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蕎麦変人おかもとさん #12

第十二話 七割八割

第十一話 ライターを辞めて松阪へ行きます

 一九九九年九月に入ってすぐのこと。かつて蕎麦特集を組んだあまから手帖の女性編集者Nが『THALI』にやってきてくれた。亡くなった住吉さんが特に可愛がっていた編集者で、僕に対しては今まで蕎麦以外にも関西各地の市場ルポや中華料理関係、旅の取材など、多様な企画を投げてくれていた、言わばライターとしての育ての親のような存在であった。

 住吉さんの思い出話の後、僕の話になった。

「ところでケンちゃん、こないだ誕生日だったでしょ。編集長が突然亡くなっちゃったもんだからそれどころじゃなかったね。はい、遅めの開業祝いと誕生祝い、これ合うかわからないけど」

 袋の中身はチェック柄のシャツであった。もう何年も自分の服なんて買ったことがなく、この時も元嫁はんの使い古しのトレーナーを着ていた。僕の誕生日は八月下旬である。

「うわわわ、ありがとう。覚えていてくれたんや。こういう普段着が欲しかってん」

「ところで奥さんとお子さんはどうなったの」

「うぅん、それがこっちに来て早々に離婚になってしもて。結局、子供は生まれたばかりの時に何度か風呂に入れてあげた程度でずっと離れ離れ。何か月かに一回合せてもらうけど、もう三歳になるというのに俺のことを誰この人って感じで、なんだか距離感がある」

「それは大変だったね。てっきり家族仲良くやってるものと思ってたけど。でも独身者の私が言うのもなんだけど、子供ってやっぱりお母さんと一緒に暮らす方がいいんじゃないの。大人の都合は横に置いておいて、子供のためを思うなら今の形でよかったんじゃない」

 彼女は当時で二九歳か三〇歳くらいだった。僕よりも五歳年下である。

「そうやな、そう思わなあかん、そう思いたい」

「だったら大阪に帰ってくればいいじゃん」

「な、なにを言うねん、それは考られへんって。だって親父の形見のマンションを売り飛ばして、大阪のすべてを捨ててきたんやから。もう帰る場所なんてあらへんって」

「じゃぁどうするの、ずっとこのまま松阪でインド料理屋ってわけ」

「うぅむ、正直、今後どうしていいのかずっと悩んでる。気持ちが混乱したままで整理がでけへんねん」

「詳しいことはわからないけどケンちゃんはよくやってると思う。もう十分じゃないかな。その熱意がいつか必ず奥さんや子供さんに伝わる日が来ると思うよ。これからは自分のために生きていいよ。本当にこのインド料理も全部おいしいし、この道もありだと思う。できれば編集部の近くが有難いけどね。

ただね、なんであれやっぱりケンちゃんには物を書いていてほしいな。それを待っている人が絶対にいるから。私たち編集部もみんな同じ気持ちだよ。これからもずっと応援してるから。いいじゃん、今時バツイチの男も増えてることだし。大阪と松阪なんてしれた距離だから子供さんにだってすぐ会いに来れるよ」

「でもまぁここで得ているものもあるから。都会にいたらわからんことが、ここでは色々感じられる。これは大きな収穫やと思って」

「うんうん、わかるよ。今すぐでなくてもいいから、私が言ったこと頭の隅っこに置いといて。いつだって大阪に帰ってきていいんだから」

 この夜、彼女は店の近くのビジネスホテルに泊まり、翌日大阪へ帰っていった。

 僕はいつものように朝八時から店の仕事に没頭するのであった。

 そして数日後、Nから連絡が入る。

「一つ相談があるんだけど、今年の十一月号でまた蕎麦特集をやろうと思って。あれ以来続々と増え続けている手打ち蕎麦屋を何軒か取材しようと思っているんだけど、その中で、関西の老舗たちの考え方について書いてみないかと思ってね。気になるでしょ、老舗の蕎麦屋たちのこと」

「そう言われてみれば今まで勢いのある新興系の蕎麦屋のことしか見えていなかった。老舗、めっちゃ気になる。機械打ちとか、中には海外産を使っている店もあるかもしれへんし。もしそうだとしたら、いや、そうでなかったとしても、今のブームについてどう思ってはるのか、ものごっつ知りたい」

「そうでしょ。老舗と言ってもいろんなタイプがあるだろうから、いくつかの店にインタビューとらせてもらって原稿をまとめたいなって思う。どの店にするか、意見を出し合って決めていきたいので、考えてからまた連絡くれるかな」

「うん、ぜひ」

 松阪でインド料理店一筋、のつもりが、あまりにも自然な流れでライターの仕事を快諾してしまったことに電話を切ってから気が付いた。

 後日、僕は久しぶりに取材のために関西へ向かい、無事に取材を済ませ、原稿を書き上げた。本が出たのは十月二三日。あまから手帖十一月号である。大見出しは「そば新時代」。第一特集は「関西・個性のそば打ち十七軒」。僕は特集の合間のコラムとして参加させてもらった。

