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書とは何か
今日は書とはなにかについて考えたいと思います。とは言っても、まだまだ修行中の身であるため、ここでは諸先生方の言葉をお借りして考察してゆきたいと思います。
ではまず最初は、私淑としている石川九楊先生の言葉です。
技術的に優れていても、つまらない書があり、その逆もある。うまい、へたに捉われていては、その先へは進めません。
書は習字の延長線上にはない。「何と書いてあるのか」と悩まない。「どのように書いてあるか」が書の世界。(石川九楊)
今井凌雪先生も同じ見解です。
習字をいくら延長しても書道にはならない。(今井凌雪)
お手本通りの似た作品ばかりで技術的にはよいかもしれませんが、見どころのないものばかりになってしまっているということでしょうか。
ここで、習字と書道の違いとは何でしょうか。
習字とは
文字を習うことです。習うとは手本をみて繰り返し練習することであり、それによって文字を整えて美しく書けるようになること、つまりきれいに書くことを目的としています。日常生活に即した実用性を重視したものです。学校教育での書写に関する事項は,国語科の知識及び技能として位置づけられています。
書道とは
筆・墨・紙などを用い、漢字・仮名の文字を書くことによって表現される造形芸術のことを指します。芸術ですから人間の創造活動とその結果です。習字の美しさが普遍的なものであるのに対し、書道の美とはそれぞれ個性的であり、単に美しいとかきれいなどとは表現できないものがあるわけです。つまり、何が書かれているかではなくどのように表現されて書かれているかその書きぶりがポイントとなるわけです。
「絵のようなものだ」と考えない。(石川九楊)
書を構成する文字は単なる線によって形作られものではなく、文字の一点一画から生まれます。この絵とは西洋美術の絵画のことを指しているものと思われます。東洋の書や水墨画は西洋絵画とは違って重ね塗りも、修正もできません。
書は書。詩文を書くプロセスとともに生まれてくる時間の芸術。書は、分の書きぶりの痕跡なのです。(石川九楊)
詩を解し、物に感動する心を持たぬ人は書道家たる資格がないと思う。 (今井凌雪)
自分の書く詩文に何の感動もなく、ましてや理解すらないとなると、果たしてこの書かれたものが「書」と言えるかが問題となる。(成瀬映山)
書は人の心の中の物を映し出すものと考えられてきました。漢の揚雄(ようゆう)は次のように言っています。
言は心の声なり。書は心の画なり。(揚雄)
ことばという声は筆跡という画の形で表出されるもので、人格を反映しているということは古くから言われてきました。書というものが心理状態を映し出すことは、その時の気分や環境の違いが制作の結果に表れることを思えば理解できます。知らないうちに出てくる内なるものがあるということでしょう。
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