見出し画像

インドカルチャーに敬意をこめて~ハラール・牛のト殺(活〆)レポート。日本人向け

本稿では牛の生々しい描写、写真を掲載しております。ご注意ください。

なんでも食べる日本人だからこそ、
インドで牛のト殺に立ち会ってきました。

様々な国の都合、様々な信仰・信条を考慮して、SNSではなくnoteで書くことにします。

2024年5月4日、僕はインドのとある農村で、牛のト殺というものに生まれて初めて立ち会いました。イスラム教聖職者による作法に基づいた、いわゆるハラール式のト殺です。

最初に申し上げておきますと、これはお涙頂戴の感情論でも、非菜食主義・菜食主義を推すためのキャンペーンでも、もちろん政治活動でもありません。あくまで普通の日本人のレポートとして読んでいただければ幸いです。

ただ、インドではこの手のことに関しては非常にデリケートで、ネットによる炎上や暴力、最近は政府あげて牛肉処理(ト殺)そのものを軽減させていく方向にあるという噂を耳にしましたので、念のため地名や名前など詳細情報は伏せさせていただきます。

ではなぜわざわざ牛のト殺レポートを書くのかというと、それは僕を含め現代の多くの日本人が知りたいことではないかと思ったからです。

我々日本人はその殆どが食べ物に対して決まったルールは持っていません。体質やアレルギーを理由に制限のある方はいますが。宗教はあるとはいえ、熱心に信仰をする者は極めて一部。

このことを寛容で平和な国、と認識できればそれはポジティブなアイデンティティのひとつ、と言えるかもしれませんが、現代はちょっと様子が違うようです。

例えば、肉=動物、ということを情報ではわかっていてもリアリティはまったくない、ということです。日本は良くも悪くも、臭い物には蓋をする風習があちこちにあります。

しかし、これだけ情報過多の時代を迎えて、本当にそれでいいのか、本当のことを知りたい、自身で判断したい、と思う人も増えているように感じてなりません。

話は飛んで、僕の畑の師匠であるニシダ氏は1945年生まれの現在78歳。大阪梅田から1時間もかからない高槻市の原という集落で生まれ育ち、師匠が子供の頃はどの家にも鶏がいて、数軒に一軒の割で牛がいて(農耕用)、おまけに農地のたい肥は人糞と自然に落ちる牛糞だったそうです。

牛はどうだったか聞いてませんが、鶏を〆る、という作業は何度も見たことがあると。山の人が射止めたばかりのまだ生暖かい猪や鹿を解体するのも何度も見たことがあるそうです。

このように生まれ育った場所や世代によっては「生き物を食べる」ということを肌で理解している方もたくさんいらっしゃると思います。が、スーパーで食べやすそうな切り身しか見たことがない多くの現代日本人はやはりリアリティがないのではないでしょうか。飲食業界を渡り歩いてきた僕でもそんな感じですから。

僕は10代から飲食業界に入り、気が付けばモノを書いたり人にお話しすることが多くなっていきました。一貫しているのは「おいしさ」がテーマであること。料理、素材、人、店、地域などあらゆる面から「おいしさ」を表現・伝達してまいりました。

そしてある時、ひょんなことから三重県の牛ト殺直前の牛舎を見せてもらったことがあり、とても衝撃を受けました。ビールや上質なエサによってぶくぶくと太らせ、立てなくなるほどになったら順にト殺場へ出荷するというのです。寝たきりの牛の目はうつろ。各牛部屋の柱に、貼り重ねられた神札と、隣の牛舎で元気にはしゃぐ子牛が実に印象的でした。

この時、連載していた新聞にト殺レポート企画を提案し、担当編集者は共感してくれたのですが、様々な事情でお蔵入りに。結局、僕はト殺現場を見ることはなく、永い年月が流れていったのです。

それが今回、たまたまステイ先の隣が牛を〆る職人さんの家だったのです。こちらステイ先主人の親せきでもあります。

「牛を〆るの見たいですか?」とステイ先のA氏。一瞬戸惑いながらウゥンとだけ返す僕。なぜ中途半端な返事をしたかと言うと、彼らはイスラム教徒。つまりハラール式のト殺です。ハラールといえば、一気に首を刈る超アナログのイメージ。正直ちょっと怖かったのです。

