ヤクザヘヴン 【5/10】
第五章 博多襲撃
既に午後九時を回り、岩国基地から離陸後、らせん状に上昇して高度一万メートルに達したC―2輸送機は、機首を博多へと向けていた。水平飛行に移れば四〇分足らずで博多上空だ。さらに一五分ほどで長崎の首都、浦上特別区である。
C―2の貨物室内には、ジャンプスーツに身を包み、仏頂面で並んで壁際に腰かけるクリストフォロスに古賀野、その向かいの壁際には同じくジャンプスーツ姿でご機嫌のセツコにヒッポ、そしてなぜか一人だけ、視聴者サービス感の強いグレーの肌密着全身スーツの上に、わざとらしいほどに近未来的なデザインのジャケットを羽織ったサヤカ。また何かのコスプレなのか。全員が、貨物室の壁から伸びるケーブルに接続された、貨物室内で会話するための防音ヘッドフォン付きヘッドセットを装着している。
スーパーヤクザテクノロジーのおかげで、ヤクザが使用するスマホ型端末やガラケー型端末は、その驚異的なアンテナの性能により、地球上のほとんどの場所で電波が届く。端末でカープの試合結果を確認したセツコとヒッポはご満悦だ。午後九時を待つことなく終了した試合は快勝、序盤の大量援護の助けもあり、先発したルーキーは見事プロ三勝目を挙げたのだ。
ニヤニヤしながら試合のハイライト映像をリピートしているセツコに、隣に座っているサヤカが話しかけた。
「セッちゃん。そういえば、浦上から別府まではどうやって行くん?」
「ん? クマちゃんがおすすめの鉄道の旅よ」セツコは思い当たって、にんまりした。「ほうじゃ、鉄道って言うたら、駅弁とかもあるんかね。サヤカちゃん、長崎の駅弁ってどんなのがあるん?」
「ごめんセッちゃん。あたし、そういうの知らん」
「何で? サヤカちゃんは時々長崎に遊びに行くんじゃないんね?」
「鉄道とかよりも、自分で走ったほうが早いし」
「……ほうじゃったね」
セツコは向かいの壁に座る、古賀野とクリストフォロスを見た。岩国基地に来るまでクリストフォロスがいることを知らされていなかった(電話連絡の際にたまたま話題に出なかっただけなのだが)古賀野は、思わぬ再会の際に「俺をミカエルと呼ぶな」と言ったきり、クリストフォロスがわざわざ隣に座ってきても、あからさまな無視を続けている。クリストフォロスといえば先ほどから、酸素マスクから手を離せない状態だ。
サヤカも向かいの壁の二人を見て、無言で立ち上がった。そして、古賀野の隣に座った。サヤカが隣に座ってもなお、いつもの軽薄な言動を全く見せぬまま、古賀野は貨物室の床を見つめている。サヤカがヘッドセット越しに話しかけた。
「ミッキーはクリス君のこと、嫌いなん?」
古賀野はサヤカを見て、そしてその頭上を見てから、床に目線を戻し、答えた。
「生まれたばかりの俺がどんなだったか、想像できるか? 無意識のうちにグネグネ姿を変え続ける、立派な怪物だ。物心ついてからの俺が長崎でどんな目にあったかは言いたくない。長崎の奴らは全員嫌いだ。クリスの奴だろうが誰だろうがな。これで勘弁してくれ」
サヤカの顔に、軽い驚きの表情が浮かんだ。
「ミッキー今ちょっとかっこよかったよ。イケボじゃったし。なんか渋い」
「イケボ?」
「声がイケメンなんを、そう言うんよ」
古賀野は苦笑いした。そして、いつもの表情を取り戻して言った。
「イケボの俺とつきあってくれよ」
「それは無理」
ヘッドセットに、間もなく博多上空だという知らせが操縦席から届いた。サヤカはスマホを自撮り棒の先に取り付けて調整し始めた。ヒッポがヘッドセット越しに怒鳴った。
「おいサヤカ! 絶対に儂らを写すなや! この輸送機の中もじゃ! 降下してから配信を始めえよ!」
