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OM03 : あたしにはよく分かんないにゃ

 小さな立ち飲み屋を見つけて一杯注文すると、右隣の男が、話しかけてきた。
「ここは、はじめて?」
「ええ。乗り過ごしたことに気づいて、慌てて降りたらそこの駅でした」
「それは運が悪い。この店、どきどきそういう人が来るんだよ」
「駅を出たときには、この店に気づきませんでした。タワーマンションがあったと思うんですが」
「終電すぎると、この辺は暗くなるからな」
 帰宅途中の電車でうたた寝をするのは、いつものことだけれど、今日は乗り過ごしてしまった。慌てて電車を降りたら、ホームが屋根と柵で囲われた小さな地上駅だった。路地の向こうには、不釣り合いなほど大きなタワーマンションが黒々とそびえている。終電が出ましたので、と追い出された駅の前には、タクシー乗り場もない。
 大きな道路を探して、商店街を歩いていく。どの飲食店も閉まっていて、住宅が目立ってきた。路地を入ったところにビアバーらしき店を見つけたけれど、もう閉店だと言われる。
 仕方なく駅に戻ってきたら、シャッターが閉まった駅の前に、この小さな立ち飲み屋があった。歩くのにも疲れたので、とりあえず一杯飲むことにした。
 右隣の男と天気の話をしていると、左側のグループが責め立てるような口調で割り込んできた。あんたは表現規制にどういう立場なんだ、はっきり言ってみろ。そういうことを言い出した。
 私は、はいともいいえとも聞こえるような、あいまいな音を喉から出した。それから肯定とも否定とも取れるような、あいまいな身振りをした。
 立ち飲み屋で知らない者どうしで交わす話題ではない。それよりも、そんな話題を今どき気にしている人がいることを不思議に思った。
 尋ねてみると、左側のグループは壁にかかった液晶ディスプレイを指差す。
 青い瞳と髪の猫娘キャラクターが、ぴょんぴょん動きながら話している。私は目が離せなくなる。あのバーチャルアバターはこの後、あたしにはよく分かんないにゃ、と言うだろう。何年も前にあれを配信していたのは私だったから、よく覚えている。
 
 あのころ私は、受験テクニックを解説する動画配信をしていた。顔を隠して、猫娘バーチャルアバターを使ったのは、当時、猫を使えばなんでも許される風潮があったからだ。それは今でもそうだろうし、五千年前だってそうだっただろう。
 教育カテゴリーとして配信したせいで、コンテンツや広告に制約があって、収益は小さかった。けれど、学校で配布や購入されたタブレットでも閲覧ができたし、学校の設備からもアクセスできた。だから、いろんな生徒たちが休み時間に試聴した。
 やっかいごとのきっかけは、表現の自由に関わる揉め事だった。何かの展示で適切・不適切、自由・不自由、適法・不適法などさまざまな軸で対立が起こった。よくあることだ。けれど声をあげていた人たちがネット上で大きく取り上げ、まるで世界の最重要課題であるかのようなムーブメントに持ちこんだ。表現の自由にフルコミットで賛同するかそうでないかが、踏み絵のようにネット配信者に突きつけられた。ネット配信だって表現の一形態で、規制や脅迫によって自由が奪われるのだ、と。
 私はというと、もっと別の問題を解決することを使命だと信じていた。そのためには親しみやすい猫娘バーチャルアバターで、受験テクニックを配信することが最適解だと考えていた。
 勉強する意味や学問の価値はいったん放っておいた。設問を解くテクニックを身につけて、まずは受験という土俵に上がってからだ、という状況に置かれた視聴者たちがいる。彼らには余計なことを考えて欲しくなかった。表現の自由なんて後で考えればいい、今はどうでもいいという暗黙のメッセージを込めて、賛成とも反対ともつかない曖昧な態度をとった。
 あたしにはよく分かんないにゃ。
 それが炎上に繋がった。
 
 左側のグループが液晶ディスプレイに向かって、一斉にブーイングを始める。右隣の男は、違うんだ、あの娘は違うんだよと、大声で割って入る。
 私は右隣の男に耳打ちした。
「放っておいたらいいじゃないですか」
「推しは推せるうちに推さないとな」
「でも推しが潰れたり、逃げたりしたら大変です。関わらないほうがいい」
 すると右隣の男は、静かに微笑んで、でもしっかりした口調で答えた。
「俺が推したことを覚えておいて欲しいんだ」
 