それがある日立ち寄ったチャイ屋でその噂の職人さんとばったり。僕と同年代で、元料理人ということで意気投合。80年代にこの村から初めて他郷(インド・チェンナイ)のホテルに就職したという方で、外国でも永い間働いてきたそうです。そして40歳で帰郷し、現在の仕事に就いたのだと。家はごく普通の農家だったそうで、その職人さんから始めた仕事だと言います。

チャイ屋で僕はこう聞きました。
「同じ動物でも牛は鶏や羊とは違いがありますか?またあんな大きな動物をト殺するのは怖くはないですか?」

すると職人さんはチャイを片手にこう返したのです。
「もちろん牛は特別。でも牛であれ何であれ人間は誰もが生き物を犠牲にして生きている。動物も魚も野菜だってそう。これは仕方のないことです」と、とても穏やかで優しい目をして話してくれました。

村には羊と鶏を〆る店が数軒あって、そこの職人たちもみんなそうなんですが、彼らはなぜかみんな穏やかで優しい目をしている。その目を見て、あぁやっぱり見ておかなきゃいけない、と決意・確信した次第です。

お隣の職人さんの家はおそらく3000㎡以上の面積。僕のステイ先は約4000㎡。このあたりは現在は大半が休耕中の元農家ばかりで敷地が広い。その裏庭の奥でト殺するのだそうです。

早朝4時過ぎ、奥に裸電球が揺れているのが見えた


活〆牛の価格表。背中が300ルピー(約570円)/キロ、それ以外が275ルピー(約525円)/キロ

首に刃を入れてからも約30秒間は
どこからか鳴き声と呼吸が聞こえる。

牛を〆るのは基本として2日に一回一頭。予約が入れば連日〆ることもあると言います。今日は3日連続の3日目でした。始めるのは早朝5時頃から。今年は連日43、44℃という異常な猛暑なので、朝4時過ぎから行なっているそうです。

5月4日、午前4時過ぎ。
ステイ先主人A氏は懐中電灯を片手にお隣の敷地に入り、家の横からどんどんと奥へと入っていきました。そして100mほど先にポツンと裸電球がぶら下がっているのが見えます。近づくとすでに後ろ両足、首にロープをかけられた薄茶色の牛がふらついていました。思ったよりも大きなものではなく、A氏によると「これでやや小ぶりな中型。日本の牛はすごく太ってるよね。インドの牛はみんな引き締まっています」と。

牛が立つ場所だけコンクリートで固められています。一辺が7、8mのほぼ正方形。手前に直径7、80センチ、深さ50センチくらいの穴があいています。牛を操るのが例の職人さん。もう1人が使用人。そしてそれを見守る2人の男性がイスラム教の聖職者です。

職人さんが牛をうまく操り、すっと足を引っ掛けるような動作をして倒します。が、しばらくすると牛はすくっと立ち上がり、コンクリートにあたる蹄の音が周囲の木々に響きます。そして何度目かの時に素早く前両足も縛りました。が、それでも牛は危機を察して飛び起き、ンモーンモーと鳴き続けます。

すると職人さんは首にかけたロープを持ち、まるで散歩でもするかのように立ち回ったかと思えば次の瞬間、再び足を引っ掛けて倒し、4人で一気に牛を押さえ込み、聖職者が祈りを捧げながら首に刃をあてがいました。

その直後、分厚い布を破くような音が。押さえ込んでからものの数秒だったように思います。刃渡りはたぶん40センチほどの半月型の細長い包丁でした。

動脈から血が吹き出し、速やかにもっと奥に刃を入れ、一気に3分の2ほど切りこみました。が、どこからか鳴き声と呼吸の音が聞こえてきます。首より上は完全に停止。よく見ると胴体だけが小刻みに震え、荒い呼吸を繰り返していました。鳴き声はどちらからかわかりません。

そして1分しないうちにふーっと息絶えました。吹き出した血液はゆっくりと大きな穴に向かって流れていきます。そして2人の聖職者は薄暗い中、庭の向こうへと去っていきました。

マナーとして、生きているところ、絶命した直後などの撮影は禁止。解体し、肉となったところからOKとのことでした。

すでにほとんど解体され、4本の足が吊るされている。

この後、4本の足それぞれに紐を縛り直して、7,8m四方の柱に括り付け、引っ張り上げたところで職人さんもどこかへ消え、今度は刃渡り30センチ弱くらいのペティナイフを片手に女将さんが現れました。