先日サヤカが組の誰にも言わずに独断と思い付きで敢行した「岩国基地のSEALsにアポなし突撃取材」のせいで、ベンを始めとする本部の理事は珍しく他人に頭を下げることになり、菓子折りを持って岩国基地を訪れた。本来ならこのC―2を借りるのも危うかったほどだ。一般部隊の将兵が内心、人付き合いが悪い秘密主義のSEALsにあまり好感を持っていないことが幸いした。サヤカも随分と説教されたが、ちゃんと学習したのか。
「おじちゃん。そんなに怒鳴らんでも、それくらいわかっとるよ」サヤカは立ち上がった。「後ろのフタ開けてくれん?」
ヒッポが英語で操縦席に伝えた。貨物室後部のローディングドアが開き始めた。夜の虚空を見たクリストフォロスの表情がこわばった。
「それじゃ、行ってくるね」
サヤカはヘッドセットを外し、スマホ型端末を取り付けた特殊強化自撮り棒だけを持ってスタスタと貨物室の端まで歩き、ひょいと飛び降りた。
ローディングドアが閉じた。驚愕から回復しきれないまま、クリストフォロスがヘッドセットに喚いた。
「おい! あの娘、落下傘を装備していなかったぞ!」
ヤクザたちは顔を見合わせた。
「あー、そういえばそうじゃったねぇ」セツコが答え、軽く顔をしかめて宙を睨んだ。「パラシュート付けさせたほうがよかったんね?」
「そういう問題ではない!」
「まあ、サヤカちゃんなら大丈夫よ。多分じゃけど。あの子は特別じゃけえね。知っとる? アメリカの腐れ外道で、なんか緑色しとってねぇ、すぐに怒ってから暴れるんがおってんじゃけど……」
セツコはヒッポを見た。
「あいつ、名前なんていうたかいね?」
「あがいな腐れ外道の名前なんか、どうでめええわ」
「そんなん相手でも、サヤカちゃんなら、ぱぱっとぶちしばいてから首輪付けて散歩さすけえね」
セツコはニヤニヤして続けた。
「サヤカちゃんが本気出したら、ほんま凄いんよ。全身ぱぁーって光ってね」
セツコはヒッポを見た。
「おう、髪の毛もこう、ぶわってなっての」
「それで、腕をこんなにして前に出してから」
セツコは両手首の内側を密着させた状態で両腕を前に突き出し、手のひらを開いた。
「はーって言うて、手からなんか出すんよ」
クリストフォロスの表情を確認したセツコの顔から、笑みが消えた。
「何ね。クマちゃん信じとらんのん?」
クリストフォロスは自分のヘッドセットを指さした。
「これのせいで貴様らの心音は聞こえぬが、それでも貴様らが下らぬ与太話をしていることくらいは分かる」それから、軽く目を細めてセツコたちを見た。「本当にあの娘が心配ではないのか?」
セツコが肘でヒッポを突っついた。
「ヒッポちゃんが心配しとるんなら、ユーチューブ観ようかね?」
「やせ我慢すんなや。心配しとるんは、セツコのほうじゃろうが」
セツコとヒッポは数秒睨み合った。結局、セツコはスマホ型端末でブラウザを開き、ブックマークからサヤカのチャンネルを選択した。
画面の中のサヤカは、闇の中にきらめく博多へと大の字になって背中から落下しながら、自撮り棒の先に向かって絶叫した。
「みなさんこんばんはー! サヤカでーす! 今日のサヤカの服見てー! 知っとる人おるー? 今日のサヤカはぁ、攻殻機動隊の少佐でーす! それでねー、サヤカどこにおるか分かる人ー?」
サヤカは手を振った。
「サヤカねぇ、今、博多の上におるんよー!」
映像には、インテリヤクザが開発した自動音声認識プラグインによる、サヤカの口調等に応じて自動的にフォントの大きさや色や表示のしつこさを変化させるテロップが表示されている。サヤカは肩越しに地表を振り返った。
「それじゃ、サヤカこれから、博多で一番高いビルに行ってみるー!」
サヤカは空中で器用に姿勢制御して頭を地表に向けると、方向を調整しながら今度は弾丸のごとく速度を増して、真っ逆さまに自由落下を続けた。前からの風圧で髪の毛がオールバックになり、サヤカは「でこ出すぎ、でこ出すぎ」とつぶやいて前髪と額を押さえた。サヤカは自撮り棒を脚に沿わせて持った。サヤカ後方至近から撮影する画面の中で、宮殿のごとく装飾されたビルの頂上部分が前方からどんどん近づいてくる。
