そこが大事なのだ。殿下のおちからがどのようなものかなど、神の御意思に照らせば何の意味もない」

「……ほうじゃね。テッちゃんがええ子じゃっていうのが、一番大事よね」セツコはクリストフォロスに微笑んだ。「クマちゃんがええこと言うたんは、これで二回目じゃね」

 ついに王は声を出して笑った。

「これはまた、貴公もヤクザの諸君に慕われておるではないか! わたしは内心不安であったのだぞ。このまま励めよ、クリストフォロス」

 クリストフォロスは御意を受けて、しょげかえった。そこへ、風呂場からテレサが二人出てきた。エラスムス国王その人が、驚きに目を丸くした。

「なんと……神の御力は計り知れぬ」

 二人のテレサのうちの片方が、目をすがめて腕組みした。そちらのテレサに王が自ら歩み寄り、右手を差し出した。そのテレサは、ちらと王の手を見ただけで、腕組みを解こうとしなかった。構わず王は話しかけた。

「貴公のことはクリストフォロスから聞いておる、古賀野ミカエル殿。貴公が王国を去るに至ったのは、まことにわたしの不徳の致すところだ。にもかかわらずこの度の御助力、感謝の言葉もない」

 腕組みしたテレサが答えた。

「あんたの不徳に気付くのが遅かったな。正直俺は、あんたが悪い奴だなんて思わねえけどよ、クリス程度の奴を量産して甘やかしたのがまずかった。俺は、俺の飲み代を気前よく払ってくれる奴らについただけだ。気にすんな」

 クリストフォロスが何か言いかけたのを、腕組みしたテレサが眼光だけで黙らせた。王が言葉を継いだ。

「……貴公には返す言葉もない。わたし自身の愚かさについては、つい今しがた、そちらのヒッポ殿からこってり油を搾られたばかりだ」

 その言葉を聞いたテレサは、ヒッポに目だけで笑いかけた。

「だからよ、気にすんなって。それよりもな、そろそろあんたのテレサちゃんは出発の時間じゃねえのか?」

 王はもう一人のテレサを見た。そちらのテレサがややためらった後、王の胸に飛び込んだ。王はテレサの背を抱きしめ、囁きかけた。それを見て、クリストフォロスが壁の伝声管に向かい、いくつかある蓋の一つを開けて喋った。

「私だ…………ああ、連絡が遅れてすまぬ。先ほど帰還した。今のところ計画に支障はない。…………無論、間もなく殿下と共に出発する。例の場所に馬車を回しておけ。日の出と共に駅に向かう」

「暗いうちに出発じゃないんね?」

 クリストフォロスがイラついた様子で振り返った。

「暗いうちから馬車を走らせるほうが、よほど目立つではないか馬鹿者。無駄に隠れ潜んだせいで怪しまれてしまっては意味がない」そして再び伝声管に向かった。「ヴェロニカに、準備していた物を持って殿下の御部屋に来るよう伝えろ。ヤクザの服は標準体形のものだけで良い。決して他の者に気取られぬよう、念を押しておけ」

 クリストフォロスがセツコとヒッポに向き直った。

「今から衣服その他を持ってこさせる。その服を着て、予備の着替えを選べ。大荷物は怪しまれる。貴様らが今後携行する武器なども、必要最小限にしろ」

 その時、セツコが小さくあっと声を上げた。

「なんか変じゃと思うとったんじゃけど、今やっと気づいたわぁ。クマちゃん、なんでウチのこと、名前で呼んでくれんのんね?」

「……特段、他意はない」

「まさか、クマちゃんあれなんね? シャイなん? 気になる女の子に冷たくしちゃうタイプ?」そして、リズムを刻んでまたぞろ繰り返し身悶えしつつ、人差し指を頬に当てて首をかしげながら、言った。「セ・ツ・コ。セ・ツ・コ」

 ヒッポがセツコに並んで真似した。

「ヒ・ッ・ポ。ヒ・ッ・ポ」

 小さなノックの直後、室内からの返事を待たずに静かにドアが開いた。全員がそちらを見た。褐色の肌の精悍な女が入ってきた。平服らしきクリーム色のワンピースドレスをまとっているが、その鍛えられた身体と身のこなしから、只者ではないことが明らかだ。女は入室してドアを閉じるや、跪いた。

「ヴェロニカです。状況に鑑み、お許しを得ず入室いたしました」

 ヴェロニカを見た二人のテレサのうちの一人が、抑えられぬといった様子で「おっホ!」と感嘆の声を上げてニヤついた。事前に計画を聞いていたらしいヴェロニカは、ニヤついたテレサを完全に無視した。王が言った。

「準備を急げ」

 テレサが王から離れ、着替えを持って風呂場に入った。ヴェロニカは、あらかじめ準備していたクリストフォロス用の荷物を彼に手渡すと、小さなテーブルの上に残りを適当に並べた。紐で口を絞る大きめの麻袋と、畳まれたTシャツの束、チェック柄のフランネルのシャツ、そして平凡だがいかにも労働用という趣のジーンズ。クリストフォロスがセツコに言った。