そしてまだ熱気を帯びる牛の背中側に中越しになり、覗き込むようにして首元に刃を立て、慣れた手つきですーっとお腹に向かって薄く切れ込みを入れます。

皮を摘み、下腹部に向かって刃を走らせ、破ることなく、また肉を削ぐこともなく、A氏と世間話をしながらにこやかに皮を剥いでいきます。この作業を使用人と2人で行い、10分ほどで全身完了。脂よりも白く、ミルクよりも黄色い皮は、分厚いカーテンのようでした。これが高く売れるそうです。

今日は女将さんと使用人2人ですが、もっと大型の牛の時はご主人(職人さん)と3人でやるそうです。スピードが大事だそうですが、今日のサイズなら2人でいいのだと。

すっかり解体された肉だがまだ熱気を感じる。

4本の足は使用人が手際よく肉の部分を切り分けていきます。女将さんは胴体の肉を解体し、膜で覆われた内臓を丁寧に肋骨から取り出し、胴体から50センチほど離れたところでシートをかけました。少しでも傷をつけると一気に飛び出るからだそうです。ちなみにその使い古したシートには「ICHIBAN BANAMEI PRAWN FEED 」と書かれていました。エビの餌が入っていた袋ですね。

その後女将さんは背骨周りの肉を削ぎ、3m先の肉置き場(と言ってもただ布を敷いてあるだけのスペース)に肉を放り投げていきます。肉が少し残った肋骨を一本ずつ包丁で叩き切り、全て切り終えると今度は高さ7、80センチの木の台の上に載せ、それをアラジンが持っていそうな包丁で約15センチ間隔にドンドンと豪快に割っていきます。

なたのような包丁で太い骨を切っていく。

一辺3mほどの布の上には、背骨周りの肉とそれ以外の肉の2つの山が出来上がっていきます。それぞれが小さいもので一辺10センチほど、大きいもので20センチほどとようやく見慣れた肉に。

頭と尻尾、骨ガラのみとなってしまった牛を眺めながらA氏が話します。

「内臓は基本的には捨てる。でもたまに注文があると販売。レバーは他の赤身と混ぜて販売。インドでは基本的に部位分けは3種程度で、背中周辺とスネ周辺、レバーやタン、ホホ、テールなども含めたそれ以外。いつも午前中に売り切れます。冷蔵冷凍はありえない」

そう言えばステイ2日目にA氏宅で奥さんが作ってくれたビーフカレーも、大きな骨やスジなど様々な部位が混在していました。しっかりと弾力があり赤身の味が滲み出る牛肉でした。それもこちらのお宅から購入した肉だそうです。

「売るのもここでやってますよ。お客さんが直接買い付けに来たり店主が配達したり。〆たてを買って料理してその日のうちに食べる。それがインド・ムスリムの昔からのスタイル。今は都会では各工程を各会社が分けてやるようだけど」

価格は背中が300ルピー(約570円)/キロ、それ以外が275ルピー(約525円)/キロ。店によって価格は様々だそうです。予約販売と直売とあり、前者は多くがツケ払い、後者はほとんど現金払いとのこと。

「インドのイスラム教徒はみんな牛肉が大好きです。その次が鶏。マトンはおいしいけど高くて手が出ない。年に何度食べられるかな」(A氏)

とはいえ肉を食べるのは月に2〜3回程度。それよりも週に2,3回は魚を食べ、基本的には豆や野菜のベジが多いそうな。ここ東インドの農村での話です。

皮としっぽだけが残されている。左側シートの下にはホルモン。

同じ動物でも牛はやはり特別。
謝罪と感謝をこめておいしく頂く。

女将さんたちが捌く姿と穴に溜まった牛の血を眺めながら、僕とA氏は語り合いました。

A氏は言います。
「同じ動物でも、羊や鶏と違って牛はやっぱり特別です。牛の仕入れ先はほとんどがヒンドゥー教徒から。でもヒンドゥーは牛を神としています。とはいえミルクやバターを取るためには繁殖が必要。生まれたベイビーがメスならいいけどオスはごく一部は農耕用になってそれ以外は肉になるしかない。それが嫌なら捨てる。だから都会の野良牛はみんなオスばかりでしょ。インドは世界の中でもトップクラスの牛肉輸出量です。一方では神、一方では重要な資源となり、そのくせト殺が禁止の州もあって建前と現実が違い過ぎてややこしいのです。