ビル頂上が目前となった。サヤカの落下速度は遷音速にまで達し、圧縮された空気の壁が白い円錐となってサヤカを包んた。サヤカはくるりと半回転して自撮り棒を頭上に掲げた。そしてそのまま、ビル屋上のテラス部分に、片手の拳と片膝をつく姿勢で着地を決めた。轟音とともにビルが揺れ、床が割れた。スマホ型端末のカメラは、サヤカの足元と床に突いた拳から広がる亀裂を真上から捉えた。
幸い、床は抜けていない。サヤカは立ち上がって自撮り棒を持った手を前方に伸ばし、その場回転した。
「見てこれー! なんかパーティーしよるー! すごーい! マジでアガるんじゃけどー!」
サヤカの後ろでは、着飾ったパーティーの客が蜘蛛の子を散らすように逃げている。
「あの人らは、あれなんかね? なんてゆうたっけ。博多貴族? なんかね。聞いてみましょー!」
サヤカは自撮り棒を右肩に担いでボディーガードらしき黒服の集団に歩み寄った。サヤカの後方肩越しの視点の画面の中で、我に返った黒服たちが、手に手にハンドガンやサブマシンガンを構えた。
銃撃が始まった。端末の画面を見ていたセツコとヒッポは、静かに手で顔を覆った。
「撃ってきたー! マジ撃ってきたよみんなー! ぶちヤバーい!」
サヤカはアイドル性をかなぐり捨てて狂笑しつつ、テラスや神殿じみたペントハウスの壁面を出鱈目に跳ね回り、自撮り生配信を続けた。階下から続々と応援の黒服が駆け付け、繰り返しリロードしながらのフルオート連射が続いた。だがそれも一分ほどしか続かず、全員弾切れとなった。サヤカは黒服たちを背にし、自撮り棒の先に向かって手を振った。
「バリすごかったー! マジこわーい!」
サヤカは一瞬黒服たちを振り返った。黒服たちが一斉に後ずさった。サヤカは自撮り棒に向かって訊ねた。
「サヤカなんもしとらんのに、なんですぐ撃ってくるんかね?」
サヤカは再び右肩に自撮り棒を担いで、黒服たちに向き直った。黒服の一人が思い出したように慌ててサブマシンガンを投げ捨て、腰の後ろからコルトパイソンを抜き、銃口をサヤカに向けた。
サヤカは前方に左手をかざした。盛大に銃口を震わせながら、黒服はコルトパイソンを乱射した。サヤカの左手が霞んだ。コルトパイソンは一瞬で弾切れになった。サヤカは自撮り棒を前に戻して笑うと、握っていた左手を自撮りレンズの前で開いた。数個の銃弾がその手にあった。サヤカは視聴者に報告した。
「サヤカは無事でーす!」
そしてサヤカは、自撮り棒を後方肩越し視点に戻すと、黒服たちの足元に向けて左手のマグナム弾をぞんざいにばら撒いた。甲高い跳弾の音とともに床に火花が散った。何人かの黒服が失禁した。
サヤカはコルトパイソンの黒服に近づくと、その肩に手を置いた。黒服の膝が崩れ落ちた。その他黒服はサヤカたちを遠巻きにするように退いた。サヤカは軽く腰をかがめてコルトパイソンの黒服と肩を組み、前から自撮りした。
「第一博多民はっけーん!」サヤカは横の黒服の顔を見た。「お仕事は何ですかー?」
サングラスをかけた黒服の顔は早くも汗みどろだ。黒服は慄きながら声を絞り出した。
「その、ひ、秘書です」
「おじさんを雇っとるんは、何ていう人なん?」
黒服はガタガタ震えた。サングラスの下から涙が流れた。そして懇願した。
「ごめんなさい……言えません……許してください……!」
「どしたん? なんでサヤカのこと怖がるん?」
サヤカは黒服を開放して、無人となったパーティー会場を背景にした。
「ビルは超大きいのに、パーティーはなんか普通っぽい。サヤカお酒飲めんし、あんまおもしろくない感じ」
コルトパイソンの黒服はうずくまって震えながら、泣いた。サヤカは別な黒服の一団に近づいた。黒服たちがサヤカを恐れ左右に分かれた。サヤカは無視して、まっすぐビルの縁まで進み、下を覗き込んだ。
