ラオスでは殆ど読書をしなかった

恐ろしく個人的な話になって些か恐縮ではあるが、私にとってはとても重要な気付きであったので、記事にしておこうと思う。

ラオスには都合3ヶ月ほどいたのであるが、その間、読書という読書をしなかった。電子書籍リーダーは持参していたのであるが、それすらもあまり読むことをしなかった。

(友人は殆ど出来なかったのであるが、日本人の同僚と仲良くなり、そのつながりで酒を飲んだり、タバコを吸ったりと、原始的な享楽にふける時間が多かった。ラオスにいる間は禁煙の誓いも破ってしまって、こうしてタイに戻ってから、禁煙を再開している。ラオスは天上界であるから、酒やタバコやらはいくらやってもいいだろうと考えていた。タイに戻って、下界の生活に、普通の先進国の生活に戻ったという自覚がある。ここでは自身の健康についても将来のことを考えて節制していく必要があるのだ)

それから、紙の本も手に入らなかった。ビエンチャンに本屋はあるにはあったが、洋書の安っぽい自己啓発書やら、語学参考書の類、ベストセラーが数冊といった程度の品揃えであった。

(ラオス文字で書かれた本で、マルクスやレーニンのイラストが入った本があって、読んでみたかったが、ラオス文字なので諦めた。相当にマニアックな本だろう。そもそもラオス文字での出版物がラオスには少ない)

読書によって頭を鍛えるということがラオスだと相当難しくなるはずだ。本は無くてもインターネットがあるでは無いかと訝る向きもあるかもしれないが、インターネットは確かに単純に情報を得るだけなら便利なツールであるが、インターネットだけ見ていると、物事の奥行きが見られなくなっていく気がする。洞察力が養われない。知力が退化していってしまうのを私はひどく危惧する。

これは一般的な読書にも言えることであるが、社会科学の本ばかり読んでいて、文学を一切読んで来なかったような人の書いた文章は、どこか皮相浅薄な印象が免れない。文学という、一見、非生産的で、世の中の何の役にも立たないような分野のものが、人間のモノの見方に大きな影響を与えているのだと私は考えている。

ラオス人と話をしていても、およそ知的な話題というものはそもそも避けようとする傾向があるし、政治的か非政治的かはともかくとして、彼らは難しい議論はとにかく嫌う。

私のラオス語がひどい所為もあるが、ラオスというところは言論の自由もかなり制限されているらしく、彼の地のコミュニズムについてラオス人に聞いても、あまり詳しいことは答えてくれない。

彼らと酒を飲む機会があっても、ワーッと騒いで、定型的な言葉のやり取りが行われているだけのように見える。酒が入っていない場面であっても、話の内容よりか、喋り方やら、声のトーンの方が重要視されているようだ。(私などはそういう皮相浅薄で、無内容で、非生産的であるが、とりあえずコミュニケーションをしているみたいな会話のやり取りが大の苦手であるから、ラオス人とはついに一人も友人が出来なかった! 良い悪いの問題ではなく、私はパリピみたいな人達とはどうも相容れないらしいのだ)

政治的な不自由さ、国家による社会保障が一切期待できないこと、将来への不安など、諸々の国としての不安定さ、脆弱性といったものが、ラオス人に対して刹那的な快楽、享楽へ走らせる原因になっているのでは無いかと私は想像している。

残念ながら違法な薬物というものがラオスの若者にとって、割と簡単に入手可能なものであるということを、今回の滞在で私は知った。そういうものに手を出さなければならないほど、ラオスは退屈な場所なのだろう。それと同時にラオスそのものが非常に閉鎖的な村社会であって、一見、人々はストレスなく幸せに暮らしているように見えるが、実は内面に鬱屈とした不満のようなものを抱えているのかもしれない。

ラオスというところはブッキッシュなところでは無いし、先進国に見られるような伝統的な知の体系というようなものからは無縁のようにも見えるが、それでも、細かく観察していると、ロジックがしっかりしているような人もいるのでやはり単純にバカには出来ない。

日本での田舎にもいるが、読書量は少ないというか、本など一切読まないのに考え方がしっかりしていたりする人がいる。単に饒舌で話が上手いので賢い人そうだと騙されているだけかもしれない。とにかく、そういう人に会うと、人間の賢さというのは、勉強した量とか、読破した本の冊数とか、そういうもので推し量れないものだとつくづく思う。

こうしてビエンチャンからバンコクに来てみるとあらためてだが、バンコクの本屋の豊富さが有難かった。今は定住型の暮らしをしていないのでたくさんの本を購入していくということはできないが、立ち読みをしに本屋に行くだけでも発見がある。

自分は先述のようなタイプの人、すなわち、インプットしなくてもアウトプットができるタイプの人では無いので、読書は必須であると思った。

無学であり、筋骨たくましく野卑ではあるが、自らの人生経験の豊富さによって、口語によって語彙を蓄えて、饒舌に話しをしてみせるようなチンピラに対して強い憧れがあるが、そういう野性、獣性が私には欠落していた。

饒舌で、何か有益なこと、あるいは、賢そうなことを言ってそうで、実は無内容みたいな話術(話芸といってもいいか)には強い憧れがあるのだが、どうもそういう才能は無いらしいのである。

ラオスでの滞在が再度、読書や本との向き合い方について考えさせられる機会となった。

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