 見出しは「進化する関西のそば屋 手打ち旋風、老舗をも動かす」とNが考えてくれた。取材先は大阪道頓堀の名店『御蕎麦処今井』、京都にしん蕎麦の元祖『松葉』、京都最古参と言われる蕎麦菓子屋であり、蕎麦屋としては三〇〇年以上の歴史を誇る『本家尾張屋』、そして創業は一九三〇年であるが今年『翁』に暖簾を架け替えたばかりの『なにわ翁』の四軒だ。

 十月末、岡本さんが泊まりに来る。十一月一日に鈴鹿サーキットで開催されるF1日本グランプリを観に行くためだ。

 夜、一緒にまかないを食べた後、老舗蕎麦屋の話題になる。 

「今回の特集、『なかじん』や『やまぶき』も出てましたね。あと『拓朗亭』が編集部の方に蕎麦打ち指南するページも面白かったです」

「ええ、九十年代になって『凡愚』『拓朗亭』あたりが起爆剤となって、九七年のあの特集あたりから飛躍的に蕎麦屋が急増しているようです。うどん絶対主義王国で、ついに補欠の蕎麦がレギュラーになろうとしている。いや、下手すると主砲格も夢ではないような勢いですよ」

「蕎麦ビッグバーン。まさに関西蕎麦ルネサンスです。中でも『じん六』『拓朗亭』『なかじん』『味禪』あたりの自家製粉への並々ならぬ取り組み方は、京都石臼の役とでもいうべきか」

「ほんま岡本さんはどんどんええキャッチが飛び出てくるなぁもう。なんで岡本さん記者にならないんですか。いや、まじで」

「ふふ、いいんですよ。僕はただの麺喰いサラリーマン。それはそうと老舗のコラム読みましたよ。あれはなかなか重責な取材ですね。その分内容が濃くて面白かった。柏木さんもおっしゃってましたよ。あれは河村にしか書けないって」

「うわぁ嬉しいです。実はあのテーマは編集のNが投げてくれたんですよ。老舗の考え方も聞きたいねって」

「確かに気になる部分です。噂には京都のとある中堅蕎麦屋の主人が、新興系蕎麦屋のことをえらく非難しているらしいですよ。あちこちに言い触れまくっているとか。やっぱり三たてでない先人からすると今の自家製粉や手打ちというのは面白くないんでしょうね」

「そりゃ新興系は、冷たいざる蕎麦が命ですもん。京都は元々熱いかけ類が主役。だしや具材で勝負してきたところに、いきなり冷たいざる蕎麦ですもんね。実際、そうおっしゃってた老舗が何軒かあったんです。中にはお爺さんの代まで手打ちでやっていたけど、時と共に機械を導入したという店もありました。その時は機械がトレンドだったのに、今頃やっぱ手打ちがいいと言われても困るわ、なんて言ってました。でも、なんだかんだ言っても、自家製粉や手打ちを再開されてれましたよ」

「なるほどね。結局、機械を導入することで少しでも安定した営業態勢ができたんでしょうね」

「そうです、飲食店にとって大事なことはおいしいものを作ることはもちろんなんですけど、最終的には安定継続だということでしょうね。店がなくなるとおいしいものもなくなってしまう。個人の考え方や技も大事やけど、続けるってのがもっと大事なんかもしれません。こればっかりはハウツー本には載っていない。老舗と呼ばれる店たちはこの難関を幾度も超えてきているんです」

「なるほどね」

 僕は今まで岡本さんと出会ったスポーツクラブでのラウンジの運営や大阪北部でバーを経営したりしてきた中で、その先にある安定供給こそが一番の壁であることを常々感じていた。今やっているインド料理店にしても同じことが言える。

「今の時代って二度とできないような究極の味しか認めない雰囲気が漂いつつありませんか。出版関係で働いてきた自分もそうさせてしまっている一員なのかもしれません。でも、実際の飲食業界人はみんな大変やと思います。『ターリー』でも最近よく思うんですけど、俺らはアスリートやないでってね。スポーツってだいたいは旬の時間がめっちゃ短いでしょ。それが過ぎるともう誰も見向きもしない、それと同じような感覚で飲食業界も見られつつあるような気がしてならんのです」

「なるほど、確かにそうかもしれません。でも、河村は天性の才能で乗り越えてきた。で、それをまた壊して一から創造する」

「いやいや、僕に天性の才能なんてないですよ。万が一あってもそれは種があるだけで、伸ばすも殺すもやっぱり努力次第。誰もがやることをやっての今なんやと思います。だから超とんがった最高に素敵な人ほど、将来をどうやって切り拓いていくのかが気になるんです。今の僕にはわかっていません」