「すごーい! ほんまにクルマが飛びよるよー! 見てー!」
サヤカは自撮り棒を天に突きあげ、その先を振り仰いだ。見上げるサヤカの頭部の下には、様々な色の光点が瞬きながら空中を行き交う暗闇と、燦然と輝くビル群。地表近くにはネオンサインの光が見えるが、余りのビルの高さに地表は霞み、はっきりと見通せない。
「すごいなんかSFっぽい! 絶対あっちのほうがおもしろそう!」
サヤカは黒服たちに「お邪魔しましたー」と手を振った。そして再び自撮り棒の先に問いかけた。
「あれなんて言うたっけ。なんか言うよね。飛び降りるとき」
サヤカはビルの縁に立ち、少し考えてから、誤った内容で伝えられたネットミームを思い出した。サヤカは、棒立ちになって後ろに倒れながら叫んだ。
「ネットは広大だわー!」
サヤカは屋上から落下した。空へ突き出した自撮り棒のスマホ型端末のカメラは、今度はビルとネオンの煌きと、急速に近づいてくる博多の地表を写す。サヤカは地表近くでビル壁面を蹴り、斜め上に飛んだ。そして放物線を描いて、混雑する歩道に舞い降りた。周囲の地元住民が驚愕した。サヤカは構わず、またその場回転で周囲を写した。
「ヤバーい! マジこれすごい攻殻っぽい! 超アガるー!」そして、通りのさらに向こうの光景に目を奪われた。「ぶちすごいのが建っとるー!」
サヤカはぶちすごいのを背にした。通りの先には、数ブロックを占拠して聳え立つ、ジャンクを積み上げて建造し電飾を施したタイレル社本社のごとき異様な建造物があった。サヤカは、間違った未来からやって来たパンクロッカーのごとき外見の通行人を見つけ、その肩を掴んだ。そしてぶちすごいのを指さした。
「お兄さん、あれなんていうん?」
無礼に対していきり立ってみせようとした通行人の表情が、サヤカの顔を見て一変した。
「え? サヤカちゃん!? スゲえマジ本物!? スゲえマジヤベー!」
「お兄さんサヤカのファン? 超嬉しいー!」そして再びぶちすごいのを指さした。「あれ、なんていうん?」
「あれ? あれ、『天神』ってみんな呼んでる。サヤカちゃん行ってみる?」
「天神ぶちすごーい! マジ行きたーい!」
サヤカは、しきりにインスタ投稿を繰り返す案内人とともに、天神に向かって博多の雑踏を歩んだ。サヤカが来襲した地点はあれでも博多の中では上品な場所だったのだろう。野放図に夜空へと伸びるビルの間を天神に向かうほどに、街の雑然とした無国籍情緒がいや増す。三分ほども歩くと歩道は、車道にはみ出した、いかがわしさこそが最大の魅力といった趣の、雑多な屋台の群れに占拠された。通りかかった路地の入り口を何となくのぞきこんだサヤカが、突然立ち止まった。
「すごいあれ見てー!」
サヤカは路地の奥を背にした。路地の奥、サヤカの背後に見えるのは、「お好み焼き なっちゃん」の暖簾を掲げた店。
「博多にもお好み焼きあるんじゃー」
サヤカは案内人をほったらかしにして路地の奥に進んだ。端末でその様子を見ていたセツコとヒッポは、共に額に手を当てて天を仰いだ。ヒッポはガラケー型端末を取り出し、ベンの番号を呼び出した。
「おいベン! サヤカが『なっちゃん』に近づきよるぞ! おんどりゃ、よりによってサヤカにあれ教えたんか?…………教えとらんでも関係ないわい! 今すぐサヤカに電話して配信やめさせえ!…………うっさいんじゃ! 儂がサヤカに言うてあいつが素直に言うこと聞くんなら、ハナっから苦労せんわぁ!」
ヒッポとベンの通話をよそに、スマホ型端末のディスプレイの中のサヤカは再び立ち止まった。その清楚な顔に、にわかに殺意が浮かんだ。
「はーあ? 何あれ? マジ許せんのんじゃけど! みんな見てあれ!」
サヤカは、マジ許せんのを背にした。サヤカの後ろにある、店の入り口の両脇に立つ幟は、太い毛筆風フォントで「広島焼き」と染め抜かれている。