「武器などはその袋に入るものだけにしておけ。まさか女のヤクザが来るとは思わなかったので男物しか準備していなかったが、貴様なら不服はないはずだ」

 セツコは目をしばたたいた。

「なんかこう、普通の服じゃね」

「何を想像していたのだ? まさか我々が、中世のヨーロッパにでも先祖返りしたかのような服を着ているとでも思っていたのか」

「ほいじゃったら、サングラスはかけてもおかしゅうないよね?」

「問題ない。瞳の青い王国民なども元々多いからな」

「そういやあのぅ、まだ制服の奴を見とらんが、騎士とかいう奴は仕事の時はどんな恰好しとるんなら」

「そんなことは、また今度、暇を見つけてミカエルにでも聞け」

「いや俺もさ、田舎離れて長いから、こっちでどんな服だったかなんて忘れちまったよ。ヴェロニカちゃん、短い間だけど、色々教えてくれよな」

 ヴェロニカは無視した。テレサが風呂場から出てきた。ギンガムチェックの半袖ワンピースドレスを着て、栗色の頭髪だった頭にブロンドのカツラを被っている。セツコはTシャツを手にとった。アニメやゲームの図案のプリントTシャツ、別府の地獄めぐりにちなんだ土産物、あるいは「忍者」といった日本語が大書されたもの。セツコは顔をしかめた。

「クマちゃんのセンスは元々信じとらんかったけどねぇ……」

「誤解するな。日本や海外からの観光客向けに、別府などで売られているものだ」

 そして、重々しく付け加えた。

「しるくすくりーん印刷もまた、邪悪かもしれぬ」

 セツコはそれを横目で見て軽く笑い、その場でジャンプスーツを脱ごうとした。クリストフォロスが「おい」と呼びかけ、振り向いたセツコに無言で風呂場を指し示して見せた。セツコは結局、「忍者」Tシャツとジーンズを手に取って、風呂場に向かった。クリストフォロスは、王と姫に無言で頭を下げて、部屋の隅の衝立の裏に行った。


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「まあ、たまには馬車の旅も悪いもんじゃあないの」

 夏真っ盛りを控えたこの時期は、まだ日の出が早い。電気のない生活を送る聖長崎王国の国民たちは、日の出と共に働き始める。例の秘密トンネル出口の外に用意されていた平凡な幌馬車は、日の出直前に移動を開始した。馬を急かすことなく、並足で午前六時ころに長崎駅に到着する予定だ。

 手綱をとるのは御者台のクリストフォロスである。彼は荷台のヒッポに振り返った。

「今のうちに、せいぜいその呪われた口を動かしておけ。馬車を降りれば、貴様はうすらでかいだけのただの猫だということを忘れるな」

 ヒッポが睨んだ時には、既にクリストフォロスは前を向いていた。クリストフォロスによると、長崎にも随分と頭が良くなったり器用になった動物はいるが、ヒッポのように立ったり喋ったりする動物は皆無だという。宗教的な観点から、神に似せて創造された存在である人のまねごとをするような動物は、忌み嫌われるのだとか。そのような動物たちの隠れ里が長崎のどこかにあると、昔から噂されているそうだ。

「けど、馬車もよかったけど、やっぱり鉄道が楽しみじゃね! お弁当とか買おうねヒッポちゃん」

 それを聞いた、ブロンドのカツラを被り、いかにも日焼け防止を意識しているかのように、スカーフで頭部を覆ってさりげなく顔を隠したテレサは、心底不思議そうに聞いた。

「馬車よりも鉄道が楽しみとは、どういう理由からなのじゃ?」

「そりゃあテッちゃん、鉄道って言うたら……どう言うたらええんじゃろ」

 セツコは両手の肘を直角に曲げて指先を前に向け、開いた両手のひらを小さく円運動させた。

「シュッシュッポッポいうてがたんごとんってね……」

 再びクリストフォロスが振り返った。

「そろそろ駅に到着する。ヤクザは口を閉じておけ」


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 長崎本線をはじめとする、かつて九州と呼ばれたこの地に残る鉄道網は、基本的に全て第二次世界大戦前に整備されていたものだ。シュリーフェン・プランがその最も極端な例として知られているが、一九世紀中盤のプロイセン王国が鉄道網を動員に活用して対外戦争に勝利して以来、二〇世紀序盤までの列強各国にとって、鉄道網の整備は当時の戦争における動員計画のキモであった。

 長崎駅は、長崎本線下り線の始発駅である。聖長崎王国独立前に存在した長崎港駅は、海岸線要塞化に伴い、民間路線の駅としては廃止されて久しい。この先の浦上駅のほうが当然大聖堂に近いが、浦上駅の利用は、城勤めの者に見咎められる危険が高すぎる。

 クリストフォロスが、乗ってきた馬と馬車を証拠隠滅も兼ねて駅前の辻馬車業者にさっさと売り払って用立てた、文字通りの「路銀」で運賃を払い終え、長崎駅のプラットホームへ足を踏み入れたセツコとヒッポは、その光景を見て呆気にとられた。

 ヒッポは我慢できず、左右を十分に確認してから、クリストフォロスを睨んで、四つ足のまま小声で罵った。

「おどりゃあ、バカにすんのもええ加減にせえやこのあほんだらが!」

 セツコは、あきらめの境地に至ってもなお、クリストフォロスに呟かざるを得なかった。

「あんたあね、絶対ウチらのこと馬鹿にしとるじゃろ」そして、何かを思い出して、ため息をついた。「何でクマちゃんが『三日とかからぬ』って言うとったんか、考えとくべきじゃったねぇ」

 クリストフォロスは、セツコたちがこれまで見た中で最も愉快そうな笑みを浮かべながら、わざとらしく澄まして言った。

「何故、まるで私が貴様らを担いだかのようなことを言うのだ?」

 レールの上で停車していたのは、四頭立ての馬が引く、木製の客車だった。


【続く】