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言葉かどうか微妙なものと言葉

高校生のとき、遅く来た中二病をこじらせてよくよく考えていたことですけど。
「言葉って伝わらんなぁ」と。

「私」と「あなた」がいて、
「私」が葉っぱの舟に乗せて水に浮かべた荷物が、
「あなた」に届くまでにほとんど全部水没して、
結局届くのは葉っぱの舟だけ。
みたいな不毛感。
もちろん「あなた」から「私」も同様。

院まで来て、本読んでレポート書いてレジュメ書いて、それを繰り返して最近やっと実感していることですが、
むしろ逆で。
「形におさめてこそ言葉」なんですよね。

水没することがわかりきっている葉っぱの小舟一隻に、無理にあれこれ荷物を載せようとするのが間違いだったんです。

どちらかといえば自分の気持ちのほうを削って、形にしていくのが言葉なんだなぁって思います。

なんていうか、美しい言葉っていうのは、
"小さめにジーパン買ってダイエットして入った!"
みたいなことに近いなぁと。

そっちのほうが不思議と、"ジーパンに収まらなかったはずの贅肉"が見える気がします。
「努力したんだなぁ。」「その収めようと試みた気概が尊敬に値する。美しいなぁ。」
と、わかる気がする。
(もちろんこれ言葉に関しての比喩であって、無理なダイエットしないで自分に合うジーパンを買えばいいと思います…)

哲学論文も、当たり前ですけど書けば書くほど形式がめっっっっっちゃ大事。本当に大事。
自由に書いたって本当、全然伝わんないんですもん。悲しいくらい。

問題提起、
それを問う意義、
その論文での目的、
それを解決する方法、
問題に対する結論、
そして、その根拠。
主語、動詞、目的語をハッキリ。
一文をなるたけ短く。
接続語をちゃんと付ける。
断定したら次は「なぜなら、…」から。
エトセトラエトセトラ。

およそすべての人たちと共有できるであろう形式(=フォーマット)に、ぎりぎりぎりぎりと当てはめて、無理矢理押し込んで。
押し込めきれてないところが、一転してなんか他人様には独自的に映るらしい。

そう考えると、詩や歌詞としての言葉を好む人っていうのは、
「言葉を好む」かどうかあやしい気がする。

詩や歌詞は、
【言葉+リズムや音感】
なわけですから。
言葉というより、リズムや音感の部分を好んでる可能性も大いにあり得る。
すっごい良い歌詞でも歌に乗せずに読んでみたら案外とんちんかんな日本語であれ?ってなったりな。

(もちろん、作詞家側に立てばその限りではない。ぎりぎりぎりぎりと自分を削って当てはめていそうなので。)

短歌や俳句や漢詩はその形式に収めなきゃしょうがないので、言葉が好きっぽい感じもする。

というわけなので、
最後に現状私が一番美しいと思っていて、現状私がもっとも好きな「言葉」を紹介して終わります。

  彼一語 我一語 秋深みかも

高浜虚子

以上。