「何なんこれぶち許せん! サヤカマジで殺したくなってきたんじゃけど! 今からお店の人に言わんといけん!」
続きを見ていられなくなったセツコは、ブラウザのタブを閉じた。目まぐるしい出来事の連続だったが、配信開始から一〇分余りが経過したにすぎない。短くも激しい通話を終えたヒッポがため息をついた。
「ほんま、一体どういう悪運をしとるんじゃサヤカのあほんだらは。普通博多に飛び降りて一〇分で、よりにもよっての、あそこに偶然辿り着くもんか?」
「普通言うんならね、最初っから博多に飛び降りたりせんよ」
ヒッポは目を剥いてセツコを見た。セツコの目に、あきらめの色が濃く漂っていた。喉元まで来ていた罵声がひっこんだ。ヒッポは呻き、目を閉じて、呟いた。
「ほうじゃの。最初っから普通じゃあないよの」
操縦席から、間もなく浦上特別区上空に到着する、とヘッドセットに通信が来た。ヤクザたちは立ち上がった。座ったままのクリストフォロスの顔には明らかな恐怖があった。ヤクザたちは、慣れた手つきでパラグライダーを背中に装着し、互いに指さし確認した。そして、クリストフォロスを囲んだ。ヒッポが壁のヘッドセットを掴んだ。
「おいクマ公、おどりゃあスカイダイビングの経験あるんか」
「……あるわけがなかろう」
「ほいじゃあタンデムジャンプじゃね。誰と跳びたい?」
「俺はお断りだ」
古賀野が先手を打って即答した。ヒッポはニヤニヤ笑ってクリストフォロスを見た。軽く顔を上げて呪いの猫の顔を見たクリストフォロスは、やがて観念してセツコを見上げた。セツコは破顔した。
「そんな怖がらんでもええよねクマちゃん」それからセツコは身悶えして見せた。「ウチが優しくしてあげるけえ」
ローディングドアが開き始めた。セツコはクリストフォロスを立たせ、背中から抱きついて、ハーネスで二人を繋いで縛った。クリストフォロスは、彼女の胸部から自分の背中へと伝わって来る暴力性に震え上がった。
――――――――――
鳩時計が午後一一時を知らせてもまだ、テレサはランプを灯したまま、革張りの天板を手前に傾けた文机に向かっていた。火の気のない暖炉には、丸めた書き損じがいくつもある。あれも寝る前にきちんと燃やさなければいけない。
テレサは、自分が担うであろう役割を思った。それは間近いと聞いていた。一昨日ヴェロニカから良くない知らせを耳打ちされた。クリストフォロスが運んでいた、長崎を出て日本に辿り着いたらその知らせを運ぶはずだった伝書鳩が、手紙なしで戻ってきたという。危険が迫ったことで、クリストフォロス自らが急いで手紙なしの鳩を放したのだろう。そうヴェロニカは話した。それからクリストフォロスの行方は杳として知れない。
今はそのことを考えても仕方がない。その時のために、今は自分の役割に集中しなければ。これは他の大臣にも誰にも任せることはできないし、相談もできない原稿なのだ。テレサは自分の肩を軽く揉んでから椅子に座りなおした。そして完成が遅れている原稿を手にして、今日書き進んだ部分に目を通した。
「……わたくしたちには、世界に対してこのまま永遠に沈黙を保つという選択肢もありました。みなさんにとっては、わたくしたちがそのような選択肢を選ぶほうがよかったのかもしれません。異なる教義、異なる思想にある人たちが、それぞれの居場所でお互いに干渉することなく棲み分ける、それがもしかすると、結局、世界の人々全てが幸せに暮らすただ一つの賢い方法なのかもしれません。そして多分、きっとそうなのでしょう。ですが、それでもわたくしは……」
コツコツと音がした。廊下に通じる扉からではない。それでもテレサは咄嗟に、字引きの下に原稿を隠した。それから、再び音を立てた、テレサの背後にある箪笥に近づき、小声で誰何した。
「何者じゃ。名乗れ」
「私です。クリストフォロスでございます。開けてもよろしゅうございますか」