 あの炎上の最中、応援してくれるファンがいた。君の味方だ、あなたの考えを尊重します、それぞれに価値観があってそれは悪いことじゃない。あふれかえる攻撃的なコメントの中から、私は応援コメントを拾い出して何度も読み返した。救われたのだと思う。正気を保てたのは、間違いなくファンのおかげだった。
 やがて私の本名や住所が特定され、顔写真がばら撒かれた。攻撃的な非難の矛先がファンにも向いた。
 味方になってくれたファンを守るために、私は動画配信を打ち切った。当時はそう思っていたけれど、本当は逃げ出したのだと今では分かっている。SNSのアカウントも消し、住んでいた町を離れた。名前を変え、顔を整形し、ひっそりと生きている。配信の広告収入がなくなり、毎日の生活で精一杯だ。
 何年も経って、炎上は忘れ去られた。あんなに盛り上がったムーブメントは立ち消えてしまった。中途半端な条例や、自主規制や、同調圧力や、対立は残ったままだ。
 でも、私は覚えている。応援してくれた人たちを置き去りにして、逃げ出したことを。バーチャルアバター配信を始めた志を、諦めたことを。
 
 左側のグループが、詰め寄ってきた。あんたは規制に反対なのか。反対しないということは賛同ということだ、規制による弾圧を後押しすることになる、そういったことを叫び始めた。
 この熱狂は一時的なものだ。真剣に取り合う必要なんてない。けれど、この正義に熱狂する人々は、私だけでなく、ファンにも牙をむく。
 深呼吸する。
 吸って、吐いて。
 吸って、吐いて。
 吸って、吐いて。
 度を越した表現規制には反対です。一方で私は、貧困による教育機会の損失を解消したいと強く思っています。学費や食費を出せない家庭の子供たちは、教育の機会を失い、その結果、収入が低くなり、苦しい生活を強いられる。遠い外国の話ではありません。この駅の近くにも、あなたの家のまわりにも、どこにでもある話です。私もそのような子供時代を過ごしました。でも偶然拾った参考書のおかげでテストでいい点数を取れたから、そのおかげで奨学金を得られたから、貧困や犯罪から遠いところにいられる。私が教育カテゴリーの配信にこだわるのは、スマホやタブレットを買えない子供たちが、学校の設備や備品からアクセスできるからです。私を救ってくれたしくみを、次の世代につなぐことに、全振りしているんです。バーチャルアバター配信で得た広告収益は、すべて奨学金基金に寄付しました。
 自分の志を表明するのは緊張する。
 現在の自分の立場から話をしているのか、過去に配信していたころの立場で釈明をしているのか、よく分からなくなってきた。自分の声が、私の口からではなく、離れたところから聞こえる。左側のグループが、私と液晶ディスプレイを交互に見る。液晶ディスプレイには、バーチャルアバターが外れて素顔を晒し、奨学金について訴える私がいた。整形した今の顔で。
 立ち飲み屋の客たちが私の正体に気づく。
 右隣の男が、こちらに向き直る。
「配信のおかげで受験に合格できてな。それに奨学金で勉強を続けられたんだ。好きなときに、好きなものを飲み食いできるようになった。あんたのおかげだ」
 液晶ディスプレイには、猫娘を擁護するコメントや、意見は合わないけれど理解できるというコメントが流れる。コメントに、いいね、が続く。
 立ち飲み屋は、そういうことなら一理あるかも知れない、という雰囲気になってきて、いいねと口に出す客もいる。よくねぇよと言う客もいるけれど、熱狂ではない。
 金属のシャッターがガラガラと開く音が聞こえた。後ろを振り返ると、駅が開いている。
 ここに残れば、英雄とはいかないまでも、勇気ある配信者でいられる。あの改札を抜ければ、誰にも覚えられていない負け犬に逆戻りだろう。
「最初のとき、私は逃げ出したんです」
「そんなことはいいんだ。推しは推せるうちに推せばいい。ファンには感謝できるときに感謝すればいい。順番はどっちでもいいんじゃないかな。俺にもよく分かんねぇんだけど」
 右隣の男はグラスに口をつけ、それから黙った。
 私は改札を通り抜けて、ホームに上がる。明るくなった商店街に目を向けると立ち飲み屋は見当たらず、小さな駅の隣には不釣り合いなタワーマンションがそびえている。

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