「ふむふむ、それは経験してきた者にしか見えない壁ですね」

「そういう意味で、自称「ナニワのB旧蕎麦屋」の『かしわぎ』さんはすごいですよ。個人経営の十坪程度の小さな店の場合は、売上がそれほどないと機械にも人にも頼ることは不可能。若いうちはまだ体力があるからいいけど、年老いてきたり、柏木さんみたいに定年と同時期に始められたような方はそういうわけにはいかない。そうなると店の一番の売りは店主の生き様なんじゃないかと。柏木さんのことが格好良く見えるのは、あのいい加減さ、誠実さ、そしてその儚さなんじゃないかと思うんです。最初から七割の力で、究極は味より人柄だと」

「スポーツクラブのゴルフトレーナーもよく言ってました。全力でスィングすると球は思ったほど飛ばず、すぐに身体が壊れてしまう。七割、八割の力で振って芯に当てたほうがより楽に、正確で遠くまで飛ぶんだって」

「うわ、すごい言葉ですねそれ。今の僕にはそれが難しい。力を抜くためにもっと力が入るから。まだまだもいいところです」

「それ、面白い。F1の日本人ドライバーもそうかもしれませんね。ヨーロッパ勢はどこか軽やかでゆとりがあるように見えるけど、日本人はずっと必死。どこかいい意味で手を抜かないとかえっていいパフォーマンスが発揮できないのかも」

「それはあるかもしれませんよ。我々日本人からすると自ら黒船に乗りこんでるわけですから。やはり本場のヨーロッパ勢は脅威でしょう。ま、F1の場合はスポンサーとか人種とか政治的なもんも大きく影響しているような気もしますけど」

 老舗たちの取材は、気づきと発見がいっぱい詰まったとても有意義なものであった。どの店もさすがの風格で、新興の蕎麦屋を否定するどころか、いい刺激としてとらえているところがまた気持ちにゆとりがあるように思えた。

 今回取材を担当させてもらったのはとても光栄だったし、老舗の目線というものが少しでも理解できたことに、自分の知見が広がったような感じがして嬉しく思えた。

 翌朝、岡本さんと共に鈴鹿サーキットへ出かける。実は僕は十代の頃、プロのバイクレーサーを夢見て幾度となく鈴鹿サーキットを走ったことがあった。結果としては予選通過ゼロ+事故という無残なものだが、今となってはいい経験と思い出になっている。

 夢見た一九八〇年代とは大きく違い、今目の前のメインスタンドやピット、各コーナーすべてが、外国のサーキットかと思うほど大きく美しくなっていた。また、初めて見るエフワンマシンがとてつもなくすごい。異様なほど早い加速。戦闘機かと思うほどの大きなエンジン音と排気音。駆けつけた約十五万人の歓声と各国の旗が揺れ続けた。秋なのに殆どの観客は半そで一枚。伊勢湾から吹き上げてくる風がサーキットにこもる熱気をさらう。

 レース終了後、岡本さんと共にコース周辺の丘を歩き、ホームストレート裏のまだ開いていた露店でウィンナーと焼きそばを食べる。

「いやぁやっぱりミハエルシューマッハ、最後尾からスタートだったけどすさまじい追い上げでしたね。フェラーリってデザインからしていいんですよ。エフワンって車が格好良いところがだいたい強いんですよね。それにしても高木虎之介や中野信治はリタイヤで残念。いやはや、なんで日本人は勝てないんだろう。二人とも本当はすごいドライバーなのに」

 西の空はオレンジ色に染まり、厳しかった日差しが穏やかな光と優しいそよ風へと変わる。この陽射しと風は昔と変わらない。懐かしさとサーキットに染み付く活気が、じわわじと元気を与えてくれる。

「日本勢は勝てなかったけど、彼らが参戦していることで日本戦もあるわけで。結果は出てなくてもいいものを見せてもらいました。今日は観に来れてほんまによかったです。めっちゃいい気分転換になりました。気持ちが元気で満タンです」

 岡本さんとは鈴鹿で解散した。

 僕はシャトルバスに乗り、近鉄で白子駅から松阪駅へ向かう。外は日が暮れてすっかり真っ暗だ。へたったクッションのシートに腰掛け、僕はなぜ松阪にいるのか、について考えていた。

 最も大切なもの命がけのものが手に入らなかったのに、朝早くから夜遅くまで、毎日全力でないと回していけない現状。なんとか七割八割の力で生きていけないものか。

 今来てくれているスタッフたちに店を預けるか。いや、スタッフは四人全員女性だし、うち三人はそろそろ結婚しそうな状況だ。もう一人、彼氏のいないMちゃんはフワフワとしていてしっかりと店を担えるようなタイプじゃないし。

 ならば昼のみの営業にしてしまうか。いや、それではさすがに安いと言っても六三〇〇〇円の家賃を払うのが難しいだろう。看板メニューを、毎日四、五種類を作らなければいけないインド定食「ターリー」でなく、一種類だけのカレーライス屋にしてしまうか。ふぅむ、それでは今までスパイス自家製粉やオリジナル配合、ヘルシーな菜食メニューを複数食べることの楽しさを売りにしてきたことが嘘になってしまうか。

 なんとも僕は真面目だな。柏木さんみたいにふわふわと生きたい。

第十三話 岡本さんからの蕎麦屋便り

 


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