思わず安堵の笑みが漏れた。意識して口元を引き締めた。それから返事をした。
「良い。入れ」
ゴトリと音が鳴って、箪笥がひとりでに真横に動いた。箪笥の裏にあった小ぶりの扉が開き、背を屈めながらクリストフォロスが現れ、跪いた。何故か作業着のような黒いつなぎを着ている。更に意識して口元を引き締めた。そして、クリストフォロスに続いて現れた者らを見て、引き締めていた口があんぐりと開いた。
まず入ってきたのは、テレサよりもやや背の低い、可愛らしい桃色の鼻の、二本足で歩く猫だった。しかも、クリストフォロスと同じ黒い服。ただ呆気にとられていると、今度は、まるでカエルのような珍妙な顔をした小太りの男。最後に、テレサよりも随分背が高い、艶がある黒髪をなぜかキノコか何かのような妙な形に整えた女。やはり、男も女も同じ黒い服。
テレサを見た女が、にいーっと笑って口を開いた。
「こんばんはテッちゃん。ウチはセツコ。セッちゃんって呼んでね」
テレサは瞬きして、ただその女を見た。テッちゃんというのは自分のことなのだろうか。ようやく、クリストフォロスに問いただすという手段が思い浮かんだ。
「クリストフォロス殿、この者らは誰なのじゃ?」
途端に、見知らぬ者らが一斉に噴き出して笑い始めた。猫が笑いながら、前足でテレサを指して、喋った。
「のじゃとか言いよったでこいつ!」
続けて猫は、クリストフォロスを罵った。
「おどりゃあこのあほんだらが! 何ちゅう喋り方させとんじゃ! バカにしとんかこの腐れ外道が!」
女もクリストフォロスを楽しそうに罵った。
「あんたあね、絶対ウチらのこと馬鹿にしとるじゃろ!」
小太りの男がへらへらしてクリストフォロスを罵った。
「この間抜けどもを見りゃ、俺の昔の苦労がちったあ分かるだろ?」
あのクリストフォロスが、忌々しげな表情を露わにして、小声で叱った。
「殿下の御前だぞ! 控えおれ! それにだ、時間帯を考えろ! 大声を出すな!」
猫が立ったまま前足を胸の前で組んで、箪笥にもたれかかった。
「何が控えおれじゃこのあほんだら。のじゃ子ちゃんがいつから儂らのお姫さんになったんじゃあっちゅうんじゃこのボケが」それから猫はテレサを見た。「言っとくがの、無礼じゃなんじゃあ抜かすなや。もし英語で喋っとったら、こがいにお上品にゃあ行かんで」
小太りの男が、跪くクリストフォロスの頭を掴んで揺すった。
「てめえが俺に何やらせんのか知ってるくせによ、どのツラ下げて礼儀がどうのこうの抜かすんだ? このイーサン・ホークのパチモンが」
女があっと驚いた表情になって、小太りの男とクリストフォロスを交互に指さした。
「ほうよほうよ! どっちかって言うたら、クマちゃんイーサン・ホークが一番似とるわぁ! なんで気付かんかったんじゃろ」
「そういやあイーサン・ホークの顔いうたら、なんでか妙に印象に残らんけえかのう」
「クマちゃん」と呼ばれたクリストフォロスは、数日会わなかっただけで一体何が起こったのか、今までにテレサの前で見せたことがないような、感情剥き出しの怒り心頭といった様子で、奥歯を噛みしめている。それが何故か妙におかしくて、テレサは噴き出してしまった。悪いと思っているのに、抑えようとすればするほど笑いの発作が強くなる。イーサン・ホークとは誰なのかすら分からないのに、とうとうテレサは声を上げて笑ってしまった。
潔く諦めて、笑いに身を委ねながらふと横目でクリストフォロスを見ると、なんと、跪いたまま、驚きと絶望の表情を浮かべてテレサを見ている。この方法は覚えておこう、とテレサは内心密かに考えた。女がテレサの前にしゃがんで、笑顔で下からテレサを見た。
「笑ったねえ。よかったわぁ! びっくりさせちゃったかねぇ? あの猫ちゃんは、お姉ちゃんがあとでちゃんと叱っとくけえね?」そして女が振り返って猫に言った。「ほら、ちゃんとお行儀良くして、テッちゃんに御免なさいしんさい」
