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第1回リサーチ発表レポート ~能力主義の終末点としての「津久井やまゆり園事件」~

はじめに

人間の条件は、津久井やまゆり園事件を題材にした新作『The Human Condition』(2024年9月発表予定)に向けてリサーチを進めています。

※『The Human Condition』の制作に先立って先日公開した、脚本・演出のZRによる覚書はこちら。

また人間の条件では現在、リサーチ内容を都度共有し、開かれた対話の中でさらに理解を深めるための連続企画を行っています。

■企画タイトル
人間の条件リサーチ発表 連続企画「津久井やまゆり園事件と対峙する―『The Human Condition』にむけて」

■企画概要
演劇団体人間の条件が、津久井やまゆり園事件を題材にした新作『The Human Condition』(2024年9月発表予定)に向けた準備としてのリサーチを、開かれた対話の中で進めるための企画です。

2016年7月26日に起こったこの事件では、「意思疎通の取れない人間には生きる価値がない」という基準のもと、19人の知的障害を持った人々が殺害されました。この事件は多くの言説を呼び起こし、犯人である植松聖の主張に対しては多くの反論が述べられてきました。植松の主張の殆どは言葉の上で否定できる稚拙なものです。しかし、その主張それ自体を超え、この事件が突き付けたものを俯瞰して考えると、未だこの社会に温存された対処しがたい問題が多くあることに気づきます。

『The Human Condition』においては、この事件を貫く問題は能力主義にあるととらえています。「何ができるか」によって人間の価値を測る、この普遍的な考え方を突き詰めた末に起こったのがこの事件です。これは、「ホームレスの命はどうでもいい」「高齢者は集団自決すればいい」というような近年の著名人による発言にも通底する考え方で、私たちの生活の中に逃れがたく浸透しています。『The Human Condition』では、これに抗する方法を身体を通じて観客の皆さんと共有していくことを目指しています。

しかし、その前段階として、言葉で考えられる部分は可能な限り言葉で考えておこうと思います。本リサーチ発表では、文献調査や取材を進めながら、その過程を公開し、参加者の皆さんとの対話の中で進めていくことを目指します。

そのうえで、他者との出会いの場としての銭湯の公共的可能性を重んじ、国連機関の職員を退職後に墨田区京島にて『電気湯』(大正11年創業)を経営されている大久保勝仁さんをお迎えし、休業日の電気湯の脱衣所をお借りして、この問題を考えていこうと思います。

ぜひ様々な方にお立会いいただければ幸いです。

(人間の条件・主宰 ZR)

■登壇者
ZR(人間の条件主宰・演出)
大久保勝仁(電気湯店主)
+ゲスト(ゲスト回のみ)

■場所
電気湯(東京都墨田区京島3丁目10−10)
京成曳舟駅から徒歩5分

■日時
2024年
①5月4日(土)14~16時 能力主義の終末点としての「津久井やまゆり園事件」
②6月1日(土)10~12時 能力主義に抗するために
③6月22日(土)14~17時 『The Human Condition』にむけて
(開場はすべて開始時刻の30分前)

■入場料
500円(当日現金精算)

■団体紹介
2019年、東京大学在学中にZRによって立ち上げられた演劇団体。「それなしには人間が生きていくことのできないもの」をコンセプトに、簡潔で切実なドラマを、動的な身体によって描く。近年は、演劇だけでなくダンス・舞踏の要素を取り込み、新しい身体のドラマの構築を目指している。近年の発表作に、『曾根崎心中』と『東海道四谷怪談』を「生活の汚れ」というキーワードでつなげた『四谷心中』や、坂口安吾の原作小説をケアの視点から翻案した『桜の森の満開の下』など。
リサーチ発表 連続企画の概要

5月4日におこなわれた第1回リサーチ発表では、人間の条件のメンバー2名(ZR・野田帰里)と、会場である銭湯「電気湯」の店主大久保さんに加え、5名の方にお越しいただきました。

構成は大まかに以下の通りです。
前半:人間の条件主宰・ZRによるリサーチ発表
後半:参加者全員での座談会

電気湯の開放的で心地よい雰囲気にうながされ、話の尽きない時間でした。

■企画タイトル
人間の条件リサーチ発表 連続企画「津久井やまゆり園事件と対峙する~『The Human Condition』にむけて~」

第一回 能力主義の終末点としての「津久井やまゆり園事件」

■企画概要
この連続企画は演劇団体人間の条件が、津久井やまゆり園事件を題材にした新作『The Human Condition』(2024年9月発表予定)に向けた準備としてのリサーチを、開かれた対話の中で進めるための企画です。

第一回となる今回は、客観的な事件の情報をまとめたうえで、「能力主義」という視点でこの事件をどのように見ることが可能か、という点について深めていきます。

「能力主義」に近い言葉として「優生思想」が挙げられます。「能力主義」は能力によって人間の価値を判断することですが、それを突き詰めて「能力のある人間を生かし、能力のない人間を殺す、あるいは生まないようにする」のが優生思想だと言えます。日本でも、遺伝性を持つとされた障害・疾患をもつ人への強制不妊手術を認める優生保護法が1948年から1996年にわたって存続し、実際に多くの手術が施されました。

