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奔放への憧れ

バミーを食いに近所のクイッティアオ屋に行った。バミーは卵が入った小麦粉の麺である。クイッティアオはクイッティアオでうまいが、たまにバミーを食いたくなる。

近所の店はテーブル席が二つしかない、本当にこじんまりした店だ。客もまばらなので、混雑した空間を厭う私にはうってつけの店であった。

こういう店で昼下がりに、一人、黙々と飯を食うのは最高の贅沢に感じた。顧客から連絡が来ることもない。突発的な対応に追われることもない。何をするわけではないが、このタイのモワーッと身体を覆う暑さの中で、日陰にいて、バミーを一人食べる、これこそが幸せの一つの形かとさえ思った。

バミーを食っていたら、私の視界の右端に、一人の客がゆっくりと通り過ぎて行った。その途端に、香水のきつい臭いが私の鼻に入り込んできてしまった。

せっかく美味いバミーもその臭いのせいで台無しであった。

飯を食い終わって、その臭いを発生させていた人を見ると、ジャージみたいな服を着た婆アであった。まあ、臭いの元が香水かどうだったのかわからない。

しかし、海外の人というのは香水をつけ過ぎるきらいがあると思う。香水をつけまくって体臭を緩和させたいのだとか、いろいろな風に説明される事もあるが、厄介なことに変わりはない。

ずっと昔に、日本での事であるが、知人の女性から聞いた話だが、カッコいい男性の先輩がいて、その先輩の香水の匂いが良かったので、何をつけてるのか?と聞いたら、その先輩は、「汗の匂いだよ」と答えたらしい。

これこそ真のモテ男だなと思った。それと、ほう、日本人の男性でもそんな粋な返しをする人がいるんだなと思った。

くだんの私はそんなモテ男では毛頭ない。

長谷川慶太郎氏が、どこかの書籍のインタビューに答えていて、「奔放な学生時代を送りたかった」と話をしていたのを覚えている。大変に真面目な学生時代を送って、奔放には程遠かったという事であろうが、私は氏の受け答えの正直さ、真摯さの方にむしろ好感を抱いたものである。

奔放という概念というか、状態というのは、真面目に社会生活を送っている人にとっては一種の憧れを持って捉えられるものなのかもしれない。人間が社会的動物であるがゆえに奔放になりたくてもなれない、だから、奔放そうに見える人を見るとそれが憧れへと転化するのではないか。

昨年に会社を辞めた際に、仲の良かったお客さんから、「君は自由奔放だね」と苦笑いとともに言われた事もあり……、ああそうか、自分は奔放そうに見える人間なんだろうなと再確認した。

会社員をしている時にはそれ相応の常識人のペルソナを被りながら、企業社会を生き抜いていたと自覚していたが、やはり、お客さんはちゃんと私の人格の本質を見抜いていたようだ。



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