猫がだらしなくテレサに向き直った。
「儂ゃあヒッポじゃ。すまんの。お姫さんに悪気があったんじゃないで。大体あのクマ公がいちいち儂らをイラつかせるんがいけんのんじゃ。ついでに、あのデブは古賀野じゃ」
「デブじゃねえし。それによ、お姫様は俺の名前なんか知りたくもねえだろ」
心の中で「クマ公」と言ってみた。また笑いがぶり返しそうになった。急にちょっとした悪戯を思いついた。その様を想像すると、不思議と表情を律することができた。テレサは、意識してツンと澄ました態度をとった。
「クリストフォロス殿」
「はっ! この者らの無礼は、何卒私に免じて平に……」
「それは良い。それよりも貴公はまだ、わらわの質問に答えておらぬぞ?」
クリストフォロスが、明らかに虚を突かれた顔になって狼狽した。
「ははーっ!」
クリストフォロスはこうべを一層低く垂れて答えた。
「この者らこそ、以前にも説明奉りましたところの、広島なる退廃と悪徳の街に巣食う、ヤクザと称する者。いささかの礼儀もわきまえぬ厚顔無恥の輩ながら、致し方なくその助力を請うに至りましたのは、すべて私の……」
テレサはそれを半分聞き流しながら、口の端を持ちを上げて、ヤクザたちに意味ありげに目配せして見せた。気付いたヤクザたちは、テレサと目を合わせて噴き出した。
「……何卒御許しくだされたく、僭越ながら、殿下の御慈悲を乞い奉る次第でございます」
ようやく長口上が終わった。テレサは努めて冷静に言い渡した。
「あい分かった。面をあげよ」
ほっとした様子を隠そうともせずに、クリストフォロスが顔を上げた。あの表情も見たことがない。この間までの、完璧なほどの沈着冷静な忠勤ぶりはどこに行ってしまったのか。クリストフォロスの表情を見たヤクザたちは、またしても遠慮なく笑った。クリストフォロスが睨みつけても、一向に気にする様子がない。
たしかセツコと名乗ったヤクザが笑顔で言った。
「クマちゃん、テッちゃんとウチら、仲良くやっていけそうよ。よかったねぇ!」
クリストフォロスは、否定と肯定のどちらの返事が礼を失するのか判断に迷っている。
「別に良かねえよ」
古賀野というヤクザが無遠慮に近づいてきて、テレサの顔、そして手足を矯めつ眇めつした。それから、手のひらに乗る大きさの妙な板を取り出して、色々な角度からテレサにかざした。板が幾度か、ぱしゃぱしゃと音を立てた。それから古賀野はクリストフォロスに訊いた。
「この部屋の中で便所か風呂場はあるか? できれば鏡つきの」
クリストフォロスは、不承不承といった様子で、無言で風呂場の扉を指さした。古賀野はそちらに向かわず、箪笥に向かった。
「服借りるぞ」
そう言って、箪笥を開き、普段着の質素な洋服を一つ手に取った。それからテレサを見て言った。
「言っとくけど、あんたのためだからな。直に目にするのは気持ちがいいもんじゃねえ」
そして、古賀野は風呂場に入った。
二分も経たずに再び風呂場の扉が開いた。中から出てきた少女が誰なのか、一瞬テレサには分からなかった。セツコが真っ先に声を上げた。
「凄い! 完璧よぉミッキー!」
猫が感嘆した。
「いっつもまあ、凄いもんじゃの」
ようやくテレサは悟った。あれは自分の姿なのだ。鏡で見る自分の姿とは印象が全く違う。他人には自分がああ見えているのかと、不思議な感じがした。少女が喋った。
「声はどうだ?」
「なんかちょっと違う感じじゃねえ」
少女が近づいてきた。そして、「適当に声出せ」と言って、テレサの首元を触った。テレサは何かに呑まれたような心地で従った。少女もあーあーと声を出した。少女の首に波が走り、喉の形が微妙に変化した。少女が喋った。
「あめんぼあかいなあいうえおー」
これも聞きなれた自分の声とは随分と違って聞こえる。だがセツコが答えた。
「ばっちりなんじゃないんね? どう、クマちゃん?」
