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僕から見るいじめとは。1

あんまり良いタイトルでは無いが、いじめとは長い付き合いである。保育園~高校まで続いた長き縁だ。
我ながら思う、嫌な縁だ。

多々意見はあるだろうし、規模は大なり小なりいじめにあってきた人は少なからずいるとは思う。
そんな僕の視点からお送りするいじめとは。

出る杭は打たれる、そんなことわざがあるように、何かしら秀でたもの、目立つもの、そんなのを妬ましく思う、羨ましく思う、だから叩く。そんなイメージが強い。

僕自身、褒められたがりの甘ったれた性格で、自分の好きなことには時間を忘れて集中し、書き込むものは書き込むし、描き込むものは描き込む。問題児体質なのは相変わらずだったが、保育園の時よりかは先生の態度はマシだったと思う。
苦手科目以外のテストも授業も嫌いではなかったし、成績もまあまあだった。
母は語るが、書道、作文、詩、水彩画、各学年で何かしらの賞をぽんと取ってはいたという。僕自身気合を入れて書いた訳でもなし、ただ自分の思うことを率直に思い描く、それが何か……作品を選ぶ教諭に響いたのか、僕の作品がチョイスされる機会はまあまああった。

子なら親も親で、登校、登園の洋服選びには余念がなかった。母が特別気合を入れていた訳ではなく、本当にたまたま、仲良くして下さっていた人が営む店で服や雑貨を買っており、子供服も取り扱っていた繋がりで服を買っていたのだと思う。小さな店舗で1人で店を切り盛りするお姉さんからも可愛がってもらっていた。僕もその人が好きだった。○○のお姉ちゃん、と当時の僕は呼んでいた。
そこで買う服がショッピングモールなどで売っているような服ではなく、知る人は知っているブランドものであり、むしろ専門店であった。そこで僕の服を買っていたのである。
実際僕も服選びのセンスもなく、何よりめんどくさかったので、朝起きたら上から下まで服が用意されており、それを着る。そんな子供時代だった。

いじめの始まりは保育園からだ。
以前記録したように、どちゃクソ野生児な僕は落ち着きがなく指導するのに相当苦労したと思う。が、昼寝の時に上に座られたのはいかがかと思うが。
それはさておき、当時の保育園にも実はちゃんとカーストというものが存在していた。
リーダー格の子は、自分とお揃いのもの、特に目に見える持ち物を持っている子を傍に置きたがり、揃えられない子は、○○ちゃんとはもう遊ばーん!やけんみんなも仲良くしたらダメやけんなー!なんて残酷な言葉を吐く子だった。
買い替え時でもないものを買い替える意味もなく、当然僕はハブられる。
それは別に僕にはどうでもよく。
なら別の子と仲良くすればいいじゃん、そんな考えだった。

そんな園に、1人登園する子が増える。
後々小学校でも揉め事を起こす子なのだが、僕は特に気にしていなかった、のだ。そのときは。
新しい子が来た、馴染めないかもしれない、僕が最初に声掛けしてあげよう。
単なる親切だった。子供心の親切だった。
「初めてでしょ?僕と遊ぼうよ。」
そこから僕の少し息苦しい「友達」生活が始まった。
仲良くなる事に、その子の本性が出始めた。
性格にアラがある子で、その日その日で僕に対する態度が違った。友達だもんね、と優しい時もあれば、こんなことも考えつかんとか馬鹿やねえんと下に見たり。当初の様子とはかなり違う性格に僕はイラつきつつも苦笑いを浮かべるしかなく。

ことが起こったのはとある日である。

例の子が別の子を引っ張ってきたのだ。今日はこの子とも遊びたいと引っ張ってきたのは、同級生の中でも有名ないじめっ子だった。異性でもあり、いじめっ子でもあり、僕はどうしたらいいか分からず、関わらんとことしていた子を連れてニコニコ笑って立っている姿を見た時には動揺が走ったのを覚えている。

僕は、小さな下級生の子供と登り棒で競争しろと言われた。同級生の中では小柄だが、年齢的なパワーもそこそこあるし、当然普通に上れば僕が勝つ。
そして、罵られる。
年下の子に対して大人気ない。そこまでして勝ちたいのか。
そして小さな子が一生懸命登るのに合わせて遅れてゴールすると、この子より遅いとか、朴桜ちゃんは馬鹿だよ馬鹿、ほら、あの子のこと馬鹿って呼んでいいよー!と始まる。
僕は一切許可してない。馬鹿と呼ばれて嬉しがる人がどこにいるのか。むしろそんな遊び誰が楽しいのか。
じゃあ変わってよ。そう言うと、今日は朴桜ちゃんの番でしょ。
何がだよ。
僕はそう思いながらその場を離れた記憶がある。
そう思うと保育園の頃は良かったのだ。
まだ、集団行動という縛りが甘かったのだから。

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