そこで前提とされた思想と事件の犯人である植松聖の思考のつながりを通じて、問題の根っこである能力主義とは何かを明らかにしていくことを目指します。その中で、これが今の社会にいかに後半に浸透しているかを確認していくことになります。

■登壇者
ZR(人間の条件主宰・演出)
大久保勝仁(電気湯店主)

■場所
電気湯(東京都墨田区京島3丁目10−10)
京成曳舟駅から徒歩5分

■日時
2024年5月4日(土)14~16時(開場:13時30分)

■入場料
500円(当日現金精算)
第1回リサーチ発表の概要

この記事では、第1回で行われたリサーチ発表の内容をご紹介したのち、座談会で話し合われた内容を論点ごとにまとめていきます。



リサーチ発表の内容まとめ

前半では作・演出のZRから、リサーチの中で明らかになっていった事実や論点について、以下のようなアジェンダのもと、共有がなされました。

  1. 出発点であり目標地点

  2. 津久井やまゆり園事件

  3. 植松氏の主張について

  4. 能力主義とは何か?

  5. 戦後日本における優生思想

まず、「1. 出発点であり目標地点」では、「全ての命は、ただそれだけで価値がある。それは他者に否定・肯定されるようなものではない。」という点を確認し、それを疑うことに出発点があり、そこに行きつくところに目標地点があることを確認しました。
その後、2と3において、事件の概要と植松氏の主張について確認し、その主張の中で容易に反論できる部分と私たちが向き合わねばならない「能力主義」という観点についての腑分けを行いました。
「4. 能力主義とは何か」では、いわゆるメリトクラシーといった意味合いを超えて、このリサーチ発表と作品で問題にしたい能力主義とは、「能力があることを是とし、能力のないことを否とすること」であることを確認しました。
「5. 戦後日本における優生思想」では、国民優生法から優生保護法、母体保護法の変遷の中で、障害者の生きる権利・生む権利をめぐってどのような言説と闘争が展開されたかについての発表を行いました。

詳しくはこちらの発表スライドにてご確認ください。



以下では、後半の座談会で話し合われた内容をテーマごとにまとめていきます。

座談会トーク①植松聖氏と能力主義

2016年7月26日に起こった津久井やまゆり園事件では、「意思疎通の取れない人間には生きる価値がない」という基準のもと、植松聖によって19人の知的障害を持った人々が殺害されました。
『The Human Condition』においては、この事件を貫く問題は能力主義にあるととらえています。「何ができるか」によって人間の価値を測る、この普遍的な考え方を突き詰めた末に起こったのがこの事件です。

座談会では、能力主義という社会的背景と事件の結びつきを考えるうえで、以下のようなコメントがあがりました。

個人的にはやまゆり園事件と能力主義の繋がりというのは、植松聖自身の能力主義の中での位置づけを考えなければいけないと思う。
能力主義の中での位置付けが高い立場からの殺害というよりは、むしろ自分は低い位置付けであると感じているからこそ、より価値がないと感じる相手に対して行われた殺害なのではないか。

植松聖の中で心失者という言葉の定義がぼやけているということが、インタビューから分かる。
彼にとっては、やまゆり園のような隔離された場所にいる人という具体的なイメージがあり、それに当てはめるために心失者みたいな言葉を作り出し、でも言葉として定義が抽象的に固まっているわけじゃないから、具体的なやまゆり園の人を結果的に攻撃するに至ったのではないか。
コミュニケーションされなかった層というのを彼は身近に知っていたからそういうところにフォーカスした定義を持ち出したのではないかと思う。

(以下、座談会であがったコメントはこのように紹介していきます。)

このコメントを受けて、事件が起きるに至ったモチベーションは決して理解不能な他人事ではない、という声がありました。

事件の動機は我々と関係ないとは言えない

自分が社会の役に立っていると感じたいけどそれを実感できる瞬間は少ない。それがモチベーションになっているというのは、共感できてしまうから怖い。

生きている価値がない、という考え方が、自己に向かう人も多い。自分あんまり生きている意味ないかもという否定の仕方。その意味では繋がっているとも言えるかもしれない。

不安を解消するものとしての差別

差別的な言動がなされるのは、それが単純に気持ちいいから。
多数派に属しているという気分になる心地よさがある。また、それによってできる安全圏がある。
社会に余裕がなくなる、例えばドイツが第一次世界大戦でボロボロに負けて、国として行き詰っていたからこそ優生思想が加速されたところもある思うし、社会的な不安だとかがあるとそういうものが加速される。

植松氏にも、この社会、世界で生きることの不安が根底にあったのではないか。


座談会トーク②能力主義との向き合い方について

能力主義は、私たちの生活の中に当たり前のように浸透しているものです。
しかし今、敢えてそれと向き合うならば、どのように考えることが可能なのでしょうか。

能力主義と命とは切り離されるべきである

社会を回すためにはある程度能力主義があってしかるべきだし、否定はできない。しかし政治(お互いに保護しあって生きていくという意味での政治)では、遠ざけなければいけない考えである。
その二重性が、社会生活という意味では同じだから重ねて考えられてしまう。