「……問題ないだろう」
「次は、手ぇ出せ。両方」
テレサは両手を差し出した。少女はテレサの手のひらを少女に向けさせた。そして少女は右の手の甲をテレサの右の手のひらに重ね、左も同じようにした。少女の指の長さや太さ、そして爪の形までもが変化した。少女はテレサの手のひらと手の甲を何度かひっくり返しながら、少女の手を仕上げた。少女が言った。
「細かいかもしれねえけど、この辺のディテールは意外と違いが目立つんだ。ちょっとした傷とかな。それじゃ、すまねえが質問タイムだ」
少女は一歩退いた。そしてテレサに訊ねた。
「人前で裸になることはあるか? 風呂やら着替えやらなんやらで」
テレサはたじろいた。クリストフォロスが憤慨して何かを言おうとしたのを制して、テレサが答えた。
「そういったものごとは、全てわらわ自身の手で行っておる。わらわは姫と呼ばれる身であっても、過去の時代の貴族のごとき者ではないのじゃ」
「医者にかかることは?」
「ない。神の類まれなる恩寵により、わらわはこれまで大きな不予に見舞われることはなかった。定期的な健康診断のようなこともない」
少女がほぅと息を吐いた。
「それだけは神に感謝だな。もし医者に診られるんだったら、あんたの裸もじっくり拝見しなきゃならなかった」
クリストフォロスが目を吊り上げて、少女に向かって口を開こうとしたので、テレサが手で制した。なんだかこれも楽しくなってきた。クリストフォロスには分からないのだろうか。少女がテレサの顔でにやりとテレサに笑った。
「あと大事な質問、というかマジで教えて欲しいんだけどな、あんたが侍女のたぐいを、半日なり丸一日なり人払いできる、うまい口実はあるか? できるんなら、ああいうお喋り好きの奴らには、事情明かすとか協力求めるとか抜きで済ませてえんだ」
「実はここ数日、演説の原稿にかかりきりになっておるのじゃ。特に用事がなければ、誰もわらわの部屋には来ぬよう申し伝えておる。必要があれば、ヴェロニカに言伝てを頼んでおる」
「ヴェロニカ?」
「私の副官で、殿下の警護主任だ。彼女には計画を説明してある。信用して構わない」
「ありがてえ。俺がたまにクリスの格好して相手しても、ヴェロニカちゃんは怒らないよな? むしろ喜ぶよな?」
「安心しろ。予め、貴様の正体はカエル面の太った酒飲みだと説明してある。不埒な振る舞いには及ばぬことだ」
少女は無言で憎たらしいしかめっ面をした。誰も見ていないところで、あとで自分もあの顔をしてみようと思った。
「あとは普段会うやつのことを聞かせてくれ。正直誰が好き誰が嫌いみてえな、結構突っ込んだところまで。プライベートじゃ仲良かったのに、急に態度が変わったとか思われたら、あっという間に疑われるからな」
さすがに迷った。思わずクリストフォロスの顔を見た。クリストフォロスは特に不審に思っていないようだ。少女が言った。
「もちろん、内容は他の奴には絶対内緒だ。聞かれてまずい内容っぽかったら、風呂場とかで二人だけで話す」
こちらの発言にはクリストフォロスが噛みついた。
「ふざけるな。たとえそのような僭越極まる姿であろうと、誰が貴様のような下種を殿下と二人きりに……」
「なに下らねえ駄々こねてんだよ! 俺だって仕事でやってんだ! てめえの騎士ごっこに付き合ってる暇なんかねえよ! 大体時間ねえし!」
言いながら、少女はテレサの手を引いて風呂場に大股で歩み行った。風呂場の扉をくぐったその時、普段から聞きなれた、だが意外な声が聞こえた。テレサは振り返った。
「いや、夜明けまではまだ、だいぶ時間があるのではないかな?」
あの小ぶりな秘密の戸口を窮屈そうに身を屈めながら、粗末な麻の僧服を着て腰を荒縄で縛った、灰色の髪と髭の男が現れた。男が皆を見て、言った。
「手持ち無沙汰の諸君は、わたしの話し相手になってくれんか」
テレサの父だった。