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禅と俳句 鈴木大拙「禅と日本文化」より

今回は鈴木大拙著「禅と日本文化」より禅と俳句の関係性について考えたいと思います。

まず、禅の悟りは心理学的に言えば「無意識」を意識することであると述べています。

悟りの体験はそれゆえ普通の伝授法や学問の方法ではえられぬ。知的分析を超えた神秘の存在を示す特有の技術がいる。生は神秘に満ちている。神秘のあるところ、どこでも禅がある。これは芸術家の「神韻」または「気韻」(精神的リズム)として知られ、これを把握することが悟りを組織するといえる。

「禅と日本文化」

このように悟りというものは論理的には解釈できません。禅は芸術に対してどのように作用したのでしょうか。

悟りが芸術的に表現されると、精神的あるいは神性的リズムの振動する妙、または神秘的というべきものを展示する不可測なるものの瞥見、すなわち幽玄を与えるところの作品を製出する。禅はかくして、日本人があらゆる芸術の部門における神秘的な創造本能の存在に接触し会得するのを大いに助けた。

「禅と日本文化」

ここで、禅の世界とは通常の世界とは変わりありません。ただ、禅にはそれらの基をなす原理とか真理とかいうものの直覚があるといいます。
直覚とは推理や考察によらず直観的にただちに物事の本質を知覚することをいいます。

禅はわれわれと同じ自然に面し、同じ対象物、同じ特殊存在に対して興味を持っている。(中略)
禅は季節に移り変わる自然のこれら普通のできごとにふかく関心をもつ。これらの直覚が俳句という詩形式に表現されるとき、世界文学史における、まったくユニークなものをわれわれに与えるのである。

「禅と日本文化」

このようなユニークさは日本人の心の特性によるものだといいます。

日本人の心の強味は最深の真理を直覚的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現することにある。この目的のために俳句は最も妥当な道具である。日本語以外のものをもってしては、俳句は発達できなかったろう。それゆえ、日本人を知ることは俳句を理解することを意味し、俳句を理解することは禅宗の「悟り」体験と接触することになる。

「禅と日本文化」

日本人を知ることが俳句の理解することになり、俳句を理解することは禅の悟り体験と接触することになる。つまり、俳句の理解は禅の実践につながることを意味しています。

実は、ここから先が俳句の具体的な解説、各論になるわけですが、非常に奥深い内容になっています。俳句を嗜まれる方は是非ご一読をお勧めします。

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