また牛は〆るのに時間がかかるでしょ。鶏や羊は一気に切り落として終わり。でも牛は大きな生き物だからいくらナイフを入れても1,2分は息があります。下手な人だと何分もかかってしまう。そうなると牛が苦しんだ分だけ肉が不味くなります。血の量も羊や鶏とは比べ物にならない。人によっては耐えられない場合もあります。だからちゃんとした技術が必要。そういった意味でも特別なんです」

数m離れていてもその開いたばかりの肉はもちろん、大量の血液からも熱気が伝わってきます。これらの状況を見てA氏はどう感じているのか。

「ん、僕は見慣れてますよ。子供の頃から家でも牛を〆てきたから。イスラム系の農家ならだいたいどの家もおじいちゃん、お父さん、と技を受け継いでいくもの。今でも毎年一度、祭りがあってその時にあちこちで〆てますよ。沖縄の山羊も同じようなものじゃないかな。今は知りませんけど。うちは一昨年やりました。場所は家の庭」

なんと僕がステイしている家の玄関先がその現場らしい。A氏も本職は料理人。牛の活〆もお手の物だったのです。

「その時は今日のよりもう少し小さい牛を約2万ルピー(約38000円)で買いました。そして僕が解体。もちろんモスクから聖職者に来てもらって、祈りをあげて刃を入れます。肉だけで合計80キロくらい取れたかな。イスラム系の農家や元農家なら全員できますよ」

ところでハラールのルールの一つでもある祈りとはどんなものなのか。少し考えてからA氏はこう説明しました。

「あれはつまり、ごめんなさいとありがとうの気持ちです。おじさん(職人さんはA氏の叔父)も言ってましたよね。人間が生きていくには常に犠牲が付きまとうって。命のあるものを頂くのだから、それほどありがたいことはないし、だからこそとことんおいしくいただかないと」

A氏の料理観を少しだけ理解できたような気がしました。

解体は細かい作業が残るのみとなりました。外は陽が昇り明るくなっています。僕とA氏はいつものチャイ屋へ。

毎朝通ったチャイ屋。他にも行きつけが3,4軒。

今回の旅では、毎日市場に行ったり、魚料理を食べたり、海や畑に行ったけども、牛のことしか記憶に残っていないのではないかと心配するA氏。僕はこう応えました。

”確かに牛のト殺は衝撃的だった。牛肉は数え切れないほど食べてきたけど、〆るのは生まれて初めて見たから。

牛を〆る方法は国によっていろいろあると思うけど、少なくとも今回のハラールでは、ちゃんと聖職者がやってきて牛に向かって丁寧に祈りを捧げ、頸動脈や気管の急所に一気に刃を入れ血を落としていた。

技術的に理にかなっていると思うし、何よりも祈りを捧げていることが素晴らしい。ごめんなさいとありがとう。そう思うこととその思いを届けることがとても大事なんだと思う。これは毎回が超アナログだからこそ、相手が生き物であるということを肌で実感できるんだね。このことを理解しておくことが大切だと思うし素晴らしい文化だと思う。隠しちゃいけない。

牛が息を引き取った瞬間、僕は本能的に合掌してたよ。そして「ありがとう、いただきます」と心でそう深く深く思った。これは無意識にそうなった。肉に限らず魚なんかも、それを食べる人は国籍や宗派に関係なく、一度でいいからそれを〆る姿を見た方がいい。日本の学校でも教育に取り込めたらいいのだけど。

おかげで牛肉のことがもっと好きになったし大切に思うようになったよ。料理に使う際は思いっきり丁寧においしく、食べる際は一欠けらも残さず全部食べようと思う”

「そうですね、よかったです。イスラム教ではみんな牛はもちろん羊や鶏にも感謝の念を持っています。それは当たり前のことだと思うけど、スーパーで切りわけた小さなモノしか見たことのない人にとってはよくわからないでしょうね」

それにしても〆た牛の肉はとても綺麗な赤身でした。脂の少ないマッチョな感じ。僕はこういう肉が好みです。

「だいたいインドのビーフは脂肪分は少なくて、肉に弾力と香りがあって本当においしいです。カレーにしても脂の変なにおいはないしちゃんと味があったでしょ?冷蔵庫にこの間購入した牛肉の残りがまだあるのでカワムラさんが帰る前にもう一度ビーフカレーを作りましょう」

実際に帰る前々日、ビーフカレーが食卓に出てきました。お隣で〆た肉です。骨をしゃぶるようにして貪りました。

ありがとう。ごちそうさまです。

スプライトの隣が〆たてビーフカレー。下は魚とマンゴーのカレー。4/24の食事

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?