経済活動と国家が溶けあっているいま、能力主義と、そもそも全ての命には価値がある(あるいは、命は価値判断の対象ではない)ということを切り離すのはなかなか難しい。

そのうえで、制度によって解決していく方法として、Beyond GDPという例が挙がりました。これは現在作られようとしている、GDPに代わる豊かさの指標です。
主に生産量を計測するGDPに対し、Beyond GDPでは生活の豊かさ(Well-being)や、環境面を含めて評価します。

また、能力主義を別の視点で考えることもできます。

できないことにこそ価値がある

できないということ、需要を作ることにこそ価値があると熊谷晋一郎さんが言っていた。
例えば、車椅子の人がいるからエレベーターを作る、など。

できないということは、個人で対策させられることが多い。
それは、本来支払うべき社会的なコストを個人に押し付けてしまっているということであり、社会的な前進を妨げてしまうことである。

植松氏への死刑判決に潜む矛盾

能力主義と、そもそも全ての命には価値がある(あるいは、価値判断の対象ではない)ということは切り離されるべきである。そのように考えると、植松聖に対する死刑判決についても課題が見えてきます。

命に価値があるということに真理を求めた結果それに適合できない植松聖に死刑判決を出し、殺してしまう。そこに矛盾が存在する。


座談会トーク③アートにまつわる能力主義

障害のある人によるアートについて

障害のある人の作るアートは、百円ショップのダイソーで商品化されているなど、見かけることが増えてきました。
障害のある人の自立をサポートしたり、障害のある人への理解を促進したりするのにも有効な手段として、近年注目されることが多くなっています。

面白い、美しいといった価値判断は色んな媒体でチューニングできる。
例えば、「幻聴妄想かるた」というのがある。福祉事業所〈ハーモニー〉に通う人たちの幻聴や妄想を元に作られたユニークなかるた。

一方で、能力主義とのダブルスタンダードが見受けられることもあるというコメントもあがりました。

商業化されてしまったアウトサイダーアートには、ダブルスタンダードがどうしても付きまとう。
アート×障害の施設を見学したとき、アートを産むことが求められる感じがあって、それでいいのか?という感覚が残った。
一方で、「障害を通じて作品を作ろう」というより、「違いをただ楽しもう」という施設もある。楽しもうというそれだけの態度がある意味斬新でアーティスティックだと感じる。

障害の有無にかかわらず、みんなが参画して演劇を作るということ

演劇においても、障害のある人と作品を作ることが行われてきています。その上で気にしなければいけないことについて、コメントがあげられました。

障害者のためのダンスとか演劇という言葉自体差別的である。移行の段階としては必要だけど。
人間のための演劇しか本当はなく、障害を持った人も当然のように視野にはいっているべき。

また、大学の演劇サークルを例に取りながら、障害のある人と演劇を作るということについての議論も行われました。

クオリティの高いものを作ることを目的としたサークル。密な稽古スケジュールなど様々な決まり事があることで、障害のある人が参加しづらくなっているのではないか。
クオリティの高いものを作ろうとしたら、排除されてしまう人がいるというのはどうなんだろう。

それに対し、以下のようなコメントがありました。

包摂性は国民全員の義務というわけではない。
でもクオリティと障害のある人の参加は、両立できると思う。

クオリティというのはさまざまにありうる「質」の中にある、一つの質の中での量的な上下。質というのは無限にあって、今やっている質の中での量的なクオリティというのは、障害のある人が入ったらできないかもしれないけど、障害を持っている人が入ってもできるあるいはその人が入るからこそ上がるクオリティを考えてもいい。
恐らくそこに抵抗が生まれやすい。自分たちのやっていることを大きく変えなきゃいけないから。その前に障害を持っている人が当たり前にいる環境で育っていればそういうことは起こらない。

おわりに

座談会で出たコメントはまだまだあるものの、以下のコメントを挙げさせていただき、第1回リサーチ発表についてのまとめを締めくくろうと思います。

意識しなきゃいけないのは、こういう話をした上でたどりついてしまうある程度確からしい答えのようなものとか合意形成できたものとかは、当事者の人たちにとっては閉じられているところがある。
それをどうやって乗り越えるかをちゃんとした言葉を言い表せないと、植松聖のような人がまた出てきてもおかしくない。

人間の条件は、引き続きリサーチを進めていきます。

今後のスケジュール

・リサーチ発表
第2回 6月1日(土)10~12時 能力主義に抗するために
第3回 6月22日(土)14~17時 『The Human Condition』にむけて
会場はどちらも電気湯(京成曳舟駅から徒歩5分)です。

・次回公演
『The Human Condition』
2024年9月25日(水)~30日(月) @中野テルプシコール

執筆:野田帰里、ZR

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